Ghhhh

Thảo luận trong 'Tiếng nước ngoài' bắt đầu bởi Phamngocúc, 18/5/23.

  1. Phamngocúc

    Phamngocúc Mầm non

    だから寝取られ報告の電話とかするなら彼氏にしてくれませんか!?
    シン・タロー




      [#ここから中見出し]『第1話 はじめての寝取られ報告』[#ここで中見出し終わり]

     夏休み前日の夕暮れどき。
     学校が終わり、早々と風呂を済ませた俺はスマホを握りしめて困惑していた。
     受話スピーカーから、女性の嬌声が絶えず聴こえてくるからだ。
    『――え? うん、彼氏彼氏。あっ――ねぇきこえてるケンジくん? さっきナンパされた大学生とねぇ、いまラブホのベッドいるの』
     明日からは待ちに待った夏休み。 高校にあがって最初の夏休みということもあり、かなり楽しみにしていた。
    『――もしかして知らない番号だからわからない? スマホの充電切れそうだったから、カレのスマホ借りてかけたんだけどさぁ――……もう、ちょっと待って……あん、やだぁ』
     それがどうしてこうなった。 スマホを持つ手が、わなわなと震える。
    『――ケモノみたいにすごくて……っ、ケンジくんなんかよりぃ、顔も体も格好よくてね? あたし好きになっちゃったぁ』
     耳もとで繰り返される、女性のなまめかしくも激しい吐息。 通話をとおして熱気にあてられた俺は、Tシャツの胸もとをあおぐと自室のエアコンを2℃下げる。
    『――マジ撮るの? ……はいダブルピースぅ♡ これあとでぇ、ケンジくんにも送ってあげるね?』
     カシャッとシャッター音がたしかに聴こえた。 ダブルピースする女性って実在するんだな。
     まだ通話を切る様子はなかったので、とりあえずベッドに身を横たえた。
     女性はあえぐように途切れ途切れの言葉で、浮気相手の大学生がいかに熟練しているか事細かに解説する。
     気まずさが半端ない。 大学生のテクについては正直どうでもよかったんで、1話もみたことのないテレビドラマを眺めて時間を潰した。
    『――ケンジくんきいてる? もしかして……みじめに1人でしてる? あははっかわいそう! ケンジくんとじゃ出ない声、たくさんきかせてあげるね……?』
     世の男すべてが特殊性癖持ちだと思うなよ。
     それから10分くらい経過した。 行為に集中してるのか、女性からの煽りもほとんど無くなってしまう。
     ドラマも終わったし、そろそろ頃合いか。
    「……あのさ」
    『――あ、ちょっと待って……もしもし? なんか言った?』
    「電話番号間違えてますよ」
    『――は……?』
    「番号、間違えてますよ」
    『――ちょ、え――……だれ!?』
    「彼氏のケンジだけど」
    『――声がぜんぜん違う!』
     そりゃそうだ。 まったくの他人相手に、ひたすら自分の性癖叩きつけた気分はどんなだろうか。
     俺は最悪だ。
    『――マジ……もう、最っ悪!』
    「あ、おいまだ切るなよ」
    『――は? ざけんな、切るに決まってんじゃん!』
    「通話、録音したからな?」
     一瞬、通話相手の女性が沈黙する。
    『――え、なん、なんで……そんな……』
    「勝手に通話終了したらSNSに拡散する。いいか? せっかくの夏休みで浮かれてた気分を、俺は台無しにされたんだ。相当ムカついてる」
    『――だ、だからなんなわけ!?』
    「まず謝罪してもらいたい」
    『――は!? なんであたしが――つか消せよ録音!』
    「立場わかってる? ごめんなさいが先だろ」
    『――く……っ』
     さっきよりも長い沈黙。 返答を待つあいだ、棚から取った漫画をパラパラとめくる。
     すでに何度も読んだ漫画だけど、名作は色褪せない。 いい感じに没頭してきた。
    『――……めんな……ぃ』
    「え?」
    『――ごめんなさい! あたしが悪かったです! だから録音消してください!』
    「ああ、謝ってたのか。ごめんごめん、漫画読んでた」
    『――しねッ!』
     逆ギレも甚だしい。 でも、こんなもんじゃまだ不快な気分はおさまらない。
    「じゃあ、つぎはケンジくんに謝罪して」
    『――はあ!? な、なんでケンジくんが』
    「いや、人としてやっちゃだめでしょ。百歩ゆずって隠れて浮気すんならまだしも、寝取られ報告はだめでしょ」
     ケンジくんの性癖歪んじゃう。 それではあまりにケンジくんが可哀想だ。
     通話口の向こうで、ぎりっと歯を噛みしめる音がした。 ような気がした。
    『――……悪いのは、あたしじゃない』
    「そうかなぁ」
    『――ケンジくんが悪いんだよ! 医大の受験だかなんだか知んないけど、ぜんぜんかまってくれないし!』
    「いや許してやれよ! ケンジくんの人生めちゃくちゃになったらどうすんだ!? てか2個上かよ!」
    『――は? 歳下!? 敬語つかえガキ!』
    「ビッチに払う敬意は無い」
     ガッシャンドッカン暴れる音が耳に痛い。 これ浮気相手の大学生、ドン引きしてんじゃないのか。
    『――もういい……っ。とにかく謝ったんだから、録音消せよ童貞!』
    「経験が多けりゃいいってもんじゃないだろ。浅っさいなぁ。そんなんだからケンジくんに呆れられんだよ」
    『――あんたに、なにが……ッ!』
    「ケンジくんに同情するね。でもまあ、ろくでもないビッチ彼女と縁切れてよかったのかもな」
     鼻息をフーフー荒くしていた高3ビッチが、ふと消え入りそうな声でつぶやく。
    『――……ビッチ、じゃ……なぃ……』
    「え? 聞こえないぞ」
    『――びっちなんか、じゃ……なぃもん……ぅぅ……た、ただの、演技……だもん』
    「…………え?」
     耳を疑った。 演技? 演技って――
    「ほんとは浮気相手とか、いないってこと?」
     長い長い沈黙。
    『――…………ぅん』
    「スマホは……?」
    『――……弟の……借りて……番号うって……』
    「え!? まじで自作自演してたの!? エッチしてるみたいに声出して!?」
     答えは返ってこない。 だけどずびずびと鼻をすする様子が、そこはかとない真実味を帯びさせる。
    「な……泣いてる?」
    『――泣いてないっ』
    「ひとつ、聞きたいんだけど……」
    『――……なに……?』
    「どんな気持ちでダブルピース撮ったの?」
    『――しねッ! ころす! ころしてやるッ!』
     またもドッタンガッシャン激しい音。
     怖い。 きっと顔真っ赤に違いない。
    『――“ヨリコちゃん帰ってるの? 夕飯手伝ってくれなぁい?”』
    「ヨリコちゃん?」
    『――名前呼ぶな! あぁもうおかあさん帰ってきちゃったじゃん……マジで最悪なんだけど……っ』
    「まあ、なんだ……ケンジくんと仲良くな?」
    『――おまえどっかで会ったら絶対ひっぱたくから! バァカバァカバァァァカッッ!!』
     そうして通話は切られた。
     よかった。 寝取られ報告される、可哀想な彼氏なんていなかったんだ。
     頭を枕に倒して、大の字に体を伸ばす。 夏の夕暮れをヒグラシの鳴き声が心地よく彩っている。
     明日から夏休み。 海に夏祭りにと、定番イベントが山積みだ。
    「……彼女……ほしいなぁ……」
     ヨリコちゃんはちょっとアレだけど、ほんの少しだけケンジくんをうらやましく思った。




      [#ここから中見出し]『第2話 アルバイト先の先輩女子』[#ここで中見出し終わり]

     悪夢をみた。
     彼女もいない童貞なのに、女の子から電話で寝取られ報告をされるという最悪の夢だ。
     枕もとのスマホを引き寄せ、着信履歴にのこる未登録の番号を消去する。 悪夢の原因は深く考えないことにした。
     ヨリコちゃんなんて人、俺知りません。
     カーテンを勢いよくシャッと開いて、朝日を全身に浴びる。 すでに輝く陽気に、目が細まる。
     高校生活、最初の夏。
     無性に彼女がほしい。 寝取られ報告とかしてこない、普通の彼女が。 せっかくの夏休みなんだし、初めての彼女を望んだってバチはあたらない気がする。
     とはいえ皆どうやって恋人とかみつけてるのか、これがわからない。 うんうん唸りながら、洗顔や歯磨きをすませて寝癖を叩き直した。
     ……そうだな。
     人が多い場所――女子が多い場所へ行く。 そこにきっと、出会いがある。
     思い込みとは不思議なもので。 考えれば考えるほど根拠のない期待はふくらみ、俺は自然と進む足にまかせて家を出た。

    ◇◇◇

     夏休みの大型ショッピングモールは混雑を極めていた。 そしてクレープを平らげた俺は、フードコートのテーブルに突っ伏していた。
     こんなとこに何しにきたんだよ……
     見渡すかぎりのファミリー、カップル、フレンズ。 各々が楽しそうに過ごす姿を眺めていると、よこしまな気持ちで訪れた自分がひどく滑稽に思えてくる。
     そもそも彼氏募集中の女子がいたとして、そこから先は? 軽率に声をかけようものなら、冷たく見下されるのがオチだろう。
     イケメンは無罪になるらしいけど、その法が俺に適用されるとは到底思えなかった。
    「漫画買って、かえろ」
     本日はじめて発した声はカッスカスにかすれて、むなしさが倍増する。
     重い足取りで本屋へ向かい、お目当ての漫画を物色していたとき――
    「ありがとうございましたぁ」
     特徴があるわけじゃなかった。 だけどよく通る澄んだ声に、無意識に顔が向く。
     あ。かわいい。 第一印象で胸が高鳴る。
     黒髪の毛先が外にハネたボブカット。 顔のパーツは配置もきれいに整った印象で。 少しダウナー気味にゆるく開いた瞳が気になるものの、接客の笑顔は自然でやわらかい。
     同い年くらいかな。 こんな彼女がほしいだけの人生だった。
     あまりにガン見しすぎたせいか、俺と目が合ったレジカウンターの女の子は、怪訝な顔でうしろの扉をチラチラ気にしている。
     あそこスタッフルームじゃないのか。 だれか呼ぶ気かよ。 完全に不審者だと思われてるとか、さすがに落ち込むぞ。
     せめて誤解は解いておきたいと、レジカウンターへ歩み寄る。
    「ちがうんです俺っ、あの――」
    「ひっ店長!」
     まじで助け呼びやがった! てか“ひっ”てやめろよ傷つくだろ!
    「ハイハイ。どうしたの|青柳《あおやぎ》さん?」
     レジカウンター奥のドアから、ヌッと大柄な女性が姿をみせた。 ぱつんぱつんに張ったエプロンにはシワひとつない。
     いや、ふくよかで俺はとてもいいと思う。 富の象徴みたいで。
     青柳さんと呼ばれた女子が、さっそく店長らしき女性に耳打ちする。 なにやらこっちを指さして。
    「……ふんふん。――まあ! それほんと?」
     ただ見てただけだろ。 絶対あることないこと吹き込んでる。
     青柳さんがスマホを取り出したところで、何かよからぬ気配を察した俺は、レジカウンターの貼り紙に光明を見出だした。
    「これですこれ! アルバイト! バイト募集の貼り紙みてただけなんです!」
    「あら……アルバイトしたいの?」
    「そう! 本屋で働くのが子供のころからの夢でして! へへ」
     我ながら卑屈に徹したものだと思う。 揉み手もした。
    「……ですってよ? 青柳さん」
     青柳さんは険しい表情のまま、疑いのまなざしを俺にそそぐ。
     接客のときの笑顔はなんだったんだ。 幻術か?
    「それじゃあとりあえず、履歴書みせてくださる?」
    「…………」
     俺はレジ横に置いてあった履歴書つきの求人誌を取ると、そっと青柳さんに差し出してレジを打ってもらった。

    ◇◇◇

    「|弓削《ゆげ》|蒼介《そうすけ》です。高1です。明日からよろしくお願いします。えと……青柳さん、でいいんですよね?」
    「うん。あたし高3――んしょ」
     歳上だったのか。
     ふたりきりのロッカールームで、青柳さんはエプロンを豪快にめくりあげて頭から抜いた。 自然なふくらみが、Tシャツの胸もとでかすかに揺れる。
     あとシャンプーだか制汗剤だかのめっちゃいい匂いがして、初恋みたいな速度で心臓がどくどく鼓動する。
    「ええっと……ソウスケくん、ね? さっきはごめんね? あたしナンパとかキライでさぁ。なんかそんな雰囲気かってに感じちゃって」
    「ああ、いや、ぜんぜん気にしてないです」
     あながち間違いでもないし。 ていうかいきなり名前呼びするとか好きになっちゃうだろ。
    「まぁあたしもバイト始めたばっかなんだけど、あんま遠慮しないでなんでも聞いてよ。センパイとして教えたげる」
     口もとゆるめて先輩風を吹かせる青柳さん。 やっぱ普通にかわいいなこの人。
     ちょっと自意識過剰で変わってるかもしれないけど、明日からのバイトがすごく楽しみになってきた。
    「今日はもうバイト終わりなんですか?」
    「そ! ひさびさに彼氏と会うんだぁ……えへへ。あ、着替えるからちょい出ててくんない?」
     はい終わったー! ぜーんぜんバイト楽しみじゃなくなったー!
     今日イチの笑顔をみせる青柳さんを前に、大きく息を吐いてロッカールームをあとにした。




      [#ここから中見出し]『第3話 夏休みを優勝した』[#ここで中見出し終わり]

     周囲でジワジワと蝉がまくし立てる。 はやくバイトへ行けとせっつくように。
    「あぢぃ……」
     炎天下をバスの列に並び、スポーツドリンクをあおり飲んだ。
     バイトなんかやんなきゃよかった。 何が悲しくて貴重な夏休みを労働に費やさなければならないのか。
     ぶつぶつ悪態をつきながらも、やがて到着したバスに揺られてショッピングモールへ向かう。


     夏休み効果は強力で、ショッピングモールは今日も盛況だった。 ここにいる人間すべてがゾンビ化したら……などという妄想で待ちうける労働から現実逃避する。
    「はあ……ちょっと涼んでいこうかな」
     まだバイトまで時間があったので、フードコートでアイスコーヒーを注文した。
     ストローでちびちびと飲んでいると、対面のテーブル下で交差する太ももが視界に入る。
     つま先に引っかけたヒールの高いサンダルをぷらぷら揺らす、ほんのり日焼けした足。
     コーヒーを流し込んだ喉が、ごくりと鳴った。
    「……コラコラ。ガン見、禁止だぞー?」
     ハッと顔をあげる。 対面の女子が、白い歯をのぞかせてクスクス笑っていた。
     まぶしいほど輝く金髪の、キューティクルストレートヘア。 アイラインくっきりで、まつ毛長め。
    「ほうほう、顔をじっとみつめてー? 視線がだんだん下にー……? はい、いくー」
     涼しげなカットソーのシャツ、腕にはきらきらのブレスレット。 そして、やっぱりミニ丈のキュロットから伸びた足に目を奪われてしまう。
    「定位置にもどりましたー。足、好きだねーキミ」
     かわい――ってか、なんかえろい。 そこまで派手派手じゃないところが、逆に男ウケよさそうな金髪のギャルだった。
    「ねぇねぇ? 声かけられて混乱ちゅう? 思考もフル回転ちゅう、かなー?」
     いちいち“ちゅう”のくだりで唇を突き出すギャル。 誘ってんのかくそ。
     まどわされるな。 童貞にやさしいギャルなんて存在しない。
     咳払いをして、氷ごとザラザラとアイスコーヒーを飲み干した。
    「いや、別にみてないよ」
    「うっそだー」
    「はは。いやほんと。空調の動きとか、みてたし」
    「ふーん……?」
     金髪ギャルが、テーブルの下でゆっくりと足を組み直す。 あーこれ古い映画のやつ!
     ダメダメ、みたら負け。 乗せられたら絶対バカにしてくる。
     自制心を保つため、瞳をギュッと閉じて席を立つ。 まだ少し早いけど、もうバイトに行ってしまおうと考えていた。
    「――あれ? ソウスケくんじゃん」
    「あ、青柳さん!?」
     トレイにフライドポテトとジュースを乗せた青柳さんは、そのまま金髪ギャルのテーブルに進んで。
    「おっそいよー? 青柳ー。つかその子と知り合い?」
    「だからバイトの準備あるって言ったじゃん! えっとバイト先が同じ弓削蒼介くん。こっちはあたしの友達の|獅子原《ししはら》|麻央《まお》」
     つよそうな名前だ。 青柳さんの友達だったのか。
     ということは……先輩か。
    「ど、どうも」
     ぺこりと頭を下げると、獅子原――さん、がやけにイタズラっぽい笑みを浮かべて手をふってくる。
    「よろしくー。青柳の後輩なら、わたしの後輩も同然ってことだねー?」
     それはどうだろう。
     返事をしないでいると、獅子原さんは身を乗り出して青柳さんに耳打ちする。
    「ねー聞いて青柳ー。この子さー、さっきめっちゃわたしの足みてくんのー。青柳も気ぃつけなー?」
    「え、マジ?」
     ふざけんなこいつ。
     バイト初日から現場をギスギスさせる気か? ただでさえ昨日、青柳さんに通報されそうになったんだぞ俺は。
     なんと弁明しようか、椅子に腰かけた青柳さんを見下ろす。
     これからバイトだからか、青柳さんはラフなショートパンツ姿だ。 獅子原さんのちょっぴり小麦肌もいいけど、青柳さんの白くて張りのある足も――……ハッ!?
    「ちょ……恥ずいって」
     クリーム色のトレイに太ももを隠されて、ようやく我に返った。
    「ほらーやっぱみてるし」
    「みてねえってっ!」
    「急にでけー声だすな怖えー!」
    「く……ッ」
     獅子原さんにゲラゲラと笑われてしまう。
     くやしい。 こんなのメンツ丸つぶれですよ……っ!
    「ね? バイト同じなんだしさ、ソウスケくんもいっしょしない?」
     きっと青柳さんは、ぷるぷる震える俺を気づかったに違いない。
    「そーだよー、座りなよ弓削ー」
     名字呼び捨てかよ。 そんなのギャルにもてあそばれてる感がして――
     ……それはそれで、悪くないな。
    「お邪魔します」
     俺は素直に席へついた。


     友人だというふたりは本当に仲がいい様子で。 俺は頬杖をつきながら女子トークにうんうん相づちを打っていた。
     なんかいい匂いに包まれた幸せな空間だ。 いま客観的に自分を眺めたら、かなりの勝ち組なのでは?
    「……でさぁ、ソウスケくんはなんでバイトはじめたわけ?」
    「そりゃあれよー、たんまり貢ぐためー?」
    「あーね、彼女ね。いいなぁ、彼氏からそんだけ想われたら幸せだよね」
     おまえが彼女になるんだよ!
     そんなこと言えるわけないだろ、バカか?
     いつの間にか話題は俺の話に移っていたらしく、ふたりの視線を前に答えを詰まらせる。
    「や、その……彼女とかいないんで」
    「え? いないの? なんで?」
     なんで……? 青柳さんって鬼なのかな?
     俺はトレイに散らばったポテトを掴みとって、口に運ぶ。 遠く、フードコートの壁に取り付けられた空調機器へ目を泳がせた。
    「|今は《・・》いらないっていうか……自分磨き? そういうのに、お金も自由も使いたくて」
    「へぇ~~~~そぉなんだぁ~~~~?」
     あふれんばかりの笑みが含まれた、獅子原さんの相づちだった。
     くそ、絶対ニヤニヤしてる。 絶対ニヤニヤしてる……!
    「弓削ー、わたし付き合ったげよっかー?」
    「……え?」
     口いっぱいに頬ばろうと掴んだポテトが、指のすき間からバラバラとこぼれ落ちる。
     おっといかん。 こんなことで動揺してしまうとは。 そんな煽りに乗るほど愚かじゃない。
    「い、いやいや、またまた」
    「いやいやー、マジマジー」
     獅子原さんはネイルの目立つ指でポテトをひとつ、つまんだ。 それを俺の口もとにゆっくりと差し出す。
    「いいよー? いまフリーだし」
     ポテトの端をくわえると、ぐぐぐとさらに押し込まれる。
    「そのかわり、カレシなら敬語とかやめてねー? あとマオって呼んでー♡」
     ポテトを飲み込んだ唇が、ちゅっと獅子原さんの指先に触れた。 獅子原さんは指で、俺の唇を撫でるように油分を拭き取ってくれる。
    「ええ~!? よかったねソウスケくん! 彼女できたじゃん!」
    「え? え、ええ、ああ、はい」
     え? なにこれ? なにこれまじで? まじで彼女できたの俺?
    「じゃ、じゃあ……よろしく、ま、マオ?」
    「うん! よろしくねー? 弓削ー」
     おまえは名字呼びなのかよ!
     その後、連絡先を交換すると獅子原さん――いや、マオは帰っていった。 バイトは超がんばれた。
     夏休み2日目。 早くも彼女ができましたが、何か?




      [#ここから中見出し]『第4話 2度目の寝取られ報告事件』[#ここで中見出し終わり]

     バイト終わりの夕暮れどき。
     適当にこしらえたチャーハンを食べ、早々と風呂も済ませた俺はスマホを握りしめて震えていた。
     受話スピーカーから、先日付き合ったばかりであるマオの嬌声が絶えず聴こえてくるからだ。
    『――だから彼氏だってー。あっ――ねぇきこえてる弓削ー? さっきナンパされた大学生とね、いまラブホいんだけどー』
     明日は待ちに待ったバイトの休み。 マオと出かける計画をいろいろと練っていた。
     なにせ生まれてはじめての彼女なんだから、粗そうがあってはいけないとスマホで調べものをしていたのだ。
     それがどうしてこうなった。 わなわなと握りしめた拳で、学習机をダァン! とやってみる。
     痛って。
    『――なんか大きい音したー。ダメだよ物を壊しちゃ? てかさこの大学生、はげし……っ』
     耳もとで繰り返される、マオのなまめかしくも力強い吐息。 聴いてる俺まで体温が上昇したらしく、ひたいの汗をぬぐうと自室のエアコンを操作した。
    『――いま、冷房下げたー?』
     いや下げたけど。 まだ通話を切る様子はなかったので、とりあえずベッドに腰かける。
     こう、なんというか――そう、既視感。 それのせいで、いまいち怒りに燃えられない。
     マオはあえぐように途切れ途切れの言葉で、浮気相手の大学生がいかに熟練しているか事細かに解説する。
     この辺のくだりも経験済みなんだよな。 それでも多少のイライラは感じながら、テレビのリモコンにふれた。
     お、ネタみせ特番じゃん。 意識がテレビにもっていかれる。
    『――バラエティみてないー?』
     みてる。 聴覚過敏すぎじゃね? 俺が言うのもなんだけど、もうちょっと行為に集中したらどうなんだ。
     CMになったので、棚から取り出した漫画をパラパラめくった。
    『――なに読んでるのー?』
    「前に買った漫画の15巻」
    『――おもしろい?』
    「やばい! とくに今回は無能ムーヴかましてた主人公が蹂躙モードに入ってさ! そんで――あー……そっち終わった?」
    『――あー……うん。シャワー、浴びよっかな』
    「そっか。じゃあ、もう切るぞ」
    『――明日さー、家いっていい?』
    「……まあ、いいけど」
     そこで弁明するつもりなんだろうか。 マオから電話かけてきといて、誤解もなにも無い気はするけどな。
     ふと、思い出す。
    「ダブルピース」
    『――え?』
    「いやダブルピースとか、やんなくていいのかなって」
    『――んー……忘れてた。みたい?』
    「そうだな……裸とか、なら」
    『――えっちー。じゃあ一応撮っとくからさー? 欲しかったら明日あげるねー?』
    「お、おう」
     まじでくれるの? リベンジポルノ的な、そういうの警戒した方がいいと思うんだけど。
     通話を終了した俺は、ベッドに寝そべって漫画の続きを開いた。
     ……なに? なんだったん、これ?
     今回のはなんか人の気配みたいなものあったし、演技とかじゃないと思うんだよなぁ。 ベッドのギシギシ音もあったし。
     しかし、立て続けに寝取られ報告とか受けるもんなのか?
     そんなわけない。 普通ありえないだろ。
     ヨリコちゃんの呪いかな。 あえて名前を浮かべることを拒否していたけど、報告の流れもヨリコちゃんのときと酷似していた。
     寝取られには明るくないけど、内容が似通うとかそんなことってある? 寝取られ報告のテンプレとかあるのか?
     ……その手の界隈に聞けばあると答えそう。 けれど釈然としない。
     まるでミステリ小説を考察するかのように、脳細胞が働いていた。 この件には、きっと裏があるはずだ。
    「……あ~あ、1日で破局かぁ」
     昨日の調子こいてた自分が恥ずかしい。 でもそれはそれとして、こんなことした意図は確認しなければならない。
     いずれにしても明日だな。 マオに詳しく理由を聞いてみよう。
     ヒグラシの鳴き声に癒しを感じつつ、寝取られについて造詣を深めるためにスマホで検索エンジンを開いた。
     たどり着いたアダルトな小説投稿サイトで、高ポイントを獲得している寝取られ小説を閲覧する。
     うーん。 そういえばなんか、ヨリコちゃんから報告されたときみたいな高揚感はなかったな。
     2度目だからか。 慣れていくんだな、こうやって人は。
     気づけば寝取られそっちのけで純愛ものを読みふけっていて、心身共にスッキリして眠りについた。




      [#ここから中見出し]『第5話 寝取られアドバイザー』[#ここで中見出し終わり]

     たっぷり寝てしまったみたいだ。 ピンポンという呼び鈴に起こされてスマホを手に取ると、すでに昼を回っていた。
     メッセージアプリに大量の未読がある。
    “ついたー”“ぴんぽん”“ぴんぽんぴんぽーん”“ねてる?”“ねー”“おーい”“あちー”“とけるー”“コンビニ”“アイスいる?”“新作”“ついたー”“ぴーんぽーん”“ゆげー”“ゆげー!”“うげー”“あー”“うー”“し”
     メッセージはすべてマオからのものだ。 家にくるというから、昨夜は住所を送って寝たんだった。 メッセージの最初の送信時間は――10時!?
     また呼び鈴が鳴り、俺はダッシュで玄関へ向かう。 勢いよくドアを開けると、汗だくのマオが驚いたように目を丸くする。
    「なんだー……やっぱいるんじゃんもー。あんま焼けたくないんだがー?」
    「ご、ごめん! めっちゃ寝てて!」
    「はー? ゆるさぬぅ」
    「うわっ!?」
     ぜぇぜぇ息を荒げたマオが、覆いかぶさるように抱きついてきた。 胸もとに顔が埋まる多幸感よりも、熱すぎる体への驚きが勝る。
    「ハァ、ハァ、汗なすりつけたるー」
    「もがっ、ちょ、とりあえず中入って! 熱中症になるぞ!」
     マオを引きずり込んで、リビングのエアコンを最大限低くする。 エアコンの冷気が直接あたる位置に立たせると、マオは両手を広げてうっとり目を閉じた。
    「はー……しゃーわせだにゃー……」
     そりゃ2時間以上も炎天下にいたら地獄だろう。 いったん出直すなりすればいいものを、どうしてそこまで。
     俺は冷蔵庫から作り置きの麦茶を出して、ゆすいだコップにそそぐとマオへ差し出す。
    「おー夏の定番ありがとー! アイスは溶けちったけどねー」
     掲げたビニール袋を揺らしてみせるマオ。 だから、なんで。
     おいしそうに麦茶を飲むマオへ疑問をなげる。
    「……暑かっただろ? 食べればよかったのに」
    「だって新作だよー? いっしょに食べたいじゃんねー?」
     チューブトップなんか着て、パーカーも着崩してるから肩丸出しのえっろいギャルとふたりきりなんて状況なのに。 屈託なく笑う顔は子供みたいで――
     単純に胸がときめいてしまった。
    「ふ、風呂沸かすから、とりあえず入ったら? 服は洗濯して外に干せばすぐ乾くだろうし」
    「おーいたれりつくせりー」
     浴室の扉が閉まった音を確認して、マオの脱いだ衣服を洗濯機へ運ぶ。
     下着も洗っていいんだろうか? 黒いラインの入ったサテン生地のピンクな下着が、その気はなくとも目に焼きついてしまう。
     童貞のサガだ。 ゆるせ。


    「ハー! さっぱりしたー」
     マオは湯上がりに麦茶をごくごく飲み、部屋をみたいと言うので自室に招き入れた。
     漫画以外とくに見るべきもののない部屋を、ものめずらしそうにキョロキョロしている。
    「やっぱそのTシャツ、大きかったかな?」
    「えーいいよべつにー。それにいーじゃんなんか、カレシの服着るシチュ? ってやつー」
     そう。 俺のシャツがぶかぶかで、ボクサーパンツまで履いて、部屋でくるっと回ってみせたりするギャルな彼女なんてシチュエーション。
     理想でしかない。 感涙ものだ。
     けれども。
    「いや……俺はもう彼氏じゃないでしょ」
    「……そっかぁー……まーね、そりゃそうだよねー」
     はしゃいでいたマオが、あからさまに落ち込んでベッドに腰かける。
    「……昨日は、ほんとごめんねー……?」
     だったら、なんで。 感情のままに問いかける。
    「あやまるくらいならっ! なんで――」
    「ほんっとーにごめん! 興奮させられなくて!」
    「…………は?」
     思わず言葉を失った。
     なんて言ったこいつ。 興奮させられなくて?
     そう言った? 言ったよな?
    「なんでかなー!? こんなはずじゃなかったんだけど、ぜんぜん興奮してなかったよね!? あえぎ声かなー? 臨場感? 大学生とのツーショット送るべきだったー? ほんとはさー? 弓削にもっともっと興奮してもらいたかったんだけど――」
     たしかに言ってる。 めちゃくちゃ言ってる。
    「いやちょっ、待って待って! なに? マオは昨日のあれで俺が興奮すると思ってんの!?」
    「するでしょー? わたしはめちゃくちゃ興奮するしー」
    「しねえよっ! ド変態じゃねえか!」
    「じゃ、じゃあもうひとり誘って3人でとか――」
    「数の問題じゃないんだよ!」
     ヤバい。 はじめて付き合った彼女が、超ド級の地雷だった件。
    「カレシといっしょにさー? きもちくなりたいだけなのに……わたし、いっつもうまくいかなくてー……」
    「え……いつもこんなことやってんの?」
    「うん」
     そりゃうまくいかないでしょうよ。 寝取られが趣味のやつと偶然マッチングするのを祈るしかないな。
    「どこが……だめなのかなー……」
    「普通のやつは、彼女が他の男と寝て興奮したりしないだろ」
    「わたし、ふつうじゃない……?」
     頷いてみせるつもりが、できなかった。
     大きな瞳に、今にもこぼれそうな涙をためて。 マオはまるで、むりやり顔に笑みをはりつけているみたいだ。
     気持ちよさを彼氏と共有したい。 本心なんだろう。 つまり善意でこんな行為をやっているのだ。 彼氏もきっと、自分と同じ気持ちになってくれると信じて。
     難儀な性癖だ。
     俺にとってそれはやっぱり地雷でしかないけど、自分を正当化するために他人の信条を否定はできない。
    「はあ……。まずな? 期間だよ」
    「え……?」
    「付き合ってから、寝取られ報告にうつるまでが早すぎる。彼女ができたって実感もないうちに寝取られたって、たいして興奮できないだろ」
     知らんけど。 たぶんそうじゃないだろうか。
    「あともっと集中しろよ。物音に気を取られすぎ」
    「だ、だってちゃんと聞いてくれてるか気になってー」
    「聞きたくないやつは通話切るだろ。そういうやつとはマオは縁がなかったってこと。通話続けるやつとは性癖が合う可能性がある」
    「あえぎ声とか、がんばればいいんだねー!?」
    「それだけじゃワンパターンになるな。もっとこう、どんな気持ちなのか煽ったり? あと浮気相手といろいろ比べるのもいいんじゃないか?」
    「な、なるほどー……! 想像しただけで興奮するねー?」
    「いや俺はしないけど」
     提案しといて気分は最悪だよ。 さらなる被害者を生む結果になるのかもしれないけど、どうか勘弁してほしい。
    「そもそも浮気相手と比べたりする以上さ、最低限まず彼氏とえっちしてからじゃないと」
    「そっかー……そうだよねー。わたし、バカだったなぁー……」
     すべて素人の意見なので。 詳しくは有識者に相談してください。
     マオは目もとをごしごし指でこすると、歯をみせてにっこり微笑んだ。
    「弓削ー? その……ありがとー……ね」
    「いいってことよ」
     わりと地獄みたいな時間だったけどな。 一応、元カノになるんだろうし、少しでも気分があがったのならよかった。
    「またさー、相談とかしてもいー?」
    「う、うーん。あんまりヘビーなやつじゃないなら」
    「よかったー。ちゃんと相談料もはらうからー……さ?」
    「え――!?」
     マオに腕を引っぱられて、強引にベッドへ座らせられた。 身をぴったりと寄せてきたマオの金髪が、頬に触れてくすぐったい。
    「これ今日のぶん。1発ヤっとこっかー?」
    「は!? いやちょっと待って! てかなんでスマホ出してんの!?」
    「昨日の大学生に電話しようと思ってー」
    「さっきまでの俺の話聞いてた!?」
    「じゃあツーショットはー? だめー?」
    「ダメとかそれ以前に――」
     やっぱとんでもない性癖だった。 こんな感じで俺の性意識も壊されていくのだろうか。
     いやだ、助けてくれ――と。
     無意識の祈りが通じたのかもしれない。 突然、着信音を鳴らしはじめたスマホに手を伸ばす。
     通話をフリックして、つい、いつもの癖でスピーカーをタップした瞬間に押し倒された。
     そしてその結果、さらなる地獄が訪れようとは夢にも思わなかった。




      [#ここから中見出し]『第6話 ヨリコちゃん再び』[#ここで中見出し終わり]

    『――……いきなり電話してごめん。既読つかないし、忙しいんだよね?』
     受話スピーカーから流れてきたのは、あからさまにテンション落とした女性の声だった。
     え? だれ? 知り合い? 既読って……マオ以外からメッセージなんかきてたっけ?
     俺とマオはベッド上で固まり、ふたりしてテーブルに置かれたスマホへ顔を向ける。
    『――あのね? 心してきいてね?』
     まてよこの声、どこかで。
     いや、思いあたるふしはあるけども。 さすがにそんな、何回も――
    『――あたし、デキちゃったかも』
     こいつはヨリコちゃんだッ!
     いま確信に変わった。 電話で開口一番に衝撃を突きつけてくるなんて、さすが本家本元は切れ味がちがう。
    『――まって。言いたいことはわかってる。最近そういうの、ないもんね? でも遅れてるのすっごく。相手はその、だって他にいないし……』
     寝取られ報告なんてしといてどの口が言うのか。 あれは嘘だったけども。
     それにしても本来まったく俺に関係ない話のはずなのに、イヤな汗が吹き出てくるのはなぜだろう。
     エアコンを操作したいけど、俺の上にはマオが乗っている。
    『――避妊しててもさ、ほら、100%じゃないっていうし。薄いやつだったし? 古……くはなかったけど、もしかしたら、不良品で穴、とか』
     穴……まさか自分で空けたりしないよな?
     もしあの寝取られ報告電話がケンジくんにつながっていた場合、この妊娠報告という第2波には発展できなかったわけで。 まあ、今回も嘘をついてるとは限らないけど。
     俺に覆いかぶさったまま、マオがなにやら目で訴えてくるので、とりあえず首を横に振る。
    『――あ、べつに責めるとかじゃないよ! ただその、妊娠検査薬……ひとりで確認するの怖いし。だから、ね? ちょっとでいいんだ? ちょっと会えないかなって』
     相手が一言も返事していないというのに、ヨリコちゃんの語りは止まらない。 妊娠の可能性がほんとにあるのなら、たしかにヨリコちゃんの要求の正当性もわかる。
     でもなぁ、ヨリコちゃんだしなぁ。 考えなしに寝取られ報告とかするし、また電話番号打ち間違えてるし。
     これも嘘なのだとしたら、マオとは地雷のベクトルがちがうな。 ケンジくんにまじで勉強させてやってくれよ。 医大の受験生とか、めっちゃ貴重な夏休みだろ。
     ふと見上げてみると、なぜかマオは紅潮した顔で息をハァハァ荒げている。 ジッとスマホを見つめる様子がちょっと怖い。
    『――やっぱいきなりこんなこと、答えにこまるよね! ね!? まぁちょっと考えてみてよ。あたしはバイトくらいしか予定、ないから。じゃ、その……勉強がんばってね!』
     言いたいこと言ってヨリコちゃんは通話を終了した。 こんな電話されてケンジくん、がんばれるわけないだろ……。
     ヨリコちゃんの妊娠報告、さすがとしか言いようがない。
     てかバイトしてるんだな。 まあそんなことはどうでもいいし、それよりこのくっそ重い状況をどうにかしてほしい。
     しばらく硬直していたマオが、ゆっくり俺をまたいでベッドを下りる。
    「……いまの電話」
    「あ、いや、ちがうんだ。あの人はなんていうか、ちょっとあたまのおかしい――」
    「そっかー……そういうこと、だったんだ……」
    「ま、マオ……?」
     マオは笑っていた。 すっごく歪んだ笑顔だった。
    「これも|ふくせん《・・・・》、てやつだったんだねー? 最初からぁー」
    「ふ、伏線……?」
     呼吸をどんどん荒くしながら、マオはもどかしさを感じたように、俺が貸したTシャツの胸もとをぐいっと引っぱる。
     マオの首すじにも、谷間にも、全力疾走後みたいな汗が流れていた。
    「熱っつい……ハァ、ハァ……わたし、はじめて知った……|こっち側《・・・・》。こんな、こんな……気持ちになるんだぁ……?」
     伸ばした舌で、唇を舐めるマオ。
    「|てんけい《・・・・》、おりてきた気分だよぉ……?」
    「て、天啓……?」
     どうしたというんだ。 マオが急に難しい言葉をつかいはじめた。
    「すごいよ、こんな仕込み……わたしのこと、はじめから見抜いて……弓削……ソウスケぇ……♡ もしかしてキミが、わたしの運命……なのかもぉ」
     完全にとろけきった口調のマオを前に、俺は身動きひとつとれなかった。
     もしかして、異常性癖に異常性癖を重ねた怪物が生み出されてしまったんじゃないのか……?
     ヨリコちゃんのせいで!
    「ち、ちがうって! いまの電話は仕込みとかじゃなくて――」
    「……今日はもう、帰るねー? いろいろ、あたまん中、整理したいんだー」
     おぼつかない足どりでリビングへ向かい、干していた服を取るとおもむろにマオがTシャツを脱ぎはじめる。 迷った末に目をそらしていると、すぐに着替えは終わったようだ。
    「これ、洗って返す……?」
    「そのままでいい!」
     ノータイムで返事して、あたたかい体温の残るTシャツとボクサーパンツを受け取った。
    「じゃー……また遊ぼうね、ソウスケ♡」
     マオが帰ってしまう。 このまま帰していいのか?
     何か。 何か忘れて――
    「あ」
     大事な要件があったことを思い出し、玄関先でマオを呼び止める。
    「ちょっと待ってくれ!」
    「待たないよー。……今日はね、ほんと、ひとりになりたいからー」
    「そ、そうじゃなくて……」
     ダブルピースの画像まだもらってない! でもそんなこと要求できる雰囲気じゃないよなわかってるよくそっ!
    「今日のお礼、ちゃんとできなかったけどー……。はい、これ」
     駆け寄ってきて、俺の手にそっと何かを握らせるマオ。
    「はげしいお礼は、また今度ー……ねぇ……?」
     そうしてマオは、今度こそ振り返らずに家を出ていった。
     残された俺の手には、0.01mmと書かれた四角い包みが乗っている。
    「……っ……できればっ……ダブルピースの方が、よかったなぁ……っ」
     なぜもっと早く思い出せなかったのか。 嗚咽にも似た声をもらして、コンドームの包みを握りしめた。




      [#ここから中見出し]『第7話 青柳さんという人物』[#ここで中見出し終わり]

     スマホの時刻は22時37分を表示している。
     じつに悩んでいた。 マオに貸していたTシャツとボクサーパンツを洗濯すべきかどうか――
     ちがう。 それも悩みのひとつだけど、そうじゃない。
     いろいろあって今日は疲れた。 さっさと寝てしまいたいのが本音なんだけど……やっぱり放っておくと寝覚めが悪い気がする。
     着信履歴を表示させ、そこに残る電話番号をタップした。
     昼間の妊娠報告が嘘であれ、本当であれ、ヨリコちゃんはケンジくんに伝えた気でいるのだ。 だとすれば折り返しの連絡を延々と待っている可能性が高い。
     待つことに耐えられず、ヨリコちゃんが再び詰め寄るかもしれない。
     いずれにしても、ふたりにとって良い結果にはならないだろうと思う。
    「……出ないな」
     実際そこまで介入する義理もないし、どうでもいいといえばどうでもいいんだが。
     袖振り合うも多生の縁、という言葉もある。 だから前述のとおり、このまま放置すると俺の寝覚めに影響するのだ。
     たっぷり20コール以上は呼び出して、ようやく通話中の表示を確認する。
    「あーもしもし? 俺だけど」
    『――……だれだおまえ』
     受話スピーカーから聴こえてきた男の声に、少なからず動揺した。
     ケンジくんか? と、一瞬浮かんだ考えを否定する。
     そうか。 ヨリコちゃんが間違い電話をかけてきたということは、寝取られ報告のときと同じ。 ケンジくんの番号が登録済みであろう自分のスマホじゃなく――
    「こんばんは弟くん。いきなりで悪いんだけど、ヨリコちゃ――お姉ちゃんにちょっと代わってほしいんだけど」
    『――は? 姉貴? ……ああそうか、アンタが』
     察してくれたようだ。 そうだ、俺こそが。
    『――ド変態のケンジかよッ!』
    「ちがう!?」
     憎々しげに吐き捨てるような声だった。
    『――なにがちがうだっ! 姉貴の男だか知らねえが、よくもオレにあんなもの……っ!』
     え!? なに? 怖い! ケンジくんなんでこんなに恨まれてんの? ヨリコちゃんの弟に何したの!?
    『――“ちょ、ちょ! 今あんたケンジくんって言わなかった!? ちょっと代わって!”』
    『――あ!? なんだよ姉ちゃん、勝手に入ってくんじゃねーよ!』
    『――“いいからスマホ貸して!”』
     向こうはどったんばったん大騒ぎの様相だ。
     しばらくのあいだ、学習机でコンドームの包みをくるくる回転させて遊んでいると。
    『――ハァ、ハァ、ご、ごめんねケンジくん。あの、昼間のことなら……』
    「こんばんはヨリコちゃん、今日もかわいい声だね」
    『――だれ!?』
    「彼氏のケンジだよ」
    『――ケンジくんはそんなこと言わない!』
     えー? わりと普通のセリフだと思うんだけどな。 ケンジくんの人物像がいまいちピンとこない。
     まあいい、とっとと本題に入ろう。
    「単刀直入に聞くけど、ほんとは妊娠とかしてないんだろ?」
    『――は? きっしょ! いきなりなんなの? あたしのストーカー!?』
    「自意識過剰も大概にしろよ。寝取られ報告にくわえて妊娠報告の被害も受けたんだからなこっちは」
    『――……そのくっそムカつくしゃべり方……あんた何日か前の……っ!』
    「ヨリコちゃんの彼氏だよ」
    『――ぶっころすッ! ぜったいころすからッ!』
     物騒だなぁ。 昨今、そんな過激発言してたら簡単に炎上してしまうぞ。
    「まあいいや。わかったろ? また間違い電話してきたんだよヨリコちゃん。3回累積したら録音音声ネットに流すからな?」
    『――はやく消せ! なれなれしく名前呼ぶな!』
    「……余計なお世話かもしんないけどさ、もうこんな嘘の報告やめとけば? だれも幸せにならんだろこんなの」
    『――ほんっっと大きなお世話! おまえはあたしのおかあさんかっての! そんなんだから一生彼女もできない童貞なんだよ! おまえなんかに、あたしのなにが――……ッ』
     暴言が過ぎる。 けど1日でもマオと恋人になったおかげか、ダメージは最小限に抑えられた。
    『――あたしの……なに、が……』
     ヨリコちゃんのはげしい鼻息が、だんだんと鼻をすする音に変化していく。
     ヨリコちゃんの主張もわかる。 俺たちは赤の他人なわけだし。 まあ、間違い電話してくるなよって話なんだが。
     深入りするのもここまでだな。
    『――ぅぅううゔゔ~~~~~~ッ! しんじゃえバァァァァァカッ!!』
     いつもの捨て台詞を残して、通話は終了した。
     そういえば、なんで今回の妊娠報告に弟のスマホを使ったんだろう。 浮気相手を偽装するための寝取られ報告とちがって、自分のスマホ使っても問題なかったはずだ。
     そうすりゃお互いイヤな思いすることもなかったのにな。
    「はあ……寝るかな」
     明日はフルでバイトだ。
     濃厚な1日に疲れ果て、ベッドへ潜り込むとすぐに眠気が襲ってきた。

    ◇◇◇

     バイト中、なにやら青柳さんの覇気がない。
     ダウナー系の女子とはいえ、何度も大きくため息を吐く様子はあきらかに異常事態だ。
     休憩のタイミングを見計らい、思いきって理由をたずねてみた。
    「ああ……ごめんね。テンションさがるよね? たいしたことじゃないんだけど……スマホ、無くしちゃって」
     駅でバッグごと置き引きにあったらしい。 機種変も検討してるとのことだけど、親からはもう少し待つように言われたのだとか。
     そのあいだ、彼氏とも連絡取れなくて落ち込んでいるというわけだ。 どうしてものときは弟に借りるらしいけど、イヤがられるから無理には頼めないらしく。
     なるほど。 それは心から同情する。
     昼休憩の食事もそこそこに、手持ちぶさたなのかパイプ椅子に力なく座る青柳さんを見つめる。
     めちゃくちゃ悲しそうだな、青柳さん――
     ――……こいつ、ヨリコちゃんじゃね?




      [#ここから中見出し]『第8話 特定しました』[#ここで中見出し終わり]

     青柳さんが、仕事着エプロンを身につけながら、不思議そうに俺を振り返る。
    「うん、|青柳《あおやぎ》|依子《よりこ》だけど。あれ? あたしソウスケくんに名前言ってないっけ?」
    「言ってないよヨリコちゃん!」
    「……ヨリコちゃん?」
    「……はじめて聞きました、青柳さん」
     なんということだ! 青柳さんはヨリコちゃんだった!
     だけど同名なだけって線もある。 ヨリコなんてありふれた名前、親戚にだっている。
    「な、なに? あたしの顔じっとみて」
     声――で、判断つかないんだよな。
     電話でのヨリコちゃんを思い返すと、俺をケンジくんだと誤認しての猫かぶり声か、もしくはブチ切れた声かの2パターンしかない。
    「ソウスケくん……?」
     俺は、普段のヨリコちゃんの声を知らなかった。
     これはもうハッキリさせないと気が済まない。
    「……ヨリコちゃん」
    「また名前呼び――……え、ちょ、まって」
     しきりにボブカットを撫でつけるヨリコちゃんを、壁際まで追い込んでいく。
     細い肩が壁にぶつかる。 俺は壁に手をついて、ヨリコちゃんの逃げ道を塞いだ。
     斜め下に向けた視線のすぐ先で、驚いたように大きな瞳をパチパチ瞬かせるヨリコちゃん。
    「ヨリコちゃん、ひとつお願いしてもいい?」
    「タメ口、なってるし……。だめ。だめだよ?」
    「え? なんで?」
     エプロンの胸もとでぎゅっと手を握ると、ヨリコちゃんは俺から目をそらす。
    「彼氏、いるから。あたしのこと、好きになっちゃだめ」
     なんねえよ! あ~~でもめっちゃ自意識高いとこヨリコちゃんっぽい。
     とはいえ、勘違いさせてしまったのは俺が悪かったかも。
    「あの、お願いってそういうんじゃなくて」
    「……え? ちがうの?」
    「はい……なんか、すみません」
    「じゃあ離れてっ」
     真っ赤になったヨリコちゃんに突き離された。
     ヨリコちゃんは大きく深呼吸すると、気持ちを切り替えるようにエプロンを伸ばす。 少しむすっとして。
    「……それで、お願いってなに?」
    「はい。こんなお願い、自分でもどうかと思うんですけど」
    「言うだけならタダだし? まあ、言ってみ?」
    「バカとかしねとか本気で罵ってくれません?」
    「ヤッバい趣味してんねっ!」
     趣味とかじゃないんだよ! 電話口でのヨリコちゃんを再現してほしいだけなんだよ!
    「あたし、そういうのはちょっと……。ほかの人に頼んだら? お金とか払って」
    「ヨリコちゃんが言ってくれないと意味ないんだよ!」
    「なっ……!?」
     再び顔を赤くそめてヨリコちゃんがたじろぐ。 俺もムキになっていた。
    「いくら? いくら払えばいい!? 言ってくれよなけなしのバイト代で払ってやる!」
    「いらないし! ちょっと寄ってくんなって!? あとちょくちょくタメ口なんのやめて!」
    「じゃあ欲しいものは!? あるでしょバイトやってるくらいなんだから! ほら言って!」
    「こっわ! なんでそんな必死なの!? マジで今日キモいよソウスケくん!」
     またもやさっきと同じ壁際で。 お互いハァハァ息を荒げつつ、真意を探ろうとして視線が絡まる。
    「だからっ……ちかいって」
     根負けして目を伏せたヨリコちゃんに、もう一度真摯に頼み込む。
    「お願いだよ、ヨリコちゃん。大事なことなんだ」
    「うぅ……欲しいもの、とか別に……今度彼氏と海いくから、水着買おうと思ってたくらいで」
    「それ俺が買うわ!」
    「会話できないの!?」
     そのとき休憩室のドアが開き、店長がふくよかな体を半分のぞかせた。
    「おやすみ中ごめんなさいね? でも、そろそろふたりとも出てきてもらわないと……」
    「あっ、ご、ごめんなさい!」
     あわてて準備するヨリコちゃんにならい、俺もエプロンを身につけていると。
     ためらいがちに駆けてきたヨリコちゃんが、背伸びして俺の耳もとへそっと唇を寄せる。
    「……あたしに、いじわるばっかするソウスケくんとかぁ……しんだら? ば~~~~か……」
     やさしいささやきと、鼓膜をゆらす吐息の凶悪なコンボ。 背すじがぞわぞわ震えてしまう。
     手でパタパタ自分の顔をあおいで、ヨリコちゃんは決して俺と目を合わせることなく休憩室を出ていった。
     念願の罵倒をいただきましたけども。 ぜんぜんちがうんだよなぁ……あれじゃ同一人物なのかサッパリわからない。


     午後の業務では、ヨリコちゃんの元気も少しは戻ったみたいだ。
    「ありがとうございましたぁ」
     やはりややダウナー気味の発声ながら、いつもの接客に近い笑顔はみることができた。
     そのままバイト終わりまで働いて、ふと気づく。
     電話番号聞けば早いんじゃないかと。 俺のスマホには、妊娠報告のときの着信履歴がまだ残っているのだ。
     さっそく帰りがけにヨリコちゃんを呼び止めた。
     ものの――
    「うーん……それはナシかな。ソウスケくんにその気はなくてもさ、やっぱ彼氏に悪いし。でもシフトのこととかもあるし、メッセならいいよ?」
     そういえば、はじめて本屋で見かけたときも警戒心を丸出しにしてたっけ。
     チョロそうに見えたり、かと思えば彼氏を立てたガードの固さを発揮したり。 ヨリコちゃんは意外とむずかしい。
    「――はい、これでOKだね? あんまりしょっちゅうメッセ飛ばしちゃだめだよ? 浮気心、出さないようにね?」
     出さねえっつってんだろ!
     メッセージアプリのアドレスを交換してしまい、まさか聞きたかった電話番号が弟の方だとはとても言い出せなかった。 だって履歴に残ってる番号も弟のものだし。
     まあ、いくら家族とはいえ、勝手に弟の番号を他人に教えるヨリコちゃんじゃなさそうだけど。
     だだっ広い駐車場でヨリコちゃんが振り返り、軽く手をあげる。
    「じゃあまたね、ソウスケくん」
    「あ――ヨリコちゃんの彼氏、なんて名前なの?」
    「ええ? なんで気になんの?」
    「いやまあ、ただなんとなく……なんだけど」
    「んー……ま……いっか。ケンジだよ、|天晶《あまあき》|賢司《けんじ》。あのさ、ソウスケくん今日ほんとヤバいから、よく寝なよ?」
     本気で心配されながら、ヨリコちゃんの背中を見送った。
     はい同一人物で確定しましたー! ほらみろ、やっぱ彼氏はケンジくんじゃねーか!
    「…………」
     ……というか、何を意地になってんだ俺は。
     ヨリコちゃんが同一人物でホッとしているのか、それとも――
    「――うわ!?」
     ぼーっと突っ立っていたせいで、駐車場を出ようとしている車に思い切りクラクション鳴らされた。



      [#ここから中見出し]『第9話 既読スルーの恐怖』[#ここで中見出し終わり]

     反省した。
     ヨリコちゃんの正体を暴くことに夢中となり、醜態をさらした己を恥じていた。 だから反省の意思をこめて、学習机に向かい勉強していた。
     本音を言えば、夏休みの宿題をとっとと終わらせてしまいたい。
    「現代社会の作文か……」
     漠然としていて難しいな。 こういうときは自分を中心として考えを巡らせればいい。
     現代社会に生きる俺。 俺の周囲で最近の出来事。
    「……寝取られ、か」
     テーマは決まったな。
     寝取られは倒錯した快楽をもたらし、同時に人間らしい心を奪う。 競争することをやめ、敗北を受け入れることによって性愛を享受するのだ。 しかしそのテの耐性がないものにとっては、ただただ不快が続くだけである。
     だれが読むんだよこんなの。 ふざけんなよ。
     作文用紙に消しゴムをかける。
    「あ~あ……女子と遊びたいなぁ……」
     椅子にもたれかかって背を伸ばしていると、机に置いたスマホがポコンとメッセージの受信を知らせた。
    “ソウスケー”“うみ”“海いかない?”
     メッセージはマオからだ。 女子から海に誘われるとか最高だけど、相手がマオというのが引っかかる。
    「ええと“ふたりで?”……っと」
    “そう”“イヤ?”
     別にイヤなわけじゃない。 でも悩む。 即答できないのは、先日のぶっ壊れたマオの姿が思い出されるからだ。
    “水着買った”“みたいー?”
     みたい。 けど“ダブルピースを先に”と。
    “もう消したー”“ほい”
     マオが添付してきた画像は、フローリングに上下セットで並べた布面積の少ない白ビキニだった。
     本音と同時にメッセージを打つ。
    「“せめて着てくれよ”」
    “ソウスケ”“わかってなーい”“大事なのは想像”
    「想像……?」
    “想像してみ?”“これ着たわたしと”“海でふたりきり”
     想像か。 マオは変態なところをのぞけば、顔もかなりかわいいし、体つきもえろい。 あのほんのり焼けた肌がいいんだよな。
     夏の海。 キューティクルストレートの金髪に、日焼けした肌と白いビキニ。 浮かぶ汗。 尻の食い込みを直す指。
     ばえる。
    “パラソルでねころんでー”“距離ちかくてー”“イチャついてー”“密着、したり?”
     ああ……金髪ギャルとイチャつきたい。 密着したらヤバいだろ、いろいろ。
    “オイルぬってー”
     オイル。ぬ、ぬりたい。
    “細マッチョにナンパされてー”
     ……ん?
    “岩陰に連れ込まれたわたしが”“ソウスケに電話するの♡”
    「寝取られじゃねえかっ!“ふざけんなっ!”」
    “えー?”“興奮しない?”
     しねえよ!
     憤慨してスマホを机に投げた。 スマホがすぐに、ポコンとイカれ女のメッセージをよこす。
    “こないだあげたゴム”“まだもってるー?”
     ふくらませて遊ぼうかとも思ったけど“持ってるよ”と。
    “……つかっちゃおっか♡”
     気づけば“海行くわ”とメッセージを返していた。 受信から3秒しかたってなかった。
    “やたー”“あしたバイト先いくねー”
    「……ふぅ」
     椅子の背もたれがギシリと鳴る。
     すべては夏がいけない。 悶々と蒸された欲求に、童貞の高校生があらがえるわけがないんだ。
     海か。 そういえば、ヨリコちゃんも彼氏と海いくとか言ってたな。
     メッセージアプリのアドレス交換したことだし、昼間の件を謝っとくか。
    「ええと“こんばんは、いま大丈夫ですか”」
     しばらく待つと、アプリがヨリコちゃんのメッセージをポコンと受信する。
    “どうしたの?”“シフト変更?”
     あくまで業務関連のやりとりだけに終始したいんだろうか。
     人によっては異性とのプライベートなメッセージ交換も浮気判定出るだろうし。 ちゃんと彼氏のこと考えてるんだな。
    「“昼間のことです。ちょっと暴走しちゃって、ごめんなさい”」
    “ちょっと……?”“あれホントにびっくりした”“でも許したげる!”“もうしないでね?”“暴走”
     ひとまずこれからのバイト、ギスらなくて済みそうでよかった。
    「“ありがとう、ヨリコちゃん”」
    “また名前……”“いーよもうヨリコちゃんで”“特別だからね?”
    「…………」
     本当にこれ、あのヨリコちゃんと同じ人物なんだろうか? やさしすぎない?
     同一人物だと判定をくだしたはずの確信が揺らぎ、試すようなメッセージを送ってしまう。
     文面は“NTRってどう思う?”だ。
     ヨリコちゃんからメッセージが返ってくるまで、結構な時間がかかる。
    “……NTRって?”
     知らないのか? まあアルファベット表記だし。
    「“寝取られのこと”っと」
    “寝取られ?”“わからない”
     同一人物なら知らないはずがない。 シラを切ってるんだろうか。
    「“彼氏がいるのに他の男と寝ること”“簡単に言えば浮気かな”」
    “ふーん”“なんでそんなこと聞くの?”
     迷った末に“寝取られについてヨリコちゃんの意見が聞きたくて”とメッセージを送信した。 既読はすぐに付く。
     それから待てど暮らせど、ヨリコちゃんからの返事はなかった。 これやっちゃったかな。と不安が尽きないまま、俺は眠れぬ夜を過ごすハメになった。




      [#ここから中見出し]『第10話 わかりあえず』[#ここで中見出し終わり]

     連日の猛暑のなか、大型ショッピングモールは涼やかな空気に包まれている。
     いい空調設備だ。
     もはや自宅とショッピングモールの往復しかしていない俺は、王の帰還のごとく堂々とモール中央を肩で風を切って歩く。
     下々のもの達に手を振りたい気分だが、まずはいつものルーティン。 フードコートにてアイスコーヒーをたしなむ。
     冷えた苦みが全身の熱をやわらげ、心に安らぎをもたらしてくれた。
     楽しげな喧騒をゆったり見渡していると、トレイを抱えたヨリコちゃんが視界にうつり込む。
     昨晩のメッセージは、きっと寝落ちとかしちゃったんだろうという結論に至っていた。 だから、ごく気軽に手をあげる。
    「ヨリコちゃん、こっちこっち」
     ヨリコちゃんがビクッと肩を震わせて、こっちを見る。 立ち止まって、うつむいて。
     さんざんに迷いをみせた挙げ句、ようやく1歩を踏み出した。 牛歩戦術か?
    「ここ、空いてるよ?」
    「あ、うん」
     そしてヨリコちゃんは、俺の対面ではなくとなりのテーブルに腰かける。
     ……あれ? あきらかに避けられてる。 思いあたるふしは、寝取られについてたずねたメッセージしかないけども。
     演技とはいえ寝取られ報告なんかしてたヨリコちゃんだ。 それなりにダメージが入ったのかもしれない。
    「ヨリコちゃんあのさ、夕べのメッセージだけど――」
    「ソウスケくんは、どう思うの?」
     食い気味に言葉をかぶせてきたヨリコちゃんは、俺とは目を合わせず視線はひざに置いている。
     かすかにヨリコちゃんのくちびるが開く。
    「よくわかんないけど、寝取られ? について」
     わかんないことはないだろうが、ここはまじめに答えておこう。
     俺には理解できないけど――と、心の中で前置きしたうえで。
    「第3者に迷惑かける行為の議論はまた別として、性癖自体は否定されるもんでもないんじゃない? 多様性が認められた時代とかっていうし」
     マオのような人間もいることだしな。 それに多かれ少なかれ、人は他人に理解されがたい倒錯した性癖を持っているものだと思う。
     俺は胸より尻、尻よりも足が好きだ。 下へ向かうほどいい。
     重力という枷に耐えながら、大地に根を張って伸びやかに体を支える足は、宗教画的な美しさをたたえている。 涙がでてくる。
     ショートパンツから放り出されたヨリコちゃんの足も、健康的な色気といった風情でとてもよいものだった。
    「……だめ」
     さりげなくトレイで太ももを隠され、ショックを受ける。 そんなバレバレだったかな。 自制しないと。
    「と、とにかく。無理矢理は論外として、双方合意のうえならただの浮気でしょ、それは」
     しかし取られた方に感情移入しちゃう俺は、やっぱ寝取られ報告なんてもの個人的にナシだわ。
     まあ“寝取らせ”なんていう、さらに高度な変態の話はわからない。 マオさんに聞いてください。
    「じゃ、じゃあソウスケくんは、彼氏持ちの女子でもその、寝取っちゃっていいと思うの?」
    「いやだから、いいも悪いもないでしょ。その場合、誘ったのが男なら乗ったのは女だろ。彼氏にとっちゃ最悪だろうけど、浮気したふたりは――」
    「あ、あたしはそんな簡単じゃないから!」
     あたし? 何いってんだこいつ。
     ひとり怒ったようなヨリコちゃんのうしろから、マオが鼻歌らしきものを口ずさんでやってくる。
    「ねっとりねっとられたのし――おっ、ソウスケー!」
    「なあそれオリジナルソング? まじでやめた方がいいよ」
    「ネットリと寝取りのダブルミーニングになっててねー?」
    「解説は聞いてねえ!」
     俺の対面に座って、さっそく海の日程を詰めはじめるマオ。 じつは楽しみにしてる俺も、積極的に日取りや場所の提案をしていると。
    「……ごめん。あたし先いくね」
     どこか思いつめた顔で、ヨリコちゃんは席を離れていってしまう。
     マオと無言で視線を交わす。
    「…………てめー|犯《ヤ》ったな?」
    「どんな発想してんだよっ!」
     バイト中もヨリコちゃんの表情が晴れることはなかった。


     その日の夜。 自室でくつろいでいると、ふいにスマホの着信が鳴り響く。
     未登録の番号だったけど、とりあえず出てスピーカーに切り替えた。 ちなみにヨリコちゃんの弟は妊娠報告のあとに登録したので、これはほんとに知らない番号だ。
    『――……あ、あーん、そ、そんなとこだめだよぉ、きこえてる? け、ケンジくぅん』
    「…………」
     ヨリコちゃんだった。 ガチで何を考えてんだよ、こいつは。




      [#ここから中見出し]『第11話 寝取られ報告詐欺ですか』[#ここで中見出し終わり]

    『――大学生に、ナンパされちゃってね? ら、ラブホでしてるんだけど、あー、そこはだめー』
     台所にいって麦茶を飲んで、また戻ってきた。 ヨリコちゃんはまだあんあんやっている。
     これはなんだ? 演技というにはあまりに棒だし、シチュエーションもワンパターン。 いいかげん、大学生に対する風評被害だろ。
     背後ではリリック系のヒップホップがゆるく流れているし、まあこれは大学生の趣味かもと擁護できなくはないけど。
     何か高度なことをやろうとして失敗してるのか? とにかくすべてが雑すぎる。
    『――あん、ね、ねえ聞いてるケンジくん、ケンジくんってば、ケンジくーん?』
     ケンジくんケンジくんうるせえ。
     ……でもやっぱり妙だ。 スマホの番号、これ自分のスマホじゃないのか? 見つかったのか機種変したのかはわからないが。
     だとすると、彼氏であるケンジくんの番号なんて絶対に登録してるはずで、間違い電話なんてするわけがない。
    『――おーい……返事、してよ。やん、だめ……へ、返事しろってば』
     もしかして、|俺を《・・》呼んでいるのか……?
    「…………」
     しかたない。 ヨリコちゃんの真意をたしかめるためにも、俺は机の引き出しからパーティグッズのヘリウムガスを取り出した。
     寝取られヨリコちゃんとバイトヨリコちゃんが同一人物だとわかったときから、こんなこともあろうかと密かに購入していたのだ。
     俺は身バレするわけにいかないからな。 ひっぱたかれちゃうし。
     ヘリウムガスを吸い込んで、小さく発声する。 あ……あ――あ゛……よし。
    『――ねぇ、もしもーし』
    「こんばんはヨリコちゃん」
    『――マジでだれ!?』
    「君にはこれから寝取られゲームに参加してもらう」
    『ホラーの黒幕みたいなこといわないで!』
     テンポのいい返しに満足して、ひとり頷く。 いや、そんなことはどうでもいい。
    「まあ、声は気にしないでくれ」
    『――なんでわざわざ』
    「それより、なんか用があるんだろ?」
    『――あ……あれぇ? ケンジくんじゃない? ま、またあたし番号間違えて――』
    「やめてやめて。共感性羞恥というか、聞いてる俺がいたたまれなくなる。今回のはさすがに無理があるぞ」
    『――…………』
     黙りこくっていたヨリコちゃんが、ようやく本題を口にする。
    『――あんたさぁ、前にたしかあたしの2個下って言ってたよね』
    「言ったような気もするけど、よく覚えてるな」
    『――歳もいっしょだし……その、こんなこと、話せるひとがいなくて……』
    「え? まさか俺に相談事? ヨリコちゃんが!? どのツラさげて!?」
    『――あたしだってわかってるっ! だ、だけどほんとに、ちょっともう、どうしたらいいか』
     昼間、バイトのときも変だったもんな。 深刻な顔してたし。
     顔も知らない他人の方が、話しやすいこともあるかもしれない。
    「じゃあ、聞くだけ聞こうか」
    『――……うん。言いたくないけど……ありがと』
    「切っていい?」
    『――だっ、だめ! 言ったじゃんありがとうって! お礼言ったんだからちゃんと聞いて!』
     むちゃくちゃだなぁ。
     まあいい。 無言で続きをうながすと、ヨリコちゃんがぽつりと語る。
    『――……あのね? 最近さ、あんたと同い歳のバイトの男の子が入ってきたんだけど……』
    「うん……?」
     雲行きが変わった。 ともかく続きを聞こう。
    『――けっこう仲良くしてて、話してても楽しいし、あたしも弟が増えたみたいに思ってたんだけど……』
     ふーん。 ふぅん……。 弟、かぁ……まあ悪い印象ではないよな。
    『――その子、あたしに彼氏いることも知っててさ……なのに』
    「……なのに?」
    『――あたしのこと寝取ろうとしてるみたいで』
    「してねえよっ!!」
    『――え!? び、びっくりした!』
     びっくりしたのはこっちだわ! いつ? 俺が? ヨリコちゃんを寝取ろうとしたんだよ!? 説明しろ!
    『――で、でもなんかやたら、寝取られとか話題ふってくるし? そんなことに抵抗ない、みたいな態度してたし』
     あれか~~~~! いやでも、普通そんな発想に飛躍する?
     あ~~そうか自意識過剰なヨリコちゃんだもんな~~~~!
    「そ、それはちょっと考えすぎじゃない?」
    『――それだけじゃなくて、いつもその、あ、あたしの……足? めっちゃ、見てくるし……多少は、男の子だから、しょうがないとは思うんだけど』
     あ~~~~言い訳できね~~~~! 足好き~~~~!
    『――この前は、休憩時間にせまられて、壁ドンしてきて、き、キスされそうになったり?』
     あれそんな近かった~~~~!? 目測誤ったな~~~~!
    『――せっかくできた彼女とも、すぐ別れちゃったみたいで……なのに仲良く海いくみたいな話してて』
     それは勘弁して~~~~! 付き合うのは無理でも遊びたいんだよ~~~~!
     ……ヤバい、落ち着け。 自分のこれまでの行動がすべて返ってきてる。 悪い方に。
    「も、もう一度よく考えてみたら? 俺はその男子が深い意味をもって行動してるとは思えないかな」
    『――じゃあ、あんたはさぁ、たとえばめっちゃ好きな人に彼氏がいたとして……簡単にあきらめられるの?』
     なんか、俺がめっちゃヨリコちゃんを好きな前提で話すすめてないか? 腑に落ちないんだけど。
     でも……。
    「それは、あきらめる他ないだろ。ヨリコちゃんは――その人は、彼氏と別れるつもりないんだろ?」
    『――ないよ。好きだもん。めちゃくちゃ好きだから、絶対に別れない』
    「……だろ?」
     あれ、なんか……ダメージ入った? いや気のせい気のせい。
    「とにかくさ、よくそのバイト男子と話してみることだよ! 俺が思うに、その男子は誤解されがちだけどめっちゃいいやつで、話せばわかるやつな気がするなぁ!」
    『――そう、だよね。誤解かもしれないもんね』
    「そうそう! 言葉をかわさないと気持ちなんて伝わらないし、きっと誤解だって!」
    『――……なんか、思ったより……ちゃんと相談のってくれんじゃん……ありがと』
    「困ったときはお互いさまだろ? い、いいってことよ!」
     なんせ自分の現状に直結するからな。 ヨリコちゃんには早いとこ考えをあらためてもらわないと。
     それよりも、吸い続けていたヘリウムガスの残量が心もとない。
    「じゃあそろそろこれで! またなんかあったら気楽に相談してくるといいよ」
    『――え……いいの……?』
     いいわけねえだろ! 社交辞令ってのがあるだろ世の中には!
     最後のヘリウムガスを肺に入れる。
    「もちろん! またねヨリコちゃん!」
    『――う、うん……また』
     通話を終了した。
     俺はぜえぜえ息を吐き出しながら、ヘリウムガスの缶を机に置いた。
     せめてヨリコちゃんの誤解がとけるまでは、紳士に振る舞おう。




      [#ここから中見出し]『第12話 コンドームとコンビーフ間違いがち』[#ここで中見出し終わり]

     さて、悲報。
     ヨリコちゃんからの相談事にそなえて、ヘリウムガス10本を購入した俺。 スマホアプリでボイスチェンジャーがあることを知る。
     しかもバイト前に買うというバカさ加減。 せおったリュックの中で、10本の缶がガチャガチャ音を立てる。
     けっこう重いし。 良質な空調設備をもってして、なお汗が出てくる。
     アイスコーヒーを飲みたいところだけど。 昨日の今日ということもあり、フードコートには寄らずに直接バイト先の本屋へ向かった。


    「あ」
    「おっ……おはよう、ヨリコちゃん」
     なんということだろう。 顔を合わせるのが気まずいからと早く来たのに、休憩室にはすでにヨリコちゃんがいた。
     パイプ椅子に座るヨリコちゃんは、椅子のへりに両足のかかとを乗せて、ひざを抱っこする……いわゆる体育座りをしてたようなのだけど。
     俺がドアを開けた瞬間に足を下ろして、あわててスカートを伸ばしていた。
     少し悲しい。 いや、パンツみえるかもしれないから当然か。
     スカートめずらしいな、と思っただけでじろじろ足はみていない。 紳士だからな。
    「ソウスケくん。その、昨日のほら、寝取られ……とかの話、なんだけど」
     スニーカーを履きながら、ヨリコちゃんの方から切り出してくれた。 どう話しかけようか頭を悩ませていたので、正直に助かる。
    「ああ、あれね! 俺も言わなきゃと思ってて。ヨリコちゃん、もしかして勘違いしてるかもなって」
    「ん、勘違い?」
    「そ、そうそう! なんか口説いてるみたいに思われちゃったかなーみたいな!」
    「あ、あ~それな! ……あたし、ほんと言うと、ちょっとだけ勘違い、しちゃってたかも」
     ほんのり赤くなった顔をうつむかせ、恥ずかしさをごまかすようにパイプ椅子をギコギコ揺らすヨリコちゃん。
    「や、やだなもう! 俺、これでもヨリコちゃんと彼氏のこと応援してんだよ? 寝取ったりするわけないって!」
    「おー? 言うねナマイキぃ。でも、ありがとね。まぁ寝取られたりなんかしませんけど」
     あはは、あははと休憩室が空虚な笑い声に包まれる。
     なんだこのくっそさむい空間は。 帰りてえ。
     実際のところ乾いた笑い声出してるのは俺だけで、ヨリコちゃんは心底ホッとした表情だ。 なんでこんな、らしくもなく笑ってるのか自分がわからない。
     誤解を解消できて、俺も安心したのかもな。
    「あーよかった……。ところでさソウスケくん。今日、荷物パンパンくない?」
    「ああ、これ? 買ったんだけどもう必要なくなって。ヨリコちゃんいる? ヘリウムガス」
    「ん、ヘリウムガス?」
     ……あ。
     バカか俺は。 自ら正体をバラしていくスタイルか? とにかくごまかさないと!
    「あ~ほら! あさって海行くからさ! パーティグッズいろいろ買ったんだよ! ヘリウムガスだけじゃなくて、ビーチボールとか、電車でするトランプとか――」
     ほんとにいろいろ買ってたんで、言いながら品物をテーブルに出していく。
    「ビーサンも買ったんだった。あとはコン――」
    「……こん?」
     念のため購入しといた、0.01mmの箱をリュックの奥底へとしまい込む。
    「コンビーフだよ」
    「ないじゃん」
    「見せるのはちょっと……」
     疑いのまなざしから顔をそむけて、出したものを淡々とリュックに詰め直した。
     ヨリコちゃんが、うーんと腕を突きあげて伸びをする。
    「……海かぁ、いいなぁ」
     まるで俺への警戒心がとけた証拠だとでもいわんばかりに、スニーカーを脱いだ片足を持ちあげてひざを抱える。
     そのポーズは太ももの裏っかわとか、パンツとか見えそうで目に悪い。 絶妙にパンツは見えないけど。
    「ヨリコちゃんも彼氏と海いくんでしょ?」
    「あれね、なんか流れそう」
     せっかく取り戻したヨリコちゃんの笑顔が、みるみる曇っていく。 ダウナーを象徴する半目が、今は3分の1くらいしか開いてない。
     おいおい、まじかよケンジくん。 さすがにヨリコちゃん放ったらかしすぎでは? 受験はそりゃ大事だろうけど、高校最後の夏休みくらい……。
    「ヨリコちゃんも、いっしょに海いかない?」
     きっと同情心から、気づくとそう声をかけていた。
    「あ――い、いいよいいよ、そんなつもりじゃなくって。……だってマオとふたりきりでしょ?」
    「も、もともとは人数多い方が楽しいよねって話しててさ。だからヨリコちゃんが、もし都合よければ――」
    「ほーん? 青柳の都合よければなんだってー?」
    「うおっ!?」
     耳もとで囁かれる不意打ち。 いつの間に休憩室へ入ってきたのか、真後ろにマオが立っていた。
     こいつ、音もなくドアを……! くっくと笑うヨリコちゃんを見るに、マオの入室に気づいたうえで泳がされたらしい。
     やけに香水のいい匂いがするはずだ。
    「まー、マジな話、青柳も来たらー?」
    「えー邪魔じゃね、あたし? ほんといいの?」
    「いーのいーの。青柳バイトばっかしてっからぁ、ぜんぜん遊べてないしー? ソウスケとふたりだとママにさせられちゃいそーだし」
    「孕ませねえよっ!」
     なんのために0.01mm買ったと思ってんだ! まあ、ヨリコちゃん来るなら使うこともなさそうだけど。
    「あ、じゃ、じゃあちょっと待って? 一応、ね?」
     取り出したスマホを、ぽちぽちタップするヨリコちゃん。 すぐにポコンと返ってきたメッセージを確認し、顔を輝かせた。
    「いいって! てか、今日返事はやっ」
    「……彼氏?」
    「だよ。ちゃんとバイト先の男子もいるって言ったから。あ、やべぇ水着買わなきゃ」
     いちいちケンジくんに許可とるのか。 男がいるんだから、まあそうだよな。
     ヨリコちゃん嬉しそうでよかったよ、うん。
    「じゃバイト終わんの待ってっからさー、そのまま買いにいこー?」
    「いいねぇ! なんかあがってきたわ。ソウスケくん、あたし先に出てるから! マオも店長くる前にここ出なよー?」
    「おすおーす」
     元気よくドアを飛び出すヨリコちゃんを見送り、マオとふたり休憩室に残された。
     じっとりした目を向けられる。
    「……ソウスケさー」
    「な、なに?」
    「青柳のこと、好きくない?」
    「は? そんなわけないだろ、彼氏いんのに」
    「カンケーなくね?」
    「そこ関係ないとか思えるの、マオだけだから」
    「じゃーもしカレシいなかったらー?」
    「ないない。そもそもそんなこと論じる意味がない」
     だいたいマオは知らないから。 俺とヨリコちゃんのわけわからん関係性を把握すれば、惚れる要素なんてまるでないことがわかるだろう。
    「……ま。わたしはどっちでもいいけどねー? ソウスケと青柳がパンパンするとこ見せつけられるのも、それはそれでー……」
    「少しはその性癖を隠す努力しないか?」
    「でもまー忠告? だけはしといたげるー」
     マオは耳にかかったキューティクルな金髪を、指でサラッと流しすいて。
    「青柳にホレちゃったらさー……たぶんソウスケ、地獄みるよー」
    「……え?」
    「わたしにしとけー。なー?」
     けらけらと笑って、マオは休憩室を出ていった。
     地獄? というか、俺がヨリコちゃんに惚れるとかいう前提がまずありえないんだけど。
     地獄って……?




      [#ここから中見出し]『第13話 逆寝取られ報告』[#ここで中見出し終わり]

     バイト終わりに、ショッピングモール内にある水着専門の売り場を訪れる。
     男女比は1対6ほどだろうか。 女性が多いためか喧騒も華やかだ。
     下着売り場よりマシとはいえ、男はなかなか入りづらい空気感がある。 布面積でいえばどっちも同じだし、目のやり場に少し困るというか。
    「青柳ー、水着ソウスケに選んでもらったらー?」
    「なんでだよ。女の子が喜びそうなデザインの水着とか、俺わかんないぞ」
     手を振って無茶ぶりを拒否するが、マオは引き下がらない。
    「ソウスケの好みでいーじゃん。青柳も今度また海いったときさー、カレシがよろこぶやつ着ときたいでしょー?」
    「そりゃ、まぁ。……じゃあ選んでもらっちゃおうかな?」
     小悪魔な笑顔をよこして、ヨリコちゃんは物色していた水着をハンガーに戻した。
     まじかよ。 文句言われても責任とれないぞ。
     そういえば俺は前に休憩室で、ヨリコちゃんに水着を買ってやると口走らなかったか?
    「わかった。俺が選んでみよう」
    「おーし、えっぐいのえらべよー? ちょい動いたらすぐおっぱいポロンするようなやつー」
    「痴女じゃん! 着るのあたしなんだけどっ」
     いまさら引き止めたってもう遅い。
     俺はつねづね、有言実行な男でありたいと思っている。  ようするに、男が好きそうな下品でえろえろな水着選べばいいんだろ?
     得意分野だ。 買ってやるよ、ヨリコちゃんに男が群がるようなドスケベ水着をな!
    「行ってくる!」
    「ソースケさんかっけー!」
    「ちょ、あんま大きな声だすと目立つからっ」
     外見だけは完璧にかわいいふたりの声援を受け、売り場の奥へと駆け込んだ。
    「店内を走らないでいただけますか?」
    「あ、はい、すみません」
     すれ違う店員さんに頭を下げ、あらためて水着を選定する。
     男が好きな水着なんて決まってる。 布面積が小さければ小さいほど、男は興奮するものだ。
     思いのほか熱中して探していると、どうやら近くにいるらしいヨリコちゃんとマオの会話が聞こえてくる。
    「アイツどんなん選ぶかなー?」
    「ソウスケくんってわりとえっちじゃん? なんか……ヒモみたいの選びそう」
    「あっはは! ありえるー」
     不安げなヨリコちゃんと、マオのげらげら笑う声を聞きながら、俺はヒモみたいな水着をハンガーにそっとかけ直した。
     なんなんだよ! おまえらが選べっつったんだろ!
     まあ、でもこっちの水着でも十分過激か? いや……待てよ。
     ヨリコちゃんは、男というか彼氏が喜ぶような水着を望んでるんだよな。 ということは、いずれケンジくんの前でこれを着る、と。
    「…………」


     売り場の前で、紙袋を抱えたヨリコちゃんがにこにこ笑っている。 ただひとり、マオだけがふくれっ面をして。
    「ハァー……。ソウスケー? キミには心底ガッカリしたよー」
    「えーかわいいじゃん! マジでありがとね、ソウスケくん!」
     結局は無難でスポーティーなビキニを選んだ。 何かしらの葛藤に負けた俺を、どうぞ嘲笑ってくれ。
     ヨリコちゃんが喜んでるなら、まあいいか。
     お金を出そうとしたんだけど、決して譲ってくれなかったのが唯一俺の不満だった。
    「あの、やっぱせめて小物でも買うよ」
    「だからいいってば! あんな約束、真に受けなくたってあたしはべつに――」
    「まーま、青柳ー? かわいい後輩が男みせようとしてんだからさー。できる女としちゃ、ここは受け取らなきゃなー?」
     そんなマオの言葉にあと押しされて、俺は売り場を振り返った。
    「よし、行ってくる!」
    「あ、ちょっ、どこ行く気!?」
     水着売り場を横目に走り抜け、俺が目指すのはゴスロリ系ファッションの店だ。
     じつは目星をつけていた。 あそこなら、あそこならきっと最高のアイテムがあると。


    「……はあーっ、はあーっ、はあー……こ、これ、プレゼント」
    「あ、ありがと。なんか、めっちゃ走ってたね?」
     肩で息をする俺の頭を、まるで犬にでもするようにマオが撫でてきて。
    「よーしよしよし――うぎゃ、めちゃくちゃ汗かいてるー!」
     おい、俺の服で拭くな。 マオだって俺んち来たとき汗だくだっただろ。
    「……ソウスケくん、開けてい?」
    「ど、どうぞ」
     宝物を開けるかのごとく繊細な手つきで、ヨリコちゃんは小さな紙袋を開けた。
     中から、伸縮性のある輪っかを掴み出す。
    「ん……シュシュ?」
    「いや! それガーターリングつってさ! あ、そういうフリルとかリボンとか装飾多いやつはキャットガーターていうんだけど! わかんない? ほら、太ももに巻くベルトみたいな!? あれほんとヤバいよね! 太ももとかそのままでも魅力的なのにさ、それ巻くことによってギュッと濃縮された色気が何倍も――」
     ハッと我に返ると、ヨリコちゃんもマオもどん引いた表情で俺から距離をとっていた。
    「てっきりサングラスとか買ってくるもんかと……ソウスケすげーな……」
    「……大事に、するね……」
     太ももを何とかして隠そうと、手で必死にスカートを伸ばすヨリコちゃん。 警戒心マックスの行動だ。
     俺は、自分の趣味を封印しようと心に決めた。

    ◇◇◇

     夜も深いのに、悶々とする。 学習机に向かうものの、勉強が手につかない。
     これまで自覚していなかったけど、どうやら俺はヨリコちゃんの前で何か失敗したりすると、通常より大きなダメージを受けるらしい。
     なぜだ? いつからこうなった?
     この心境をだれかに相談したくて、ふと思い立った俺はボイスチェンジャーアプリを起動した。 スマホに登録してある【NTRヨリコ】をタップする。
     長いこと待ったのち。
    『――……なに?』
    「はあ、はあ、よ、ヨリコちゃん、聞いてる? 今ナンパした女子大生とラブホいるんだけどさ、はあ、はあ、この女子大生、まじ淫乱で――」
    『――きっしょッ!!』
     通話を切られた。
     なんでだよ! いつもやられてることちょっと返しただけだろ!
     さんざん相談乗っただろくそっ! こんなことなら意趣返しなんかせず、素直に話聞いてもらえばよかった……!
     絶望感でいっぱいだった。 机に突っ伏していると、スマホがポコンとメッセージを受信する。 メッセージは【バイトヨリコ】ちゃんからだ。
    “急にごめんね”“ちょっといま、イヤなことあって”“起きてる?”
     嫌なことについては触れず“起きてるよ”と返した。
    “海たのしみ”“プレゼント”“さっきつけてみたんだけど”“けっこうカワイイかも?”“ありがとね!”
    「どう、いたしまして」
     ひとりつぶやいて、メッセージでは“つけた画像みせて”と送る。
    “だーめ”“海でつけるから”“そのときね?”
     ヨリコちゃんによって受けた傷が、ヨリコちゃんによって癒されていく。
     頭がおかしくなりそうな夜だったけど、まだ眠りたくなくて。 ヨリコちゃんが寝落ちしてしまうまで、俺は延々とメッセージを作成し続けた。




      [#ここから中見出し]『第14話 そうだ青春忘れてた』[#ここで中見出し終わり]

     快晴に浮かぶ太陽が、じりじりと肌を焼く。 皮膚の表面にとどまる玉の汗が、沸騰してさらなる熱をもったような錯覚におちいる。
     蝉はどうしてこうもタフなんだろう。 太陽の熱に負けるのではない。 自らの命を振り絞って鳴き、燃え尽きるのだ。
     格好いいぜ。
     俺はフラフラと死にそうになりながら、駅前の横断歩道を渡った。
    「おっせーよソウスケー!」
     南国産のでかい木の陰から、金髪のギャルが手を招いている。
     ギャルに恥じない、肩の広く露出したミニ丈のワンピース。 太ももから足首までの見事な脚線が、色っぽく見るものを魅了する。
    「――だけどセクシーなだけじゃなく、腰のベルトに付いた大きなリボンがかわいいのアクセントになっている」
    「呼んでんのに何ファッションチェックしてんだおらー!」
    「ぅがっ!?」
     マオに真正面から体当たりされ、そのままムギュウと抱きつかれてサバ折りへと移行される。
     柔らかくて、暑っ苦しくて、天国と地獄の感情が交互に襲ってきて意識が遠のく。
    「ちが……っ、頭ぼーっとして、思ったことつい口に出ただけで……!」
    「なんだとー? こい青柳ー! おらソウスケ、青柳の服にも感想のべよー!」
    「よ、ヨリコちゃんの服……っ?」
    「え? なに、え!?」
     マオの暴走を止めようと、しかし割って入ることも出来ずヨリコちゃんはおろおろしていた。
    「そ、そとに緩くカールしたボブカットは今日もかわいいし、レースのブラウスも清楚でありながら、透け感がドキッとしてかわいい、で、デニムスカートってのがまた、かわいくてよく似合ってる。あ、あとキャップでボーイッシュさがプラスされて、これまたかわいいね……!」
    「てんめーわたしんときより詳細に語ってんじゃねー! かわいいかわいい連呼しすぎなんだよどこのコメンテーターだおらー!」
    「あががががが!?」
    「ま、マジでいろんな意味で恥ずいんだけどっ! みんな見てるじゃんもうやめなよっ!」
     背骨がみしみし悲鳴をあげた直後、マオの腕からフッと力が抜けて解放される。
    「みんな見てる……? 上等じゃん……ハァ、ハァ、ソウスケー。ここでべろちゅう♡ しよっかー?」
    「べ、べろちゅう……?」
     甘美な響き。 けれど悪魔の囁き。
     うっとり上気したマオの顔が、蜃気楼のようにぐんにゃりと歪む。
    「そ。濃厚なやつなー? ハァ、ハァ、注目してる男どもにー、ハァ、ハァ、プチ寝取られ気分を味わわせてやるんだよぉ……!」
    「て、テロだろそれは!」
    「いいかげんにしろッ! あんたら頭おかしいんじゃないのッ!?」
     実際おかしかった。 俺もマオもどうやら熱中症の一歩手前だったようで、ヨリコちゃんから強引にペットボトルの水1本をぶち込まれる。
     予定の電車をやり過ごし、涼しいネットカフェで一時間ほど横になってようやく回復した。


     そして電車の中。
     向かい合わせのシートに座って、ヨリコちゃんの手からカードを引く。 くそ、残り3枚から減らない。
    「……あんたらさぁ、駅でのこと。反省の言葉とか、そういうのないわけ?」
     スティック状の菓子をくわえたマオは、何食わぬ顔で俺の手からカードを引く。 引いたのはジョーカーだったんだけど、意外にもマオはポーカーフェイスをつらぬいている。
    「駅ー? なんかあったっけ、ソウスケー?」
     マオの手からカードを取ったヨリコちゃんの顔が、あきらかに引きつった。
     怒りのせいかもしれない。
    「えと……俺もよく覚えてないな」
    「ふぅん? ソウスケくんもそういうこと言っちゃうんだ?」
     うっすらと見下すようなヨリコちゃんの瞳。 めっちゃ怖い。
    「い、いや、その」
     しどろもどろする俺の眼前に、ヨリコちゃんがカードを突きつける。
    「左端。ソウスケくん、安全なのは左端だよ?」
    「え?」
    「信じてくれるよね? あたしのこと、あんなにかわいい、かわいいって言ってくれたんだし。ね?」
     うってかわってヨリコちゃんは満面の笑みだ。 よけい怖い。
    「あたしを……信じてくれないの……?」
    「……く……っ!」
     もはや選択肢なんて存在しないようなもので、ヨリコちゃんの手から左端のカードを引き抜く。
     舞い戻ってきたジョーカーは、結局それから俺の手を離れることがなかった。
    「やたー! ソウスケくん、よっわ♡」
    「ざーこざーこ♡ ソウスケはざーこ♡」
     罵られてる手前くやしがる振りはしたものの、ぜんぜんイヤな気分にならない。 JKの先輩から罵られる権利とか高値で落札されそう。
     トランプをしまって、他愛もない雑談に興じていたときヨリコちゃんのスマホがメッセージを受信した。
     ケンジくんかな……。
     まるで、俺の心の声に答えるかのように。
    「|風太《ふうた》、弟。ごめん、ちょっと」
     ショルダーバッグから携帯ゲーム機を取り出して、電源をオンにするヨリコちゃん。
    「へぇ、ヨリコちゃんゲームすんの? なんか意外だな」
    「あたしが遊んでやんないとさぁ、こいつ友達いないんだよね」
     身を乗り出して覗き込むと、俺も何度かやったことのあるゲームだ。
    「それ、協力プレイおもしろいよね」
    「え!? ソウスケくんやったことあんの!? ちょ、おしえておしえて! あたしこういう系ぜんぜんダメで――」
     ヨリコちゃんがいそいそと俺のとなりへ移動してくる。 ゲーム機を渡されるときに腕が触れ、それから、ずっと密着したまま俺がプレイする様子を眺めている。
     フウタくん。 会ったこともないけど、お礼がしたくてたまらない。
     この角度からヨリコちゃんを見ることなんてまずなくて。 うなじや横顔をさんざんチラ見したのち、ふと気になって向かい側に視線を移す。
    「あぁ~……わたしのソウスケがぁ……青柳に寝取られて……ハァ、ハァ……」
     マオは恍惚としていた。 放っといてもよさそうだ。
     だいたい寝てないだろ。 寝取られ寝取られ広義に使いすぎなんだよ。
    「……あは。“腕をあげたな姉ちゃん”だってさ。馬鹿め影武者だ」
     スマホのメッセージに微笑むヨリコちゃんは、まじでかわいかった。
    「――おー……はいゲームしゅーりょー。海きたよ海ー!」
     マオの言葉に車窓から外を見る。
     視界いっぱいに広がる水平線が、太陽を照り返して青く輝いていた。




      [#ここから中見出し]『第15話 最強彼氏の片鱗』[#ここで中見出し終わり]

     砂を踏む感触が楽しかったのも、最初だけだった。
    「はあ、はあ、はあ……」
     浜辺にパラソルを設置して、敷いたシートに座り込む。 素肌に羽織っただけのコットンシャツが、さっそく汗に濡れていくのがわかる。
     炎天下の作業はしんどい。 そもそも俺だけ荷物多すぎなんだよ。 熱中症で頭おかしくなったのも、これが原因じゃないのか?
     マオはもとから頭おかしいし。
     海の匂いがする風を深く吸い込み、口から吐き出した。 砂浜に寄せる波とたわむれる人々を見渡す。
     しかし、なんだ。 リア充のカップルばかりかと思ってたけど、意外と女子だけなんてグループも多いな。
     悪くない。 暑いことは暑いけど、潮騒と女の子のはしゃぐ声は耳にやさしい。 海なんて本当に久しぶりだし、あとでひと泳ぎするのが楽しみになってきた。
    「それにしても……遅いな」
     海辺の監視をつづける。 男だけの集団もいるにはいるが、いかにもナンパ目当てといった風情の者も目立つ。
     あ。ほら今もふたり組のチャラ男が女の子に声かけて――……あっけなく玉砕したようだ。 マオならよだれ垂らして付いていきそうなところが恐ろしい。
     まあ、さすがにヨリコちゃんや俺もいる中で、ナンパに乗ったりしないと信じたいが。
     出会いのひとつとして、別にいけないことじゃないよな……ナンパ。 気軽に声かけられるなんて羨ましく思う。
     行動しなきゃ何もはじまらないわけだし。 俺もこの夏休み、まさか女の子ふたりと海に来れるなんて思いもしなかった。
     それもこれも、行き当たりばったりとはいえ夏休み初日にショッピングモールへ出かけたからだ。 あれがなければ、こんな未来はなかったと断言できる。
    「……出会いか」
     ……ヨリコちゃんはケンジくんと、どんな出会いしたのかな。
     いつごろ出会って……。
     どうやって付き合って。 それから――
    「なーにたそがれてんのー?」
     背後からかけられた声に、待たされ過ぎた件の文句をひとつでも言ってやろうと振り向く。
     ひざに手をついて前かがみに、ニッと歯をみせて笑うマオ。 予想通りの人物なのに、焼けた肌と白いビキニのコントラストがあまりに鮮烈で言葉をなくす。
    「……たった?」
    「たつかッ!」
     即座に否定したものの、前かがみによって作り出された谷間は暴力的だ。 いつか写真でみた水着なのに、中身があるとこんなにも違う。
    「待たせてごめんねソウスケくん? ジュース買ってきたから!」
     差し出されたペットボトル。 それを握る白い手を、視線で上にたどっていく。
     首をかしげるヨリコちゃんのポーズに、どうしてか心臓が跳ねあがった。 ヤバい、なんかしらんが顔が熱い。
     だって俺が選んだ水着きて、チラッとみえた太ももにはちゃんとガーターリング付けてくれて。
     あーだめだ。 もっと心ん中でえろえろに解説してやろうと思ってたのに!
    「あの……ソウスケくん。今日はその、べつに見てもいいよ? こういうのって見せるために付けるもんだし……ちょい恥ずいけど」
    「あーむりむり。青柳ー、ソウスケは今さー? 男の子の生殖本能が刺激されてっから、まともに立つこともできんのだよー。そう、たってるから立てない! な?」
     もうこいつ最低!
    「俺泳いでくるっ!」
     まともに直視できなかったのも確かで、俺は波打ち際めがけてダッシュした。
     無我夢中で泳いで、そのあとはヨリコちゃんやマオと合流して、普通にバシャバシャ水をかけあったりして遊んだ。 なんの変哲もない水遊び。
     これがびっくりするくらい楽しかった!
     なんでかな不思議!
     ふたりの水着の刺激にも慣れて、昼には浜辺の屋台で焼きそばとかき氷食べて。 特筆すべきイベントも無さすぎて、ギャルゲーならスチルも用意されるかあやしい海での1日。
     これがガッツリ記憶として脳に刻まれた!
     夏休み最高!
     俺はこの日を生涯忘れないだろう。
     太陽もかたむいてきて、そろそろ帰る頃合いかな、なんてもの悲しく思っていたとき。
     フロートタイプの浮き輪に乗って波間をただよう俺のもとへ、マオがスイーッと音もなく近づいてくる。 ヨリコちゃんは、パラソルの下で荷物を片付けはじめているようだ。
    「ねーねー? ソウスケに提案があんだけどさー」
    「どした? 浮き輪つかう?」
    「青柳のこと寝取っちゃいなよ」
     バランスを崩して海へ落水してしまい、海水をしこたま飲んだ。 あわてて水面から顔を出し、口と鼻から海水を噴出する。
    「げえっほ! げほっ! げほっ! ぇげっ……」
    「青柳のこと、寝取っちゃいなよ」
    「なんで2回言うんだよ!? 状況みろよっ! 死にかけてんだぞ!?」
    「だって大事なことじゃん。好きなんでしょー?」
     けろっとした顔で言うマオに、ため息を返した。
    「んなわけないだろ。彼氏持ちってだけで対象外だよ」
    「かわいいかわいい言ってたくせにー?」
    「かわいいからって好きになるかよ。だいたいかわいいってだけなら――」
    「んー?」
     マオだってかわいい。 中身がまともならぜひお付き合い願いたい。
     だけどやっぱり対象外なのだ。 偉そうな物言いになっちゃうけど……。
    「あーあヘタれだなソウスケはー。|天晶《あまあき》より応援してやんのになー」
    「天晶ってたしか、ヨリコちゃんの彼氏の――」
     ケンジくんの名字がそうだったはず。 いつかのバイト帰り、ヨリコちゃんから聞いた覚えがある。
    「わたし、あいつ苦手なんだよねー」
     誰とでも仲良くしてそうなマオにしては、めずらしい発言だと思った。
    「へえ……どんなひと? ケンジくん」
    「やっぱ気にしてんじゃーん?」
    「ちが――っ、ただ聞いただけだろ!?」
     マオは目線を空に、人差し指で唇をとんとん叩きながら。
    「そうだなーひと言でいえば……完璧?」
     完璧? なんだそれ、妙に鼻につく形容だ。
     それこそ鼻で笑う。
    「……ハッ。完璧な人間なんてこの世に――」
    「|完璧じゃない《・・・・・・》|とこも含めて《・・・・・・》、完璧なんだよ――あいつ」
     やれやれと首を振りつつも、マオの声音は真剣そのものだった。
     相手がマオだからこそ、冗談めかさずにそんなこと言われると、俺はなんて返していいのかわからなくて。
    「天晶といると光堕ちしちゃいそーでさー? わたしはソウスケみたいにー、いっしょにドロドロどこまでも堕ちてくれそな男の方がー……」
    「いつどこで俺にそんなイメージついたんだよ!」
     聞くまでもなく俺んちでの妊娠報告のときか。 やっぱり全部ヨリコちゃんのせいだな。
     俺は軽く、マオのおでこにチョップする。
    「帰ろっか。体も冷えてきたし」
     ケンジくんがどんな人物だろうと、俺にはまるで関係ない話だ。
     今の話で目が覚めた。 最近の俺は、ヨリコちゃんにマウント取られすぎな気がする。
     ちょっと俺より歳上だからって舐めるなよ。 いつまでもデレデレするだけの俺じゃない。
    「あーやっと戻ってきた! だいたいの荷物はまとめたから。ほらマオ、その浮き輪もつぶすよ?」
    「青柳ー、ほいパース」
     水着の上からTシャツを着たヨリコちゃんは、下には何も履いてない部屋着スタイルにも見える。
     だけどその太ももには、まだガーターリングが装着されたままで、俺は。
     彼氏持ちの女の子に、なんか俺という存在をマーキングしてるみたいな――そんな倒錯したキモい思いにとらわれてしまった。
    「……ソウスケくんさぁ。えろい顔しすぎ。スケベオヤジの目じゃんそれ」
     その通りで言葉もない。
     でも見せるために付けたから今日は見ていいって言ったよね!? 言っただろ! くそっ!
     海で最後に眺めた夕日は、とても目にしみた。




      [#ここから中見出し]『第16話 なぜ存在するのかわからない日』[#ここで中見出し終わり]

     登校日だ。
     今日び、登校日なんかやってんのうちの高校だけじゃないの?
     懐かしさすら覚える制服に袖を通して、オーブントースターが焼き上げたパンを食べる。 食器を流しにつけたあと、誰もいないリビングに「いってきます」とあいさつして家を出た。
     エレベーターで階下におりながら、半袖シャツの境目でくっきり濃淡が分かれた腕を眺める。
     けっこう焼けたもんだな。 これは目立つし、クラスでもちょっとした話題となるに違いない。
     強い日差しを覚悟してマンションのエントランスを出るも、空は曇っていた。
     傘――取りに戻る時間はないな。 まあいいか。それよりクラスで詮索されたときのシミュレーションでもしとこう。
     たぶん“うわ、めっちゃ焼けてんじゃんどっか行ったの?”と聞いてくるやつがいるはずだから。
    “まあ、ちょっと海にな”“いやひとりじゃ行かねぇよ”“先輩と……つうかまあ、女の子ふたり?”“彼女じゃねえって。あ、ひとりは元カノか”“はいはいこの話は終わりな! それより甲子園の話しようぜ!”
     これだな。 さりげなく甲子園の話題に変えて、周囲の女子に硬派さをアピールするのがポイントだ。
     そういやヨリコちゃんもマオも同じ学校なんだっけ。 まいったな。 廊下とかで話かけられて、クラスメイトに噂されるの恥ずかしいんだが。
     詩織系男子だからなぁ……。


     教室でホームルームを受ける。 担任が次は体育館に集合するよう告げて、教室を出ていく。
     空気がゆるみ、雑談に興じるクラスメイトをあらためて見渡した。
     みんなめっちゃ日焼けしてるーっ! 海行ったとか、恋人できたとか、そこかしこから聞こえてくるし! リア充ばっかじゃねえかうちのクラス!
     クラスで1番かわいいけどめちゃくちゃ物静かな|水無月《みなづき》さんと、クラス1陰キャで呪術関連の本読みまくってる|魚沼《うおぬま》くんが付き合ってるらしいって話が1番驚いたわ!
     呪術か? 呪術使ったんか!? おまえらの物語おしえてくれよ面白そう!
    「……はぁ」
     何もかもが虚しい。 所詮俺なんて井の中の蛙。 大海を知らず。
    「おーいソウスケー」
     誰だよ気安く人の名前呼ぶやつは。 ぶしつけなやつだな。
    「あ、いたいた。おらソウスケー! 机から顔あげろー!」
     教室がざわめきだして、何事かと顔をあげる。 廊下側の窓から身を乗り出して、マオが俺に向けて手招きしていた。
    「え、あれ獅子原センパイじゃね?」「やべ、めっちゃかわいい」「3年だよね? なんで弓削くんに?」「しかも名前呼び……」「獅子原先輩が弓削に用事だって」「あのいつも何考えてるかわかんねえ弓削に?」
     おい最後のやつ、それ悪口だよな? おまえの名前とか俺も知らないけど、顔は覚えたからな!
     とはいえ当初の予想を超える展開が訪れた。 俺は若干の優越感を覚えながら、教室の扉へと歩いていく。
    「お、おいおいなんだよマオ? クラスまで来られちゃ俺が目立って――」
    「あー? 調子のんな一年坊主!」
    「あ痛たっ!?」
     マオから尻に蹴りを入れられた。 教室のざわめきが大きくなる。
    「やだ蹴られてる……」「かわいそう」「いじめかな?」「でも弓削くんタメ口だったし、ほんとは仲良いんじゃない?」「マオって呼んでたよな」「もしかして付き合ってる!?」「あの授業中いつも消しゴム彫ってロボット作ってる弓削が?」
     おい最後のやつ! いいじゃねえか好きなんだよロボットが! アートだろアート!
     とはいえ当初の予想と違った盛り上がりをみせてきた。 こんな注目の浴びかたは恥ずかしい。
     小声でマオに聞く。
    「……で、いったいなんの用だよ?」
    「ちっとツラ貸してくんないー?」
     いやな誘い文句だ。


     マオに連れられてやってきたのは、一階の踊り場付近にある自動販売機の前だった。
    「財布わすれちゃってさー? 500円貸して」
     カツアゲだわこれ。
    「なあ、なんでさっき蹴ったの?」
     金を借りるやつの態度じゃないよね。 俺が差し出した硬貨を受け取ると、さっそくマオはジュースを買って一気にあおる。
    「――ぷはあっ。生き返った~。やっぱ持つべきはいい後輩だようんー」
    「なんでさっき蹴ったの? ねえ?」
     マオはジュースの缶をゴミ箱に投げ入れて、へらへらと笑う。
    「まあそんな怒んないでー? 制服姿のわたし見れて幸せっしょ?」
     夏休み中は露出激しめの私服しかみてないから、新鮮ではあるかも。
     挑発するようにスカートの両端を指でつまむと、マオはうっすら目を細めて短いスカートを持ち上げていく。
    「ほらほらー。お礼にスカートめくってもいいんだよ~?」
     あと少し……もう少しで見えそう。 水着はさんざん見たってのに、布面積はそれほど変わらないってのに、どうして男ってやつはパンツに弱いんだろう。
     だがあの海の日以来、女子の足やスカートに目が奪われると、蔑むようなヨリコちゃんの視線を思い出してしまうのだ。
    「くっ……そんなもんで、俺を言いなりにできると思うなよ?」
    「そっかぁ残念!」
     マオはあっけなくスカートから手を離した。
     え、もう終わり? もう少し粘って俺を説得してくれよ!
    「やっぱソウスケは、青柳じゃないとダメなんかなー?」
     ステップを踏むように回転し、マオは自販機でまたジュースを買う。
    「またその話かよ。ていうかまだ飲むの?」
     おしっこ近くなるぞ。
     自販機の取り出し口からスポーツドリンクを掴み出したマオが、下手投げのそぶりをみせた。
    「――ほい。あげるー」
    「え……ありがとう」
     放物線を描くジュースをキャッチする。 缶ジュースのふたを引き開けつつ、やさしい……なんて一瞬思っちゃったけど俺の金だったわ。
    「ま、今日は青柳に近づくのやめときなー? あいつ天晶に会えるのめっちゃ楽しみにしてたからさー?」
    「ふぅん。べつに近づきゃしないけど」
    「脳が壊れちゃうもんねー」
     壊れるわけない。 だけど俺なんかが話しかけて、よからぬ噂たてられても悪いしな。 素直に忠告は聞いとこう。


     学校は10時には終わり、俺はいち早く帰途につく。 校門を出て、すぐの壁沿いにしゃがみ込む女の子とエンカウントして足が止まった。
    「――ぅくっ……ひ……ひぐっ……ゔえぇ……」
     だってヨリコちゃんがガン泣きしてた。
     予想だにしなかった事態に、思考停止したままオロオロと見守る。
     え、なんっ……ええ……?
     生徒が校門をぞろぞろ出てきた。 こんなとこに屈んでいたら、好奇の視線にヨリコちゃんが晒されて――
     ひとまずヨリコちゃんの正面に立ち、衆目から丸見えのパンツを死守する。 急いでポケットをまさぐり、引きずり出したハンカチを押しつけるように渡した。
    「つ、使ってそれ。あと立った方がいい」
     気まぐれにハンカチを忍ばせるなんて、普段なら2割がいいとこなのに。 運がよかった。 今度からはちゃんと持ち歩こう。
    「ソウ、スケくん……?」
    「鼻かんでもいいし、返さなくてもいいから」
     そそくさ立ち去ろうとしたところ、シャツの裾をキュっと力なく掴まれた。
     ヤバい、周囲の生徒からチラチラ見られてる。 ケンジくんやふたりの関係性を知る人物に見られたら、ヨリコちゃんの立場が悪くなる。
    「よし、わかった。ひとまずここを離れよう、いい?」
     こっくり頷くヨリコちゃんの手を引いて、俺は学校から離れていった。


     商店街を歩く。 ヨリコちゃんは俺の少しうしろを、俯きがちについてくる。
     こういうとき、何があったか聞くべきなんだろうか。 それとも気を利かして他の話題でも振るべきなのか。 俺には圧倒的に経験値が足りない。
     ……でも、なんか苛々するな。
     どこが|完璧《・・》なんだよ。
     完璧ならヨリコちゃん泣かすなよ。 おまえが泣かせたんじゃないにしろ、あんなとこで放ったらかしにするなよ。
    「……彼氏となんかあった?」
     つい、口をついて出た。
    「あ……う、ううん、そうじゃない……ちがうの、あたしが勝手に、ね?」
     さっぱりわからん。 だけどケンジくんを庇うような言い回しに、ますます感情が刺激される。
    「ちがうってことないんじゃない? だってあんなに泣いて――」
    「も、もうおしまい! この話は終わりにしよ? ね? ね? ホント迷惑かけちゃって、ごめんねソウスケくん」
    「べつに、迷惑なんかじゃ……」
     それ以上の言葉が続かない。 続けられない。
    「な、なんかお腹すかない? あたしおごるからさ、いっしょ食べよ。は、ハンバーガーでいいかな?」
     だって追及して欲しくなさそうだから。 ヨリコちゃんの意思を無視して振る舞う、そんな権利が俺にはない。
     そう、あるわけがないんだよ。
     すっかり立場が逆になってしまい。 うなだれた俺は、ヨリコちゃんに先導されるままハンバーガーのチェーン店に入った。
     ひと通りのセットを注文して、レジでかばんをまさぐっていたヨリコちゃんが硬直する。 顔は真っ青だ。
    「……ごめ……あたし……財布忘れて……」
    「……いいよ。俺出すから」
     な? バイトしといてよかったろ蒼介。 急な出費が続いても、こうして耐えられるんだ。
     世の中に無駄なことなんて、何ひとつないよな。




      [#ここから中見出し]『第17話 第4次寝取られ報告相談会』[#ここで中見出し終わり]

     案の定というか、期待を裏切らないというか。
     風呂あがりに自室でタウン情報誌を読んでいると、スマホが着信音を鳴らした。
     液晶画面には【NTRヨリコ】の文字。 俺とは電話だけの関係性を築いている、口の悪い歳上の女の子だ。 猫をかぶらない、ヨリコちゃんの本性ともいう。
     前回、また相談してきそうな雰囲気だったしな。 昼間の出来事を考えると、予想しなかったこともない。
     でもとりあえず読みかけのタウン誌をめくる。 花火特集か。 夏休みの目標としては、夏らしいことをもうひとつくらいしておきたいところ。
     着信が止む気配はないので、仕方なくボイスチェンジャーのアプリを起動した。 通話表示後、スピーカーへ。
    『――さっさと出ろよマジで……――あ。き、今日は有名店のパティシエとさぁ、み、三ツ星ホテルのスウィートルームで――』
    「もういいからそれ」
     寝取られ報告から入らないと自我が崩壊してしまうのか? しかもさりげに浮気相手とホテルをグレードアップしてんじゃないよ。
     さすがヨリコちゃんだと感心する。 落ち込んでいても自分の価値は決して下げない。
    『――……あのさ、ケンジくんが』
    「ケンジくんが?」
     いきなり本題に入るんだな。 帰りがけに“俺”が聞いたときは、慌てて誤魔化したくせに。
    『――あのね、ケンジくんって、幼馴染がいるんだけど……女の子の』
    「この世に幼馴染の女の子って実在すんの?」
    『――は? するよ。バカじゃん?』
    「切っていい?」
    『――だめッ!』
     寝取られダブルピースする女の子もいたことだし、幼馴染の女の子くらい実在しても不思議じゃないか。
    「……それで?」
    『――……うん。今日はあたしと、遊びいく約束してたんだけどさ……その子が、熱出しちゃったみたいで』
    「ああ、約束が流れたと?」
    『――そう』
     なんだそんなことか。 と、言うのは簡単だが……。 ヨリコちゃんにとってケンジくんがどんな存在なのか、自分の価値観で語れるほど俺は知らない。
    「浮気を疑ってるわけじゃないんでしょ?」
    『――ケンジくんはそんなことしない! ……そっち優先なのは、やさしいから』
    「そりゃ幼馴染からしたら、やさしいんだろうな」
    『――あ、あたしにだってやさしいもん!』
     のろけてんじゃねえ。 そんなの知ったことか。
    「だったらしょうがないだろ。幼馴染が熱出しても放ったらかして、ヨリコちゃんとデート楽しむ彼氏だったら好きになってた?」
    『――それは……そう。わかってるよ、べつにケンジくんを責めてるわけじゃなくて、ただ、悲しくなっただけで』
     よく考えたら、なんで俺がケンジくんをフォローせにゃならんのだ。 貸しにしとくからな、ケンジくんよ。
    「――困ってたら、だれでも助けたがるような人だから。これから先も……こんな思いすること、何回もあるのかなって……」
     ヒーロー気質だなぁ。 それで彼女泣かせちゃ世話ないぜ。
     わかってんのかケンジくん? こんなどこの馬の骨ともわからん奴に相談するほどに、ヨリコちゃんは傷ついてる。
    『――あ、そ、それでね? 前に話した後輩の男の子に、その、みっともないとこ見られちゃって』
    「……いや、みっともないとは思ってない。――と、思うよ?」
    『――そうかな!? でも、顔もぐちゃぐちゃだったし』
    「鼻水出てたな」
    『――出てない! 見たようなこと言わないで! ……あ、で。ご飯とかもおごってもらっちゃって……なにかお礼、したいなって思うんだけど』
     べつに礼なんかいらないけど。
     ふと、タウン誌のページをパラパラとめくる。
    「これだ……!」
    『――どれよ?』
    「夏祭りに誘ってやるのは? 彼女と別れて遊ぶ相手もいないんでしょそいつ」
     自分で言ってて虚しくなった。
    『――祭り? あー、最後に花火あがるの、8月後半にあるよこっちも。……ケンジくんは行けないし、忘れてたわ』
     つくづく可哀想な彼女だな。 ケンジくんと夏休みの思い出、ひとつも作れてないんじゃないか?
     それもこれも難関な受験のため、か。
    『――でも……そんなんで喜ぶかなぁ……?』
    「喜ぶ喜ぶ。そいつ、イベントごと大好きなやつだから。俺の勘がそう言ってる」
    『――うーん……じゃあ、ちょっと考えて――あっケンジくんから着信!? 切るわバイバイ!』
     慌ただしく通話が切られた。
    「…………」
     スマホを机に投げる。
     そうだ、それでいいんだよケンジくん。 人はだれもが間違う生き物だ。 大事なのは間違えないことじゃなく、間違えたあとにどう行動するかだ。
     恋愛だって同じだろ。 彼女を泣かせちゃったなら、アフターフォローしっかりな。
     彼女とか1日しかいたことないけど。

    ◇◇◇

     次の日、バイト先でヨリコちゃんは元気ハツラツだった。
    「き、昨日はごめんね! な、なんか恥ずいとこ、見せちゃって」
     後ろ手に身をくねらせて、ヨリコちゃんが上目遣いにこっちをうかがう。
     電話じゃ猫かぶってないから、もっと恥ずかしいとこいっぱい知ってる。
    「まあ、元気になったならよかったよ」
    「うん、ありがと。それでね? よ、よかったら今度――」
     き、きた! 打った布石が、見事に実る瞬間が!
    「マオと勉強会やんだけど、その、ソウスケくんもよかったら来ない?」
    「え……? あ、はい、行きます」
     なんでだよ夏祭りの話はどこいったんだよ!?




      [#ここから中見出し]『第18話 ヨリコちゃん家リポート』[#ここで中見出し終わり]

     勢いで行くとは言ったものの、高1の俺が高3の勉強会とやらに参加して邪魔にならないのかな?
     まあ、誘われた側だし。 勉強教えてもらえるなら助かるけど。
     夏の昼は長い、とはいえもう夕暮れだ。
     洋菓子店の紙袋を手に、商店街のアーケードを歩いていると、向かい側から小走りに手を振るヨリコちゃんを確認した。
     大きめのTシャツをフレアな短パンにインして、キャップとハイカットのスニーカーが活発な女の子って感じでかわいい。
     毎度毎度、格好はどストライクなんだよな。
    「ご、ごめんね、少し遅れた?」
    「いや、ちょうどだよたぶん。買い物してたの?」
     ヨリコちゃんの手に提げられたエコバッグは、けっこうパンパンに張って重そうだった。 わりと使い古されてみえるエコバッグに、普段の等身大なヨリコちゃんを垣間見てなんだかドキドキしてしまう。
    「あー……うん。ちょっと買いすぎちゃったかも。ソウスケくん、肉じゃが好き?」
    「え? 好きだけど。それ、持つよ」
    「ありがと。……ふぅん? なんだかんだ男の子、なんだねぇ?」
    「なんならパンツ脱いで確かめる?」
    「秒で男の子からオッサンになったね」
     男の子とおっさんの中間くらいで、なんとか認識してもらえないもんだろうか。 繊細な年頃なんだよ俺は。


     閑静な住宅地。 そんな表現がぴったりな一画にある、二階建ての一軒家まで案内された。
     表札には青柳とある。
    「そうそう、マオはちょっと遅れるって。まぁ上がってよ」
    「……おじゃまします」
     玄関に入った瞬間、俺の家とはちがう匂いに少し緊張する。 棚に置かれた綺麗なボトルのリードディフューザーだかが、シトラスっぽい香りを振り撒いている。
     洒落てる。 なんとなく予感はしてたけど、ヨリコちゃんって“良い家の子”だったんだな。
    「フウタ――弟もめずらしく友達と遊び行っててさ。帰り遅くなるらしくて。あ、こっちリビング。ソファにでも座って?」
    「へえ、友達と。それはよかったね」
     ゲームで仲良くなったのかな。 一応もしものために、こないだ電車で遊んだゲームは復習しといたんだけど。
     リビングに入ったとたん、エアコンの冷気に迎えられて目を細める。 ふかふかのソファにおっかなびっくり腰かけると、すぐにヨリコちゃんが麦茶入りのコップを出してくれる。
    「ちょっと汗かいちゃったから、着替えてくんね? てきとうにくつろいでてよ」
    「あ、そうだこれ。れもんケーキ」
    「え、マジで!? ありがとう! あとでみんなで食べよ?」
     洋菓子店の紙袋を受け取ったヨリコちゃんは大げさに喜んで、俺に手を振りながらリビングを出ていった。
    「……ふぅ」
     ここがヨリコちゃんのハウスか。 なんだか落ち着かないな。
     気をまぎらわせようと、広めのリビングを見渡す。
     テレビでけえ。 なんかの賞状とか、トロフィーとか。 いくつかある写真立ては、ここからじゃよく見えない。
     洋酒がディスプレイされた棚はお父さんのかな。 陶器みたいな人形の収納棚は、お母さんの趣味だろうか。
     あれ。 ヨリコちゃんの両親のこととか考えると、ますます緊張してきた。 場違い感が半端ない。
     ご両親はきっと、娘が夜な夜な、男に寝取られ報告の電話かけてるなんて知らないんだろうな。
     どうしてそんなねじ曲がってしまったんだ。
     ぺたぺたとフローリングの床を踏む足音が聞こえてきて、リビングのガラス戸が開く。
    「お待たせ。あ、漫画とか読んでていいよ」
     俺は絶句した。 タンクトップにホットパンツという刺激的な部屋着姿に、ヨリコちゃんが変身していたからだ。 生足――もとい素足は海でも見たけど、屋内で見るソレとはまた趣がことなる。
    「よ、ヨリコちゃん。今日、ご両親は?」
    「え? ふたりとも旅行でいないけど? 毎年この時期は定番なんだよね、結婚記念日」
     俺ら以外だれもいないじゃねえか! ふたりきりでその露出はだめだろ!? 無防備すぎる! なに考えてんだ!?
     もしお父さんの立場だったら、もう、もう――!
    「えと、1時間もかかんないと思うから」
     俺の心の慟哭も知らず、テキパキとエプロンを身につけはじめるヨリコちゃん。 格好のせいか正面から見ると、まるで裸エプロンしてるみたいで思わず麦茶を一気飲みする。
     錯覚だおちつけ。 おちつけ――。
     リビングの奥にあるキッチンで、ヨリコちゃんが何やらトントン切ったり炒めたり煮込んだりしてる間。 少女漫画を読む俺の手はずっとカタカタ震えていた。




      [#ここから中見出し]『第19話 モラルハザード』[#ここで中見出し終わり]

     時間の経過は覚えてない。 少女漫画の内容も覚えてない。
     とにかくテーブルにお呼ばれしたので向かうと、肉じゃがにご飯、味噌汁にお新香と純な和食が食卓に並んでいた。
    「たいしたものじゃないけど……お礼……的な? 冷めないうちに食べちゃってよ」
     はにかんで笑うヨリコちゃんを呆けたように眺めて、ハッとよこしまな感情を抱いた自分を恥じる。
     ヨリコちゃんは純粋な気持ちで準備してくれたというのに、俺ってやつは。
     何が夏祭りだ。 俺の提案なんかより、ヨリコちゃんが一生懸命に考えてくれたお礼の方がよっぽど尊い。
    「……いただきます」
     手作りの料理はどれも温かくて、じんわり心にしみいるうまさだった。 ふいに鼻の奥がツンとなって、誤魔化すように飯をかき込む。
    「おいしい……! まじでうまいよこれ! ぜんぶ!」
     きっとヨリコちゃんのこと、俺はずっと誤解してたんだ。 だってこんなに家庭的な女の子だぞ。 寝取られや浮気なんてただれた行為とは無縁の、無垢な天使みたいで――。
    「あ、ソウスケくん」
     俺の頬に手を伸ばして、つまんだご飯粒を指ごと自分の口にパクッとくわえるヨリコちゃん。
    「ご飯つぶ、ついてたよ?」
     それ恋人同士でするやつッッ!
     なんだよ誘ってんのか!? 誘ってんだろ!? この小悪魔め!
     いいだろう乗ってやるよ! おまえの上に乗ってやる!
     お望み通りに寝取って、身も心も堕とし尽くしてケンジくんに報告してやる――!
    「あはは。……マジで弟みたい」
     本日2度目のハッとなって我に返る。
     弟……。
     そっか、こうして家に招き入れるのも。 ふたりきりなのに薄着になれるのも。 ご飯粒パクッなんてできるのも。
     ヨリコちゃんにとって俺は弟どうぜんで、危険な存在として認識できないから。
     前にも言われたことだ。 そんなのわかってたはずなのに、何をひとりで暴走してんだ俺は。
     ヨリコちゃんを前にすると、俺の心はもうぐちゃぐちゃにグロくなる。 感情の振れ幅がジェットコースター。 吐きそう。
    「もう、またついてるし」
     それからは、なすがままだった。 どんだけがっついてご飯食べてたんだってくらい、口のまわりについたご飯粒を何度もつまんではパクつくヨリコちゃん。
     さらには、なぜか落ち込む俺の頭を、理由もわからないくせによしよしと撫ではじめる始末。 ついに母性まで手に入れ、ヨリコちゃんは無敵と化した。
     あきらかに異常な空間でエアコンの駆動音だけがブー……ンと微かに存在を主張している。
     なんだ……これは。 俺はどこか他人事のように、現状を客観視する。
     これもまた、ヨリコちゃんのひとつの本性か。 たぶん自宅という絶対の安全圏がもたらすゆとりが、こんな大胆な行動を引き起こしている。
     自覚はないのかもしれない。 あるいは彼氏にかまってもらえない寂しさを、無意識に補おうとしてるのかもしれない。
     そして、何よりも。
    「ヨリコちゃん、フウタくんって歳いくつ?」
    「14……だから中2かな。なんで?」
     いつも中2の弟にこんなことしてんの!? フウタくんの性癖歪んじゃってんじゃないの!?
     考え込む俺の頭を、またヨリコちゃんが撫でり、撫でり。
    「んー? ソウスケくん、どちたんでしゅか?」
    「…………は?」
     聞き違いか?
     ヨリコちゃんの大きな瞳をまじまじのぞき込んでいたら、コンロに点火するみたいにわかりやすく顔面が紅潮した。
    「え……まじ?」
    「いまのはちが……っ、ちょっ、噛んで……!」
    「中2の弟に幼児ことば使ったりしてんの!?」
    「してないしてないぜったいしてないッ!!」
     属性てんこ盛りにしてくんじゃねえよ! こいつまじで俺をどうしたいんだよ頭がパンクしそうだ!
    「ほんとっほんとにちがうからっ! ただなんか寂しそうだし頭なでさせてくれたし抵抗しなかったしかわいいなってかネコみたいだったからそれで!」
    「めっちゃ早口でしゃべるじゃん!? きっつ! 俺、愛玩動物とかそんなんじゃないからっ!」
    「姉貴……?」
     今日3回目はヨリコちゃんとふたりして、ハッとリビングを振り返る。
     ガラス戸に手をかけたまま、髪の毛で片目を隠した弟らしき少年と、ニコニコ顔のマオが並んで立っていた。
    「やーそこで青柳の弟とバッタリ会ったからさー、あげてもらったんだけどー……」
    「……てめぇ……よくも……家まで……」
     怒りのためか声を震わせ、フウタくんと思しき少年が拳を握り込む。
    「ひとの姉貴になに言わせてんだっ! 恥を知れよケンジィーーッ!」
    「ちがっ!? ちょ待ってくれ俺ちがうんだよ!?」
     必死に呼び止めるもフウタくんはリビングを飛び出していった。
     ヨリコちゃんは真っ青になって頭を抱えるのみでクソほどの役にも立たない。 せめて弁解してほしかった。
     思春期の少年にとって、幼児ことばを使う姉を見るとかどんな拷問より耐え難いはず。 フウタくんの心情は計り知れない。
     助けを求めて、マオを仰ぎ見たものの。
    「どーぞどーぞ。ちゅぢゅけてー?」
    「あおってんじゃねえよくそっ!」
     ともかく、フウタくんの俺への第一印象と、姉の威厳が粉々に砕け散ったのは言うまでもない。




      [#ここから中見出し]『第20話 学生の本分は置いておく』[#ここで中見出し終わり]

     針のむしろ、とはこのことだ。
     ゆったりと過ごせるソファタイプのダイニングテーブルなのに、俺もヨリコちゃんも背すじをピンと伸ばして座っている。
    「だ、だからね? この人はケンジくんじゃなくて、バイトの後輩の弓削蒼介くん」
    「はじめましてフウタくん! 気軽にソウスケって呼んでくれよな!」
     さわやかに挨拶するも、フウタくんは目も合わせず空になった茶碗を置いた。
    「……で? コイツ姉ちゃ――姉貴の浮気相手?」
    「そんなことしないからっ! ほら、あたしが海行ったときあったでしょ? フウタとゲームで遊んでくれたのこの人だよ!?」
    「ゲーム? ……ああ、あのヘタクソ」
    「フウタくんはうまいよなゲーム! よかったら俺にも手ほどきしてくれると嬉しい!」
    「……風呂はいってくる」
     やはりそっぽを向いたままで、フウタくんはクールにリビングから去る。
     残された俺とヨリコちゃんは交わす言葉もなく。 唯一、ベッドタイプのソファにうつ伏せて少女漫画を読んでいるマオだけが、げらげら笑い声をあげている。
     その漫画、こてこてのラブロマンスだったけど笑いどころあった?
    「ご、ごめんねソウスケくん? あの子、いつもはもっと――……や、まぁ、いつもあんな感じなんだけど」
    「いや、気にしてないよ」
     お年頃だしな。 俺だって中2の頃なんて振り返りたくもない。 それよりせめて、もろもろの誤解だけは解いておきたいもんだけど。
    「マジこれうめー。青柳ー、つぎ7巻取ってー?」
    「それより勉強は!?」
     ヨリコちゃんの突っ込みで思い出す。
     そうだった。 俺たちは今日、勉強会という名目のもと集まったのだ。
     俺の土産であるれもんケーキをパクつきながら、漫画を読んでいたマオも足のパタパタをやめる。
    「……しゃーねー。青柳にベンキョ教えるって約束だもんなー」
    「……は?」
     聞き違いか? 最近、どうも耳が遠くなってるのかもしれない。 難聴になってしまったら、女の子からの告白を聞き逃してしまう。
    「んだよソウスケー?」
    「えっと。マオが教わる側なんだよな?」
    「あ、あのね、マオってつねに学年で10番以内には入ってるから……テスト」
     ヨリコちゃんの言葉が信じられず、ソファであぐらをかくマオをまじまじと見つめる。 パンツみえそう。手が邪魔。
    「やぁん、そんなみないでー? いけないベンキョ教えたくなっちゃうー♡」
     寝取り寝取られの勉強ならけっこうです。
     童貞の俺にやさしいギャルで勉強もできるとか、こいつ無敵かよ。 彼氏持ちダウナーで幼児ことば使いな先輩JKと、どうしてこんなに差がついた。
     いや……甲乙つけがたいな……? 性癖の広がりに、俺も成長しているのだと実感する。
    「じゃあヨリコちゃんの学力は――」
    「聞かないでくれる?」
    「あ、はい」
     絶対に立ち入るなという圧を感じたので、口をつぐんだ。 あ、もしかして勉強教わる理由って。
    「ケンジくんと同じ大学に――」
    「いけるわけないじゃん!? こんな夏休みにちょこっと勉強しただけでいけるわけないじゃん医大なめてんの!? あと聞かないでって言ったよね!?」
    「すみませんごめんなさい!」
     尋常じゃない剣幕だった。 頭を撫でてくれた母性はどこに捨てたんだ。
     学力はヨリコちゃんのコンプレックスなのかもしれないな。 突っつくのはやめとこう。
    「ふぅ……じゃ、食器片付けるね?」
    「お、俺も手伝うよ、ヨリコちゃん」
    「わたちは漫画読んでましゅねー」
     抱えた食器をカチャカチャと震わせ、ヨリコちゃんが耳の先まで赤くそめる。
     なるほど、教わる立場だから逆らえないんだな。 かわいそうに。


     勉強できるというだけあって、マオの指導はとても理解しやすかった。 間延びしたタメ口も、お堅い雰囲気を緩和するのにひと役買っている。
     日焼け肌のギャル教師――イケんじゃね? 家庭教師してくれたら張り切れそう。
    「あそこも張り切っちゃうー?」
    「そんなこと考えてないけどっ!?」
     サトリかよ。 怖えー。
    「ねぇマオ、ここ……」
    「んーどれどれー?」
     しばらく、シャーペンの走るカリカリという音だけがリビングに響く。 いい感じの静寂は、突如として開いたガラス戸にやぶられた。
     スウェットパーカーの黒いフードを深くかぶった風呂あがりのフウタくんが、リビングの出入り口で仁王立ちしている。 そしてぼそり。
    「……こいよソウスケ。相手になってやる」
    「え?」
     ケンカ? 姉に対する倒錯した想いがついに爆発して、浮気相手と勘違いしている俺に憎悪を向けたのか?
    「あーごめんソウスケくん。よかったらちょっと相手してやってくんない?」
    「えーなになに? わたしもいこっかなー」
    「だめッ! マオはここにいて!」
     俺は戦力外通告されたらしい。 わけがわからないままヨリコちゃんの頼みにしたがい、フウタくんとリビングを出る。
    「……2階、そこでタイマンだ」
     ゴクリと唾を飲み込んで。 うす暗い階段をフウタくんにつづいてギシギシあがった。 いちばん手前の部屋へ招かれ、中へ入る。
    「おお……これは……」
     黒を基調としたゴシック風のインテリア。 西洋剣と円盾が壁の目立つ位置に飾りつけられ、スカルやクロスといった数多くのシルバーアクセも確認できる。
     本棚は洋書で埋まってるし。 あとヴィレヴァンにありそうな小物がたくさんある。
     フウタくんが手もとのリモコンを操作すると、照明が青く室内を照らした。
     どれもこれも、けっこう値が張るはずだ。 やっぱ良い家の子だよな、ちょっとうらやましい。
    「ハッ……キョドりやがって。今さらビビっても遅ぇかんな?」
     部屋の奥には大型のモニター。 ゲーミングチェアに腰かけたフウタくんが、俺にコントローラーを差し出す。
     すでにゲームは起動してるようで、俺でも知ってる某人気格闘ゲームのタイトル画面がモニターに映し出されていた。
     まあ、こんなことだろうと予想はしてた。
    「秒でキメてやんよ、ソウスケェ……!」
     なるほど、こいつ厨2だな?
     てかなんで格ゲーなんだよ。 俺が復習してきた協力プレイが売りの狩りゲーやらせてくれよ……。
    「なあ、俺が勝ったらいっこ聞きたいことあるんだけど」
    「聞きたいこと? ……万にひとつも可能性はねぇけど、いいぜ? なんでも答えてやんよ」
    「よーし」
     言質はとった。 たとえヨリコちゃんの弟でも容赦はしない。
     ボコボコにしてケンジくんの秘密を暴いてやる。




      [#ここから中見出し]『第21話 寝取られ報告最終回』[#ここで中見出し終わり]

     モニターに大きく表示されるK・Oの文字。
     これで15戦連続敗北。 ちなみに今の試合はパーフェクト負けだ。
    「口ほどにもねぇなアンタ!?」
    「……だってほら、技と技の繋ぎ? みたいなのとか全然わかんないし」
    「これコンボゲーじゃなくて、立ち回り重視だからよ? 読み合い差し合いがもの言うんだよ、言い訳しやがってダッセェやつだぜ」
    「そもそも言ってる意味がわかんねんだよ!」
     初心者だぞ!? 加減しろよイキり中坊!
     そして16戦目がはじまる。 フウタくんの不健康な瞳がモニターに集中する。
     ダウナーみたいに淀んだ目は、ちょっぴりヨリコちゃんに似てるかもしれない。 やっぱ姉弟なんだな。
    「なあ……フウタくん」
    「……あんだよ」
    「ケンジくんってどんなやつ?」
    「――っ!?」
     お、変なとこでジャンプした。 チャンスとばかりに、セーラー服の女キャラがいかつい軍人をボコる。
     女キャラが選べるゲームは、女キャラしか使わない男です俺。
    「あ、あんなヤツの話すんじゃねぇよ!」
    「でもさぁ、ヨリコちゃんの彼氏じゃん」
    「姉ちゃ――くっ!?」
     おいおい、超必殺技のモーション入ってるのに、わざわざ向かってきてくれたぞ。 派手に画面が明滅して、大きくK・Oの表示。
     思ったよりもチョロかったな。
    「たとえ姉貴の男だろうが、アイツはクズだ!」
    「それ教えてくんない? 何があったんだ?」
    「……え、聞きたいことって、もしかしてそれかよ」
     うなずいてみせると、フウタくんは深く息を吐いた。
     きっと、そのため息のような深い事情があるにちがいない。 ケンジくんの人物像を知る手がかりになる。
     今のとこ俺がケンジくんについて知ってることなんて、ヨリコちゃんに放置プレイかましてることくらいしかないからな。
    「……だれにも言うなよ? ……これだよ」
     フウタくんが差し出したスマホを受け取る。
    「なっ――これは……!?」
     そこには恍惚とした表情でダブルピースするヨリコちゃんが、画面いっぱいに写っていた。 痴態という他に表現が思いつかない。
    「……姉ちゃんがスマホ貸せつって、貸したことあったんだよ。返ってきたら、そんな写真がのこってやがった」
    「そ、そっか……」
    「いくらカノジョ相手でもそんな写真強要するような男はクズだ! 変態だよそうだろ!? ケンジに無理矢理そんな写真撮らされたせいで姉ちゃんおかしくなって、さっきもあんな変なしゃべり方……っ」
     残念だけどフウタくん、変態なのは君のお姉ちゃんの方だ。
     これ最初に間違い電話かけてきたときの写真か。 ダブルピース撮ってたもんなたしか。
     いやでも普通、弟のスマホで撮る? どんなうっかりミスだよポンコツすぎんぞヨリコちゃん。
    「あーもうアイツの話はやめだやめ! おら、つづきすんぞソウスケ!」
    「なあ、つぎ俺が勝ったらさ」
    「まだなんかあんのかよ?」
    「この写真送ってくんない?」
    「送らねぇよッ!」
     ち。 やっぱダメか。 とりあえず写真は脳裏に焼きつけといた。


     50戦は数えただろうか。 あれから1勝もできていない。
     そろそろ疲労もたまってきたんで、帰ろうかと声をかける。
    「おーい、フウタくん。俺そろそろ……寝てる?」
     ゲーミングチェアに座ったまま、フウタくんはこっくりこっくり舟をこいでいた。 棒立ち状態の軍人キャラをボッコボコのボコにする。
     K・O! パーフェクツ! っしゃおら! 負けつづけたストレスが少しだけ和らいだ。
     器の小さな男だと思うかい? 俺もそう思う。
     しかし、いつの間にかもうこんな時間か。 マオは泊まるのかもしれないけど、ヨリコちゃんに挨拶して帰ろう。
     立ち上がって腰を叩いていると、スマホの着信が鳴った。 画面を確認して、硬直する。
     そこには【NTRヨリコ】の表示。
     え? まっ――ちょ、なんで!?
     パニクっていたためうっかり出てしまい、手癖でスピーカーに切り替えるというポカをやらかす。
    『――あ、あーん、あん、だ、大企業の社長さんだけあって、やん、すごいテクニックが――』
     おいいいい!? 隣で弟が寝てんだぞ何考えてんだバカやろうッ!? 現状のフウタくんが姉のあえぎ声なんか聞いたら精神崩壊してしまうッ!!
     こっそりと迅速に部屋を飛び出し、忍び足で階段をおりていく。
    『――ねぇ、おーい、なんで返事しないの? あのさぁ、ちょっと今日、すんごいやらかしちゃってさ……話きいてよ? ねぇって!』
     ちょっと黙ってろや! だいたいマオは何やってんだ? いっしょにいるんじゃないのか!?
     願いが通じたのか、通話口のヨリコちゃんは都合よく押し黙ってくれた。 いや、むしろ俺にとっては都合が悪かったかもしれない。
     少しでもフウタくんの部屋から離れようと必死で、このときヨリコちゃんが黙っていたこともあって、通話を切るという選択肢が頭からスッパリ抜け落ちていたのだ。
     ヨリコちゃんのこと言えない。 テンパるとポンコツなのは俺も同じだった。
     リビングを覗いて、ソファでがーがーイビキをかいて眠るマオを発見する。 じゃあ、ヨリコちゃんはどこから?
     受話口からなのか、微かにチリンと風鈴の音色が聴こえる。 フローリングを踏みしめ、暗がりの奥へ向かうとふすまがあった。
    「――あれ? 電波悪いかな」
     ふすまのすき間から、スマホを片手に首をひねるヨリコちゃんの姿が見えて。
     ギシリ。と床板が軋んだ。
    「――だれ……!?」
     ヤバ――もう逃げられな――なんか言い訳――。
     暗い廊下に、ふすまから漏れ出た光がサッと広がる。
    「え……? ソウ、スケくん……? なんで」
     畳の和室から、敷居をへだてて俺を見つめるヨリコちゃん。 まっすぐな視線が、左手で握りしめるスマホへとスライドする。
    「『……ソウスケくん』」
     呆然と紡がれた俺の名前が、ヨリコちゃんの唇とスマホの受話口から同時に流れた。




      [#ここから中見出し]『第22話 本丸に突撃す』[#ここで中見出し終わり]

    「弓削くん、この段ボール畳んで裏に持っていってくださる?」
    「はい、わかりました」
     店長の指示通りガムテープを剥がした段ボールをつぶし、わきに抱えて休憩室へ入る。 あるていど量がたまったら指定の場所へ捨てにいくんだけど――。
    「あ……」
     休憩室にいたヨリコちゃんは、俺を一瞥すると、顔を伏せるようにして入れ替わりで出ていってしまった。
     もう何日目かな。 ヨリコちゃんの家で身バレして以来、しゃべるどころかろくに目も合わせてくれない日々が続いている。
     段ボールを床に重ね置いて、パイプ椅子に座り込んだ。
     こんなことなら、宣言通りにひっぱたいてくれた方がいくらかよかった。 だけどあの日ヨリコちゃんは、絶句して自分の部屋に駆け込んだまま姿をみせてくれなかった。
    「……はぁ」
     罰だな。 これまでヨリコちゃんを騙してきたから。 騙して、自分の素性は隠して、本音をのぞき見してきたんだ。
     叩かれて許してもらおうだなんて、虫がよすぎる話だった。


     バイトが終わると、ヨリコちゃんは店長に挨拶してさっさと帰ってしまう。
    「ねえ、お節介かもしれないけど……青柳さんと喧嘩でもしたのかしら?」
    「いえ、喧嘩は……してないです」
     喧嘩ならまだよかった。 現実は、一方的に俺が嫌われただけだ。
    「お疲れさまでした」
     どこか心配そうに見つめてくる店長に頭を下げ、本屋をあとにした。
     ショッピングモールの喧騒が、過去最大にやかましく感じて顔をしかめる。 これでいい。 これでよかったんだ。
     今さらだけど、ヨリコちゃんには彼氏がいる。 なのにちょっかいかけたり、遊びに誘ったり、不義理なことを強いてしまっていた。
     だからぜんぶ元通りになっただけ。 夏休みもまだ残りがある。 俺の夏休みだってまだここから、新しい出会いからはじめていけば――
     ふいに、どんっと肩に衝撃をうける。 よろけた体を立て直して、カップルの男の方と肩がぶつかったのだと気づいた。
    「いって。おいおいこっち女連れてんだぞ? ひとりの奴はもっと隅っこ歩いてろよ」
    「ケンくんひっど。やめなよ、かわいそうじゃん」
     言葉とは裏腹に女もケラケラ楽しそうに、バカップルが腕を組み直して去っていく。
    「はあ……――」
     ――なんだその名前は改名しろくそッ! あとあやまれ! 爆発しろ! 天に昇って! 花火みたいに! 盛大に! でもぜんぜん綺麗とはかけ離れた爆発で! 散れ!
     細く、長く口から息を吐いて、高ぶった感情を落ち着けた。 直後、今度は後ろから肩をどんっとやられる。
    「こんのッ――!」
    「おーおー、荒れてんねー?」
     勢い込んで振り返った俺の前には、あっけらかんと笑ういつものマオがいた。
    「……なんだマオか」
     すぐに立ち去ろうとする俺の首に、マオが腕をまわしてくるもんだから動きを封じられる。 やわらかく大きな胸が、俺の胸に押し当たって。   通常なら役得に感じたろうけど、心臓の鼓動とか伝わりそうでなんとか離れたかった。
    「ちっとわたしに付き合えよー?」
    「どこ行くんだよ」
    「ソウスケが、いちばん行きたがってるとこー」
    「ラブホ?」
    「ほーん。わたしはべつにいいけどー?」
    「……冗談だよ」
     やっぱりいつもの調子が出ない。 ラブホに行ってもいいと言われて引くとか、俺も落ちたもんだ。 童貞の風上にも置けないな。
    「ほらほら、はやくー」
    「はぁ……」
     乗り気じゃないけど、やることもないのでついていく。

    ◇◇◇

     ショッピングモールから離れて、けっこうな距離をバスで移動して、ようやくたどり着いたのは某大手チェーンのファミレスだった。
    「ソウスケのおごりねー?」
     ヒールの高いサンダルで、つかつかと自動ドアを通るマオ。
     なんだよ、タカりにきただけかよ。 そもそもファミレスなら、わざわざこんなとこまで来なくたって。
     マオのあとから自動ドアを抜ける。 すると、大きな瞳とポニーテールが印象的な、やたらとかわいいウェイトレスさんに迎えられる。
    「いらっしゃいませ! 2名様ですか? あれ? えっとたしか……獅子原さん? だよね?」
     ウェイトレスさんに、マオがひらひらと軽く手を振って応じた。 なんだ、知り合いなのか?
    「わあ!? パパさんパパさん! 同級生が彼氏つれてきましたよ彼氏!?」
    「あ、あのねヒルアちゃん、お客様の前でパパさんはやめてね!? そもそも私、ヒルアちゃんのパパじゃないからね!?」
     奥から顔を出した小太りのおじさんが、ヒルアと呼んだ少女をあたふたと嗜めた。 ひとの良さそうなおじさんだ。
     しかしパパじゃないのかよ、まぎらわしい。 てか俺もマオの彼氏じゃないしな。
    「えー? でも、いずれヒルアのパパさんになるわけじゃないですか?」
    「お客様! お気になさらず、奥のお席へどうぞ!」
    「は、はあ……」
     かわいいけど変わったウェイトレスだ。
     すると店の中ほどで、別のウェイトレスが待ちかまえるように立っている。 腰まであるロングストレートの艶髪。 切れ長の瞳でめちゃくちゃ綺麗だけど、偉そうに腕を組んでるのが気になる。
    「席はそこだ。いいか、汚すなよ? 食事の際にクチャクチャ音を立てることも控えろ」
    「…………」
     なんだこのウェイトレスは。 傲慢にもほどがある。
     気にしたら負けだと思い、席へ座ろうとするも。
    「……くー……くかー……」
     案内されたソファタイプの席には、制服を着た小柄な女の子が横になって寝ていた。 寝顔なのに、この子もハッと見入ってしまうほどかわいい。 が、よだれが垂れている。
     この制服って、俺と同じ学校の……。
    「む。おい起きろアサネ! 注文しないならさっさと出ていかないか!」
    「……んむ~……ユウナちゃん……あと5分……」
     さっきのキツい人格のウェイトレスが注意するも、アサネと呼ばれた少女は起きる気配がない。
    「ソウスケー。席、かえよっか?」
    「あ、ああ……」
     マオと別のテーブルにうつり、ひとまずドリンクバーを注文した。 さっそく注いできたジュースをひと口飲み、ふぅと息を吐く。
     ここは美少女動物園か? ウェイトレスも一部の客もやたらとハイレベルな容姿だけど、個性が強すぎてきっつい。
     対面のマオに問う。
    「なんでこんなとこ連れてきたの? ここ、なんなんだよ」
    「なにってー、某大手ファミレスのフランチャイズ店?」
    「いや、そういう意味じゃなくて」
    「オーナーは、天晶のおとうさん」
    「……え?」
     告げられた意味を、噛み砕いて飲み込むまで時間がかかった。 つまり、それって。
     テーブルに肘をつき、俺の顔を覗き込みながら、マオは子供に言い含めるように首をかしげる。
    「正真正銘、このファミレスこそが……天晶賢司の実家なのだよ、ソウスケくんー」




      [#ここから中見出し]『第23話 火の玉ストレート』[#ここで中見出し終わり]

     さっきユウナと呼ばれたウェイトレスが、巨大なフルーツパフェを運んでくる。
     重々しくテーブルに置かれた、螺旋を描く生クリームと大きめにカットされたフルーツのコラボを見下ろし、マオが瞳を輝かせる。
    「待たせたな。だが、その価値があることは保証しよう。では、存分に舌鼓を打ってくれ」
     ニコッと微笑むとだいぶ印象が変わるな。 しゃべり方は古風というか独特だけど、悪い人間ではないのだろう。
    「あの、すみません。ちょっと聞きたいんですが、今日……ケンジくんは?」
    「む? なんだ、ケンジの後輩か? 悪いが夏休みの間、ほぼあいつは勉強合宿に参加していてな。やつが安心して勉学に打ち込めるよう、こうして慣れない接客を買って出たわけなんだが……」
     ずっと寝ていたアサネちゃんという女子が起きたらしく、向こうでウェイトレスのヒルアちゃんとなんだかギャーギャーやりあっている。
     聞こえてきた内容によると、どうもアサネちゃんが飲食代を持っていないことが原因のようだけど。
    「まったくあいつらは……。すまない、これで失礼する。なんならケンジが戻るまでゆっくりしていくといい」
     争うふたりにさっそくユウナちゃんが怒声を浴びせ、店内は三つ巴の様相をみせはじめた。
     そうか、ケンジくんはいないのか。 ホッと安心したような気持ちでストローに口をつける。
    「で、どーする? 天晶かえってくんの待つー?」
    「……話すことなんか、なんもないだろ」
    「青柳は俺がもらうー! とか?」
     ジュース噴きそうになったじゃねえか。 どうしてヨリコちゃんの彼氏様に宣戦布告せにゃならんのだ。 一切の理由がない。
     冷ややかな視線を向けるも、マオはいまだにテンション高く騒ぐ3人を遠巻きに眺めている。
    「やっぱさー、すげーよなー……」
    「ん? ああ、たしかに創作物の登場人物かってくらい個性的で――」
    「青柳が、だよー?」
     ……ヨリコちゃんが?
     遠い目をしてマオは、何かを懐かしむように口もとをゆるめた。
    「わたし天晶が苦手って言ったじゃん? とーぜん、天晶にいつもくっついてるアイツらも苦手だったんだよねー」
     最初はマオにしてはめずらしい――なんて思ったけど、あの強烈な個性を目の当たりにすれば頷ける話だ。 マオだってテンションは高めだけど、ベクトルというかノリがやっぱりぜんぜん違うと感じた。
    「2年のときさー、アイツらん中でひとり浮いてるヤツがいてさー? なーんかパッとしない、モブか? みたいのが混じっててー」
     ヘタに相づちは打たず、黙って聞く。
    「なーんか気になって、声かけてー。そしたら仲良くなって……それが青柳だったんだよねー」
     へえ。そんな出会いだったのか。
     しかし……ヨリコちゃんがモブ? 寝取られ報告を間違い電話しちゃうし、意外な属性どんどん足されていくし、そんなヨリコちゃんがどこにでもいるだと?
     はげしく口を挟みたくなるが、我慢する。
    「んで、3年にあがるころには、アイツ天晶のこと落としちゃってんだもんなー。……|アイツら《・・・・》を押しのけて、だぜー? 男の趣味はともかく、マジすげーよ青柳はさー」
     そう語るマオの表情はどこか楽しげで、誇らしげでもあった。 痛快な笑みだ。
     マオってなんだかんだヨリコちゃんのこと、好きなんだろうなって思った。
     俺はケンジくんのこと、よくは知らないけど――
    「女の子の趣味は悪くないよな、ケンジくん」
    「ぷっくく……なんそれ、超ウエメセじゃーん。いいねー、いいよー? ソウスケくんー」
     何がいいんだよ……。 さっぱりわからん。
    「んでー? もうひと声ないのー? このまま夏休み終わったらバイトも終わるよー? ソウスケにとって高嶺の花になっちゃうよー?」
    「ヨリコちゃんが高嶺の花とかなんの冗談だよ。何度も言ってるけど、俺はヨリコちゃんを好きとかそんなんじゃ――」
    「そー。好きとかそんなんじゃねーんだよわたしの話は。オマエがどーしたいのか、それ聞いてんの」
     俺が、どうしたいか? そんなの決まってんだろ。 また1からやり直して、友達からはじめられる女子を探して、それから。
    「楽しかったよねー夏休み。言っとくけどさー、青柳みたいなおもしれー女そーそーいないぞー? ケンカ別れしたまんまソウスケはぜーんぶ忘れて、新学期はじめられんのー?」
    「…………っ」
     俺は……楽しかった。 めちゃくちゃ楽しかったな。
     認めるよ、マオの言う通りだ。 振り返ればろくでもない思い出もたくさんあるけど、それ含めてまじで楽しい夏休みだった。
     ヨリコちゃんやマオがいたから。 そもそもが、ヨリコちゃんと出会えたから。
     どうせ実現しやしないと思ってた、楽しい夏休み計画を見事に果たせたと言っていい。
     それなのに、こんな終わり方――。
    「……マオ。俺、帰るよ」
    「そっかー。ここはわたしが出しといてやんよー、センパイとしてな」
    「あ、ありがとう」
     俺ドリンクバーしか頼んでないけどな。
    「あと失敗したら抱いてやっからさー、いっしょに闇堕ちして天晶たちに復讐しようねー?」
    「ただの逆恨みじゃねえか! でもまじで、ありがとうマオ!」
     ファミレスを出て、帰途につきながらどうするべきか考える。
     ヨリコちゃんには何度も謝罪した。 何度も何度も謝ったけど反応はなかった。
     ヨリコちゃんの本音を覗いてきたんだ。 こっちも本心を晒すのが筋だろう。
     家に直接行こうかとも考えたけど、俺はあくまでバイト先の後輩に過ぎなくて、ヨリコちゃんの彼氏でもなんでもない。 出過ぎた行為だ。
     だからスマホを取り出し、メッセージアプリで文面を作成する。 嘘偽りのない心を込めて、送信した。
     帰宅して、スマホを睨みつける時間が過ぎて。
     これまで何を送っても既読すら付かなかったメッセージに、はじめて既読がつく。
    “夏休み最後の思い出をヨリコちゃんと作りたい。俺と夏祭りに行ってくれませんか?”
     どうか、最後まで楽しいままで――。
     願いに応えるメッセージの到達を、祈るように待つ俺のもとへ。 スマホが着信を告げて震え出したのは、深夜0時を回った頃だった。




      [#ここから中見出し]『第24話 寝取られ報告ゲイボルグ』[#ここで中見出し終わり]

     スマホを手に取り、少し困惑する。
     電話? メッセージじゃなくて? 予想してなかったな。
     でもこれは直接話ができるいい機会だ。 もうボイスチェンジャーを使う必要もない。
     ただ俺は、夏休みを最後まで、ヨリコちゃんとおもしろおかしく過ごしたいだけなんだと。 本心を伝えよう。
     意を決して着信に出ると、スピーカーに切り替えた。
    「もしもし?」
    『――……もしもし、ソウスケくん?』
     受話口から聞こえてきたのは、まぎれもなくヨリコちゃんの声だ。 ずいぶんと久しぶりに名前を呼ばれた気がして、胸がじんわり熱くなる。
    「ヨリコちゃん、俺、ごめん! もう一度ちゃんと――」
    『――ソウスケくん、聞こえてる? 聞こえてるよね。……あたしさぁ、いま、ケンジくんとラブホいんの』
    「……え……?」
     言葉の意味を理解するにつれ、遅効性の毒を打ち込まれたみたいに手が震える。
     待て。 いやいや、え?
    『――あん、今日、んん、ケンジくんはげしくて、やっぱり好きだなぁ、て、実感してる、あ』
     断続的な嬌声と、なまめかしい吐息。 これまでの寝取られ報告で1番、情感の込められた声。
     相手がケンジくんなら、寝取られってのも違うけど。
     いや、嘘だろ。 嘘に決まってる。 集まったケンジくんについての証言で、断片的ながら人柄もおおよそわかってきた。
     いくら彼女だからって、事の最中に他の男へ電話かけるなんて状況、許すはずがない。 許すような男を、ヨリコちゃんが好きになるはずもない。
    『――……ね、聞いてるでしょ? 聞いて? ……ダブルピース、いる?』
     あれほど欲しかったダブルピース写真なのに、返事ができずにいた。 単純に声が出ない。
     嘘だとわかっている。 わかっているのに、動悸がはげしくなって、喉がカラカラに渇いて、冷たい汗が吹き出る。
     なんなんだ、これは。 吐くぞ。 これが本来の……寝取られ報告の破壊力ってことなのか?
     無理だろ、こんな暴力だれが耐えられるんだよ。 マオか? 半端ねえなあいつ。
     すげえとは思うけど、そんな領域にやっぱり俺は至れないと実感した。 寝取られ報告の文言なんか、すべて禁呪としてこの世から抹消すべきだ。
     どういうつもりなのか、かすれた声でやっとのこと問いただす。
    「ヨリコちゃん、なんでこんな」
    『――……あたしの答え、だから』
     答え。 それはつまり、俺が送ったメッセージに対する答え。 俺が夏祭りに誘って、ヨリコちゃんの返事がこの報告なのだ。
     意図的に俺を遠ざけようとしている。 要は、こうすることによって、俺が傷つくとヨリコちゃんは思っている。
    「ヨリコちゃんは、勘違いしてる」
     わからせてやらなければならない。 マオに背中を押されて、本音を話すと決めたんだから。
    『――……勘違い……?』
    「あのさ、俺のこと嫌い?」
    『――……正直、ムカついた。……でも、あたしもひどいこととかいっぱいしてて、そこは飲み込めた。けどさ、あのメッセもそうだし、ソウスケくんの気持ちに、あたしは――』
    「俺を嫌いかどうか聞いてんだけど」
    『――……っ、キライじゃないけど!? なんか、やっぱムカついてきた、言い方!』
    「ヨリコちゃんと電話で話すの、楽しくてさ。からかったりもしたけど、嫌な思いさせたかったわけじゃないんだよ」
     本音だ。
    「身バレしちゃったら、もう電話できなくなると思って……だから言い出せなかった」
     実際、|バイトの後輩である俺《・・・・・・・・・・》には電話を教えてくれなかった。 メッセージアプリから電話できたとして、ヨリコちゃんにその気がないんだったら意味はない。
    「俺さ、この夏休み、ヨリコちゃんと遊べてまじで楽しかった。……いい友達ができたなって」
     これも本音。
    『――……うん……あたしも楽しかったよ? でもだからこそね? 気を持たせるようなこと――え? 友達?』
    「まだ友達じゃないなら、友達になりたいと思ってる」
     通話口の向こうで、小声で『……ぇ~』とか言ってる声が聞こえる。
    『――と、友達。うん、友達だよ? でも……え……あたしのこと、す、好き』
    「友達だと思ってる」
     本音。
    『――…………そう。うん、そか』
    「やっぱ勘違いしてた?」
    『――~~~~っ、してたよっ!? めっちゃしてた! なんそれ、恥っずい! あーでもなんか……ホッとしたぁ……!』
     心底から安心したように、ヨリコちゃんは涙声にすらなっていた。
    「だから夏休み最後のイベントとしてさ、夏祭りで楽しく締めたくて……どうかな?」
     本音なんだよ。
    『――あ、ああうん夏祭りね? 行きたいね? でもふたりで?』
    「俺の夏休みはヨリコちゃんではじまったから、やっぱふたりで行きたいな」
     矛盾してねえよ、本音なんだから。
    『――いやわけわからんし。ま、ちょっとケンジくんに話してみるね? 保留ってことでいい?』
     さっきの報告電話の内容を思い出して、シャツの胸もとを握りしめる。
    「わかった……もちろんいいよ」
    『――えと、じゃあ……またバイトでね? えと……話できて、よかった』
    「うん、俺もだよ。じゃあまた、バイトで」
     通話が切れて、自分がずっと立ったままだったことに気づいてベッドへ腰かける。
     希望通りに事が運んだ。 ヨリコちゃんと仲直りできたし、夏祭りの約束だって前向きな返事がもらえた。
     じゃあなんで、こんな胸が苦しいんだ。 天才がゆえの心臓病か?
     ぜんぶ本音でしゃべったよ。 俺は楽しく夏休みを過ごすのが希望で、今まさに成就しようとしてるのに。
    「……もっかい風呂はいろ」
     汗でぐっしょり濡れたシャツに、エアコンが効きすぎて身震いした。




      [#ここから中見出し]『第25話 1人称が名前呼び女子の襲来』[#ここで中見出し終わり]

     ヨリコちゃんとふたりで、シュリンクした本を陳列する。
    「――ぅぷっ。……うぇえ」
    「ちょっ、また!? ソウスケくんマジで大丈夫なの?」
     身をかがめた俺の背中を、やさしくさすってくれるヨリコちゃん。 それやられると、よけいクる。
    「ぜったい早退した方がいいって!」
    「だ、大丈夫大丈夫。たぶん、昨日パスタにニンニク入れすぎたのが原因だから」
    「ニンニク? ……うーん。そのわりには、ぜんぜん匂いしないけど」
     俺の口もとに、ヨリコちゃんが無防備に顔を寄せてきてクンクンするので、あわてて身を引いた。 ムッと眉をひそめて、ヨリコちゃんはほっぺたをふくらませる。
    「そぉんなイヤがんなくてもいいじゃん、傷つくなぁ」
    「そ、そうじゃなくて」
     キスされるのかと勘違いして、ドキドキしたとか言えるわけない。
     それにヨリコちゃんと向かい合っていると、先日の寝取られ報告を思い出して――
    「……うっぷ!」
    「ほらまた!? 帰んなって!」
     受けたダメージは相当なものらしい。
     これ以上迷惑かけるわけにはいかないので、仕事をレジに回してもらった。 ヨリコちゃんは陳列を続けながら、こっちを心配そうにチラチラ見てくる。
     しんどくても不思議と帰りたくはならない。 ヨリコちゃんが気にかけてくれるのが、もしかして嬉しいんだろうか。
     ともかく顔を直視さえしなければ平気なので、集中してレジに打ち込んでいると。
    「こーれくーださい!」
     元気な声と共に、レジに参考書が置かれた。 耳に残る、よく通る声だな、と顔をあげる。
     パッチリと大きな瞳に、茶色がかった髪を頭頂部寄りの後ろで結わえたポニーテール。 アイドルにでもいそうなかわいさ。
     あれ? でもこの顔どこかで。
    「なんか死にそうな顔してるね! 弓削くん、だったよね?」
    「あ。たしかファミレスの」
    「そう! ヒルア! |双葉《ふたば》|陽留愛《ひるあ》でーす。よっろしく!」
    「おお……眼球はさんだ横ピースのポーズ」
    「いや眼球て。もっとかわいい言い方あんでしょうよ」
     生でする人はじめて見た。 これって自分でかわいいと自覚してなきゃできないポーズだよな。 ええ、偏見です。
    「ヒルア? ……なんでここに?」
     双葉さんに気づいたヨリコちゃんが、作業の手を止めてレジまでくる。 俺に見せたものと変わらない笑顔で、双葉さんが手を振った。
    「ヨリコ、おひさ! 最近ぜんぜん顔出さないなと思ったら、バイト忙しそうだね?」
    「まあ……うん。それよりどうしたの? あたし、まだバイト終わるまで時間あるから。話なら、そのあとで――」
    「いやいや、おかまいなく! 今日はヒルアね、弓削くんに用があってきたの!」
    「え? 俺!?」
     レジカウンター越しに腕を掴まれ、ふたりへ交互に視線を向ける。 双葉さんはにっこり笑って、ヨリコちゃんは無表情で、睨み合うような格好のふたり。
     仲、よくないんだろうか? 事情が事情だし、仕方ないのかもしれないが。
    「……なんでヒルアがソウスケくんに用事? 知り合いなの?」
    「い、いや、こないだマオと行ったファミレスで、たまたまね?」
    「……ふーん。たまたま寄ったファミレスが、ケンジくんとこだったんだ?」
    「そうそ! だよね弓削くん? ヨリコ、疑ってるの~?」
    「べつに疑ってるなんか、言ってないし」
     双葉さんが来る前と比べて、あきらかにヨリコちゃんの機嫌が悪い。
     助けを求める願いが通じたのか、レジでのやり取りに店長が割って入ってくる。
    「あらあら弓削くんまだいらしたの? さっきも言いましたが、今日はもうお帰りなさい。あなた、どんどんやつれていってるように見えるわよ?」
     それはこの状況のせいかもです。 なんだかこの板挟みは異様にしんどい。
    「はいはい! それならこのヒルアちゃんが、弓削くんのお姉ちゃんとして家まで送り届けてあげよ~う!」
     いつ俺の姉になったんだよ。 突っ込みを口にする気力もない。
     だけど店長も乗り気だ。
    「いいんですか? ひとりじゃ心配だったから助かります。どうかよろしくお願いしますね」
     店長は店長で母親みたいな口ぶりだった。
    「あの店長、それなら、あたしが付き添います」
    「だめだめ! ヨリコはまだバイトでしょ? ふたりも抜けたら店回らないじゃん。それに弓削くんには用事あるって言ったでしょ?」
    「だからっ、ヒルアがソウスケくんになんの用事が――」
    「ケンジの連絡、きてない? まあ、まだバイト中だからスマホ見れないっか。じゃほら、いくよ弓削くん?」
    「あちょっと!? 腕ひっぱらないで!」
     脱いだエプロンは店長が受け取ってくれて、俺は店の外へとずるずる双葉さんに引きずられていく。 ああ……ヨリコちゃんのせっかくの申し出が。
     名残惜しくてレジを振り返ると、ヨリコちゃんが腕を組んでめちゃくちゃ冷たい目をしてた。
    「……よかったね? かわいいお姉ちゃんが送ってくれて」
     せっかく仲直りしたばかりなのに! なんでこうなんだよくそっ!


     双葉さんとふたり、バス停までの道のりを歩く。 軽やかな足どりはステップを踏んでるみたいで、ほんと優良元気娘って感じ。
    「……ふんふん。なーるほど。ヒルアの見立ては間違ってなさそだね!」
    「見立て? あの双葉さん、ところで俺に用事って? とくにないなら俺、体調はもう大丈夫ですから」
     目前でくるんとターンした双葉さんが、1本指を俺の鼻先にビシッと突きつけた。
    「弓削くん。君はヨリコが好き! ……でしょ!?」
     ひるむな。 その手の指摘はマオで慣れてる。
    「そりゃ好きですよ。友達ですから」
    「平然とした顔うまいね! 色恋でヒルアを誤魔化そうたって無理だよ? まあ聞いて! その件含めて弓削くんに相談があるんだ~」
    「相談? それが用事ですか?」
    「だから、体調ホントに大丈夫ならどっか寄らない? ヒルアとしても男の子の家にあがり込んで密会するのは、ケンジに邪推されたくないしさ?」
     この人もケンジくんか。 そういえばファミレスでも、ケンジくんのお父さんを“パパさん”なんて呼んでたっけ。
     つまり双葉さんは、ケンジくんのことをまだ。
    「……いいですよ。どこか寄りますか?」
    「カラオケかボーリングどっちがいい!?」
     体調不良の人間を誘うには、どっちもハード過ぎやしないか?
     でも俺のは精神面からくる不調だ。 今は、体を思いきり動かしたくもある。
    「よし、行きますか!」
    「え!? どっちよ!?」




      [#ここから中見出し]『第26話 この手で掴む』[#ここで中見出し終わり]

     全力でぶん投げた15ポンドの玉がレーンを疾走する。
     結果なんて見るまでもない。 キュキュッと床を鳴らして、軽快にターンを決めた。
    「ま、ざっとこんなもんですかね」
    「ピン1本も倒れてないよ?」
     どっかと椅子に腰かけ、足を組んだ。 顔はレーンに向けたままで、双葉さんに問いかける。
    「それで、相談って?」
    「なるほど。現実をみない人だ弓削くん」
     立ち上がった双葉さんが、軽めの玉を持つ。
     背すじをピンと伸ばして構え、綺麗なフォームから繰り出された1投が、スパコーン! と爽快な音を響かせた。
     腰もとで小さくガッツポーズ。 Tシャツにハイウエストなデニムショートパンツとシンプルな格好ながら、圧倒的かわいさで周囲の注目を一手に集めている。
    「ま、ざっとこんなもんかな!」
    「互角ですね」
    「現実みてよっ!?」
     大きく息を吐いて、双葉さんはペットボトルのスポーツドリンクをあおり飲んだ。
    「ふう。相談っていうのはね、共同戦線を張らないかって話!」
    「共同戦線?」
     戻ってきた玉を、タオルで磨きつつ聞き返した。
    「うん。ヒルアと弓削くんが協力すれば、お互いにメリットがあるんだよ」
     メリット、ねえ。
     3本指で玉を抱えて、アプローチ。
    「弓削くんはヨリコが好き。――そしてヒルアの見立てじゃ、ヨリコもまんざらじゃない」
    「――え?」
     指を滑らせて、15ポンドの玉が垂直落下した。 ドゴンッ! とけたたましい音に周囲がざわつく。
    「な、何やってるの弓削くん!?」
    「はあ、はあ、あ、危ねえ……っ」
     足を潰すとこだった。 それもこれも、双葉さんがむちゃくちゃなこと言うからだ。
     玉は勝手に転がっていったんで、戻って椅子へと座る。
    「またガターだね!」
    「ヨリコちゃんが俺を――なんてあり得ないですよ」
    「そうかな? 今はなくても、可能性はあると思うな。恋愛強者のヒルアさんを信じなって!」
     恋愛強者ならケンジくん取られてないだろ。
     玉をたぐり寄せた双葉さんが、うーんと伸びをする。
    「ヒルアは……ケンジのことあきらめない。だからお互いに情報交換して、ふたりを会わせないようにしたりとか? いろいろできると思うんだ」
     背中で語る双葉さんの、表情は見えない。 ただ、明るい印象の姿なんてそこにはなかった。
     本気でケンジくんを振り向かせたいんだろう。 気持ちはわかる。
     ピンをあっさりとすべて薙ぎ倒して、帰還する双葉さん。
    「へっへーまたストライク! で、どうかな!? 提案に乗らない?」
    「よく、わかりました」
     ハイタッチを求められるも、俺はスルーしてまっすぐ玉を取りに向かう。
    「そんなんじゃ、ヨリコちゃんに負けるわけだ」
    「……は?」
     助走をつけ、勢いよく玉を放つ。
    「だれかの足を引っ張って手に入れた恋人に、顔向けできるんですか? 後ろめたさ感じながら付き合っていくんですか? ずっと?」
    「え、偉そうに急に何!? ガターのくせに!」
     険悪に双葉さんとすれ違う。
    「ずっとずっとケンジが好きだったの! それをさ横入りで取られたんだから! ヒルアには取り返す権利あるでしょ!?」
     小気味よく吹き飛ぶピンの音。
     だったら――。 俺は鼻息荒く玉を取りに向かう。
    「だったら真正面から玉砕してこいよ! もっともヨリコちゃんにゃ絶対勝てないけどな! ケンジくんが簡単に手放すわけがない!」
     投げた玉が重々しく溝に落ちる。 座るのももどかしく、ボールリターンの前で待機する。
    「何それ、わけわかんない……っ! 弓削くんはそれでいいわけ!? ふたりが別れなかったら、弓削くんだって――あ!」
     双葉さんがはじめて、ストライクを取り逃した。 ギリッと歯ぎしりまで聞こえてきそうなほど悔しげだ。
     深呼吸をして、玉を持つ。 何度も持ち上げた重みが、よく腕になじむ。
    「たとえば俺がヨリコちゃんを好きだったとして。傷つけてまで、笑顔を曇らせてまで付き合いたいなんて思わねえよ。幸せそうならそれでいい」
     投球後。 深く息を吐いて、ひたいの汗をぬぐって振り返った。
    「そんなの、ヒルアだって……!」
     椅子に座る双葉さんは、膝の上で握りしめた拳に視線を落としている。
    「だからさ、双葉さんも自分の魅力で振り向いてもらえばいいだろ? わざわざふたりの邪魔なんかしなくてもさ。そっちの方がケンジくんにだって好ましく映るはずだ」
    「……っ。それは……そうかもね。……弓削くん、ケンジに会ったことないんでしょ? なのに知った風なこと言っちゃってさ」
     なんかすでに勝手なイメージができてしまった。 壊れてほしくないような、壊れてくれた方が嬉しいような人物像だ。
    「あとさ」
    「はい?」
    「最後までガターだったね」
    「もう腕がパンパンなんですよまじで!」
     ボウリングってピン倒せないとぜんぜん面白くないのな。 あたりまえだけど。
     双葉さんは、ふいにクスクス笑いだして。
    「――あ~スッキリした! 今日はありがとう弓削くん、付き合ってもらっちゃって!」
    「いえ……よかったんですか? こんなんで」
    「いいのいいの! 自分を見つめ直す機会にもなったし。お礼に合格点で報告しといてあげよう!」
     合格点? なんの話だ?
    「でも、真面目というかやさしすぎるというか。もっと欲求に素直になってもいいんじゃない? ま。ケンジはヒルアが振り向かせるから、そのときは感謝してよね!」
     なんの感謝だよ。
     でもやっぱ笑うと特別かわいいなこの人。 そんな双葉さんでも勝てないヨリコちゃん、恐るべしだな。


     ボーリング場で双葉さんと別れ、ひとりでマンションに戻ってきた。
     エレベーターを下りると、自宅ドアの前でたたずむ人影が「あ」と声をあげる。
    「ヨリコちゃん……?」
    「……マオに、家聞いて。やっぱ、心配だったから」
     まさか、ずっと待っててくれたのか? 感動と罪悪感がごちゃ混ぜになったような震えが背中に走る。
    「でも、どこ行ってたの? 具合悪かったんじゃないの? もしかして……ヒルアと遊び行ってた?」
    「え……と」
     その通りすぎて返す言葉もない。 何か、何か言わないと!
    「元気そうでよかったじゃん? ……帰るね」
     俺のとなりを通り抜けるヨリコちゃんの髪がふわりと香って。 本能を呼び覚ますようなその匂いが、心臓に鋭い痛みをもたらした。
    「ヨリコちゃんっ!」
     そして胸の痛みは、ヨリコちゃんの手首を掴むなんて行動を俺に引き起こしたんだ。
     細くて、今にも折れてしまいそうなヨリコちゃんの腕を必死に繋ぎ止める。 少し汗ばんだ肌が、心臓の鼓動を際限なく速まらせる。
     ヨリコちゃんは大きく瞳を見開いて、きっと言葉の続きを待っている。
    「せっかく来てくれたんだ、あがって、お茶でも、飲んでいってよ……」
     誘いは尻すぼみに自信を失った。
    「…………うん」
     顔を伏せて、ヨリコちゃんはたしかにそう返事した。
     え……まじ……?
     ヨリコちゃんの手を引いたまま、俺は自宅の鍵を回し、ドアを開ける。 中に誘い入れた直後、ドアが閉まって視界の明度が低くなる。
     薄暗さが、うつむくヨリコちゃんの姿をより生々しく浮かびあがらせた。
     現実感のない光景に、頭の中が真っ白になっていた。




      [#ここから中見出し]『第27話 そうそうこれこれ』[#ここで中見出し終わり]

    「おじゃま、します」
    「ど、どうぞ。あっ、スリッパとかなくて!」
    「ん? いいよべつに」
     少したるませたショートソックスを履いたヨリコちゃんの足が、ついに我が家のフローリングを踏みしめる。
     何か、俺の安息の場所が侵されていくような。 そんな不安と焦燥がふいに込みあがった。
     だが落ちつけ。 まだ心の絶対防衛ラインまで突破されたわけじゃない。 そう簡単に俺を懐柔できると思うなよ。
    「え……? これって……」
     リビングに入ったヨリコちゃんは、言葉をなくして立ち尽くしているようにも見える。 けれど、すぐに笑みをひっぱり出して。
    「う、ううん、なんでもない。ソウスケくんの部屋、見たいかな」
     ……やっぱり、変に思われたんだろうな。 そういえばマオは、家にきたとき何も言わず詮索もしなかったっけ。
    「ああ、部屋はそっち。なんか飲み物持っていくよ。っても麦茶くらいしかないんだけど」
    「ありがと。麦茶好きだよ」
     好きだよってセリフにドキッとした。
     しかし、いったいヨリコちゃんはどんなつもりで家にあがったんだ。 手を出してもいいのかっていうと、まったくそんな雰囲気でもなさそうだし、普通に殴られそう。
     まあ、思いきり腕を掴んで引き止めたのは俺なんだけど。 なんとなく、あの瞬間めっちゃ帰したくなかったんだよな。
     本格的にヨリコちゃんにハマってる……のか? ヤバいな俺。
     麦茶をふたつ持って自室に入ると、ヨリコちゃんは座布団に女の子座りして待っていた。 今日もスカートのヨリコちゃんは、つまり座布団との接地面がどうなっているのか思案する俺の脳内など知る由もないだろう。
     うちの座布団のランクが1段階上がった気がする。
     お互いに麦茶入りのコップに口をつけ、カランと氷の溶ける音だけが部屋に響いた。
     いつから俺は、ヨリコちゃんを前にするとこんなに緊張してしまうようになったんだ。
    「……ほんとに大丈夫みたいだね? 体調」
    「まあ……俺のは精神的なものだったから」
    「精神的? って?」
    「ヨリコちゃんの寝取られ報告で脳がヤられた」
    「は?」
     きょとん顔のヨリコちゃんに、包み隠さず理由を説明する。 相手は当事者だ。 生半可な覚悟じゃなかったつもりだ。
     それほどまでに俺は悩み、苦しんだ末に相談したんだ。 浮気、背徳、闇堕ち、地獄、寝取り……様々なネガティブワードが胸中に浮かびあがった。 だけど、それでも。
     たとえ自らの秘めた想いに気付くことになったとしても――。
    「…………ヨリコちゃん」
     俺の話を最後まで聞いたヨリコちゃんが、爆笑した。
     腹を抱えて爆笑していた。
    「あーはっはっは! ふへっ、ぃひぃ、おなか、くるし……!」
    「ヨリコちゃんっ!」
     まじかこいつ。 人の心がねえのかよ!?
    「あー……ごめん、ごめんて! それってさ、あたしの言った通りじゃん? あたしが好きすぎて効いちゃったんでしょ?」
    「ねえよ! 惚れる要素ゼロだわまじで!」
     100年の恋も醒めるっつの! 俺はなんで、こんな女のことであれこれ胸を苦しませていたんだ!?
    「まあでも前にさ、飲み込めたって言ったけどさ? やっぱあたしもモヤモヤしてたんだよね、騙されてたこと。バイトのソウスケくんはかわいいけど、あのくっそムカつくやつでもあるんだよなぁって!」
     そう言われて思い出した。 はじめての寝取られ報告のときも、そういやヨリコちゃんは苛烈な人間だった。
    「だから、おあいこだね? 苦しんだのなら、それで許してあげよう!」
    「おあいこ? いやいや元々からして、ヨリコちゃんが間違い電話なんかしたのが悪いんだからな?」
    「は? いまさら蒸し返さんでもよくない? さんざんあたしのことイジメたよね? 好きだから意地悪するとか小学生かっての!」
    「だれが好きなんだよ自意識過剰も大概にしろや! よくこんな女にケンジくんも惚れたもんだな! 好きなとこ3つくらいに絞ってやっとなんかひねり出せるレベルだろ!」
    「は? 3つどころじゃねーから! かわいいって言われるでしょ? 料理うまいって言われるし? 人付き合いも上手って言われたし? あと、えとっ」
    「んなこと聞いてねんだよイヤミだよわかれよそんくらい!? あとちょうど3つで打ち止めしてんじゃねえよバカ露呈してんじゃねえか!」
    「うるさいうるさいバカって言う方がバカバカバカバァァァカっ!!」
    「でた! 困ったときの語彙力なさすぎバカ連打! ておい蹴ろうとすんな! パンツ見えるぞ!?」
    「変態キモいキモい! ちょっ、こっちくんなマジで!?」
     後ろ手に後退していくヨリコちゃんを追いかける。
    「だからっ! そっち危ねえって――っ!」
    「きゃっ!?」
     なんとか追いついた俺は、ヨリコちゃんの後頭部に手を回して学習机との衝突を阻止した。
     鼻先と鼻先が触れるくらいの至近距離で、吸い込まれそうな鳶色の瞳をのぞく。
     ヨリコちゃんは、机から落ちていたタウン情報誌で揺らぐ瞳を隠した。 俺もあわてて立ち上がる。
    「――へ、へえ~! こんなの買ってあたしとの夏祭り楽しみにしてたんだ? けなげさアピったって浴衣なんか着てやんないから!」
     夏祭り……まだ行く気はあるんだな。
    「許可とれたのか? ケンジくんの」
    「さすがに今回のは、どんな男が相手かわかんなきゃ無理だって言ってた。だから直接会うって――」
    「え!?」
    「……ビビりすぎじゃね? 会うつもりだったけど、合宿あるから。だから代わりにヒルアが引き受けたらしいね。見極め」
     なるほどな。 合格点ってそういうことか。 じゃあ、あの相談事も本気じゃなくて、カムフラージュのでっち上げってこと?
     いや……双葉さんしたたかそうだし、なんとなくあれは本気だったように思う。
     ヨリコちゃんに脈がある的な見立ては大ハズレだったけどな! 占いとか向いてないよキミ!
    「8月第4週日曜! 当日1秒でも遅れたらソッコー帰るから!」
    「はいはい」
     投げやりな返事が気に入らなかったのか、ヨリコちゃんは立ち上がるとプイッと顔をそむける。
    「あと今日はもう帰る!」
    「はいはい! 気をつけて!」
    「寝取ろうとか考えたって無理だからっ!」
    「寝取らねえよッ! とっとと帰れ!」
     どすどすフローリングを踏みつけて、ヨリコちゃんは帰っていった。
     俺はなんで、あんな女子を夏祭りなんかに誘ったんだろう? あのときの自分に問いただしたい。
     けれど気がつけば、ここのところヨリコちゃんの前でらしくもなく感じていた緊張がきれいサッパリ消えていた。
     ふと、ヨリコちゃんの行動が頭によぎる。 わざわざ家にあがり込んでまで、なぜあんな醜態をさらしていったのか。
     もしかして最初から――……。
     なんて絶対考えすぎだわ。 本性出してきただけだわ。
     ベッドに腰かけると、笑いが込みあがってきて止まらない。
     そうだよな。 いい子ちゃんなんかじゃない。 そんなこと最初からわかってた。
     マオの推薦通り、あんな面白い女の子はそうそういないと思った。
     どうやら俺の希望は叶うらしいな。 夏休みを最後まで、楽しく過ごせそうだ。




      [#ここから中見出し]『第28話 ふたりの関係性』[#ここで中見出し終わり]

     本屋でのバイト終わり、店長がわざわざ休憩室まで挨拶にきてくれた。
    「ふたりとも、休まず来てくれて助かったわ。夏休み終わっても、いつでも遊びにいらしてね」
    「はい! 俺はしょっちゅう漫画買いにくると思います!」
    「まあうれしい!」
     店長の大きな手とがっしり握手をかわす。
     ほんとやさしくて、おおらかな人だった。 はじめてのアルバイトがこの本屋で、まじでよかったと思ってる。
    「青柳さんも、お受験がんばってね!」
    「はい、まぁ。あたしはそんな難しいとこ、受験しないんで」
     店長の娘さんが来年高校受験らしく、大宰府でヨリコちゃんの分もお参りしたのだと、学問のお守りを手渡していた。
     いやいいひと過ぎるだろ。
    「……ありがとう、ございます」
     思いがけないサプライズに、あのヨリコちゃんも少し目を潤ませているようにみえる。
     以前から勉強では頭を悩ませてたみたいだし、ご利益あるといいな、学力向上の。
    「あなたたち、姉弟みたいで本当にかわいかったわよ。いつかまた必ずお会いしましょう!」
     最後は気さくにふたりで手を振って、本屋をあとにした。 聖人とはああいうひとのことを言うんだろう。
     姉弟か。 お互いに恋愛感情なんか持ち得ないとハッキリしたんだ。 それでもいいと思える。
     姉弟って響きがさ。 友達より親密で、こう、なんかいい。
     しばらく黙々とショッピングモールを歩いていたヨリコちゃんが、ふとつぶやく。
    「終わったね。バイト」
    「うん。そうだね」
     つまりもう、この場所でこうしてヨリコちゃんと会うことも無くなるってわけだ。
     それはちょっと……感傷的な気持ちになる。 ヨリコちゃんは、どう思ってんだろうか?
     俺が横顔を盗み見たのと、ヨリコちゃんが足を止めたのは、ほぼ同時だった。
    「ソウスケくん、アイス食べたくね? おごるわ」


     ラムレーズンとチョコミントのダブル。 ヨリコちゃんはストロベリーとマスカットのダブルを注文して、モール敷地内の中庭へと移動した。
     風が通る構造になっているのか、愛しの空調設備が無くとも多少はマシに感じる。 それでもセミは元気よく鳴いてるし、暑いけど。
     建物から建物への移動で中庭を通る人はいても、ベンチに腰かける俺たちのような猛者は他に見あたらない。
    「なんか、攻めたチョイスしてんね」
    「そう? あずきと少し迷ったくらいで、俺の中ではマストだよ」
     ひたいや首すじに汗の玉を浮かばせながら、ヨリコちゃんがマスカットアイスにかぶりつく。 けれど視線はずっと俺のチョコミントに寄せられている。
    「……ちょっと食べる?」
    「みえみえ。間接キス狙い? でしょ」
    「発想が中学生かよ。そんなつもりないっての」
     自意識過剰……! 相変わらず……!
     じと目を向けてくるヨリコちゃんは放っといて、アイスをむさぼる。
     うまい。 しみわたる。 暑い中汗かきつつ、冷たいアイス食うのってなんか贅沢だな。 舌の痺れが心地いい。
    「夏休みもあと数日かぁ」
     さりげなく独りごちた様子の、ヨリコちゃんへと目を向ける。 太ももを交差し、足を組んだヨリコちゃんは、足先のスニーカーをぷらぷら揺らしていた。
     足は、あんまり見てると引かれる。 5秒そこそこガン見して、すぐ目を外す。
     代わりに、中庭を通る人々をぼんやり眺めた。
    「夏が終わるとか、信じられない暑さだけどな」
     このたくさんの親子連れやカップルも、休暇が終わればそれぞれの日常に戻るんだろう。 もちろん俺も。
     ヨリコちゃんとの接点もずっと減って、夏休み前と同じような日々が……まあ、でもマオは遊んでくれそうだよな。
     溶けたアイスが指をぬらして、冷たさにハッと意識を取り戻して指をなめる。
     暑さでボーッとしてたのかも。 また熱中症なんかになったらシャレにならん。
    「そういや、ここ何日かマオ見てないな」
    「おばあちゃん家行ってんだって。明日には帰るらしいけど」
     そっか。 帰省とかするよな普通。
     背中をベンチに深くもたれさせて、夕焼けめいてきた空を見上げた。 気温も下がってきてるか。 もう熱中症の心配はなさそうかな。
     そんなことを考えていたら、足に重みが加わったんで目を落とす。
     スニーカーを脱いだヨリコちゃんが、俺の太ももにソックスの足を乗せていた。
    「いや、重いんだけど」
    「は? 失礼くない? ソウスケくんって生意気だよね。後輩のくせにさ」
    「ヨリコちゃんの方が生意気だと思うけどなぁ」
    「いいじゃん先輩なんだから。立ち仕事ってさ? 足むくむでしょ。だからあげとかなきゃなんだよ」
    「俺の足に乗せる意味は?」
    「ベンチかたい。かかといたい」
     さようですか。
     ヨリコちゃんってあれだな。 出会ってからどんどん性格というか、印象が変わっていくよな。
     もう性根の悪いとこ全部見られた自覚でもあるのか、以前より遠慮がまるでない。
     スマホを片手にポチポチしながら、俺の太ももを足で交互にパタパタと叩くヨリコちゃん。
    「……それ。ちょっと気持ちいいかも」
    「はいセクハラ。ご褒美に感じてんじゃねぇぞ?」
    「感じてねえよ。わりとまじで重いし」
     かなり強めにかかとを落とされて、悶絶する。
    「ソウスケくん。祭り、あさってじゃん?」
    「そ、そうだね」
    「降水確率、50パーセントだって」
     ヨリコちゃんがスマホの画面を見せてくる。 見事に曇りと傘のマーク。
    「いや、50なら大丈夫。俺めちゃくちゃ晴れ男だから。最高80までいける」
    「ふぅん……」
     ダウナーから一転、ふいにヨリコちゃんは悪戯っぽく笑うと。
    「じゃさ、中止になったらその日、カラオケおごりね?」
     カラオケで披露するつもりの歌なのか、鼻歌を口ずさみながら、また俺の太ももをヨリコちゃんがリズムよく踏みはじめる。
    「ぜったい晴れるよ」
     ……そうか。 雨が降っても、遊んでくれるんだな。
     あざやかなオレンジに染まった空。 アイスもとっくに食べ終わって、人がまばらになってきても。
     なかなか“帰ろう”なんて言葉が出てこなくて。 過ぎ去る夏を惜しむように。 熱気が残るベンチでふたり、たわいない雑談をずっと交わしていた。




      [#ここから中見出し]『第29話 はじまりの夜のはじまり』[#ここで中見出し終わり]

     昼が過ぎ。 自室で漫画を読んでいたら、号砲のような炸裂音が3回鳴り響いた。
     納涼祭の開催を知らせる合図だ。 窓から曇天を見上げて、ひとまずカラオケはおごらなくて済んだな、と息を吐く。
     着ていく服を選びながら、鼻歌を口ずさんでる自分に気づいて手が止まる。
     どんだけ楽しみにしてたんだよ、恥ずかしい。 気を引きしめなければ、ぜったいヨリコちゃんにからかわれてバカにされる。
     だけどせっかくの祭りだしな……。
    「……よし」
     早々と着替えてしまった俺は、そわそわと部屋の掃除なんかして時間を潰した。


     時刻は17時。 待ち合わせた駅の周辺では、浴衣や甚平、アロハシャツなど夏を楽しむ格好のひとが目立ってきた。
     祭り会場の神社や、花火が打ち上がる河川敷まではまだ距離があるものの、すでに駅前にも出店が軒を連ねている。
     神社までのルートを照らす提灯の明かり。 出店からただよう焼けたソースの匂い。 蒸し暑いけど、いつもと違う夜。
     いいね、テンションあがってくる。
     しかしヨリコちゃんはまだ来ないのか? あれだけ遅刻するなと念押ししといて、自分が遅れるとかさすがヨリコちゃん。 女王様気質の――
    「……おい。いつ気がつくんだよ?」
    「はい?」
     いきなり話しかけられて振り返ると、うちわで口もとを隠した浴衣の女の子が、上目遣いで俺を見ている。
     夜空を思わせる黒地の浴衣には、大胆に咲き誇るひまわり。 アップにした黒髪に、青、紫、白と3色のあじさいの髪飾りがかわいい。
     思わず見惚れていると、眉をひそめた女の子からうちわでペシッと頬を叩かれた。 ていうかヨリコちゃんだった。
    「マジで? マジで気づかなかったの?」
    「い、いやだって、浴衣着ないって言ってたし……髪型とかも、いつもと違うし……」
    「ちょ、見すぎ見すぎ!」
     あらためてまじまじ見つめていたら、赤くなったヨリコちゃんがうちわでペシペシ往復ビンタしてくる。 ダメージはない。
     あれ、ヨリコちゃんて、こんなに……?
    「ソウスケくんだって甚平着てんじゃん」
    「そりゃせっかく夏祭りだから、テンションあげようと思って」
     帯と同じピンクの下駄を鳴らして、また上目遣いをキメるヨリコちゃん。 そのポーズは俺に効く。
    「そ。あがった?」
    「あ、あがるよ、だって、ヨリコちゃんがこんなに……」
    「なんかネットリした言い方!? やだ!」
    「やだってこたないだろ!」
     パッと身を引かれた。
     せっかく褒めようとしたのに! もうぜったい言わねえよくそっ!
     ヨリコちゃんが、手持ちのうちわで俺の顔をパタパターとあおぐ。 前髪が持ち上がって涼しい。
    「クールダウンして? あと、最初に伝えとくね?」
    「……何を?」
    「ケンジくんから伝言。“不甲斐ないオレに代わって、|オレの彼女《・・・・・》を誘ってくれてありがとうなソウスケくん。祭り、楽しませてやってくれ”」
     オレの彼女、がやたら強調されてた気がするが。 なるほど。 なるほど……。
    「やっぱ萎える? ……ごめんね? イヤなこと、最初に終わらせた方がいいと思って。どうしても伝えてくれって言われたから」
    「萎えないよ。イヤなことでもない」
     ほんとはちょっと萎えたけど。
     彼氏としては当然、釘を刺しにきたんだろう。 そりゃそうだ。 許可くれただけでも奇跡だ。
     だけど安心してくれケンジくん。 俺とヨリコちゃんがそんな風になるなんて、100パーセント無いから。
    「そろそろ暗くなってきたね。ほら行こ? ソウスケくん!」
     提灯と出店の明かりに導かれるように、ヨリコちゃんは歩き出す。 黒い浴衣が夜にまぎれて消えてしまわないよう、俺は追いかける。
    「あっ、お面買おうよお面!」
     ヨリコちゃんはすごく楽しそうで。 はしゃぎ過ぎるとからかわれるなんて、考えてた俺がバカみたいだ。
    「いいね! 俺ロボットのにするわ!」
    「なんでロボット?」
    「1時間くらい説明かかるけどいい?」
    「やめて! 口ひらかないでっ!」
     そうだよな。 最後まで夏をめいっぱい楽しむためにきたんだ。
     遊ぶんだよ蒼介。
    「あ、ほら見て! なんかステージでダンスやってる!」
    「ちょっとまだ動かないでくれ!」
     デフォルメされたキツネ面を頭の横につけてやったそばから、ヨリコちゃんが子供みたいに駆け出していく。 まるで制御できない行動力に笑みがもれ、ロボット面を自分につける。
    「……まったく、はしゃぎすぎだろ」
     でもきっと、同じくらい俺もはしゃいでた。
     熱気と人と光の渦に、あえて巻かれながら俺たちは神社に向けて少しずつ歩んだ。




      [#ここから中見出し]『第30話 ここからが本番』[#ここで中見出し終わり]

     ヨリコちゃんと並んで歩きながら、出店を買い食いして回る。 今日は昼もまともなものを食べてないんで、腹はかなり空いていた。
    「お。ヨリコちゃんたこ焼きは?」
    「んー……1個をシェアで!」
    「了解。――えと、じゃあひとつください」
    「ね、ちょっと座ろうよ?」
     たしかに両手もふさがり、立ったまま食べるのも限度がある。 人混みの隙間から辺りを見渡すと、離れの境内へ向けて伸びる石段が見えた。
     手を目の上にかざし、オーバーリアクションするヨリコちゃん。
    「む。あそこじゃな? ソウスケよ」
    「何キャラよそれ」
    「ではゆけ! モーゼ!」
    「モ――……ああ人波だから!? 海、つまり割れってか!」
    「理解すんのおっそ」
    「無茶言うんじゃねえ!」
     おまえのあがりきったテンションについてくのやっとなんだよ!
     けど俺を盾にする気まんまんとはいえ、こうして半歩後ろに立ったヨリコちゃんから甚平の袖口をキュッと握られると。
    「はあ……しゃあない。じゃあついてこいヘブライの民よ!」
    「え? ヘブライ?」
    「知らねえのかよ受験大丈夫!?」
     ともかく突っ込むしかないのだ。
     背中でけらけら笑うヨリコちゃんを、身を呈してかばいつつ「すいません!」「通してください!」と人の壁をかきわける。
     しかし真横から視界に飛び込んできた人間は避けられず――どんっと肩と肩がぶつかった。
    「いって!」
    「あぶな、ちょっとケンくん大丈夫?」
     ケンくん、だと? その耳ざわりな名前は、この前の。
     俺より少し小柄な金髪の男は、サングラスを上にずらしてジットリこちらを睨めあげる。
     間違いない。 ついこの間もこうしてぶつかったカップルだ。
    「あの、すみません。俺、ちゃんと前を見てなくて」
     いつの間にか俺のとなりにいたヨリコちゃんも、ぺこりと頭を下げている。
    「……いや、こっちもよそ見してたからよ。悪い。お互い様ってことで!」
     俺の肩を軽くポンポン叩いて、ケンくんは白い歯をみせて笑った。 そして彼女らしき女性と腕を組んで去っていく。
     ケンくん……どうしたいったい? あのときは、あんなにイヤな奴だと思ったのに。
     お互い様、か。 そうだな、あの日の俺だってたぶんイヤな奴だった。 虫の居所が悪い日だってあるよな。
     人は自分を映す鏡、とはよく言ったもんだ。 あらためて悪かったなケンくん、もう爆発しないでいいぞ。
    「いい人でよかったね? |ケンくん《・・・・》だって。やっぱ名は体を表すのかなぁ」
    「はいはい。ほら、ちょっとこれ持って」
     たこ焼きとイカ焼きとりんご飴をヨリコちゃんに持ってもらい、ハンカチを石段に広げる。
    「どうぞお座りください、先輩」
    「……あ、ありがと」
     ハンカチは必ず持ち歩くとあの日誓ったからな。 実際、いろんなところで役に立つもんだ。
     先に石段へと腰かけたヨリコちゃんは、俺の顔を覗き込むように見上げて。
    「……やさしいね? ソウくん」
    「っ!? ~~~~っ」
     不意打ちやめて。 ほんとやめて。
    「ん? なんで座んないの?」
    「や、ちょっと、待って、勘弁して」
     今が夜でよかった。 熱くなった顔を悟られないように、ヨリコちゃんから少し離れて座った。


     遠く祭囃子を聴きながら、まだまだ賑やかさを増す屋台の通りを眺める。
     同時にスプーンストローで、ハワイアンブルーをザクザク掘り進んでいく。
     うっま。 祭りの食べ物って、なんでこんなうまく感じるんだ。 原価のことは考えたくない。
     同じようにとなりでザクザクやってたヨリコちゃんが、何か思いついたのかパッと顔を輝かせる。
    「知ってる? かき氷のシロップてさぁ、色が違うだけで味、どれもおんなじらしいよ?」
    「ああ、聞いたことある。たぶん有名な話だなそれ」
    「ところがよ? あたしのこれはマジでレモンの味がする!」
    「いやいや、視覚効果とか香料とかそういうのでしょ」
     だまって食ってみろとばかりにカップを差し出してくるので、自らのスプーンストローで氷山の一角を崩す。
     あ。めっちゃレモン味するー!?
    「ね? ね!? レモンじゃね?」
    「いやー……ハワイアンブルーと同じかなぁ」
    「ぜっったいうそっ!!」
    「――もがッ!?」
     ヨリコちゃんのスプーンストローで、ザラザラと大量の氷を強引に流し込まれた。
     割れるような頭の痛みで悶絶する俺をよそに、ヨリコちゃんはご機嫌な様子でレモンのかき氷をパクついている。
    「か……間接キス」
    「うげ。そんなこと考えてたの? キッモ!」
     あんたが言い出したんだよ!? 一昨日な!
     けれど口ではキモいだの言いながらも、ヨリコちゃんから笑顔が絶えることはない。
    「あ。マオからメッセきてる。なんか近くにいるらしいよ?」
    「いいね、呼び出そう。そんで――」
     残ったこいつらを処理してもらおう。
     石段には、まだ手つかずの焼きそばと牛串、クレープまで置いてある。 いくら腹が空いてたといえ、調子に乗って買いすぎた。
    「ふぅ。もう食べられないよ~」
    「それ! 俺が言ってみたかったセリフ!」
    「言えばいいじゃん」
    「二番煎じはちょっと……」
     後ろ手をついたヨリコちゃんが、下駄を履いた素足を交互にパタパタ揺らす。 涼しげに吹いた夜風を、気持ちよさそうに吸い込んで。
    「……はぁ~~。めっちゃ楽しい……!」
     その言葉に俺も嬉しくなる。 本当にこんな夜が、いつまでも続けばいいのにな。
     心から思った。




      [#ここから中見出し]『第31話 暴食に乙』[#ここで中見出し終わり]

    「ソウスケくん、ベぇーってして?」
    「は? なんでそんな」
    「いいから! はい。ほら、べぇ~」
     子供みたいな懇願に根負けして、舌を出す。
    「あっはは。やっぱ真っ青!」
     そりゃハワイアンブルー食べたからな。 あたりまえの現象なのに、ヨリコちゃんはきゃっきゃと笑う。
     テンションたけえ。 何がそんな面白いんだよ、箸が転がっても楽しいお年頃か?
    「ヨリコちゃんも見せてよ、ベロ」
    「えー? いいよ? べぇぇ」
     さくら色の唇を割って、ためらいなく差し出されるヨリコちゃんの舌。
    「よくわかんないな、レモンだからか。もっと出してよほら、こんな風に」
     自分も舌を伸ばして催促する。
    「んえー? らしてるれしょぉ?」
     めいっぱいに伸ばしたベロを見せつけるためか、ヨリコちゃんは顔まで寄せてきた。
     けっこう長い、赤く濡れた舌を間近で眺めたのち。 お互いに舌は出したまま、ヨリコちゃんのうっすら細まった瞳と視線が絡まった。
     あれ? これ、なんか。えろ――
    「まさか、べろちゅう見せつけのために呼びつけられるなんて……!」
     ハッとふたりして振り向くと、マオが石段の下からこっちを見上げていた。
     着崩して肩丸出しのサマーニットで、自らの体を抱きしめるようにドン引きポーズを取りつつも。
    「ハァ、ハァ、ど、どしたのー? ほらー、つづけてー?」
     マオはすぐさま息を荒げて、スマホをこっちに向けてくる。
    「撮んなし!? マジでそんなんじゃないから! ソウスケくんもなんか言って――」
    「しょうがないヨリコちゃん。覚悟きめてベロチューしようぜ」
    「きっしょ! さっきまで紳士だったのにもう全部台無し! 大幅減点だから!」
    「男にはなぁ! たとえ嫌われてでもマウント取りたいときがあんだよ!」
    「器もちっせぇ! 誇んなバァカ!」
    「よーし押し倒せソウスケ! その写真を天晶に送りつけて闇堕ちさせたろーぜ!」
    「マジで泣くからねッ!!」
     本気でガン泣きしそうな気配を感じて、マオとふたりで平謝りした。 つい、ひさしぶりのマオに付き合って、悪ノリし過ぎてしまった。
    「うぅ~……バカバカバカ! マオ、これぜんぶ食べて!」
    「わ、わーい! いいのー? い、いただきまーす!」
     涙目で大量の食べ物をほおばり、何度もうっぷとえずくマオが憐れで。 串を1本だけ手伝ってやった。
     すまんな、俺もこれが限界なんだ。


     見事にすべての処理を終えて、うなだれるように座り込んだマオをうちわでパタパタあおいでやる。
    「ふーっ。ふーっ。う、産まれそう……!」
    「マオに似てかわいい女の子だといいね?」
    「なー……? 青柳は怒らせちゃダメってこと……わたしが身をもって教えてやったんだぞ……?」
    「ありがとうな。おまえの死は無駄にはしないからさ」
    「棺おけには、青柳とのエッチな音声かムービー入れてねー?」
    「ねぇマオ、お好み焼き食べたくない?」
     絶望に顔を歪めたマオは、ただひと言「ごめんなさい……」と呟いた。
     今からお好み焼きとか、フレーズだけでリバースしそうだ。
     さらに10分くらいまったり過ごしたあと、幾分か回復したらしいマオが唐突に立ち上がる。 深呼吸を2、3回と繰り返して。
    「おーし。んじゃそろそろ行くわー」
    「え? もう行くのかよ。何しにきたの?」
     まじでご飯食べにきただけじゃないか。
    「ま。青柳とソウスケが仲良くしてるのもわかったしー?」
    「だから、そういうんじゃないってば」
    「べつに悪いことじゃなくねー。だって、楽しいでしょ? 青柳もさー」
    「それは……。……楽しい」
     マオが片目をパチリと、ウインクを送ってきたのでとりあえず笑っといた。
    「わたしだって忙しいのだよーソウスケくん。ナンパとかー?」
    「ええ……祭りでナンパすんの? ひとりで来てる男とかいなくない?」
    「わたしがナンパされる方だとは考えねーのか? 大丈夫。いいの見っけてホテルとか行ったらー、ちゃーんとソウスケに報告の電話すっからねー!」
    「ぜっったいしてくんなよッ!?」
     本気の拒否がちゃんと伝わっただろうか。 マオはへらへら笑いながら祭りの喧騒にまぎれていった。
     ほんと、マオの報告でもダメージ負いかねんからな。
     膝を抱えて、口をとがらせて拗ねるヨリコちゃんの横へ腰かける。
    「あーあ……またソウスケくんにいじめられた」
    「い、いじめてないって。あれだ、ヨリコちゃんが言ってた通りだよ。かわいい子をいじめたくなる、小学生特有のやつ」
     いや、これじゃいじめたことになっちゃうだろ。 どう取り繕ったもんか、悩ましい。
     ヨリコちゃんは、かたむけた頭を膝にコツンと乗せた。
    「……あたし、そんなにかわいい?」
     俺に特効のポーズばかりしてくるヨリコちゃん。 台詞も相まって破壊力がヤバい。
     でも、どういうつもりで聞いたんだろうか。 正直に思ったこと言ってしまっていいのか、考えあぐねていると。
    「ソウスケくんにはさ、その……もっとちゃんと、相手、いるでしょ? ふさわしいっていうか」
     ああ。 べつに聞かなくていい類いの話だ。
     今日は余計なこと言わなくていい。 言わせなくていい。 そんな日にしたいんだ。
     だから立って、手を差しのべる。
    「行こう、ヨリコちゃん。花火のよく見える場所そろそろ確保しなきゃ」
    「う、うん」
     細い指を下からすくいあげてヨリコちゃんを立たせ、石段に敷いてたハンカチをポケットにしまう。 お宝を手に入れた気分だな。
     離すタイミングがなかったのを言い訳に、ヨリコちゃんと手をつないだまま屋台の通りに戻る。 そこで俺の足が止まった。
    「? どうしたの? 知り合いでもいた?」
    「いや、知り合いっていうか……」
     綿菓子の屋台の前、目をこらす。 間違いない、あれはクラスメイトの。
    「ヨリコちゃん、隠れて!」
    「え? え!?」
     素早く屈んで、ヨリコちゃんを茂みの奥に引っ張り込んだ。




      [#ここから中見出し]『第32話 たぶん雨女がいた』[#ここで中見出し終わり]

     くじ引き屋台の前に立っているのは、間違いなくクラスメイトの魚沼くんだった。
    「そ、ソウス――手っ!? ちょ、手!」
    「しっ! 静かにしてヨリコちゃん!」
     となりでしゃがむヨリコちゃんが、やたら手をバタつかせるんで、暴れないよう指を絡めてぎゅっと握り込む。
    「ひぅ――……~~~~!?」
     男ひとりで夏祭りなんか来るはずがない。 呪術にしか興味がないと言われていた魚沼くんが、クラスで噂になっていたことは記憶に新しい。
     ということは、相手は――。
    「な、なんなわけ? 友だち?」
    「友だちってほどでもない、クラスメイト」
    「……ああ、なるほどね? あたしといっしょのとこ、見られちゃマズいから」
    「それもあるけど、そこは重要じゃない」
    「じゃあなんなわけ!?」
    「来た――黙って!」
    「むぐーっ!?」
     とっさにヨリコちゃんの口を片手でふさぎ、くじ引き屋台へやってきた水無月さんを凝視する。 たしかに、クラスで1番美人と評判の水無月さんだ。
     じゃあ、やっぱり噂通り、ふたりは付き合って。
    「そうですねぇ……私、あの1等のスイッチライトが欲しいです。取ってくださる? 魚沼くん」
     その言葉に俺も、おそらく魚沼くんも驚愕した。
     無茶だ水無月さん! 祭りのくじ引きなんて、3等以上が入ってるかもあやしいのに!
     水無月さんを説得する魚沼くんの必死さが、ここからでもよくわかる。
    「む、無理だよ水無月さん! もう勘弁してください!」
    「あらあら、そんなこと言っていいのかしら? こ、れ、使っても?」
    「そ、それは――!」
     水無月さんが鞄から取り出した1冊の書物を見て、魚沼くんはたじろいで後ずさった。
     真っ黒い装丁のぶ厚い本……! なに!? ネクロノミコンかなんかなの!? ていうかどういう関係!? やっぱおまえらの物語超面白そう!
     興味津々ではあるものの、となりのヨリコちゃんがドッタンバッタン暴れてる風だったので目を向ける。
    「あ」
     顔が紅潮したヨリコちゃんの口から、慌てて手を離した。
    「――ぱはッ! はあっ、はあっ、は、鼻までちょっと塞がってたから、マジで苦しかったじゃん!? バカぁッ!」
    「ご……ごめん、ヨリコちゃん、その格好……」
     生唾を飲み込む。 ヨリコちゃんの乱れた浴衣がはだけ、透き通るような白い肩が見えていたから。
    「ちょ――……っ!?」
    「な、直す! 俺が直すから!」
     さすがにヨリコちゃんのこんな姿を、衆目にさらすわけにいかない。 焦りから、浴衣の襟をむんずと掴む。
    「いっ、いい! いい! 自分でやる! やるってば!?」
    「だ、大丈夫だからっ! まかせてじっとして!」
     茂みの影で取っ組み合って、汗と吐息が混じり合う。 抵抗するヨリコちゃんを上から押さえつける俺、という図が出来あがったそのとき。
    「まさか、わたしがいなくなったからって青姦たのしもうだなんて……!」
     ハッとふたりして同時に見上げる。
     すぐさまスマホを取り出したマオは、今度こそシャッターを切って脱兎のごとく駆け出していく。
    「ま、待って!? マジちがうからっ!?」
     ヨリコちゃんの制止もむなしく、マオはすでに姿を消していた。
    「あ……あぁ……」
     伸ばしたヨリコちゃんの手が、力なく地面に落ちる。
    「……どうしてくれんの……ソウスケくん」
    「はい……すみませんでした」
     俺は深々と頭を下げるしかなかった。


     花火の絶景スポットを探しながら、ヨリコちゃんのお説教はつづく。
    「だいたいさ、ひとの恋路を覗くとか趣味悪すぎ! そっとしといたげればいいじゃん!?」
    「はい、おっしゃる通りです」
    「浴衣もよけいに脱げてくし……ね、変じゃない? 浴衣」
    「はい、バッチリ決まってます。ヨリコちゃん、よ、ヨーヨー買ってあげようか?」
    「いらない!」
     とにかく名誉挽回しなければ。 実はこの先の小高い場所に絶景スポットがあることは、事前にタウン誌で調査済みなのだ。
     石段を登りきって、大げさに手を広げる。
    「ほらヨリコちゃん! ここなんてどうかな? めっちゃ見晴らしいいし、花火だって――」
    「……見晴らしはともかく、超混んでるね?」
     事実、超がつく人混みだった。 どこから集まったんだってくらい人の群れ。 みんな、花火があがるのを今か今かと待ち望んでるようだ。
    「も、もういっこ候補があって!」
    「それじゃ間に合わないでしょ? はぁ。いいよほら、こっちおいで」
     まるで姉が弟にするように、甚平の袖口を掴まれ丘の中央までひっぱられる。
     押し合い圧し合い、とまではいかないが。 この混み具合だと座るのはもちろん、ゆったり眺めることも叶わない。
    「やっぱり、別の場所に――」
     俺の言葉をさえぎって、ヒュルル……と轟く花火の昇り曲。 反射的に空を見上げた次の瞬間、腹を打つ轟音と共に大輪が咲き誇った。
     地上を照らすあざやかな光に、周囲から感嘆の声がもれる。
     そこからは続けざまに花火が上がる。 人に囲まれてることなんか忘れ、言葉さえ忘れて、俺は夜空を彩る炎色反応に魅入られていた。 文字通り、身が震える。
    「――……綺麗」
    「うん……俺、女の子とふたりで花火見るのもはじめてだ」
    「……よかったの? あたしで」
    「ヨリコちゃんがよかった」
    「…………そ」
     恥ずかしながら、子供みたいに空しか見ておらず。 せめてチラッとでも、ヨリコちゃんの横顔を見ていればと後悔した。
     だって夏休みの最後を締めくくるのに、これ以上にふさわしい光景ってないだろ。
     ほとんど無言で夏の特権を楽しんでいた俺達に、けれど不運がとつぜん降りそそぐ。
     最初は頭のてっぺんにポツリと冷たいしずく。 すぐに本降りとなり、花火の打ち上げが止まった。
     みんな蜘蛛の子を散らすように駆け出していく。 とうぜん俺とヨリコちゃんもだ。
    「これヤっバ……! 晴れ男のソウスケくん! 感想は!?」
    「何かの間違いだ! くそ! まだ20分も見てないのに!」
     会場にスピーカーで流れる“花火中止のご連絡”をうとましく思いながら、とにかく雨をしのげる場所を探す。
    「ソウスケくん、さっきご飯食べた石段のうえ、たしか屋根つきの東屋みたいなのあった!」
    「じゃあヨリコちゃん先に行ってて!」
    「え!? どこ行くの!?」
    「傘買ってすぐ戻ってくる!」
     雨はいつあがるとも知れない。 帰る道すがら、ヨリコちゃんをずっと雨に打たせ続けるわけにいかない。
     たしか神社のすぐ近くに一軒だけコンビニがあったはずだ。
    「あ、あんまり急がないでね!? あぶないから!」
     心配するヨリコちゃんの声に手をあげて応じ、俺はコンビニまで走った。




      [#ここから中見出し]『第33話 さしずめBAS』[#ここで中見出し終わり]

     ついてない。 と思いつつも、予期せぬアクシデントで気分が高揚してる自分に気づく。 たとえるなら、幼い頃に家の窓から眺めた台風の日みたいな。
     そうだな。 前向きにいくか。 ついてないなりにせめて、相合傘の恩恵にくらいあずからせてもらおう!
     コンビニで買った傘のビニールを外してもらい、すぐに来た道を引き返す。 駅へ向かうひと達と逆方向にすれ違いながら、出店の撤収作業も忙しそうな神社へ戻った。
     ふと、鳥居をくぐってこっちへ歩いてくる女の子が視界に入る。 夏休みだというのにうちの学校の制服姿で、背がとても小さい。
     あの子は、たしか。
     どしゃ降りの中を傘もささずにゆっくりと、女の子は俺のとなりを通り抜け――。
    「……正しい目をもって物事を判断するがいい。そうでない者に世界は冷たく、やがては排斥される」
     すれ違いざまにそんなことを呟いた。
    「ゆめゆめ、忘れぬことだ」
    「あ、おいちょっと待って!」
     女の子を呼び止め、バシャバシャと駆け寄る。 振り向くその子の顔は、やっぱり見覚えがあるものだった。
    「ええっと、たしかファミレスの……」
    「――|日辻《ひつじ》|朝寧《あさね》」
     そう、アサネだ。 双葉さん達からそう呼ばれていた、よく眠っていた子だよな。
     しかしちっちゃい、ほんとに高校生か?
    「びしょ濡れじゃないかよ。ほら、これ持って」
     濡れてるわりには、丸いシルエットの青みがかった髪からアホ毛がぴょこんと伸びていて、不可解さに頭をひねる。
     差していた傘を持たせてやり、ついでにすぐそばの撤収作業中の屋台でりんご飴を買う。
     屈んで、傘と反対の手に持たせた。
    「はいこれも。気をつけて帰れよ?」
    「……みかん飴の方が好きなのだが」
    「いや知らねえよ!? とにかく俺、急いでるから! じゃあな!」
     りんご飴をペロペロ舐めながら、じっと俺を見つめるアサネちゃんを置いて走る。
     まじで変わってるな。 傘が無くなっちゃったけど、まあしょうがない。


     石段を駆け登って、目的の場所へ到着する。
     ヨリコちゃんの言っていた屋根つきの東屋はたしかに存在して、スマホの明かりらしきものがもれている。
    「ソウスケくーん! こっちこっち!」
     雨にヒィヒィ言わされつつ東屋に駆け込むと、ヨリコちゃんが浴衣の裾を捲ってしぼっている最中だった。
     水滴が流れる白い足。 床板にポタポタと落ちて広がる染み。
     ダメだ、足を凝視すんのはよくなかった。 頭をぶるぶると横に振る。
    「あはは! 犬みたい! てか傘は?」
    「ごめん、ずぶ濡れの子にあげちゃって」
    「なにそれ!? ふぅん……どうせ女の子でしょ?」
    「い、いや、まあ」
     その女の子がアサネちゃんだということは、言わないでおいた。 ケンジくんが監視でも差し向けたのか、なんて勘繰っちゃわないだろうかと思ったから。 真相はわからないけど。
     しぼった浴衣のシワを伸ばすと、ヨリコちゃんは長椅子に腰かける。
    「どうせふたりともびちょびちょだし。ソウスケくんも座んなよ、雨やどりしよ?」
     自身のとなりをポンポンと叩いてヨリコちゃんが俺を誘う。 素直にしたがって、ヨリコちゃんのすぐ真横に座った。
     息づかいや、ともすれば体温まで感じられそうだと錯覚するほどの至近距離。 克服したはずの緊張がふたたび顔を出して、誤魔化すためにハンカチを取り出す。
    「貸して? 拭いたげる」
     ハンカチはすぐヨリコちゃんに奪われ、俺の髪を何度も往復してさすった。 濡れたハンカチは水滴を拭き取る効果がうすく、これじゃただ頭を撫でられてるだけだ。
    「ありがと。いろいろ、がんばったね?」
     くっ……。 なんかまた、マウント取られてる気がする。 言い返さなくては。
    「がんばりまちたね、て言わないのか?」
    「言わねぇし。……言ってほしいの?」
     くすくすと笑うヨリコちゃん。 恥部を突いたのに余裕をみせるとは。 こいつ成長してやがる。
    「あれけっこう衝撃だったんだけどな」
    「いいよもう。ソウスケくんには、なんか恥ずいとこぜんぶ知られちゃった気するし。今さらな感じ」
    「たしかに。最初の間違い電話からひどかったもんな」
    「ま、まぁね? ……そう考えると、なんかふたりでこうしてるのが不思議」
     雨の降りしきる夜に、誰もいない東屋でふたりきり。 肩が触れ合うような距離で、頭を撫でてもらいながら会話する。
     あの頃の俺が知ったら“何がどうしてそうなった!?”と驚くだろう。
    「マオを紹介したら、その場で付き合っちゃうし」
    「翌日に破局したけど」
    「海も行ったね」
    「あれは楽しかった」
    「あ、弟がまたゲームしたがってたよ?」
    「ヨリコちゃんさえよければ、また遊びにいくよ」
     わりと綺麗な思い出ばかり語っているけど、実際はこの数倍ひどい思い出があるような気がする。
     東屋の屋根をバラバラとリズミカルに打つ雨音。 それにヨリコちゃんの囁くような声が相まって、まるでここが世界から隔絶された空間みたいに思えてくる。
     世界にふたりきりだとしたら、俺はもう感情を隠さなくていいんだろうか。 自分をさらけ出してもいいのかな。
    「……だいたい、なんで寝取られ報告なんかしようと思ったわけ?」
    「そ……それは……前に言ったかもしんないけど、かまってほしくて。それでマオに相談したら……」
    「やっぱりマオか。そんなの寝取られマイスターのマオだから成立する話で、一般の男はドン引きだよドン引き」
    「マイスター……寝取られってそんな奥深いものなわけ?」
    「いや、俺も詳しくはないけど。寝取り寝取られ、寝取らせとか。あとBSSなんてものもあるらしい」
    「BSS? なにそれ?」
    「|僕が《B》 |先に《S》 |好きだったのに《S》」
    「――ぷっ」
     ヨリコちゃんが腹を抱えて笑い出す。 ツボにハマったときの笑い方を見てると、ほっこりした気持ちになる。
     俺も、つられて笑みがこぼれた。
    「なにそれえ? 先とか後とか関係ないじゃん! ねぇ?」
     とっさに返事ができなくて。
    「そうだな……」

     |僕は《・・》 |あとから《・・・・》 |好きになった《・・・・・・》。

     さしずめBASってか? 笑えねえ。 笑えねえんだよ、くそ。
     先に好きだったなら、まだいい。 感情の持っていきどころがあるから。 動かなかった自分にでも、横からかっさらっていった相手にでも。 思う存分、恨み節をぶつければいい。
     すでにもう恋人がいて、そんな相手を好きになったらどうすりゃいいんだよ。 なんでもっと早く出会えなかった。 なんであと2年早く生まれなかった。
     誰にこの気持ちぶつけりゃいいんだ。 悪いのは誰だよ? どこに存在する。 彼女にするチャンスすらくれなかった神にでも文句言えばいいのか?
    「……ケンジくんはさ、すごくあたしのこと考えてくれてるんだって、ほんとはわかってる」
     ケンジくんのこと語り出しちゃったよ。 人の気も知らないでいい気なもんだ。
    「あたし達の将来、未来をちゃんと考えて、行動してくれてる。……わかってるんだけど、あたしも相応の何かをしなくちゃいけないって。それよりも今……今のあたしを見てほしいって」
     まだまともな顔が作れそうにない。 真正面の空間を見つめたまま「うん」と返事した。
    「……なんて。すっげぇ贅沢で、わがままな悩み。なぁんでこんなろくでもない女、選んでくれたんだろね」
     ほんとにな。 なんで選んじゃったんだろうな。 答えなんてきっと出ないんだ。
    「ソウスケくん、雨あがったみたい!」
     東屋を飛び出したヨリコちゃんが、俺を手招きする。
     そういえば、いつからか雨音も聞こえなくなっていた。 立ち上がり、ぬかるんだ地面に足を踏み出す。
    「んー……まだちょっと、降ってるかな?」
     空を見上げながら、両手を広げてくるくる回るヨリコちゃんは、子供みたいに楽しげで。 いつまでもこの女の子のそばにいたくて、胸が苦しくて。
     いっそ――。 望みが叶わないなら、いっそのこと、ここで好きだと言ってしまおうと。
     暗く淀んだ決意を腹に飲み込んで、ヨリコちゃんのもとへ向かう。
    「……ヨリコちゃん」
    「ん? なぁに?」
     強い風が吹きつけて、濡れ髪を押さえるヨリコちゃんを正面から見据えた。
    「ヨリコちゃん。俺は、俺……ヨリコちゃんが」
    「うん。……言っていいよ」
     ほんの少し首をかしげたヨリコちゃんは、やさしく微笑んでいる。 まっすぐすべてを見透かすような瞳だけが、どうしてか悲しそうに見えた。
     なんで、そんな顔。
    「俺は――」
     ヒュルル……と、ふたたび俺の言葉をさえぎる、花火の昇り曲が突然に響いて。 夜空に大きな大きな花火が、一度だけ咲いた。
    「わぁ……きれーい」
     濡れずに残ってた花火があって、それをサプライズで打ち上げてくれたんだろうか。
     花火が赤く照らしたヨリコちゃんは、今日一番に笑っている。 ヨリコちゃんの今、現在。そのものの姿が目に焼きつく。
     ケンジくんに見てほしいと、ヨリコちゃんが願った笑顔は、なんの皮肉か俺の前にあった。
     言えるわけがない。 ヨリコちゃんは俺の告白を喜ばない。 言えばもう終わってしまうとわかっているから。
     自分が解放されたいがために、この顔を曇らせていいわけがなかった。
     胸の苦しみが横恋慕の罰だというなら、受け入れるよ。 だから最後まで楽しいままいてほしい。
    「俺、今日はまじで一生の思い出になったよ! ありがとう!」
     せっかく精一杯の笑みを作ったというのに、ヨリコちゃんの顔が一瞬でひどく歪んでしまった。
    「――お礼は、あたしが……」
     口をぎゅっと結んで、顔を伏せるヨリコちゃん。
    「……あたしね? 察し、いいんだよ? これでもね」
     察し。 なんだ、何を言おうとしてんだ。
    「いっぱい。いっぱい、我慢してくれたんだね? あたしのため、だよね? ごめんね、あたしがずるくて、たくさん傷つけちゃった」
     ヨリコちゃんのため? なに言ってんだ。 自意識過剰はいつまでも治らないらしい。
     顔をあげたヨリコちゃんは、無理矢理笑おうとしたみたいだけど、もう出来てなかった。
    「なぁんにも悪くないのに、きっと、罪、みたいに感じてんでしょ? あはは」
    「……っ。そんな、こと」
    「あたしもさ、ひとつ背負うよ、罪――」
     ヨリコちゃんの両手が伸びてきて、頭を引き寄せられる。 黒い浴衣のひまわりが眼前にせまって、そのままやわらかい胸の中に顔が埋まった。
     やわらかさの奥に、とくん、とくんとヨリコちゃんの鼓動を感じる。
    「だれにもぜったい、知られちゃいけない、ふたりの秘密……だから。死ぬまでずっと、抱えなきゃいけない、あたしの罪」
     死ぬまでとか、重いんだよまじで。 なんでこんな馬鹿なことするんだ。 酔ってんのか?
     せっかく楽しい夏休みで、締めくくろうと思ってたってのにな。
    「……あたし、こんなじゃなかったのに。……やさしすぎんだよ、ばかやろぅ……」
     誰もいない神社の奥まった空間は、このときだけたしかに世界から隔絶されていた。
     細い腰に腕を回したい衝動をぐっと堪えながら、夏祭りの夜は終わりを迎える。
     同時に恋心を認めたこの夜からはじまったんだ。 胸が焦がれる悶々とした日々が。 最強彼氏の存在にやきもきする毎日が。
     マオあたりに言わせれば、それを地獄と呼ぶんだろう。




      [#ここから中見出し]『第34話 寝取られ報告リターン』[#ここで中見出し終わり]

     夏休みボケが治らない。
     眠いし、残暑はまだまだ厳しいし、通学するだけでじわりとにじむ汗がうっとうしい。 頭がぼーっとする。
     学校に着いてもぼんやり感は続いている。 全校集会で新学期に向けてくっそ長く語っていた校長の話も気づいたら終わってた。 あやうく、体育館にひとり取り残されるところだった。
     これが夏休みボケでなくて、なんだというのか。 そして完治しない最大の理由もわかってる。
     あの夜が忘れられないからだ。
     あの日、夏祭りの夜――。 ヨリコちゃんに抱きしめられた、あの瞬間が。
     濡れた浴衣の感触。 やわらかい胸と、熱っぽい体温と。 どこか甘やかな匂い。
     今でも鮮明に思い出せるし、思い出せば胸に痛みをともなうのだ。
    「はあ……」
     ハンドポケットで息を吐き、教室の扉を開く。 ガヤガヤとせわしない喧騒に首を振りながら、席へついた。
     夏休みの間にどうやら俺は、ひと皮もふた皮も剥けてしまったらしい。 こんなんじゃ、クラスメイトがどいつもこいつも子供に見えちまうよ。
    「めっちゃ焼けとる! どこ行ったん!?」「海海! 女子大生ナンパ成功! エロかったわぁ」「髪黒すぎ。違和感でまくりじゃね?」「カレシがぁ、染めろ染めろうるさくてさぁ~! 戻すのマジ大変で~」「あいつもついに卒業したらしいぜ」「夏休み効果かよ。じゃあもうこれでうちのクラスに童貞いなくね?」
     クラスの連中そういやリア充ばっかだったわ! どいつもこいつも大人に見えてしょうがねえ! はいはーい童貞いますよー!
     ってバカッ!!
     もうやだこのクラス。 恋愛強者多すぎて絶対マウント取れないもの。
     ちらっと横目で、実はとなりの席同士である水無月さんを見る。 水無月さんはクラスメイトの会話で“清純な私にはまだ早すぎます~”な風に赤らめた顔を俯かせていた。
     夏祭りのときそんなじゃなかっただろ。 人格もうひとつ飼ってんのかな。
    「よーし席につけー! いつまでも夏休み気分でいるんじゃないぞ」
     お決まりの台詞と共に担任が登場し、教室につかの間の静寂がおとずれる。
     窓から空を眺めると、入道雲が風によってじわじわとその身を崩していく様が見れた。 引き裂かれて散って、夏が終わっていく。
     俺とヨリコちゃんは――。


     始業式と簡潔なホームルームでその日は終わり、教室を出る。 まだ頭は重いけど、これは夏休みボケなんかじゃない。
     ハッキリとわかった。色ボケだ。 いちどヨリコちゃんのことを考えると、それ以外のことが手につかなくなる。
     俺はヨリコちゃんのことが好きだと自覚した。 じゃあ、ヨリコちゃんは俺のことどう思ってるんだろう。
     ただの友だちか? 弟か? それならなんで、あんな抱きしめるようなこと。
     とにかくヨリコちゃんに会いたくて、たまらなくって、そんな想いが呼び寄せた奇跡か。 校門から出ていくところの、ヨリコちゃんらしき制服の後ろ姿を発見した。
    「あ――ヨリ――」
     駆け出す。 俺がヨリコちゃんを見間違うはずがない。 背中を追って校門を通過し、右に折れる。
    「ヨリコちゃ――……っ!?」
    「ん?」
     制服の女子はヨリコちゃんで間違いなかった。 でも俺は、ヨリコちゃんが振り返る前に、校門の陰へと急いで引っ込んだ。
     だってとなりには、ヨリコちゃんより一回り背の高い男子生徒の姿があったから。
     もしや、今のがケンジくんか? 顔まで確認できたわけじゃないけど……。
    「……ぅぷ――っ」
    「おわ!? 往来で吐くな吐くなー!」
     込みあがってきたものを、なんとかごくりと飲みくだす。 涙目で振り向くと。
    「はぁ……はぁ……マオ……?」
    「ソウスケー。脳を壊されちゃった顔してんねー? だから忠告したげたのになー」
     にっこにこ顔のマオから、バックパックで頭をボフンとやられた。


     引きずられるようにして連れてこられた喫茶店。 ストローでアイスコーヒーを口に含んだ直後、マオが核心をつく。
    「青柳のこと、そんな好きー?」
     夏休みの俺なら、即座に否定したことだろう。 だけどまっすぐに顔をあげた。
    「――好きだ……っ」
     一瞬だけ驚いたようなマオだったが、すぐにニンマリと笑ってうんうん頷く。
    「成長しておるなーソウスケ。わたしも見守ってきた甲斐があったよー」
     言うほど見守られてきたか?
    「けど……どうしようもなくて、悶々とする」
    「好きって言やーいいじゃん。んで付き合っちまえよ。んで童貞捨てさせてもらってー。んでセックスに溺れて――」
    「待て待てどんどん先に進むなよ!? だいたい、言えるわけないだろ!」
    「はぁー? なんで?」
    「なんでって……付き合ってる彼氏いんのに」
    「だからそれ、カンケーなくね?」
    「だからそれを関係ないなんて言えるの、マオだけで――」
    「いや。カンケーないね」
     めずらしく真摯な表情と声音で言うと、マオはアイスカフェラテをぐびぐび飲んだ。 ッターン! とコップをテーブルに叩きつける。
    「するってーとなんだ? いっかい天晶と付き合っちまったら、青柳はもう天晶の|もの《・・》なんかー? 青柳の意思もいっさいカンケーなく? そんなん、それこそ女を|もの《・・》扱いしてんじゃねーのか? 戦利品じゃねーんだぞ」
     口調は酔っぱらいみたいだったけど、マオにひと言も返す言葉が出てこない。
    「なー? だからソウスケー。奪っちまえばいい。なーんも悪いことじゃない。奪われちゃうやつが、カノジョを繋ぎとめられなかったやつが悪い」
     悪魔の囁き。 でもそれはなんてことない、俺がフタバさんに言った台詞と似たような意味合いだった。
     いいのかな? 俺はヨリコちゃんを彼女にするために、一生懸命になってもいいんだろうか?
    「で、でも、どうやって……」
     アルバイトは終わったし、学校じゃ学年違うし、帰りはケンジくんと一緒なんじゃそもそも合う機会も。
     テーブルの下で俺のひざを、コツコツとローファーの足先で蹴ってくるマオ。 にひっと並びのいい歯を見せて。
    「わたしにまかせろよー! 困ったときはお互いさまでしょー? カワイイ後輩が悩んでんのに、放っとけるわけないっての!」
    「ま、マオ……っ!」
     熱いものが込み上げてくる。 こいつ、性癖は終わってるけどまじでいいやつだな。 寝取られ素養のあるイケメンと友だちになったら、真っ先に紹介してやろう。
    「おっしソウスケ! んじゃーまずはこれにサインして!」
    「ああ!」
     差し出された用紙に、サラサラと名前を書いた。
    「……ん? 都市伝説……創作部……て、なに?」
    「わたしが部長やってる部活ー。ようこそ我が部へ! あした部員に顔合わせやっから逃げんなよー?」
    「…………」
     アイスカフェラテをおごらされて、家路についた。


     デイパックをベッドにぶん投げると同時、スマホの着信が鳴る。 もう何も信じない。 スピーカーにして、机にゴトンと放った。
    『――も、もしもーし……? 聞こえてる? ソウスケくん』
     え!? ヨリコちゃん!? 意識がスマホに持っていかれる。
    『――あ、あん、あのね? いま、街でスカウトしてきた、あん、ひとにラブホ連れ込まれて』
     懐かしさで、涙腺がゆるむ。 これだよ、これ。 俺が本当に望んでいたもの。
     なんでまたこんなバカ丸出しなこと始めたの? だとか。 設定はちょっとひねってきたけど、相変わらず棒演技だね? だとか。
     突っ込みどころは山ほどある。 でもさ、俺うれしくて。
    『――水着だけって話だったのに、やん、だめぇ、か、カメラ回しはじめて、あの、聞いてる? ソウスケくん? おーい』
     おかえり、ヨリコちゃん。




      [#ここから中見出し]『第35話 この部活が都市伝説』[#ここで中見出し終わり]

     こうして声を聞くのは、夏祭り以来だ。 ヨリコちゃんの寝取られ報告電話にひとり、感慨深い思いでいると。
    『――……あっれ……? ……無視かな……いや、電波……?』
     などと不安げにヨリコちゃんはボソボソ呟いた。
     最近のスマホはそうそう通話障害なんて起きないけど、無視されてるとは思いたくないヨリコちゃんの性格がよくあらわれてる。
    「ごめん、聞いてる。考えごとしてた」
    『――あっ。ああ、そぉなんだ! い、いきなりなんかごめん、あ、はは』
     そしてお互いに沈黙する。 正確にはヨリコちゃんの言葉を待つ。
     だってそうだろう、こんなことしてきた理由が必要だ。 ヨリコちゃんだってそれはわかってるはずだ。
     これから聞くひと言で、あの夜の行動の真意がわかるかもしれない。 それはきっと、今後の俺たちの関係を決定づけるひと言。
    『――あのね』
     ベッドに腰かけて、ひざの上で拳を握る。
    「……うん」
     ごくりと喉が鳴った。 なんだ、何を言う。
    『――嫉妬した?』
    「もてあそぶのやめてくんない!?」
     こいつ俺の気持ち知ってるよな!? タチ悪すぎるだろ!
    『――え、えと、今の実は演技なんだけど』
    「それはわかってる。まだ時間停止ものの方が信じられるレベル」
    『――時間停止もの?』
    「なんでもないですっ」
     でも正直ヨリコちゃんの棒あえぎはなんか興奮するんだけどな! あとシチュエーションもよかったよなし崩し的なAV撮影みたいで!
    『――じゃあ興奮した?』
    「なに? ヨリコちゃんは俺を嫉妬や興奮させたいわけ? それって俺のこと――」
    『――いやケンジくんに』
    「ケンジくんかよッ!!」
     こいつまじでもうわかんねえよ! 人の心どっかに捨ててきたの!?
     つかそれならケンジくんに寝取られ報告しろや!
    『――だから、その、ソウスケくんにさ。て、添削してほしいっていうか』
    「てん……さく……?」
     ヨリコちゃんの口から出てくるワードの、ことごとくが理解できなくてアホみたいに復唱した。
     考えろ。 考えたくないけど、なんとか脳を回転させる。
    「……つまり、え? その寝取られ報告の内容を、俺が考えるってこと?」
    『――すごいね!? まだ説明してないのに!』
     褒められてもぜんぜん嬉しくない。 突っ込むのも疲れてきた。
    「なあ、教えてくれ。……なんで俺に?」
    『――え? だってマオが、ソウスケくんは創作の天才だから、頼んでみろって……』
     やっぱマオか~~っ! よくないよほんと、マオの言うこと鵜呑みにするの。
    『――ちがった? ご、ごめん! あたし、そうだよね。ちょっと考えればわかることなのに……わ、忘れてぜんぶ! それじゃ――』
    「実は子供の頃から文豪の名を欲しいままにしてた!」
    『――は……?』
    「やってやるよっ! 寝取られの創作だろ!? ケンジくんの脳を完膚なきまでに破壊するような、最高の寝取られシナリオ書いてやるってんだ!」
    『――破壊までしなくていいんだけど……』
     マオの思惑は置いておいて、せっかく繋がりそうなヨリコちゃんとの接点を手離したくない。
     詳細は後日と話をして、通話を終了した。
    「…………」
     つい勢いで事を進めてしまった。 冷静になれば、後悔と恥ずかしさが押し寄せてくる。
     天井をあおいで、思う。
     ……シナリオってどうやんの?


     答えは、翌日にあった。
     破り捨ててもいい約束だったけれど、書類には俺の名が記されてしまった。 マオとの約束通り、文化部が占拠している旧校舎をおとずれる。
    「都市伝説創作部。……ここだな」
     名前からしてニッチな部だ。 よく部活動として認められたな。
     どうせ部員なんて、マオしかいないとかいうオチがついてんだろ。 沈んだ気持ちのせいか、やけに重く感じる扉をガラガラ開く。
    「おお! きたー!」「マオの言ってたカレ、この子!?」「1年? 若けぇわ~」「菓子食う? 菓子」「なんかポカーンとしてね?」「逃げそう」「鍵しめよ」「真ん中座らせて囲め」
     ギャルのたまり場だった。
     派手な見た目のいかにもなギャルや、黒髪のネイルバッチリなクール系ギャルに引きずられ、部室の中央の椅子へ座らされる。
     目線の先では、机に両肘ついて、顎の下に手をあてるマオがいた。
    「よーこそソウスケくん。わたしが部長の獅子原麻央である。我々の卒業も迫るなかー、こうして1年生を迎えられることを誇りに思うー」
     マオの言葉に、周囲のギャルたちが沸き立って拍手があがる。 お菓子とかいっぱい握らされる。
    「……で。何か質問はー?」
     騙されたことはわかっている。 不服だという態度を示すため、マオをじっとり睨みつけた。 もう、我慢ならないぞ。
     俺は椅子をガタンと揺らして立ち上がる。
    「質問ありませんっ! 1年生の弓削蒼介です! これからよろしくお願いします!」
     不満なポーズ取るだけでも精一杯だった。
     あたりまえだよ、決まってんだろ。 だってめっちゃいい匂いすんだもんこの部室。 こんな部活動に誘われて、断れる男がいるもんかよ。
     巻き起こるソウスケコールに、俺は赤面してデレデレ鼻をかくのだった。




      [#ここから中見出し]『第36話 すぐに壊れる様式美』[#ここで中見出し終わり]

    「よろしくなー! 副部長!」
     にっこり笑って立ち上がったマオが、俺の肩をポンポンと叩く。
    「いやーよかったよかった」「うちらの青春の場所だもんねー」「廃部とかわらえんし」「文化祭またマオのやつ見たかったわー」「オケいく?」「いいねー!」
     ぞろぞろ連れ立って部室を出ていくギャル集団。 その最後尾に並ぶマオの腕を、いそいでつかまえる。
    「ちょっと待てよ!? 説明しろ説明!」
    「えー?」
     さもめんどくさそうに、キューティクルな金髪をかきあげるマオ。
    「えー? じゃねんだよ。なんでみんな出ていくの? 廃部って聞こえたけど? 副部長って誰!?」
    「ちょぉちょぉいっぺんに食いつき過ぎー! がっついちゃダーメ♡」
    「うぐっ」
     鼻っ柱を人差し指で押されて、遺憾ながら後退する。 マオは満足げに頷いて。
    「都市伝説創作部。その活動はー、創作した都市伝説をネットに流してー、まとめられたりバズらせることを目的としてまーす」
    「ろくでもない部活だな。ってそうじゃなくてさ! 俺の質問いっこも答えてないじゃん!」
    「わたしら3年だから来年卒業でしょー? 部長と副部長の最低ふたりは部員いないと廃部になるわけー。で、部活引き継いでもらおーと思って」
    「……だれに?」
    「ソーちゃん♡」
    「かわいく言ったって無駄だからな!? だいたい俺が副部長なら部長はマオだろ!?」
    「え、部長ならいるじゃん」
    「……どこに?」
    「そこ」
     顎をしゃくるマオが指し示した場所には、ひとりの男子生徒が一心不乱にぶ厚い本を読みふけっていた。
     まじでいたー!? てか魚沼くんじゃねえか!
    「ウオっちは入学してすぐ部活入ってくれたかんねー? 部長の座はあきらめてよ」
     え。 魚沼くんって、こんなギャルばっかの部活にずっと男ひとりでいたの!?
     呪術オタクどころか超勝ち組じゃねえか! なんで俺に教えてくれなかったわけ!?
     とくに親しいわけでもないから当然だったわ!
    「い、いや、でも、俺」
    「――青柳から相談受けただろー? アイツは今さぁ、ショッキングな出来事があって心が壊れそうになってんのー」
     ほんとガラスのハートだなヨリコちゃん。
    「救ってやるんだよソウスケー! おまえの創作でー! ついでに堕としちまえー!」
    「いやだからっ、俺はシナリオなんか書き方もわかんなくて――」
    「おいおいーなんのための部活だよー? 部長に聞けー。あとわたしの文集とか参考にしろー?」
     マオはするりと俺の拘束を抜けて、扉に手をかける。
    「あと文化祭、期待してっからー」
     大きな瞳でパチリとウインク決めて、俺の制止も聞かずマオは出ていってしまった。
     文化祭……? それより俺は、どうしたら。
     横目で見やると、俺とマオのやり取りなんか無かったかのように魚沼くんは本を読んでいる。
    「ぶ、部長……? あの、シナリオの書き方って、わかります?」
    「リビドーだよ。創作に必要なのはリビドー。文章や作法なんてものより、自分が書きたいものを書くべきだ」
     意外とふつうに教えてくれた。
     しかし、書きたいものか。 ようするに、俺がヨリコちゃんにやってほしい寝取られを書く。
     いや、俺は寝取られとか大嫌いなんだけど。 でも……そうだな。
     用紙とシャーペンを手に取り、魚沼くんの対面に座った。
     いちど書き始めると、止まらなくなる。 思うままに、リビドーを解放する。


    「……できた……!」
     辺りはすっかり夕暮れに染まり、運動部も帰宅するであろう時間。 つたないながらも、はじめての創作活動に俺は充足感で満たされていた。
     きっと出来はひどい。 だけどやりとげたんだ。
    「……おめでとう」
     祝福を投げてくれたのは部長の魚沼くんだ。 遅い時間なのに、まさか俺を待っててくれたのか。
    「あ、ありがとう! なんとか、書きあげられたけど……中身はひどくて」
    「最初はみんなそんなものだよ。よかったら読ませてもらえないかい?」
    「あ、ああ。ちょっと恥ずかしいけど――」
     魚沼くんに用紙を渡そうと伸ばした腕を、抱きかかえるように引っ込める。
    「弓削くん?」
     いや絶対だめだろ。 だってこれ寝取られシナリオじゃん。 他人にこんなもん見られたら高校生活終わってしまう。
    「ごめん。今度またまともなもの書いたら、見せるからさ」
    「そうかい……? じゃあ次を楽しみに――ハッ!?」
    「う、魚沼くん?」
    「では僕は、これで失礼するよ!」
     鞄を引ったくるように取ると、魚沼くんは普段からは想像もできない機敏さで部室を出ていった。
     なんだったんだ、いったい。
     あっけに取られてから、約10秒ほど。 ふいに部室の扉がガララ! と開いて「ひ!?」と声がもれてしまう。
    「――……あら? たしか、弓削くん」
     部員でもないはずなのに、我が物顔で部室に入ってきたのは水無月さんだった。 水無月さんは、部室を隅々まで見渡して。
    「……魚沼くんは……見ていませんか……?」
    「ぶ、部長ならついさっき、帰ったけど」
    「そぅ……失礼しました」
     優雅なお辞儀をして、水無月さんが部室を出る。 去り際に黒髪を揺らがせて。
    「……ほんとう……いけない子……」
     そんなゾッとする言葉を残していった。
     だんだん主従関係があきらかになってきたな! 面白えけど怖えー!
    「……はぁ」
     帰る前に、マオの文集とやらも見ておくか。 参考までに。

    ◇◇◇

     ――シシダチとは、古くからその山奥の村に伝わる伝承である。 曰く、シシダチとは呪いであり、四肢断ちとも記されている。 呪いの伝承は幕末から明治にかけ、|四半的《しはんまと》という弓術が子供の間で流行していた頃。 一人の少女が、その四半的の名人だとして持て囃されていた。 子供の間だけではなく、酒宴の席にも呼ばれ、腕を披露していた少女。 その日もまた、藩主のお屋敷へと呼ばれた少女は、宴で弓を射っていた。 一射、また一射、と的に矢が命中するたびに宴が沸き立つ。 幼いながらも、凛とした美しい少女の姿勢は、単純な腕の良さを目の当たりにした興奮とは、別種の熱気をも生む。 酔いが回ったとある男が、少女にひとつ提案を持ち掛けた。 その綺麗な腕を、いや足を、次の一射で――


    「んんんんんー!?」
     パタン! と文集を閉じて、もとあった棚にそっと片づける。
     え? なに? え? なんかめっちゃ怖。まだたぶん冒頭なのに怖。
     これほんとにマオが書いてんの? 普段のマオを知るだけによけい怖いんだが。
     そ、そうだ、帰んなきゃ。 帰って寝取られシナリオ、ヨリコちゃんにさっそく送りつけてやろうっと。
     すっかり暗くなってしまった校舎を、ビクビクしつつも全速力で走り帰った。




      [#ここから中見出し]『第37話 妄想ナイトプール』[#ここで中見出し終わり]

    『――ふぅん。さっき送られてきたこのセリフ? 読めばいいわけね?』
    「そうそう」
    『――このセリフの前に【ヨ】て書いてるのがあたし?』
    「そうそう」
    『――じゃあこの【彼】っていうのは?』
    「彼氏役は俺がやるよ」
     軽く打ち合わせたりなんかして。 さっそく俺のシナリオ第1弾をお披露目する機会がやってきた。
     ご好評につき、てな感じで第2、第3弾とシリーズ化していきたい所存。
     受話スピーカーから届くヨリコちゃんの咳払いに、俺まで緊張する。 なんか心の奥までさらけ出してるみたいで、照れくさくてしょうがなかった。
    『――わ、わぁ! ここがナイトプール!? ライトアップめちゃきれーい!』
    「……うん。ちょっと固いけどまあ、つづけて」
    『――あたしナイトプールとか行ったことないんだけど。あとセリフ説明っぽくない?』
    「つづけて!」
     演者が監督にダメ出しすんじゃないよ。 まず状況を説明しないとはじまらないだろが。
     俺は神経質に机を指先でトントン叩く。
    『――ねぇねぇ、やっぱいっしょに来たかったね? 彼、氏の名前……』
    「そう。そこは……彼氏の名前を呼ぶ」
     あえて“彼氏”としか書いてない。 ケンジくんの名をシナリオに登場させるのは、なんかイヤだったという子供じみた理由からだ。
    『――じゃあ。いまは、彼氏役をやってくれてんだから……――いっしょに来たかったね? ソウスケくん』
     胸が熱くなる。 名前を呼ばれたことが、想像以上に嬉しくて。 まるでヨリコちゃんに選ばれたみたいだ、なんて思ってしまった。
    『――……おーい彼氏くん、セリフセリフ』
    「え? ああ、俺か。――よ、ヨリ、ヨリコ……ちゃんはか、か、か」
    『――いや演技ひっど!? どんだけ緊張してんの!? よくそんなんでひとにダメ出しできたね!』
    「ヨリコちゃんはかわいいから! ナンパとかされないか俺心配だよ!」
     くう……演者からの突っ込みが激しい。 自分で書いた脚本とはいえ、これを自分で口にするとなれば羞恥心が増大してしまう。
     立ち上がってエアコンの真下を陣取り、冷風を直接浴びて火照りを冷ます。
    『――ね。このシナリオだと、ヨリコって呼び捨てになってるけど?』
    「ミスですごめんなさい! 次いって次!」
     くそ、俺が呼べないのわかってて言いやがってヨリコめ! 心の中じゃいくらでも呼んでやるぞヨリコめ!
    『――ちょっと水着派手だったかなぁ? なんか細マッチョに、じろじろ見られて……あ、ヤバ。こっち来た』
    「よ、ヨリコちゃん! それたぶんナンパだよ! はやくそこから離れて!」
    『――だいじょぶだってぇ。ちょっとあしらってくんね?』
    「ヨリコちゃん!? ヨリコちゃん!」
    『――そして1時間後』
    「あ、そこ読まなくていいとこ」
     ここからが本番だ。 ヨリコちゃんの演技力に磨きをかけていかないと。
    『――あっ、やんちょっと、勝手に電話、ダメだって……もう』
    「よ……ヨリコちゃん……?」
    『――そ、ソウスケくん、気にしないで? なんでも――あっこら!? く、ぅ、ない、から……!』
    「なんか声我慢してない!? ヨリコちゃん今どこいんの!? 何してんの!? ヨリコちゃん!? ねえヨリコちゃんっ!?」
    『――ちょっマジ耳もとでヨリコちゃんヨリコちゃんうるさっ!! てかそんなセリフこれに書いてないじゃん!?』
     つい、熱が入りすぎてしまった感は否めない。 エアコンの冷風を浴びてなお、汗だくになっていた。
    「あ、アドリブってやつだよアドリブ」
    『――だいたいさぁ? これじゃ、いつもあたしがやってんのと変わりなくない?』
    「ぜんぜん違うって! つづき読んでみてくれ!」
    『――えー……だって、つづきって……そ、そんな浮き輪に乗ってとか、あっ!? そこ、そこは、あたしの、あたしの――』
    「あ、あたしの?」
     いいところで沈黙してしまったヨリコちゃんに先をうながした。 もっとも筆が乗った箇所なので、ぜひとも完読してもらいたい。
     次第に、うなるような声をあげはじめるヨリコちゃん。 そして高まった感情を爆発させる。
    『――やっぱやだっ!! あたしにセクハラしようとしてない!?』
    「断じてしてない! 創作はリビドーだから!」
    『――なんっ……りび!? 知らん言葉使うなし! そもそもあたしのキャラもちがうし、あと浮き輪ってなに!? なにすんの浮き輪で!』
    「いやこう、プカプカ浮かびながら重なって」
    『――無理でしょ!? バカじゃないの!? とにかくこれはぜーんぶダメ! 作り直して!』
    「そんなっ!?」
     頼まれたから添削してやったのに、気がつけばリテイクをくらっていた。 もし俺が作家先生だったらプライドがズタズタになっていたところだ。
     通話が切れてしまったので、エアコンから離れてベッドに腰かける。
     しかし、あれだな。 演技とわかっていても、彼氏役はやっぱ脳の負担が大きい。 心臓もヤバい。
     配役を考え直す必要があるか。 となると……そうか、電話じゃなくたって。
     すでに深夜に差しかかろうとしていたけれど、そのまま小1時間ほど机に向かう。 この日は机に突っ伏して寝てしまった。




      [#ここから中見出し]『第38話 運命』[#ここで中見出し終わり]

     ヨリコちゃんの寝取られシナリオになんかハマったせいで、寝不足がひどい。
     教室では間近に迫った体育祭の、出場競技の割り振りなどをやっている。
     体育祭か……。 ふと頭に、体操着姿のヨリコちゃんが浮かぶ。 やる気のない目をしながらも、ハチマキなんかはしっかり締めて。
     砂ぼこりの舞うグラウンドを二人三脚。 相方の男子と歩調が合わず、文句を言いつつなんとかゴール。
     打って変わってはじける笑顔。 汗かいちゃったね? ちょっと涼みにいこうか、なんてふたりきりでグラウンドを離れて。 次第にひと気の無い場所へ、誘われるがままについていく無防備なヨリコちゃん。
     密室と化した体育倉庫のマットにふたりは腰かける。 ふいに雑談が途切れ、男子生徒の手がヨリコちゃんの豊満な――豊満……ではないな、べつに。
    「じゃあ、次ー。二人三脚参加希望のひとー」
     反射的に右手をあげる。
    「はい、弓削くんで決まりね」
    「え?」
     黒板に“二人三脚→弓削”と書かれ、ひとり頭をかかえた。
     しまった。 ヨリコちゃんの体育祭ドキドキ寝取られなんか妄想してたおかげで、二人三脚のワードに反応して立候補しちまった。
     もっと運動量の少ない競技で軽く流そうと思ってたのに。
    「なお今年の二人三脚は3年生とペアを組むそうなんで、選ばれたひとは次の体育で顔合わせに向かってください」
    「え!?」
     さっきより大きい声が出てしまい、クラスメイトから注目を浴びる。 でも、そんなことどうだっていい。
     運命……なのでは? この流れは、まさか妄想が具現化しようとしているのでは。
    「二人三脚の参加、だれかもうひとり――」
     考えるほどに、確信めいた思いが沸き上がってくる。 俺は胸を高鳴らせて、体育の授業を待った。

    ◇◇◇

     体操着を身につけ、グラウンドの端っこに集合する。 1年生と3年生を合わせて20名。 ここにはいないけど2年生から10名の参加で、計30名が当日の二人三脚の参加者となる。
     はたしてそこに、ヨリコちゃんはいた。
     気だるそうに、片腕を掴んで伸ばした体を、横に倒していくヨリコちゃん。 白いわき腹がチラ見えして、凝視してしまう。
     って、いかん。 こんなの他の男子にも見られちゃうだろ。
     駆け寄って、小声で呼びかける。
    「よ、ヨリコちゃん。おなか、見えてる!」
    「ソウスケくん!? こ、こら、ここ学校なんだし、呼び方!」
     そ、そうか。 親しげにヨリコちゃんなんて呼んでたら、たしかに変に思われるよな。
    「……てか、二人三脚出るんだ? ふぅん」
    「ヨ……青柳さんこそ」
     どこか会話はぎこちなく、ヨリコちゃんの顔がほんのりと赤い。 たぶん俺の顔もそうなってるんだろう。
     電話はしてるけど、こうして面と向かって話するのは久しぶりだ。 そしてこの偶然。 やっぱ運命を感じる。
     新しい寝取られシナリオの話もしたいけど、まずはサクッと二人三脚のパートナー登録を済ませておこう。
    「あの青柳さん、俺と二人三脚――」
    「あっ! キミ1年生? よかったらあたしとコンビ組まない?」
    「ええ。よろしいですよ」
     誘った瞬間に、ヨリコちゃんは他の女子とペアを組んでしまった。 伸ばした手が、宙ぶらりんとなる。
    「え……? 運命は?」
    「交響曲第5番のお話でしょうか」
    「ちがう!」
     なんのことはない。 ヨリコちゃんが誘った1年は水無月さんだった。 クラスから2名、水無月さんも二人三脚のメンバーだったのか。
    「てかさぁ。ふつうに考えて男女でペア組むわけないじゃん? 漫画じゃあるまいし」
    「ぐぅ……っ」
     ぐうの音が出た。 正論なので何も言い返せない。
    「……水無月と申します。よろしくお願いいたしますね、先輩」
    「あたしは青柳。よろしくね? 水無月さんて……どっかで見たことあるような」
     祭りのときは遠目だったし、何より俺がヨリコちゃんの口とか塞いでたからな。 それどころじゃなかったんだろう。
     ヨリコちゃんは水無月さんと、二人三脚の練習をはじめてしまった。 俺はどうしようかと周囲を見回していると。
    「よう、1年か? 相手いないんだったら、オレと組まないか」
     振り返れば、俺より少し背の高い、3年らしき男子生徒がさわやかに笑いかけてきた。
     とくにイケメンというわけじゃないけど、人に好かれそうな嫌味のない顔立ちだ。 なんというか清潔感がある。
    「あ、じゃあよろしくお願いします。俺は弓削です、弓削蒼介」
    「おう。よろしくなソウスケ!」
     握手を求められたので、交わす。
    「それで、先輩は?」
    「そうだな……“青の守護者”とでも呼んでくれ」
    「……は?」
     その3年生の男子は、これで自己紹介は終わりだとばかりにマッシュな黒髪をかきあげ、グラウンドへと俺をうながした。
     先輩だけど、あえて言わせてもらおう。 こいつもぜったい変なやつだわ。




      [#ここから中見出し]『第39話 青の守護者とかいう先輩』[#ここで中見出し終わり]

     謎の男子、青の守護者との二人三脚は意外なほど相性がよかった。
    「おし、次は右からだソウスケ!」
    「うっす」
     右、左、右、左、1、2、1、2――
    「スピードあげていくぞ!」
    「くっ――!」
     大きな動作をなるべく削り、ただ呼吸を合わせることだけ考えてゴールまで走り抜ける。 今のは、なかなか速いタイムが出たんじゃなかろうか。
    「はあ、はあ、やるじゃん」
    「いや、先輩こそ、はあ、速いすね」
    「この調子だと1着取れるかもな」
    「俺はべつに、順位は」
     先輩は不敵な笑みをたたえながら、広いグラウンドを見渡した。
    「やるからには狙うだろ? 1着」
     それがこの人のスタイルなんだろう。 デキる者特有の自信。 まぶしいよ、いやほんと。
     ふと真顔になった先輩は、肩で呼吸する俺をじっと見下ろす。
    「……ところで、ぜんぜん青の守護者って呼んでくれないのな」
    「呼びませんよ、そりゃ」
     呼ぶ方だって恥ずかしいんだぞ。 狂気じみた遊びはよそでやってくれ。
     6限目の体育もそろそろ終わりの時間なので、俺はヨリコちゃんの姿をさがす。 ほどなくして、水無月さんといっしょに校舎へ戻る後ろ姿を見かけた。
     シナリオの件を話したい。 思いきって帰りを誘ってみようかな。 彼氏となんかあったみたいだから、ひとりで帰るつもりかもしれないし。
    「ヨリ――じゃなかった青柳さ――」
    「なあソウスケ」
     後ろから肩をがっしり掴まれ、呼びかける声が途切れた。 けっきょくヨリコちゃんは俺に気づくことなく、校舎の中へと消えてしまう。
     ああ……。 なんてことしてくれんだ、この先輩は。 忌々しくも振り返った。
    「……なんすか、青の守護者さん」
    「はは。なあ、ちょいと付き合わないか?」
    「は?」
    「いっしょに帰ろうぜ、って言ってんだよ」

    ◇◇◇

     なんの因果か。 俺は帰り道を、青の守護者パイセンとふたりで歩いていた。
     なんなんだこの状況は。 友だちやせめて知り合いならまだしも、今日会ったばかりの先輩男子といっしょに帰ったって話も弾まない。
     空は俺の心を映し出したかのような曇り空。 台風きてんだっけか。 いずれにせよ、天気の話題なんか振りたい気分でもなかった。
    「ソウスケはさ、好きなやついんのか?」
    「と、唐突ですねまじで。……まあ、いなくはないですけど」
    「そっか。オレもいるんだよ、好きなやつが」
    「へえ……」
     先輩は、街の雑踏を眺めるようにゆっくりとした歩幅で歩く。 とくに意識した様子もなく、普段からそんな歩調なのかもしれない。
    「もしかして彼女ですか?」
     まるで女の子といっしょのときみたいな緩い歩き方だったから、そうたずねた。
    「ま、そうなんだけど。ちょっと最近うまくいってなくてな」
    「喧嘩したんですか?」
    「オレにはぜんぜん怒る要素はない。……怒らせちゃったんだよ、放ったらかし過ぎだってな」
    「あーそりゃいけない」
     放置はダメだ。 身近なヨリコちゃんという存在を知ってるから、よけいに思う。
     足もとに視線を落とした先輩は、ある種の決意を秘めた瞳で静かに呟く。
    「たしかに今は寂しい思いをさせてる。けどもう少しの辛抱なんだ。将来あいつに、苦労なんてかけたくないからさ」
     彼女に対する想いが真摯なのは伝わる。 真剣に未来図を描いてるんだろうな。 これだけ想われてれば、彼女だって幸せだろう。
     でも俺とは少しだけ、違う。
    「今を彼女といっしょに楽しんで、将来もいっしょに苦労していく方がよくないすか。たぶん、そっちの方が彼女も嬉しいんじゃないかって……」
     偉そうに言うことでもない。 きっとどっちが正しいかなんて、ないはずだから。
     青の守護者パイセンは、俺の顔をまじまじと見つめている。 あんな台詞言ったあとだし、超恥ずかしい。
    「ソウスケってさ、オレの彼女みたいなこと言うんだな」
    「え? いや、受け売りみたいなもんなんで」
     祭りの夜にヨリコちゃんが言ってたことだ。 あれがあったから、俺の考えも変化していったのかもしれない。
     先輩が前触れなく、俺の背中をバシバシ叩く。
    「このあとメシでも行かねえか? おごるぜ? ファミレスなんだけど、割り引きっつうか顔パスみたいなもんだからさ」
    「今日は、やめときます。飯炊いて出てきたんで」
    「そっか。わかった」
     断りにも、不満を見せるようなことはなく。
    「じゃあまたなソウスケ! 体育祭、1着だぞ?」
     鞄ごと腕を振り上げて、青の守護者パイセンの背中は小さくなっていった。
     なんだろうな。 いっしょにいて不快に思うことがまるでない。
     ああいうのがモテるんだろな。はあ――
     ――……あいつ、ケンジくんじゃね?




      [#ここから中見出し]『第40話 妄想台風現実連動型』[#ここで中見出し終わり]

     窓がガタンガタン激しく揺れている。 壁が軋むような音を出し、雨は機関銃のようにマンションを撃ちまくっている。
     近年ではかなり大きい方の台風だ。 土曜なんで学校は休みだが、平日だったとしても臨時休校だろう。
     こんな日はすることもない。 漫画もそこそこに、ヨリコちゃんの寝取られシナリオを書いていた。
     今や俺のライフワーク。 ストックもたまってきた。 はやくお披露目したいんだけど……。
     スマホを手に取り、ヨリコちゃんに“ヒマ?”とメッセージを飛ばしてみる。
     ほどなくして。
    “ひま”“じゃない”“つぎの新月っていつ?”
     は? 新月? いや“わかんないよ”と。 そもそも“なんで?”。
    “新月に願い事すると”“叶うんだって恋愛”“おまじない”
     なんとも女の子らしいことで。 ケンジくんとの仲を修復したいのかな。
     おまじないか。 |呪《まじな》いって書くんだよなたしか。
    「……うーむ」
     それ“だれに聞いたの?”と。
    “水無月ちゃん”“なんか詳しいんだって”
     ふむふむ。 これは……見えてきたな。 水無月さんと魚沼くんの関係性が、徐々に。
     魚沼くんが呪術関連の本ばかり読んでいたのは、好きだからではなく、そうせざるを得なかった可能性。 つまり呪術の知識を早急に蓄える必要があった。
     なぜならば本当の呪術使いは――。
     ポコンとスマホがメッセージを受信し、思考が中断される。
    “ね”“ひまなんだけど?”
     さっきはヒマじゃないって言ったくせに。 ほんとにかわいいやつだな、こいつ。
     しかしヒマというなら話は早い。 俺はストックされた寝取られシナリオの中から、本日にもっともふさわしい1本をヨリコちゃんに送りつけた。
     すぐに着信を告げるスマホに飛びつく。
    「もしもし」
    『――なに、あれ?』
    「新しい脚本。見た? ちゃんと台風の日の話になってんでしょ!?」
    『――まだ見てないし、そんな興奮されましても。てか、わざわざそんな限定的なシチュエーションのやつ書いたの?』
    「そうだよ先見の明ってやつ! すごくない!?」
    『――台風の日しか使えないじゃん、それ』
    「…………」
     たしかにそうだ。 ストックを振り返ると、雪山遭難寝取られ、トンネル閉じ込め寝取られ、雨のバス停寝取られ、クリスマスミニスカサンタ寝取られ。 等々、限定的なシチュエーションがてんこ盛りだった。
     いつか、刺さる。 ズブッとな。
    『――まぁ……やってもいいよ? 弟は友だちの家行ってて泊めてもらうらしいし、お父さんは職場に泊まるらしいし? お母さんも心配だからってお祖母ちゃん家行ってるから……声、だれにも聞かれないし』
    「じゃあヨリコちゃん、家にひとりなの? 大丈夫? 怖くない?」
    『――はぁ? あたしの胆力舐めんなっての。ほらほらやるよ! えーと前といっしょで【ヨ】ってのがあたしね? この【間】っていうのは?』
    「今回は、間男役でいかせていただきます」
     現実でも、そっちの役割の方がしっくりくるのが悲しいところ。 けれどこの寝取られシナリオにおいて間男とは、ずばりヨリコちゃんを落としてえっちにもつれ込むという役得なポジションなのだ。
     彼氏役より好待遇。 やるっきゃないだろ。
    『――風雨が強くなり、家に遊びに来ていた男子を泊めることになったヨリコ……前から気になってんだけどさ? ソウスケくんの中であたしって、なんか尻軽なイメージついてない?』
    「いや、ある程度の尻軽さは必須! だって寝取られちゃうんだから」
    『――それはそうなんだけどさぁ……なんかヤだなぁ』
    「はいほら演技! 集中集中!」
    『――あたしにこれ、やらせるときだけやたら元気だよね? ……ぅゔんっ。――風、強くなってきたね? ソウスケくん』
     喉を鳴らして、女優モードに切り替わったヨリコちゃん。 俺も足をひっぱらないよう、シチュエーションを具体的にイメージする。
     まずはベッドに腰かけて。
    「怖くないか? ヨリコちゃん、もっと近くにおいでよ」
    『――ううん、あたしはここで……きゃっ!?』
     いっそうの暴風が吹き荒れ、窓を激しく叩いた。 怯えるヨリコちゃんの腕を掴み、ベッドへ座らせる。
    「ほらとなり、座って?」
    『――う、うん。……あの、手』
     ベッドに座らせたあとも、俺はヨリコちゃんの手を握りしめたまま。 もぞもぞと具合悪そうに動く指先を絡め取って、荒れ狂う嵐を堪え忍ぶ。
    『――手……やっぱ離して? あ、汗かいちゃってるし、その』
    「汗なんか気にならない。だから離さないよ」
    『――でも、だめ、だめだよこんな……あたし、彼氏が――きゃ!? なに、て、停電……?』
     真っ暗闇の部屋で、呆然とヨリコちゃんは天井を見上げる。 不安に満ちた横顔にそっと触れ、細い肩を抱き寄せた。
    『――ソウスケくん……?』
    「もっとこっちにきて、ヨリコちゃん。何も見えなくても、こうして抱き合えば姿形がわかるから」
    『――で、でも……ん……あたし……あた、し』
     目尻からひとすじの雫を流して、ヨリコちゃんは――。
    『――うわああああああ!?』
    「うおおおおーッ!?」
     大絶叫した。 びっくりした。 おかげで俺まで悲鳴あげてしまった。
    「な、なに!? この場面で悲鳴あったっけ!?」
    『――ちがっ……ちがくてっ! 窓! 窓ガラス割れちゃったかも!? どうしよう!? どうすればいい!?』
     え、ガチの話? たしかに今すげえ風は吹いたけど。
    「とにかく落ち着いてヨリコちゃん! むやみにガラスとか触らないで――」
     スマホは放り投げてしまったのか『――風ヤバ……どうしよう、お父さんに電話……』とおろおろするヨリコちゃんの声が遠く聞こえる。
     迷ってるヒマはなかった。 雨合羽を羽織って、靴箱の奥から長靴をひっぱり出す。 何年ぶりかな、長靴履くの。
     玄関のドアを開けた瞬間、外へ出ることを拒むかのような凄まじい暴風に体が押し戻される。
     ヤバいな、風。 うっかりすると死にそう。
     足腰を踏ん張り、外に出た。 何度かぶり直してもフードが外れるので、放っておく。
     待っててくれよ、ヨリコちゃん……!
     人っ子ひとりいない道を、焦らず、慎重に歩みを進めながら思う。
     本当にびっくりしたときの悲鳴って、かわいらしいもんじゃないんだな。




      [#ここから中見出し]『第41話 嵐過ぎるまで』[#ここで中見出し終わり]

     住宅地を塀伝いに進み、暴風に対処しながらなんとかヨリコちゃん家にたどり着いた。 しかしインターホンを押しても、ドアを叩いても一向にヨリコちゃんは現れない。
    「ヨリコちゃんっ! ヨリコちゃんっ!?」
     まさか、なんかあったのか!? 焦りがつのる。 スマホを取り出して、ヨリコちゃんにコールするとすぐに繋がった。
    『――ソウスケくん助けてっ!? さっきからピンポンピンポン鳴らしてドアめっちゃ叩く異常者がいんのッ! あたし殺されるッ!』
    「それ俺だからっ!! はやく開けてくれ! 俺が死ぬっ!」
    『――え!?』
     通話が切れて、家の中からドタドタした足音が響いてくる。 勢いよくドアが開け放たれ、髪ボッサボサで涙目のヨリコちゃんが迎えてくれた。
    「な、なんで……雨も風もすごいのに、来てくれたの……?」
    「それより窓は!?」
    「あ、うん! あがって!」
     玄関でびっちょびちょになった雨合羽を脱ぐ。 中に着てた寝間着代わりのシャツもハーフ丈のジャージもぐっしょりだったけど、ヨリコちゃんにつづいてリビングへ入った。
     リビングは風が怪物の唸り声みたいな音を出して吹き込み、ガラス片や小物が散乱している。 どうやら奥のキッチン横の窓ガラスが割れてるらしい。
    「ヨリコちゃん、プラスチック段ボール――なければ普通の段ボールでも。あとガムテープある?」
    「も、持ってくる!」
    「あ! あとスリッパ貸して」
    「これ使って!」
     ヨリコちゃんが履いてたクマさんスリッパに足を通した。 あったかい。
     すぐにペタペタとリビングへ戻ってきたヨリコちゃんから段ボールとガムテープを受け取って、じゃりじゃりするフローリングを踏みしめる。


     窓ガラスの処置は間もなく終わった。 まあ、窓枠の内側から段ボールあててガムテープで止めただけなんだけど。
    「見ての通り応急処置だから。でもたぶん台風が弱まるまでは大丈夫だと思う。あとは危ないから床掃いとこうか」
    「ありがとう! ほんとに、ありがとう……!」
     鼻をグスグスすすってヨリコちゃんは、まっすぐ正面から俺の手を握りしめる。 ヨリコちゃんのあたたかい両手が、いつくしむように手の甲を何度も撫でる。
     もし俺がヨリコちゃんの彼氏だったなら、ここで抱きつかれてたのかもしれないな。 ……なんてことをぼんやりと考えた。
    「掃除はあたしやっとくから、ソウスケくんはお風呂入ってきて? 風邪ひいちゃう」
    「う、うん、ありがとう。怪我しないよう気をつけてな」
    「シャンプーとかボディソープとか、どれでも使っていいから」


     ヨリコちゃん家のお風呂ってだけでもドキドキしたけど。 風呂あがりに頭を拭いてたら、ヨリコちゃんと同じ匂いがしたことがなりより胸をバクバクさせた。
     フウタくんのだというTシャツと短パンに着替えて、脱衣場兼洗面所を出る。
    「あ――……」
     廊下にはヨリコちゃんが待ち構えるように立っていて、何か言いたげに上下おそろいなピンクスウェットの裾を握りしめていた。
     さっきまでチューブトップにホットパンツ姿だったと思うが、わざわざ着替えたんだな。 まあ露出高めだったし。 でも前に家来たときは、ぜんぜん気にする風でもなかったような気がしたけど。
     顔をうつむかせ、髪を耳にかける動作を繰り返すヨリコちゃん。
    「あの、リビングあんなだし……部屋、いく? わ、和室とかもあるんだけど」
     なんか……えろかわいいんだけど。 意識したような態度取られると、俺までふたりきりなのをあらためて意識してしまう。
     外は嵐だ。 だれも家に帰ってくる人間はいない。
    「その……和室より、部屋見たいかな。ヨリコちゃんの」
    「わ、わかた! でもそんな、散らかってるから部屋! 期待、しないで? 2階、だから!」
    「お、おう!」
     ロボットみたいな硬さで階段をのぼるヨリコちゃんの、後につづく。 前にお邪魔したフウタくんの部屋、そのもうひとつ奥のドアをヨリコちゃんが開ける。
     なんらかのフレグランスな香り。 綺麗に整頓された女の子らしい部屋は、間取りなんかはほぼ俺の部屋と変わりない。
     けど無骨な部屋とはやっぱり華やかさが圧倒的にちがった。
     ベッドに転がる巨大なトウモロコシの抱き枕。 参考書の類いと、いくらかの少女漫画が本棚には並んで。 学習机の写真立てが視界に入ったとたん、ヨリコちゃんが慌てた様子で机に駆け寄る。
    「あ……と。……あはは」
     写真立てを伏せようと倒す途中で迷いをみせ、結局ヨリコちゃんは元通りに写真を立てた。
     そうだよ、それが正しい。 むしろなんで伏せようか悩んだんだ。
     青の守護者――ケンジくんとヨリコちゃんのツーショット写真だ。 ふたりとも少し恥ずかしそうに、だけど嬉しそうにはにかんでいる。
     これは脳……というより、やっぱ胸が苦しい。 でもわかってたことだ。 わかってて踏み込んだんだから、今さら後悔はしない。
    「二人三脚の練習のとき、わざと黙ってただろ? ケンジくんのこと」
    「わざとってわけじゃないよ、だって喧嘩中だし。どうだった? ケンジくん」
    「どうって……いい人そうだったよ。今日だって、電話すれば飛んで来たんじゃないか?」
    「ん。……正直ね? 電話しようと思ってた。そしたら、ソウスケくんが来てくれて」
     来てよかったのか、悪かったのか。 きっとふたりにとっては最悪なタイミングだった。 関係修復できたかもしれないのに、ただのお邪魔虫でしかないからな。
    「あ、そこ座って? な、なにしよっか? 漫画好きだよね? 読む?」
     ふかふかのシーツが心地いいベッドに腰かけて、どこかよそよそしいヨリコちゃんを見上げる。
     目を合わせてくれない。 ヨリコちゃんだって本当は、ケンジくんに来てほしかったに違いない。
     そう考えると自然に手が伸びて、ヨリコちゃんの腕をぎゅっと掴んでいた。
    「えっ、あの、ソウスケ、くん?」
    「じゃあさ。シナリオの続きやろうよ」
    「え? でもそれって――きゃ!?」
     ベッドのスプリングが軋んだ。 強引にとなりへと座らせたヨリコちゃんは、俺が掴んだままの腕を外そうと試みて、困ったように微笑んだ。
    「も、も~……おいたしちゃ、だめでしょ? ソウスケくん?」
     たぶんわざと子供に言い含めるみたいに、ヨリコちゃんが俺の頭を撫でる。
     でもわかってんのか?
     だれもいない家に招き入れて。 頭を撫でるくらい近い距離にいて。 大好きな女の子の匂いで満たされた俺が、次に体温を求めようとしてるなんてこと。
     ほんとにわかってる?
    「ヨリコちゃん、抱きしめていい?」
     見開かれた鳶色の瞳に映る俺の姿が、大きく揺らいだ。
    「……だめだよ? 彼氏、いるから」
    「寝取られってそういうもんだろ。今ここで俺に襲われたって、文句なんか言えないだろ」
     ヨリコちゃんの顔が歪んだ。 知ってる顔だ。 祭りの夜に見た、すんげえ悲しそうな顔。
     まるで憐れむような、悪いことをしたと自責の念にかられたような、見たくない類いのやつ。
    「……文句……言わないよ、なにされても。でも、泣く」
     泣くのかよ。 それは嫌だな。
    「だれにも言わないし。……いいよ。もしそれで、ソウスケくんの気がちょっとでもまぎれるなら」
     そうしてまた、一生かけて背負うとかいう罪をつくるわけだ。
     だいたい、まぎれるわけねえだろ。 舐めんなよ。 俺がほしいのはヨリコちゃんそのものなんだよ。
    「……ほんと、ずりぃよな」
    「ごめんね? こたえ、られなくて」
     気持ちには応えられないとハッキリ告げられた。 何回振られるんだよ俺は。
    「あーあ! 冗談だよ冗談! ノリ悪すぎヨリコちゃん! だいぶ風も弱まった気がするし、合羽着てダッシュで帰れば――」
    「だ、だめ! だって、まだ、危ないから」
     立ち上がろうとする俺の手を掴み、ヨリコちゃんはまたベッドに座るよう促してくる。
    「ほんっとわがままだな」
    「ね、あたま撫でていい?」
    「ほんとわがままだなっ!?」
     どういうつもりなんだこいつ。 もてあそびやがって。
     おそるおそる俺の頭に手を伸ばすヨリコちゃんに、少しくらい仕返ししてやろうと思う。
    「撫でてもいいけど、幼児言葉な?」
    「わ、わかた。……よち、よち。やさしい、ソウスケくん……かっこよかったでしゅよ……? よち、よち」
     傍から見れば、馬鹿にでもされてるような。 だれにも理解されない、特殊なプレイ空間とでもいうべきふたりの時間。
    「えらい、えらい……よち、よち」
     でも雨音と、風と、静かでやさしい囁きが相まって。 嵐が止むまで、俺は心地よくヨリコちゃんに身をあずけていた。




      [#ここから中見出し]『第42話 とっくにラインはこえていた』[#ここで中見出し終わり]

     台風が抜けてしまえば、秋の気配をすぐ近くまで感じられるようになった。
     風は涼しく、こうして半袖の体操着を着ていると少し肌寒くもある。
     何はともあれ体育祭だ。 高校の体育祭なんて、あまり盛り上がらないまま終わるんじゃないかと勝手に決めつけていたんだけど。
     みんな思いのほか熱狂しているな。 砂塵を巻き上げ疾駆して、応援にも力が入っていた。
     とくに多くの声援を受けているのが――。
    「うおお|野牛島《やごしま》先輩はえー!」「キャー! |友奈《ゆうな》センパーイ!」「文武両道ってあの人のこと言うんだろうな!」「剣道も有段者らしいよ!?」
     短距離走、障害物競走、クラス対抗リレーのアンカーをつとめ、そのどれもを圧勝したのが加仁谷友奈。
     夏休みにケンジくんのファミレスで、ウェイトレスをしてた仏頂面の先輩だ。 長い髪を、今日はポニーテールにしている。
     男女問わずの黄色い声に手を振って応じながら、加仁谷先輩が俺の前で足を止める。
    「君はたしか、弓削……だったか?」
    「お疲れさまです、えと、野牛島先輩。すごい走りでしたね」
    「ありがとう。ところでケンジと二人三脚を走るそうじゃないか? あいつの友人なら、もっと砕けた呼び方でかまわないぞ」
    「じゃあ。おつかれ、ユウナちゃん」
    「本当にいきなり砕けたな? フフ。まあいい、名前で呼ばれるのは嫌いじゃない。二人三脚、がんばれよ」
     切れ長の目を流して、颯爽と去っていくユウナちゃん。
     カッケーし器もでっけー。 そら女子からもキャーキャー言われるわ。
     あと俺はケンジくんとべつに友人ってわけじゃないんだが。
    「なんで弓削くん話かけられてんの?」「あいつ前に獅子原先輩ともタメ口きいてたよな」「かわいがられてるってこと?」「そういえば青柳先輩とも親しげにしてたぜ!」「青柳せんぱい、なんかいいよな、気だるげなとこが」
     そんなカーストトップ先輩女子みたいな扱いしてるけど、けっこうろくでもない性格してんだぞどいつもこいつも。
     あと最後のやつヨリコちゃんに色目使ってんじゃねえ殺すぞ! でも趣味は合うな!
     午前の部は滞りなく終了し、昼にお手製の弁当を食べる。 決戦は午後――。

    ◇◇◇

     広いグラウンド。 日除けのテントに集う教職員と生徒。
     それらをぐるりと見渡して、俺は柔軟体操をしている人物のもとへ向かった。
    「――よう、来たな。体調は万全か?」
     太陽を一点、見上げながらめっちゃ雰囲気を出してくる。
     言っとくけどこれからやる競技、二人三脚だからな? 体育祭の目玉でも、なんでもないからな?
     ……なんだけど。
    「俺は万全ですよ。青の守護者……いや、天晶先輩」
    「|ケンジくん《・・・・・》、でいいぜ。いつもそう呼んでんだろ?」
     俺もすっかりその気になっていた。
     これこそが本日のメインレース。 プライドを懸けた大一番。 俺にとって体育祭は、この二人三脚のためだけに存在した。
     背中ごしでも不遜な笑みが透けてみえるケンジくんに続き、白線に足をそろえる。 ケンジくんの手によって、ふたつの足首がきつく結ばれる。
    「足ひっぱんなよ、ソウスケ」
    「文字通り、てやつですか。ケンジくんこそ無様に転んだりしないでくれよ。恥ずかしいんで」
     位置について――。 ぐっと身を屈めて用意する。
     スターターピストルが号砲を鳴らし、直後に足を出した。
    「うおおおおおッ!!」
    「くっ――!?」
     まじかこいつ。 ケンジくんは、練習のときみたいに全然リズムを取ろうとしない。 流れる景色からしてペースが速い。
     まるで個人競技のように突っ走るケンジくんに、なんとか食らいつく。 そうだ、ケンジくんが個人競技に出ればおそらく簡単に1位をもぎ取れるはずだ。
     それが1位を取り逃すようなことがあれば、敗因はあきらかに俺にある。 そんなみっともない姿は見せられない。 だって――。
     チラッと横目で、過ぎていく生徒の中にヨリコちゃんを視認した。
    「ハァ、ハァ、どした、少しペース落とそうか?」
    「はあっ、はあっ、いらねえ世話だよっ!」
     景色も、競技相手も、声援も置き去りにして。 意識するのはケンジくんのみだ。
     負けられない。 負けたくない。 ここで負けてしまったら、俺はきっとヨリコちゃんも――。
    「うおおおおおお!!」
     ケンジくんと雄叫びが重なって、ふたり前のめりにゴールテープを駆け抜けた。
     足がふらふらともつれて、がっくり膝をついて四つん這いになる。 ケンジくんも後ろ手に座り込んだ。
     やった、1着だ。 互いに言葉もなく、ぜえぜえと肩で呼吸する俺たちに、癒しの声が降ってくる。
    「おつかれさま」
     地べたに座る俺とケンジくんを見下ろして、ヨリコちゃんはにぃっと満面の笑みを浮かべた。
    「……かっこよかったよ? ケンジくん」
    「……ああ」
     ハンドタオルでかいがいしくケンジくんの汗を拭い、タオルを手渡すヨリコちゃん。
     まあ……そりゃ、そうだよな。 これを機にふたりのギクシャクした関係も元通り。 ハッピーエンドってわけだ。
     わかってた。 わかってたのになんか、この光景はかなり堪えて、顔を伏せる。
    「ソウスケくんも、ね?」
     名前を呼ばれたことに驚いて顔をあげると、ヨリコちゃんは自身の首に下げたタオルを外して。
     顔を拭いてくれるのかと期待してたら、なぜかヨリコちゃんは俺の頭をタオルでぺしぺししてくる。
    「ずーっと気になってたんだよ? 寝ぐせ。昼過ぎても直ってないしさぁ? 鏡みてる?」
     く、屈辱的。 こんなときまで弟扱いかよ。 もはやケンジくんのライバルにすらなれない。
    「や、やめろって!」
     あまりにも情けなくなって、ヨリコちゃんの手を払いのけた。
    「やだ、なに? かわいくない。されるのがイヤならさぁ、身だしなみくらいちゃんとしろっての」
    「おかんかよ!? もういい放っといてくれ!」
     ヨリコちゃんは深く息を吐いた。
    「……はいはい。じゃあケンジくん、またあとでね?」
    「おう、帰るとき連絡する」
    「あ、このあとあたしも水無月ちゃんと走るから! ちゃんと応援しろよー?」
     母親と化した恋愛対象が去っていく。 男としての自信すら、すっかり消え失せていた。
     と、足首の紐を解いたケンジくんが、ぼそりと呟く。
    「なるほどな。……見誤ってたよ」
    「え?」
    「正直、どこかで舐めてたのかもしれない」
     立ち上がる際、ぐっと顔を寄せてケンジくんが言う。
    「宣言しておくぞ? 今日から、オレはおまえの明確な敵だ」
     それは初めて見る、ケンジくんの真剣そのものな表情だった。
    「依子は絶対に渡さねえ。覚えておけよ、蒼介」
     気迫に圧倒されて、そして意味もわからなくて返事を返せなかった。
     いまだ、呆然と立ち上がれずにいると。
    「よかったなー? やっと認識されてー、こっからって話じゃん? わかるっしょそんくらい」
    「ま、マオ」
    「スターターピストルが撃ち鳴らされたっつーことよ」
     いつから近くにいたのか、膝に手をついたマオが覗き込むように俺を見る。
    「……なー今の言い回しカッケェくない!? あ、ソウスケもカッケェかったよ二人三脚」
    「マオー!」
     純粋に褒められたのが嬉しくて、日焼けたマオの足にすがりついた。
    「ちょー!? さすがにこんなとこで太ももベタベタさわんのやめれ!? ……やーでも、ステップアップのためならこーいう野外でのプレイも――」
    「もう行くなっ! これ以上どこにも!」
     性癖が高みに至り過ぎてさすがについていけねえよ!
     こうして体育祭は幕を閉じた。 ちなみにヨリコちゃんと水無月さんコンビは3回すっ転んでビリだった。




      [#ここから中見出し]『第43話 期待と不安』[#ここで中見出し終わり]

    『――ごめん。これからはふたりでとか、会えないから』


     ヨリコちゃんからそう電話で告げられたのは、体育祭があった日の夜だった。
     まあ、当然だよな。 ケンジくんも最大限に警戒してるようだったし。 これまでが異常なほど甘かったんだよ俺に。
    「はぁ~~~~」
     大きく息を吐いた俺は、部室の机に突っ伏した。 シャーペンを手にしてはいるが、寝取られシナリオがまるで捗らない。
     というか続ける必要ある? これ。 ヨリコちゃんはケンジくんと仲直りしちゃってるしさ。
     続ける理由としては……俺がやりたい、くらいしかもうない。
    「……スランプかい? 弓削くん」
     ふさいでる様子を案じてくれたのか、魚沼くんが呪術の本から目を外した。 疲れてるのかな、目頭をぐいぐいと揉んでいる。
    「ああ、スランプといえばそうなのかも。魚沼部長は、こんなときどうしてるんだ?」
    「ふむ……創作はリビドーだと前に言ったけれど、とうぜん勢いだけで物語は紡げない。そんなときは」
    「そんなときは?」
    「やはり外に出るしかないよ。行ったことのない場所にでも出かければ、見識も広まるしリラックスにもなる。創作にあらたな発見があるはずだよ」
    「なるほど……」
     でも出かけるったってな。 行きたいところもとくにないし。 自転車で日本1周するとかか?
     そ、想像しただけでめんどくせえ。
     そのとき、前触れなく部室の扉がガラリと開いた。
    「おすおーす。やっとるかー? 我が愛しい部員の諸君ー」
    「なんだ、マオか。愛しいなら部を押しつけて放置したりなんかしないよな?」
    「卑屈だなーソウスケー。かわいい子には旅をさせろって言うじゃん?」
     マオの場合、谷底に突き落としたうえでけらけら笑ってそう。 獅子だし。
     でも崖を登ってきた我が子は愛情たっぷりに鬼かわいがりそう。 マオだし。
     来訪者はひとりではなく、仁王立ちのマオを押しのけるようにして、腰までさらりと伸びた長髪をなびかせる女子。
    「獅子原、訪室するときはノックくらいしろ、まったく。……魚沼部長に、弓削副部長だったな? 今年の文化祭、獅子原は引退したとかぬかすから話を聞きにきたのだ」
    「あ。ユウナちゃん」
     なんでここに? と一瞬思ったが、ユウナちゃんの腕には“生徒会”の腕章がついていた。
    「ああ弓削、体育祭の二人三脚は見事だった。ケンジもいつになく楽しそうにしていたな」
    「え? あれで?」
    「フフ、ああいう奴なのだ」
     そう言って笑うユウナちゃんも、どことなく嬉しそうに見える。 やっぱりこのひともケンジくんのこと、憎からず思ってるらしい。
    「と、話がそれたな。文化祭だ、今年も都市伝説創作部には期待していると言いにきたのだが……魚沼部長、参加の意思はあるか?」
    「はいはーい! もちろんあるよーみんな楽しみにしてっからねー!」
     魚沼くんが返事をする前に、勝手に代返したマオを流し見るユウナちゃん。
    「おまえには聞いていない。だがまあ、こちらとしても参加してもらえれば嬉しいのだが」
    「……そんな期待されてんですか? この部活」
    「獅子原……おまえ、もしかして部員に何も説明していないのか?」
    「今日! 今日しようと思ってたのー! だから部室にきてんじゃん? はーわっかんねーかなー」
    「くっ……。まあいい、ではちゃんと説明しておけよ。ではな魚沼部長、弓削副部長。個人的にも楽しみにしているぞ?」
     ユウナちゃんは颯爽と部室をあとにした。 あんな聖人を怒らせられるのってマオくらいじゃないか?
     マオはやれやれと肩をすくめると、椅子をガガーッと豪快に引いて座り、偉そうに足を組む。
    「……で? 元部長、なにやんだよ文化祭って」
    「まー大したことじゃないよー。オリジナルの都市伝説書いてー、それを演劇ってーか、読み合わせ? で披露すんのー」
    「ああ……台本読み合うみたいな」
     俺がヨリコちゃんとやってた寝取られ演技みたいなもんか。
    「これが毎年怖えー怖えーって評判でさー? つーわけで今年もよろしくなー!」
     あの異様な文集を思い返せば、クオリティの高さもうかがえる。 しかし、あんなもの書ける気がしない。
    「まず都市伝説書くだけでもハードル高いし、そもそも俺はスランプだし……魚沼部長にお願いしていいかな?」
    「いや……僕は読む専門だから」
     まじかよ! あんだけ創作についてリビドーだなんだと語ってたのに!?
    「てかスランプってなによー? 言ってみー?」
     行儀悪くマオが足蹴にする机が、ぐいぐいと腹に押し込まれる。 例によってぎりぎりパンツが見えない。 くそっ。
     俺は洗いざらいしゃべった。 ヨリコちゃんと今後ふたりで遊べなくなったこと。 そのせいで寝取られシナリオを書く意欲が低下していること。


     マオは大爆笑した。 魚沼くんは怪訝な目で俺を見てくる。
    「弓削くん。君ってやつは……部室でそんなもの書いてたのかい?」
     ごめんなさいほんとごめんなさい。 シナリオについて相談したのは全部いい寝取られ書くためでした。
    「はー……笑った! そーいうことならわたしにまかせろってー。キミら今度の土日空けといてー?」
    「土日? なにすんの?」
    「なぁに。ふたりきりじゃなきゃいいんだろー? いー場所があんの、怪談ツアーでもやろーぜ!」
     マオは腕を組んで不敵に笑い、俺の腹にめり込んでいる机を足でぐりぐりさらにダメ押しした。
     水色だった。




      [#ここから中見出し]『第44話 深緑に導かれし6名』[#ここで中見出し終わり]

     土曜日。 マオが指定してきたバス停まで向かうと、すでにみんな集まっている。
    「おっせーよソウスケー! なんでいっつも社長出勤なんだよー!」
    「んがっ!?」
     いきなりマオからヘッドロックされた。
     相変わらず大きく肩の出た服だけど、ニットだし長袖だし秋の装いにふさわしい格好だ。
     それはともかく首が苦しい。 でも簡単にタップはしたくないやわらかさ。
    「……てんめーもしや、また脳内でひと様のファッションチェックしてやがんなー?」
     半分正解。 脳内のもう半分を知られれば、このまま絞め落とされるかもしれない。
     いや、マオならばおっぱいくらいで……。
     ――ハッ!? と顔をあげると、ヨリコちゃんがものすごく冷めた瞳で俺を見ていた。
    「元気そだね? ソウスケくん」
    “あたしに会えなかったにしては”と暗にその表情が物語っている。
     短パンにハイカットスニーカー、マルチカラーのチェックシャツというストリートめのスタイルがカッコかわいい。 ヨリコちゃんってちょっとボーイッシュな格好好きだよな。
     て、現実逃避してる場合じゃない。 マオの腕を急いでタップする。
    「……青柳のやつ、あれ妬いてんじゃねー?」
     ヘッドロックを外しながら、俺の耳もとでマオがそんなことを囁いた。
     妬いてる? たしかに不機嫌には見えるけど、うーん。
     するとヨリコちゃんの背後から、子供がとてとて歩み出てくる。 まっすぐ俺のもとへ顔面から突っ込んできて、胸でボフンと受け止める形になる。
    「ねむいー……おんぶ……」
     子供じゃなくて、アサネちゃんだった。 どう贔屓目にみてもせいぜい中学生にしか思えない先輩だが、萌え袖パーカーが幼さを加速している。
     ていうか……こんなキャラだったっけな? 祭りのときはもっとこう、のじゃロリ風味というか強者感あったはずなんだが。
    「よかったね? かわいい子が抱きついてきて」
     ヨリコちゃんの視線が痛い。 妬いてる……のか? だとしたら嬉しくもあるけど、早々に判断して自惚れるのは危険だ。
    「日辻は急遽参加したいって言ってきてさー、断るのもアレだし、まー多いほうが楽しいかなーって」
     マオから経緯を聞いて納得する。 急遽、ね。 アサネちゃんの後ろに、守護者的な影が見える気がした。
     参加者は他に、やたら顔面蒼白な魚沼くんと――。
    「し……獅子原先輩……」
    「んー? どしたウオっちー」
    「これはいったい……なぜ彼女が……?」
    「えー? だって付き合ってんでしょふたり。気ぃきかせて声かけといてやったんだよー」
     魚沼くんにぴったり寄り添うようにして、水無月さんが穏やかに微笑んでいた。
     膝下までのワンピースにカーディガンを羽織り、清楚感マシマシしつつも、ショートブーツでカジュアルな印象も併せ持たせてる。
     ふぅ、本日のファッションチェックはこんなところか。
     魚沼くんの服? どうでもいいや。 しいていえば、今日はメガネかけてんなって思ったくらい。 いつもはコンタクトなんだろうか?
     いやまじでどうでもいいな。 とりあえず裸ではない。
     以上6名のまぁまぁな大所帯で、到着したバスに乗り込む。 ヨリコちゃんのとなりを狙うも、さっそくアサネちゃんに場所を奪われた。
     ヨリコちゃんの肩にもたれかかって眠るアサネちゃんを、歯噛みしながら見つめる。 そこ代わってくれるなら1000円出すぞと念を送ってみたが、アサネちゃんが起きる気配はなかった。
    「しかたないな、魚沼くんで我慢するか」
    「……弓削くんはナチュラルに失礼だね。まあ、僕は弓削くんを歓迎するけど」
     ふと視線を感じて斜め後ろを振り向くと、水無月さんがぎりぎり音が聞こえてきそうなほど歯を食いしばって俺を睨みつけている。
     ……怖っわ。 俺もあんな顔してたのかな。 気をつけよう。
     乗客もけっこういて、海に行ったときの電車内みたいに遊べはしなかったけど、みんな思い思いの時間を静かに過ごしていた。
     やがて乗客もひとり減り、ふたり減り。 ついには俺たち6人だけになっても、まだバスは山道を走り続ける。
     小1時間が経過し、いやこれどこまで行くんだよと不安になってきたころ、ようやくマオが降車ボタンを押した。


     プシューと停車したバスの折り戸が開き、順にぞろぞろと降りる。
     寂れたバス停には、田舎でよくみる雨よけのついた長椅子が備えつけられていた。
     というか田舎そのものだ。 付近には民家も見当たらない。 山と樹木しか目視できるものがない。
    「……なあマオ、ここどこよ? 樹海?」
    「あたし、雰囲気がもう怖いんだけど……」
    「まーまー、黙ってわたしについてきなってー」
     意気揚々と先頭を歩きはじめるマオ。 後方からとてとて足音がしたかと思えば、背中にどんっと小さな衝撃を受ける。
    「おんぶー……おんぶー……」
     またかよ、何しに来たんだこいつは。 歩く気力もないようなので、しかたなくアサネちゃんをおぶってやった。 めっちゃ軽いから負担にはならんけど。
    「ふぅん……いいね? ちっちゃくてかわいい女の子おんぶできて」
    「……ヨリコちゃん、もしかして嫉妬してる?」
    「は? きっしょ」
    「…………」
     ともかく俺たちは、マオに先導されて深い森の中へと足を踏み入れていった。




      [#ここから中見出し]『第45話 完璧な5秒間』[#ここで中見出し終わり]

    「その森は、冥府へ続くと言われておる。冥府とはすなわち死者の国。本来、生者が軽々しく足を踏み入れてはならぬ森。ほら、聞こえぬか? 死者の騒ぎ立てる声が。ぬしらの足元からじっくりと手を這わせ、肌の温もりを、肉の柔らかさを、骨の堅強さを確かめんとする歓喜が。現世と表裏一体の冥府がぽっかりと口を開けた時……おお、そうじゃ、ほれ見よ、赤い鳥居が――」
    「イヤああああああ!!」
     ヨリコちゃんが絶叫しながら、俺の腕をぎゅっと抱きかかえた。 そんな様子を振り返ったマオがけらけらと笑い声をあげる。
    「や、やめろよマオ! こんな場所でそんな話すんの!」
     いいぞ、もっとやれ。 俺の左腕はヨリコちゃんの胸もとに斜めの角度で、いわばパイスラ風にハマり込んでいるのだ。 こんなに嬉しいことはない。
     この調子で、建前と本音を上手に使い分けていこう。
    「あたしマオの怖い話ほんっっとキライ!」
     ぐすぐすと鼻を鳴らし、ヨリコちゃんが俺の腕に顔をぐりぐり押しつけた。
    「……いま鼻水拭かなかった?」
    「ちがう涙拭いたの!! なんでそんなデリカシーないこと言うの!?」
    「ご、ごめん。でもヨリコちゃんの体液だったらどこから出たやつでも汚くないよ」
    「言いかたっ! もっと考えてっ!」
     うーん、ヒステリック。 彼氏にダメ出しする彼女かよ。
     ……そんなこと言ったらぶん殴られそうだな。 情緒が安定するまで、しばらくそっとしておこう。
    「……けれど、確かに冥府や地獄に繋がっていそうな場所ですね」
     水無月さんが漏らした感想に、あらためて周囲を見渡す。
     見渡したところで、まじで樹木しかない。 歩いてるところは獣道みたいに荒れてるし、なんか人の声っぽくギャーギャー鳴いてる鳥がいる。
     上に目線をやってみても、葉っぱの隙間から見える空はずいぶん遠く感じた。
     ちょっと俺まで怖くなってきたな。
    「ねぇ、魚沼くんもそう思いませんか?」
    「い、いや、僕は……べつに」
    「あら? どうして私を否定するの?」
     魚沼くんの答えが気に入らなかったのか、水無月さんが鞄から例のぶ厚い本をチラ見させる。
     するとおんぶしているアサネちゃんが、もそりと起きる気配がした。
    「む……これは面妖な。――おお、確かソウスケだったな? 祭りのりんご飴、礼を言うぞ」
    「えっこのタイミングで!?」
     俺の背中から降りると、頭頂のアホ毛を揺らしつつ、ゆっくり水無月さんへと近づいていくアサネちゃん。
     夏祭りでの魚沼くんと同様に、今度は水無月さんがたじろいで後退する番だ。
    「ちょっと……こっちにこないでくださいますか日辻先輩?」
    「なに。悪いようにはしないから。そこを動くな」
    「くっ……! 一緒に来なさい! 魚沼くん!」
    「僕は――ぐえっ!?」
     首根っこ引っぱられるようにして、魚沼くんは水無月さんにさらわれてしまった。 アサネちゃんもふたりのあとを追っていく。
    「なに? なに!? いったいなんなの!?」
     残された俺たち――とくにヨリコちゃんはパニック状態だ。 いまだ掴み取られた腕に、爪がたつほど指がくい込んで痛い。
    「お、落ち着いてヨリコちゃん! アサネちゃんがああいう子なのは、よく知ってるはずだろ?」
    「え、あ、うん。アサネはずっと寝てるかと思ったら、急に起きて変な行動したり……」
     知らなくて驚いたのは俺の方だよ。 二重人格かよ、怖えー。
    「まあ、とにかく今にはじまったことじゃないんだから、落ち着いて! な?」
    「う、うん……うん、ありがと。少し、おちついた……? え?」
    「ん? どうしたの?」
     その場でくるりと回るように、ヨリコちゃんが360度周囲に目をめぐらせる。
    「ねぇ……マオは? マオはどこいったの?」
    「マオ……?」
     たしかに、周辺の木々を少し分け入ってみても見当たらない。 名前を呼んでも、不気味な鳥が返事をよこすだけだった。
    「もうイヤ――っ!」
     ヨリコちゃんが泣き顔を隠すように、俺の胸へ顔を埋めた。 これまでにない密着感に、こんなときだというのに心臓が跳ねあがる。
    「だ、大丈夫だから! ちょっと探せば見つかるから!」
    「あたし、まともに見らんない、歩けない……! ソウスケくんが連れてって!」
    「わかったから! そんなグイグイ押さないで!」
     ほとんど抱き合うような格好はありがたかったけど、まじで猪突猛進にヨリコちゃんが進むもんだからズルンと足が滑って――。
    「よよヨリコちゃんストップストップ!? こっち崖んなってる!?」
    「え!?」
     それでもなんとか踏みとどまった。
     ――はずだったのに、最後にドンッと|背中を《・・・》ひと押しされた。
    「あっ危な……ッ!」
    「ひ――〜〜〜〜っ!?」
     ヨリコちゃんを強く抱き寄せて、背中から斜面を転がり落ちる。
     死ぬかと思ったけど幸い大した高さじゃなく、気づけばふたり抱き合ったまま地面に寝そべっていた。
    「よ、ヨリコちゃん、怪我は?」
    「だ、大丈夫……みたい」
     ドクンドクンと早鐘を打つのがどちらの心臓かわからない。 顔を赤くしたヨリコちゃんが身を起こして、溶けるような温もりが遠ざかっていく。 思わず手を伸ばして。
    「ちょ、きゃ!?」
     仰向けになりながら、またヨリコちゃんの背中を抱きしめてしまっていた。
    「怪我……ほんとにないかと、たしかめたくて」
    「……ご、5秒……5秒……だけだから……」
     許しをもらえた5秒間、全力で体温と、やわらかさと、匂いに神経を集中させる。 いま、ヨリコちゃんのすべてが俺の手の中にある。
     時を止める異能に目覚めない自分を、うらめしく思った。
    「ごーーーーーお。よーーーーー…………ん」
    「とっくに5秒たったから! おわりおわり!」
    「あっ――」
     無情にも離れていく体を追っかけた手を、今度は容赦なくパシンと払われる。
    「もぅ……それよりここ、どこなのかな……?」
     ふて寝してたい気分を押し殺し、しかたなく立ちあがった。 辺りは草が伸び放題の開けた場所だ。
     ヨリコちゃんと連れ立ってしばらく歩くと、前方に何かが見える。
    「……ねぇ……あれ、マオが言ってた……?」
     震える指先が差し示したものは、まちがいなく真っ赤な鳥居だった。




      [#ここから中見出し]『第46話 廃神社寝取り怪談』[#ここで中見出し終わり]

     怯えるヨリコちゃんを連れて鳥居に近づいていくと、奥に小さな神社が見えた。 参道は短く、神社のとなりには社務所らしき建物もある。
     バスを降りてからは歩き通しだったこともあり、ヨリコちゃんも疲労がたまってるみたいだ。
    「ちょっと軒先で休ませてもらおうか?」
    「え。マジ……? こんな山の中にあんの廃神社とかじゃないの? の、呪われたりしない?」
    「いや意外としっかりしてるし、管理者がいないなんてこともないだろ。寂れた場所だから、神様はどっか移転してるのかもしれないけど」
    「神様いないなら廃神社じゃないの!?」
    「わ、わからないけどさ。他に休めるようなところもないし、だれもいないなら使わせてもらわない?」
    「ほんとに大丈夫かな……」
     深くお辞儀をして鳥居をくぐるヨリコちゃん。 俺もならって鳥居をくぐり、ひとまず社務所らしき建物の縁側に並んで腰をおろした。
     意外と、埃っぽさとかそんな無い気がするな。
    「――あ! マオ、水無月ちゃんたちと合流して4人でいるんだって! 迎えにいくからそこから動くなだってさ? ……よかったぁ〜」
     スマホをタップしつつ、ヨリコちゃんが心から安堵の息をもらす。
    「そっか。みんな無事でよかったよ、ほんと」
     実は、今回の目的地に神社が含まれているということを俺は知っていた。 事前にマオより聞かされていたからだ。 同時に、舞台にちなんだ脚本を書いてこいとも。
     聞いていたのはそれくらいだけど、ヨリコちゃんの前でみっともなく取り乱した姿をさらさずに済んだのは大きい。 マオはあえてたぶん、俺とヨリコちゃんをふたりきりにしてくれたんだと思う。
     あとは俺が、その気遣いを無駄にせず行動できれば。
    「ヨリコちゃん、みんなそろうまでヒマだし読み合わせ付き合ってくんない?」
     今日のために必死で執筆してプリントアウトしたものをヨリコちゃんに手渡す。
    「読み合わせって……ああ文化祭? マオの部活入ったんだっけ。あれ人気だもんね毎年」
    「らしいな。でもそのぶんプレッシャーが半端ないんだけどさ」
    「あたしは噂だけでじっさい聞いたことないけど……。ま、いいよ? 台風のときのお礼もまだだし」
     あんなの好きでやったことだからお礼なんかいらないんだが、やってくれるというなら素直に好意を受け取っておこう。
     立ち上がって縁側から離れたヨリコちゃんが、俺の方へと向き直ってプリントに目を通す。
    「……ふんふん。この【ヨ】ってのがあたしね? もう見慣れてきたなぁこの形式。……で? この【霊】……っていうのは?」
    「俺がやる悪霊役」
    「やっぱやんないっ!!」
    「大丈夫だから! ぜんぜん怖いやつじゃないから!」
    「怖くなかったらそれはそれでダメじゃん!」
     ヨリコちゃんのくせに正論をぶち込んできやがった。
     でも引けない。 自分の感情をたしかめるためにも、これをヨリコちゃんにやってもらわなきゃならない理由があるのだ。
    「こ、これはほら、あくまで練習で書いたやつだからだよ! ガチガチに怖いガチを書くためにも練習は必要だろ!?」
     しかめっ面のヨリコちゃんが、じっと俺の目を見てくる。 きっと本気かどうか測りかねている。 だから目はそらさない。
     つづいてヨリコちゃんは俯き、うーんと唸りはじめた。  たっぷりの間を置いて、ようやく覚悟してくれたのか顔をあげる。
     ギュッと服のすそ掴んで、ちょっと震えて。
    「……あんまし……こ、怖くしないでね……?」
     なんか初エッチのセリフみたいでそそる。 当然、そんな汚れた俺の脳内なんかおくびにも出さない。
    「もちろん!」
     最高の笑顔でなごませて、なし崩し的に打ち合わせへと持ち込んだ。


    「……ええっと、悪霊に追われたあたしが、神社を見つけるとこからスタートすればいいわけ?」
    「そうそう。迫真で頼んます!」
    「ソウスケくんのシナリオってマジで意味わかんないけどさ……とりあえずやってみる」
     ひとこと多いんだよなぁ。 まあやる気になってくれたのならよし。
     鳥居の位置辺りまで離れたヨリコちゃんが、おっかなびっくりこちらに駆けてくる。
    「ハァ、ハァ、こ、こんなとこに神社が……! でも、ここまで来ればもう安心だよね……?」
    「ククク……それはどうかな?」
    「ひ!? だ、だれ!? どこにいるの!?」
     思いきりヨリコちゃんの目の前でしゃべってるんだけど、俺は霊なので姿が見えない。
    「さて、まずはおまえという人間を覗かせてもらおうか」
    「あ、頭の中から声が……!? い、いや……何か、あたしの中に入ってくる……!?」
     こうして生音声で聞いてみると、わりと卑猥なセリフに思えるな。 誓って、狙ったわけじゃないんだが。 いやまじで。
     しかし初期のころに比べたら、ヨリコちゃんもだんだんノリノリでやってくれるようになった。
    「やめて!? それ以上中に入ってこないで! ううう気持ち悪い……っ!」
    「……なるほど、そうか。おまえ、想い人がいるようだな」
    「それが何!? あたしからもう出てってよ!」
    「我はこの地で死に、土に埋まり、冷たい世界でずっと温もりに飢えておったのだ。とくにおまえのような若い女は、さぞ熱い魂を持っていよう――ふんッ!」
    「か、体が動かないっ!?」
     ヨリコちゃんが、金縛りをパントマイムで表現する。 なんとなく牢に繋がれた罪人を思わせるポーズは、念力みたいなものを想像してる俺とは解釈がまるで違うらしい。
     これはこれで、あらぬ妄想をかき立てられて悪くないけども。
    「クハハ! 身を委ねろ、恐れるな! すぐに想い人のことなど忘れさせてやるぞ小娘ぇ……!」
    「くぅっ……!? た、たとえ身体をどうされたって、心はぜったいに屈したりしないから! …………ね。あのさソウスケくん」
    「そんな強がりが果たしてこの快楽の前に通用するかな!? まずはおまえの足先からじっくりと――」
    「ソウスケくんてば!」
    「……え? なに?」
     いいところで進行を止めて、ヨリコちゃんが真顔で言う。
    「これ、いつものやつじゃん」
    「い、いつものって?」
    「いつもの寝取られじゃん」
    「……そんなこと……ないよ……?」
    「声ちっさ! なに? こんなもん文化祭で披露しようとしてんの!? 頭おかしいんじゃないの!? 文化祭だからって寝取られ文化広めちゃおうってそれもう狂気だからっ!」
    「だから練習の脚本だって言ってるだろ!? それにこれは寝取られじゃない! 無念にも生涯を終えた怨霊の悲しいストーリーが根底にあって!」
    「嘘うそうそ! 読み合わせにかこつけてあたしにセクハラしてんでしょ!? さっきだってあたしのこと、だ、抱きしめたりして!」
    「あれ5秒ならいいってヨリコちゃんが――!」
    『――不届き者ども』
     ……?
     とつぜん降ってわいた声に、俺もヨリコちゃんも硬直した。 周囲に人の姿はない。 でも今、たしかに。
     あれだけ言い争っていたヨリコちゃんが小走りに駆け寄ってきて俺の腕を掴み、またパイスラの定位置に抱く。 顔面蒼白で膝をガクガクさせている。
    『――神聖なる境内で乳繰り合うバカップルには鉄槌を。神はいつでも天から見ているのだ』
     声は確実に頭の上から聞こえた。 まさか本当に……!?
     反射的に空を見上げる。
     ――直上でドローンが旋回していた。
     4枚のプロペラを回転させ、ドローンは社務所2階の窓の中へと飛び込む。 すると、窓から女の子がひょっこり顔を出した。
    「えへへー。びっくりしました?」
     悪びれもせず、ペロっと舌を伸ばすショートボブな女の子。
     びっくりというか、唖然としてた。 ヨリコちゃんも同じ心境だったはずだ。
     ふたりして無言で2階を見上げていると、微妙な空気にいたたまれなくなったらしい女の子が、助けを求めるみたいに大きく手を振り叫ぶ。
    「ま、マオさーん!」
     振り返れば、マオたち4人がぞろぞろと鳥居をくぐり、社務所の方へ向かってくるところだった。 すぐにマオのもとまでつかつか歩んでいくヨリコちゃん。
    「なにこれ……マオ説明して……?」
    「お、怒んなよ青柳ー。えと、あちらー、部活の合宿でいつも世話んなってる|早乙女《さおとめ》ちゃん。ここの神社の娘さんなー?」
     なんだ、そうだったのか。 まだぜんぜん説明が足りないのであたりまえなんだけど、まったく納得いってない様子のヨリコちゃんをマオはなんとか宥めすかしている。
    「まーとにかくあがらせてもらおーよ? ねー? みんな疲れてるっしょ」
    「どうぞー! 遠慮せずあがってくださーい!」
     逃げるようにそそくさ社務所へ向かうマオを、俺は呼び止めた。 これだけは言っておかなければ。
     ピアスの飾られた耳へ、小声で囁く。
    「ヨリコちゃんとふたりきりにしてくれたのは感謝するけどさ、何も崖から突き落とすこたねえだろ?」
     いくら大した高さじゃなかったとはいえ、軽い怪我くらい負っててもおかしくない。
     マオはまつ毛の長いまぶたをパチクリさせて。
    「はー? んなことするわけねーじゃん。危ないでしょー?」
    「……え?」
     とても嘘をついてる顔には見えなかった。 じゃあ、あれは……。
     え?




      [#ここから中見出し]『第47話 獅子原マオという闇の本質』[#ここで中見出し終わり]

     |早乙女《さおとめ》|純香《すみか》ちゃん。 お父さんは神社の宮司であり、この山の所有者でもあるとのこと。
     ただ今はふもとの町の方に住んでいるため、こうしてマオたち都市伝説創作部が遊びにくるときだけスミカちゃんが対応してるらしい。
    「いま中3ってことは、受験生か」
    「はい! せんぱいたちと同じ高校行くつもりなので、来年からよろしくお願いします!」
    「まーそんときゃもう、わたしらいねーけどな」
     げらげらとマオひとりが笑っている。 なんとデリカシーのない女だろうか。
     みんなでお茶と茶菓子をいただきながら、純和風な社務所とは思えないほど電子機器に囲まれた、2階の部屋を見回した。
     さっきのドローンといい、カスタムっぽいデスクトップパソコンやオーディオ機器。 天井には映像プロジェクターも設置してある。
     どことなく、フウタくんの部屋に近いかも。
    「こういう感じの、好きなんだ?」
    「あ、そうですね! 好きかもです!」
     元気のいい、ハキハキとした返事。 好感が持てる。
     続けて湧いてきた疑問を、今度はヨリコちゃんがたずねる。
    「でもここには住んでないんでしょ?」
    「たまに来るんですよ、なんか秘密基地みたいでよくないですか!? マオさんたちもちょくちょく遊びに来てくれますし!」
     感性が男子に近いんだろうか。 秘密基地的な良さはよくわかる。
    「いくら早乙女ちゃんが機械っ子少女でもさー? 入部がわたしらんとこってゆーのはこれ決定事項だからー」
    「マオ、また勝手なこと――」
    「もちろんです! マオさんと部活動できないのは残念ですけど、しっかりうちが伝統守っていきますので!」
    「だってさソウスケー。さっそく来年の後輩ゲットできたねー」
     いったいマオの何がスミカちゃんを惹きつけるのか。
     いやまあ……本音を言えばいいやつだよな。 とくにここ最近は俺のこと応援してくれてる感がひしひしと伝わるし。
     きっとスミカちゃんにとっても、後輩思いのいい先輩なんだろう。
    「あの、みなさん今日は泊まりですよね? いま父からメッセージきて、何か買い物あるなら町まで車出してくれるそうなんですけど……」
     スマホから目線を外し、スミカちゃんがみんなの顔をうかがう。 ここは率先して手をあげておこう。
    「買い出しなら、俺いくよ」
    「えらい! あとひとりかなー? ソウスケが選んでよーし」
     選出していいと言われ、まず真っ先にヨリコちゃんを見る。
     ヨリコちゃんは、みんなの欲しいものをスマホのメモにまとめてくれてるようだ。
     ……畳にうつ伏せで寝っ転がりながら。
     これぜったい動く気ないやつじゃん。 ひとん家で遠慮なくくつろげちゃうタイプか? 半目で眠そうだし、ダウナー面出ちゃってるな。
     アサネちゃん――はそもそもグーグー寝てるし、水無月さんは正座してその寝顔を忌々しく睨んでるし。 魚沼くんはふたりから距離を取るように、部屋の隅っこで呪術のお勉強真っ最中のご様子。
     なんでこんな奴らしかいないんだよ。 どうなってんだまじで。
     途方に暮れる俺を見かねたのか、スミカちゃんがおそるおそる口を開く。
    「あの……うちは一応、家主というか、ここに残っとかないといけないので……」
     だよな。 べつにスミカちゃんは悪くない。
    「……マオ、行こうか」
    「おー、見る目あるねー?」
     単純な消去法だった。

    ◇◇◇

     スミカちゃんのお父さんに礼を言って車を降り、マオとふたりでスーパーだかコンビニだかよくわからない店舗に入店する。
     俺が買い物かごを持って、ヨリコちゃんが送ってくれたメモを見ながら商品を物色する。
     と、マオがまるで悪友のノリで肩からぶつかってくると、俺の首に腕を回した。
    「んでー? 青柳とはどうなんよ?」
    「どうって、べつに」
     流してもいいような話題だったけど、さっきも考えたことだ。 ちょっと行動が突飛だったりしても、基本的に俺の味方でいてくれるのがマオ。
    「いや、その……ありがとうな、いつも。ヨリコちゃんとの仲、取り持つように動いてくれてさ」
     ガラでもないんだが、たまには礼を言うのもありかななんて思ったんだ。 たとえ叶わぬ恋だとしても、その気持が嬉しかったから。
     ふと俺から距離を置いて、マオがぼそりと呟く。
    「……ソウスケー、もしかしてぬるま湯に浸りきってんじゃねーの?」
    「え? ぬるま湯って……なんだよそれ」
    「まずさー、わたしを便利枠のおねえさんくらいに思ってんだろー?」
    「は!? 俺はそんな、マオをそんな風に――」
    「いーや思ってるね、まちがいなく。……なー、平和がつづくと人間って危機感なくすよなー?」
    「……さっきから何が言いたいんだよ」
     せっかく素直になってみれば、なんで急にうざ絡みし始めるんだ。 意味がわかんねえ。
     店内を巡りつつ、雑に商品を入れていく。
    「わたしがどんな女か、忘れたわけじゃないよねー」
     どんなって、さっき結論づけた通りだよ。 性癖は歪んでるけど、いいやつで。
    「だから礼を言ったんじゃねえか、まだ不満があんのかよ」
    「はぁー……。――はじめての理解者だと思った、あんときのわたしの涙を返せよてめー」
     ゾッとするほど低く冷たい声だった。
     かと思えば、打って変わって明るい口調でマオは続ける。
    「みんなで仲良しこよし、たのしーな? でもさー、おまえはそんなことしてる場合じゃなくねー? ひとの女取っちまおうとしてるやつがさー」
     あとは買い物かごをレジに出すだけなのに、思わず足が止まった。
     なんだよ、それ。 俺はヨリコちゃんを傷つけてまで、付き合いたいなんて思っちゃいない。 その考えは変わらない。
    「よく、わかったよ。ようするにケンカ売ってんだろ?」
     理由はわからないけど、そうとしか思えない言動ばかりだ。 マオはへらへらとしながら、俺から買い物かごを奪うとレジカウンターにどんっと置いた。
    「ケンカー? だれとだれがー? これ、ただの忠告だよー? 最終勧告ってやつー」
    「最終勧告……?」
    「そー。これまで何度も忠告してやったからなー、これが最後。わたしが前に話したこと、おぼえてるソウスケー?」
     店を出ると、駐車場にまだ迎えの車はなく。 店舗端の、黄色く塗装された車止めポールに腰かけるマオ。 レジ前で購入したらしい、ロリポップキャンディの包みを破いて口にくわえる。
    「わたしは天晶が苦手。あいつのまわりにいるやつらも、以前に比べればまー話すけどやっぱり苦手」
    「ああ、その話ならちゃんと覚えてるよ。その中で浮いてたヨリコちゃんに話しかけて、仲良くなったんだろ?」
    「青柳だってさー、どちらかといえば|あっち側《・・・・》だろー?」
     店の明かりも、マオが座る端っこのポールまでは届かない。 真っ黒い影みたいな顔が、ちゅぱちゅぱキャンディを舐める音だけ響かせる。
    「相反してんだよけっきょくー。わたしが闇なら、あっちは光ってな具合にー」
     まっすぐ、夜を照らす外灯を見上げながらマオは言った。
    「光と闇って、今さら厨2病とか流行んねえぞ」
    「ひひー。ま……わたしをあんまり信頼すんなって話よー」
     キャンディの棒を持って、マオがいきなり高速で口にチュポチュポ出し入れをはじめる。
    「ちょっ下品過ぎる!? ひとの目もあるんだぞ!?」
     ちゅぽんっと唇を離れた糸引くキャンディを、マオは強引に俺の口へとねじ込んだ。 えげつないほどの甘みを感じる。
    「ソウスケはー、たとえどんなわたしでも、味方してくれるよねー?」
     結局なにが言いたかったのかよくわからない。 でもマオの味方するなんて当然だから、頷きを返した。


     それから社務所に戻ってのワイワイとした時間も、つぎの日の朝に乗ったバスでの雑談もよく覚えていない。
     頭の中ではずっと、意味深なマオの言動だけが繰り返し再生されていた。




      [#ここから中見出し]『第48話 いらっしゃいませだろ』[#ここで中見出し終わり]

     10月。 テレビでは紅葉の名所が紹介され、眺めるスーパーのチラシでは俺の大好物のサンマが特売されている。
     醤油。 大根おろし。 ぐぅ〜と腹が鳴った。
     秋だな。 今月の末はハロウィンがあって、来月あたまには文化祭か。 こうしてイベントごとを確認していると、まるでギャルゲー主人公にでもなったかのような気分だ。
    「……はぁ」
     イベントやサンマに少し移り気したけれど、やっぱりマオのあのときの言葉が気になっている。
     いつもの、ただの気まぐれな言葉だったんだろうか。 気にせず最近のライフワークである、ヨリコちゃんと仲を深めるための寝取られシナリオ書いとけばいいんだろうか。
     そんなわけないよな。 様子がおかしかったのはあきらかだ。 これまでさんざん世話になっておいて、面倒事から目をそらすなんて絶対にしたくない。
     スマホを手に取り、マオにコールする。
     出ないか。 日曜だし遊びいってんのかな。 それとも逆ナン……?
     そういや、マオがふだん何してるのかとか知らないな。 いっしょに海に行ったり、この前みたいに合宿行ったり、1日だけとはいえ付き合ったりもしたのに。
     なのに俺、マオのことなんにも知らなかった。
    「…………」
     マオへのコールを中断し、別の連絡先をタップする。


    『――え? マオのことが知りたい? ふぅん……なぁんだ、てっきりまたセクハラまがいのシナリオ読まされるのかと思った』
    「せっかく期待してくれてたのに、ちがう用事でなんか悪いな、ヨリコちゃん」
    『――あんな有害図書量産しといて、よくそんな自慢げにできるね? すごぉい』
     秋になってもヨリコちゃんは手厳しい。 たまになんか甘えモードに入るあれ、隠しイベント的な攻略法あるなら公開してほしいんだが。
    『――でもマオの話つっても、あたしだってちゃんと話すようになったの去年だし。そのころはもう、いまのマオと変わらなかったけどなぁ』
    「そっか……」
     ヨリコちゃんと仲良くなったのは高2からだと、前にマオも言ってたよな。
    『――……あー……中学の3年間、マオと同じクラスだったってひとならいるけど。一応、ソウスケくんも知ってるひとで』
    「まじで!? 誰それ教えて!」
     中学からマオを知ってるなら、少なくともいまの俺よりは詳しい話が聞けそうだ。
     もったいぶって長いこと溜めたあと、ヨリコちゃんのイタズラっ子な含み笑いが耳に届く。
    『――あのね? それ、ケンジくん』

    ◇◇◇

     自動ドアを通ったら、さっそく入り口のレジカウンターでからまれた。
     タキシードみたいな制服を着た店員が、カウンターから身を乗り出すようにして俺を睨んでくる。
    「よぉく来たな蒼介ぇ……ていうか、よくひとりでノコノコ来れたなぁ敵地によぉ」
    「ここファミレスじゃないの? まずいらっしゃいませだろ」
    「いらっしゃぁいませぇぇい……!」
    「こ、こら賢司! おまえお客様になんて口のきき方を!」
     奥のキッチンらしきドアから飛び出してきた親父さんを、ケンジくんは片手で制する。
    「オヤジは黙っててくれ。オレは先日こいつに敵対宣言してんだよ。それなりの態度で迎えなきゃ格好つかねえだろうが」
     どんな面子の保ち方だよ。 くそ。 相変わらず憎めない先輩で、そんなところがまじで憎らしい。
     ただのイケメンだったり、ただのやさしいやつだったり、ただの金持ちだとか。 そんな相手だったら、俺も勝算が見出だせたかもしれないのに。
     と、今日はそんな目的で来たんじゃなかった。
    「あれー!? 弓削くんじゃない!? わあ久しぶりだね!」
    「お久しぶりです双葉さん、夏休み以外もウェイトレスやってんですね」
    「そりゃあもう、ヒルアの第2の実家みたいなもんだから! あ、お席案内するね?」
     今日もポニーテールで元気一杯な双葉さんが、ミニスカートの制服でくるりと回転してみせる。 あざとく捲れあがったスカートに、店内の男性客が一斉に視線を奪われていた。
     さすがというか、なんというか。 ヨリコちゃんにはぜったい真似できないバイタリティ持ってるよな。
    「おお、弓削か。めずらしいな、ここに顔を出すなんて」
    「あ、こんにちはユウナちゃん。アサネちゃんは……やっぱ寝てんのか」
     店の一角では、参考書を広げるユウナちゃんと、その対面でテーブルに突っ伏すアサネちゃんがいる。
     やっぱりみんなここにいるんだな。 彼女ができても、こうして店に足を運んでくれる美少女が複数いるとか。 前世でどんな徳積んだんだよケンジくん。
     手を振るユウナちゃんに軽く頭を下げて、双葉さんに案内されたテーブルについた。
     おしぼりと水を置いてくれた双葉さんが、なぜか俯いたまま声をしぼり出す。
    「……あのさ、ひとつ聞いていい?」
    「はい? なんですか?」
    「なんでヒルアだけ名字で呼ぶの!? ヒルアにだけ敬語だし! なんでなんで!?」
    「え、いや……とくに理由とかは……なんとなくとしか言えないんですけど」
    「ヒルアが1番とっつきやすいでしょ!? ボウリングも遊んだ仲なのに!」
    「はは。……なんかすみません」
    「その笑顔と謝罪にもう壁を感じる!?」
     だってなんか1番怖いんだもの。
     ぐすっと涙目になった双葉さんと入れ替わる形で、ケンジくんがテーブルへとやってくる。
    「ご注文は何になさいますか? お客様」
     よかった、今度はまともな接客だ。 ちょうど昼時だし、せっかくだから何か食べていこうかな。
     写真付きのメニューをパラパラと捲っていく。
    「そうだな……ええと」
    「オススメはハンバーグですお客様。オレが毎日毎日、丹精込めてこねてる手ごねのハンバーグなんですよ。大好評です」
    「へえ、そうなんですね! サンマ定食ください」
    「ハンバーグランチをおひとつでよろしいですか?」
    「サンマ定食ください」
     こちとら朝からサンマが食いたくて食いたくて仕方なかったんだ。 譲るわけにはいかない。
     ケンジくんは電子メモをパタンと閉じて、胸のポケットにしまうと大きく息を吐いた。
    「いい度胸してるよ、ホント。――オヤジー! サンマ定食1丁!」
     厨房に向かって声を張りあげ、そのまま俺の対面に腰かけるケンジくん。
    「客の目の前で堂々とサボんないでくださいよ」
    「るせえ。今から休憩ってことにしたんだよ」
    「それなら休憩室かどっかで――」
    「わざわざこんなとこまで来たんだ、なんかオレに話があるんじゃないのか?」
     何気ない口調で、首を回しながら。
     どう話を切り出そうか悩んでいた俺の気苦労なんか簡単に汲み取って。 これだから出来る男ってのは憎らしい。
     でも大事な友だちの事だから。 今回ばかりはその厚意に甘えることにした。




      [#ここから中見出し]『第49話 語り部ケンジくん』[#ここで中見出し終わり]

     獅子原麻央について、中学のときの印象は3年間ずっと変わらない。
    “もの静かで、勉強のできるやつ”
     なにせ入学式が終わったあと、みんな新しい環境に戸惑って浮き足立つ教室で、たったひとり参考書広げて勉強してたよ。
     見た目も今とはぜんぜん違ったな。 黒髪におさげでさ、制服も校則通りの寸法で。
     だれかに話しかけられれば応じるけど、基本はひとりで教室か図書室にこもってたはずだ。
     中1のときは、多分オレほとんど会話したことないんじゃないかな。 で、2年のクラス替えでもいっしょになって。
    「お、獅子原。また同じクラスだな」
    「えと……天晶、だっけ」
    「1年間いっしょでそこ自信なさそうに言うなよ……。まぁ。また1年よろしくな」
    「ああ、うん」
     とくべつ仲が悪かったりだとか、そんなことは無かったよ。 2年にあがってからは、ちょくちょく勉強教えてもらったりもしてたからな。 人と話すのが嫌いって訳じゃなさそうだと思った。
     ただ、あまりプライベートなこと。 たとえば家族だとか、休日は何してるだとか、そんな話はしたがらない。 露骨に嫌な顔されて以来、オレも話を振ることはなくなった。
     修学旅行も同じ班でさ。 このときばかりは獅子原も勉強やめて、興味深そうにルート回ってたの覚えてるよ。
     獅子原の楽しそうな印象っていうのは、唯一この2年生のときだけだな。
     そんで、3年になって。
    「おう獅子原。まさか3年間いっしょとはな。最後の1年もよろしくな」
    「……天晶か。よろしく」
    「なんだよ。腐れ縁かもしれないけど、そんな露骨な態度を見せなくたっていいだろうに」
    「そうじゃなくて……いや、いい。なんでも」
     2年までの獅子原とは明らかに様子が違ってた。 普段からそっけない態度で、なんていうか、ダウナー? ぽい感じはあったんだけどさ。
     え? 依子? 言うほどダウナーかあいつ? つか彼氏の前で彼氏面してんなよ蒼介。
     ……話がそれたな。
     本格的に変わったのは夏休み明けの2学期かな。 獅子原は学校に来なくなった。
     いや、まったく来なかったわけじゃない。 それでも週に2、3回来れば良い方で、担任も家庭の事情としか言わなかった。 クラスメイトもべつにいつも通り、獅子原を心から気にしてる奴なんて多分いなかった。
     オレはさぁ……悪い癖だとか、直した方がいいってよく言われるんだけど。 なんかやっぱり、放っとけなくてな。
     でも教室じゃ避けられる。 だから家まで行ってみたんだよ。 借りてたもん返すとか適当なことでっち上げて、担任を説得して場所聞き出してさ。
     マンションだったんだけど、誰も出てこなかった。 一応、昼と夜と2回顔出したんだけど。
     それで手詰まりだ。 けど、帰りしなに街とか気にしながら歩いてたら偶然な、獅子原と会った。
    「なんだ、こんなとこ出入りしてたのか。意外だな」
    「天晶……なに?」
    「なんか家であったのか? オレでよかったら相談乗るよ。途中で放り出さないし、最後まで付き合うぜ」
     タブーな話なのはわかってた。 覚悟は固めたつもりだった。
     けどな、獅子原の拒絶は凄まじかったよ。
    「……あんたに……おまえなんかには、ぜったいぜったいぜったい理解できない」
     憔悴した顔で、でも口ではへらへら笑ってて。
    「天晶さぁ……やさしくする相手、間違ってんよ」
     オレはそれ以上なにも言葉をかけられなかった。
     結局、獅子原とはそれっきりだ。 高校で再会したときはあまりの変化に見違えたけどな。
     今の獅子原のことは、おまえの方が詳しいだろ? 蒼介。

    ◇◇◇

    「――ま、そんな感じだよ。3年間いっしょでも接点なんてこれくらいだ」
     ケンジくんはコップをあおると、中の水を飲み干した。
    「ふぅ。……で? なんで急に獅子原のことを? 依子から鞍替えしてくれるんなら全力で応援してやるぞ」
    「気持ちがそんなポンポン制御できれば、苦労しないですよ」
    「……それもそうか。じゃあ同盟の話は無しだな。撤退か白旗の準備でもしておけ」
     骨だけのサンマが乗った皿を横にずらし、頭を下げる。
    「貴重な話、ありがとう。あとサンマめちゃくちゃうまかったです、ごちそうさまでした」
    「おう。客としてなら歓迎してやる。また来いよ」
     席を立った俺へ、ケンジくんはサラサラとペンを走らせたメモ紙を渡してくる。 店の名前らしきものと、簡単な地図だ。
    「それ、獅子原と会った場所。行くんだろ? ま、あのときとは交友関係も違うだろうし、今もいるかはわかんねえけどな」
    「……何で返せばいいですか?」
    「依子をあきらめろ」
     ぐっ……さわやかに言い放ちやがって。 でも、とりあえずもう一度頭を下げておく。
     ケンジくんはまじまじと俺を見て。
    「おまえってさ……やっぱオレに――……。いや、獅子原の力になってやれよ。あのときオレが出来なかったことだ。今回の礼はそれでいい、オレもすっきりするしな」
     なにを言いかけたんだろうか。 ケンジくんはすでに、テーブルを離れて仕事に戻ってしまった。
     レジで双葉さんに代金を支払って、お釣りを受け取る。
    「よくわかんないけど、頑張ってね弓削くん!」
    「はい、ごちそうさまでした!」
    「あと敬語やめてね!」
    「考えておきます!」
     店を出て、メモ紙に目を落とした。 街の方か。 とりあえず行くだけ行ってみよう。
     しかし……ふぅ。 あんなのが恋敵とか、やってられないな!




      [#ここから中見出し]『第50話 獅子を追って兎』[#ここで中見出し終わり]

     街の雑踏から少し離れた路地へ入り、古ぼけたビルの階段をおりて地下へ。 そこに“アブソリュート”と店名の書かれたスタンド看板が設置されていた。
     通路天井の薄暗い蛍光灯と、その微弱な明かりに浮かびあがる重厚な扉。 なんだか息がつまる。
     そもそもここ、なんの店だよ。 アングラで怪しげな雰囲気プンプンすんだけど、ほんとにマオが出入りしてるのか?
     ……入ってみなきゃわからないよな。
     緊張する。 唾を飲み込み、うしろを振り返っていざというときの逃走経路だけは確認して。 俺はゆっくりと、重々しい扉を押し開いた。
    「こ、こんちはー」
     深海のような、濃く青い照明の店内。 長いカウンターテーブルと、奥に備えつけられた4台のダーツマシンが存在感を放っている。
     だがそれよりも。 なによりも目を引いたのが……ソファに腰かけてテーブルのノートパソコンへ一心不乱に打ち込む、バニーガールの存在だった。
     ピンク髪からはウサミミが伸びて、ふてぶてしく組まれた足には網タイツ。 ハイヒールのつま先でテーブルの裏をコツコツ蹴りながら、加熱式タバコを片手にパソコンをカチャカチャやっている。
    「……チ。あーもう振り込んじまった! くっそ腹立つなぁ……――あん?」
     やさぐれた女性と目が合った。 タバコ吸ってるし大学生くらいだろうか。 肩が剥き出しのバニースーツ姿も、恥ずかしがる様子は一切ない。
    「客? アンタいつからいたの? まだ準備中なんだけど」
    「あ、俺はその、ちょっとひとを――」
    「若ぇな、学生? まあいいや、アンタ麻雀できる?」
    「え?」

    ◇◇◇

    「ハイあがりぃ! いや悪ぃな、アタシばっか気持ちよくさせてもらっちゃってさ」
    「いえ……」
     麻雀は出来ないと答えたら、トランプ勝負をやらされるハメになった。 マオを探しに来たはずが、なぜ俺はこんな地下で見知らぬバニーガールとトランプしてるのか。
     ちなみにブラックジャックとドローポーカーを繰り返しているけど、一度も勝ててない。
    「つぎ何すっか。アンタ弱ぇからなぁ……スピードでもする? 花札とかオセロでもかまわんが」
    「だから俺は目的があってですね――」
    「あ? 目的? そういや見ない顔だな……あっ、クチコミか! まいったな、メシ作れるやつ今日は来てなくてさぁ。飲み物くらいなら出してやれっけど? 高校生だろ? もちろんジュースな!」
    「ひと探してんですよひと!」
     これ以上話を遮られてはかなわないと、ひと息にまくし立てた。
     バニーガールのお姉さんが、高速でトランプを切る手をピタリと止める。
    「ひと探しぃ? ダレよ」
    「獅子原麻央って女の子です。ここに来てるって聞いたんですが」
    「……はぁーん、なるほどな」
     とたん納得した顔でうなずくと、お姉さんはトランプを雑にテーブルへ放った。
    「あきらめて帰んな。いい思いはできただろ? 夢みてぇな時間――いや、文字通り夢だったんだよ」
    「……どういう意味ですかそれ」
    「意味を問うなバカタレ。めんどくせぇだろが」
     なぜか怒られてしまう。 けれど間違いなくこのバニーはマオのこと知っている口ぶりだ。
    「あきらめるわけにはいかない。マオがどこにいるか教えてください!」
    「……ハァ。罪作りな女だなぁ。……アンタ名前は?」
    「蒼介です。弓削蒼介」
    「よぉしソースケちゃん。ならばこうしよう。アタシに何か勝負事で勝ったら居場所教えてやろうじゃねぇの」
     正直、勝負事は得意じゃない。 でもソファにふんぞり返って足を組み、ニヤニヤしているバニーには思うところがある。
     なによりマオの過去にも踏み込んだんだから、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
    「なら将棋……で、どうですか?」
     そう将棋なら、子供のころに祖父から筋がいいと褒められたことがある。
    「いいよぉ? 永世名人の弟子――の従兄弟とも飲んだことあるアタシが、負けるはずねぇから」
     遠い間柄でもせめて将棋しろよ。
    「あとそっちの名前、聞いてませんけど」
    「源氏名でいい?」
    「ダメです」
    「チ、めんどくせぇガキだなぁ……。カニだよ、|可児《かに》|紫乃《しの》。古くせぇ名前だろ? カニちゃんとかかわいく呼べよな」
    「カニなのに、ウサギで。紫乃なのに、ピンク髪」
    「るせぇな。どこ気になってんだよ。おらやるぞ! かかってこいや!」
     将棋盤を広げたカニちゃんと、緊張の1戦がついにはじまった。


    「――恥ずかしくねぇわけ?」
    「ぐっ……!」
     結果は惨敗だった。 討ち取られた|玉《ぎょく》が、カニちゃんの手によって無惨に将棋盤へ転がされる。
    「もう1戦! もう1戦お願いします!」
    「しつけぇな! 飛車角落としてやってもダメだったんだからあきらめろや!」
    「金と銀も!」
    「図々し過ぎんだろ!?」
     こんなつもりじゃなかった。 マオに会うこともできず、おめおめと逃げ帰るわけにはいかないんだ。
     テコでも動かない意志を示していると、カニちゃんがヤレヤレと首を振る。
    「やっかいな客は、とっととお帰り願おうか。――スコーピオっ!」
     カニちゃんがパチンと指を鳴らした。 するとほどなくして、将棋盤に濃い影が落ちる。
     何かが照明をさえぎったのだとわかり、見上げる。
    「店コマラス、ダメヨー?」
     主観で身長2メートルはあろうかという、大男が俺を見下ろしていた。 おかっぱ頭で東南アジア系っぽい顔立ち。 筋骨隆々の身体に纏う、サソリの刺繍が施されたスタジャンが印象的だ。
     何かしらの裏稼業やってんのか?
    「どうするよソースケちゃん? まだ駄々こねるかい?」
     冷や汗が止まらない。
     俺はすっくと立ち上がり、ロボットみたいな足取りで店の出口へ向かう。
    「今日の、ところは、帰る。だが、俺は、必ずまた来る」
    「ハイハイ声震えてる。何度来たってアタシに勝てなきゃ無駄足だけどなぁ」
     カニちゃんとスコーピオのせせら笑いを背に受けながら、店をあとにした。
     ……怖すぎんだろ。 マオのやつ、いったいどんな連中と関わってんだよ。




      [#ここから中見出し]『第51話 バニーガールわからせ遊戯』[#ここで中見出し終わり]

     秋も深まり、文化祭準備の作業が割り当てられた。 部としても本番で披露するシナリオをそろそろ用意しなければならない。 慌ただしく日々が過ぎていく。
     マオが学校を休みがちになっているとヨリコちゃんから聞いたのは、そんな折のことだ。 電話をかけてもメッセージを飛ばしても、マオからの応答はない。
     これじゃケンジくんから聞いた、中学時代の再現じゃねえか。 くそ……俺がもっとしっかりやれていれば。
     もはや頼みの綱はあのアンダーグラウンド。 アブソリュートにしかない。


     俺は足しげく通っていた。 チェスや、ダーツや、覚えたての麻雀、果ては運まかせの双六――。
     けれど何を挑んでも、ただの一度もピンクの悪魔カニちゃんに勝つことは出来なかった。
     ゲームの天才か? 心が折れそうになる。
     いや……まだだ。 託されたからってわけじゃないけど、あきらめたら今度こそ、世話してくれたケンジくんに頭があがらなくなってしまう。
     なによりも俺自身が、あっけらかんとしたマオにまた会いたい。 楽しくバカ言い合って、いっしょにまた遊びたいんだ。
     学習机に肘をついて思い悩んでいた俺は、意を決してスマホを手に取る。 通話をタップして、待つこと数コール。
    『――も、もしもし。なに? なんかめっちゃ久々に電話かけてきた気がするけど、どうせあれでしょ? 寝取られのやつ。セクハラシナリオあたしにやらせようってんでしょ?』
    「ヨリコちゃん、フウタくんに用事あるんだけど代わってくれないか?」
    『――は……? なんで弟? あたしと寝取られごっこすんじゃないの?』
    「え? しないけど。フウタくんに話があるんだ」
     ヨリコちゃんが沈黙してしまった。 小さく舌打ちまで聞こえた気がする。
     やがてドタドタドタと激しい足音。
    『――フウター! あんたに電話!』
    『――“おわ!? なんだよ姉ちゃんノックしろっていつも言ってるだろ!”』
     さらに待つこと10数秒。
    『――なんだよソウスケかよ。番号教えてなかったっけな。なんか知んねぇけど姉貴に八つ当たりされて最悪だよ』
    「災難だったね」
    『――たぶんアンタのせいだろ! ……ハァ、で。なんの用だよ?』
    「ああ、どうしても勝ちたい相手がいるんだ」

    ◇◇◇

     つぎの土曜日、ヨリコちゃんの家へお邪魔していた。 ただヨリコちゃんは出かけているらしく、フウタくんの部屋で俺は一心不乱にモニターへ向かっている。
    「もっと攻めを意識しろって。……なぁ、格ゲーは甘いもんじゃねぇんだ。1日やそこら練習したからって、本来技が身につくもんじゃねぇ」
    「でも、どうしても勝たなきゃいけない……!」
     ゲームパッドを握る手に力がこもる。 頭の中に描く華麗な動きが、キャラクターに中々反映されずもどかしい。
    「まぁ初心者でも……1勝なら、やり方しだいじゃ勝てないこともねぇけど」
    「まじか!? やり方教えてくれ!」
    「最低でもワンコンボは覚えてもらうぜ? それができりゃ勝たせてやるよ」


     指定のコンボを覚えた頃には、すっかり夕方になっていた。
    「まだ体に染みついたとは言えねぇな。あとはイメトレだソウスケ。寝る寸前まで、夢に出るまで動きをイメージしとけ」
    「……つねにガードを意識しつつ、攻めの姿勢は忘れない。大振りを誘ったら、めくって、フルコンボいれて、起き攻めの択を迫って……」
    「ここでブツブツ言うなよ、ゾンビみたいでキメェ。あとひとつ、とっておきの秘策教えてやる。いいか? あらかじめオプションで――」
     ともかく、これで準備は整った。 決戦は明日だ。
    「まじで助かったよ、ありがとう! ……じゃあ、ゲーム機とソフト貸してくれ」
    「……え?」
     呆然とするフウタくんにもう一度礼を言って家をあとにする。 玄関から外に出ると、バッタリ帰宅したヨリコちゃんと鉢合わせた。
     お互い、何かしらを言いよどむ。
    「なんか……ひさしぶりだね? 忙しそうじゃん」
    「うん、ごめん俺……ヨリコちゃん放置しちゃって」
    「……――ぷっ、あはは! なにそれ? 彼氏かっての!」
     たしかに自意識過剰でキモい発言だったな、よくよく考えると。 本心がついポロッと口に出たんだけど、ヨリコちゃんの自意識過剰っぷりが感染ったんだろうか。
    「マオのことでしょ? あたし、ソウスケくんのこと信じてるから。……待ってるね?」
     何よりも力強い言葉をくれて、ヨリコちゃんは小さくバイバイと手を振る。
     中へ入ってしまったあとも、しばらくヨリコちゃん家の玄関ドアを見つめていた。
     もうこれですべて揃った。 勝つためのピースってやつがな……!

    ◇◇◇

     翌日、アブソリュートにて。
     小さな丸イスに身を縮こまらせて座るスコーピオが見守る中、カニちゃんとの決戦がはじまった。
    「電子ゲームなら勝てると踏んだその愚かさをよぉ、わからせてやんぜソースケちゃん!」
     どうでもいいけど、カニちゃんってベクトルがフウタくんに近いな。 普段やさぐれてるけど、ゲームとなるとイキイキし始める。
     初心者と侮って舐めプしてくれてたのか、作戦はおもしろいくらいにハマった。 残りわずかな体力ゲージを、練習通りのコンボで削りきる。
    「――よっしゃああ!! 勝った……ッ!!」
     完! 思わず立ち上がってガッツポーズする俺を、カニちゃんが冷めた目で見上げた。
    「わーったわーった、座れ。チ、まだ1本取っただけだろうが。ビギナーズラックだっつの」
    「……ビギナーズラック? たしかにそうかもな。でも勝ちは勝ちだ」
    「だから1本取ったくらいで――……は……?」
     モニターでは、俺の使用キャラだったセーラー服の女の子が顔をアップに勝利宣言している。
    「俺はこの戦い、3本勝負だなんてひとことも言ってない」
     あらかじめ、設定で対戦方式を1本先取に変更しておいたのだ。
     ギザ歯を剥いてカニちゃんが立ち上がる。
    「おいッ! ずりぃぞおま――」
    「試合中にだって体力ゲージの下から確認できた! あんたの負けだよそうだろスコーピオ!?」
     カニちゃんとふたり、勢いよくスコーピオを振り返った。
     丸イスが食い込んで尻が痛いのか、スコーピオは小刻みに腰を浮かせながら困ったように呟く。
    「オウ……シノノマケネー」
     かくして、あらためて俺は勝利の雄叫びをあげた。
     興奮冷めやらぬ中、ふてくされてソファに沈み込むカニちゃんを問いつめる。
    「さあ、洗いざらい吐いてもらうぞ! マオの居場所――」
    「はよーございまーす」
     入り口から響いた声に、拳を振り上げたまま顔を向けた。
    「あれ、ソウスケ……? ……なんでいんの?」
     でかめのバッグ抱えたマオが、怪訝な表情で立っていた。
     説明を求めてカニちゃんを見下ろす。
    「マオっていつも夕方から出勤なんだよねぇ。ソースケちゃん弱すぎっからさぁ、いっつもその前に負けて帰ってたじゃん?」
    「出勤て、ここで働いてんの……?」
    「だからそぉだっつってんだろ? まぁ、遊び相手んなってくれて楽しかったわ」
     用は済んだとばかりにヒラヒラ手を振るカニちゃん。 なんとも憎らしい顔だ。
     じゃあこの勝負はいったいなんだったのか。
     ……いや、俺が勝っていつもより長く店に居座ったからこそ、こうしてマオに会えたともいえるはずだ。 そうだよ、うん。そう思い込もう。
    「ねーソウスケー。なんでいるのかって聞いてんだけどー」
     マオがゆっくりと近づいていくる。 口もとはゆるく口角をあげているものの、その目はぜんぜん笑っていなかった。




      [#ここから中見出し]『第52話 瞳に揺らぐ』[#ここで中見出し終わり]

    「あのさーもしかして、わたしが心配で……みたいな理由だったりするんかなー?」
     声質が、なんというか硬い。 理由はその通りだったので、黙ってうなずいた。
     マオの一種異様な雰囲気に、カニちゃんもスコーピオも萎縮したように静まり返っている。
    「へぇ〜ソウスケってさー……?」
     目と鼻の先まで顔を寄せてきたマオが、値踏みするみたいに瞳を細めた。
    「天晶みたいな真似すんだね」
     おまえもあいつと同じか、と。 おまえに自分のなにがわかるんだ、と。 マオは言外に責め立てている。
     思い込みかもしれないけど、そう感じた。
    「ははー。なにー? んな難しい顔してー? だーいじょぶ大丈夫、ソウスケが天晶と違うのはちゃんとわかってんよー」
     買いかぶられてるだけだ。 違いなんて、そんなにないんだ。 マオのこと理解してるなんて口が裂けても言えないし、そのくせハラハラさせる行動が心配でたまらない。
     マオはバッグを肩からおろすと、カニちゃんに向き直る。
    「可児さーん、わたし今日バイト休んでもいーですか?」
    「ああ? あーべつに構やしねぇけど……」
    「賄いはちゃんと作っときますんでー」
    「おっしそんなら問題ねぇ。今日は肉なぁ? 肉丼の気分だなぁ。な? スコーピオ」
    「ヤサイ、モットタベナキャダメヨ」
    「ほーんと、いっつも肉ですよねー。……ソウスケ、ちょっと待っててー」
    「あ、うん」
     カウンター裏のドアを開け、マオが中へと消えていく。 再び店内は3人だけになった。
     手持ちぶさたなのか、カニちゃんが自身のウサミミをびょんびょんと撫で伸ばしながら言う。
    「ほぉん……なんかいつもたぁ事情がちがうみてぇだな」
    「いつもって?」
    「あいつが男漁りした連中がなぁ、よく店を訪ねてくんだよ。もう一度、ひと目でいいから会わせてくれってよ。だからアンタも、最初はその手のヤツかと思って適当にあしらったんだが……」
     そんな事情があったのか。 カニちゃんもスコーピオも、なんだか心配そうにカウンター裏のドアを見つめていた。
     ……いいやつらなのでは?
    「マオのやつ、主義だかしんねぇけど男とは1回しか寝ねぇらしくてさぁ。遊んでそな大学生っぽいやつらが多いんだけど、最後はみんな必死なツラでこの店にたどり着いて……脈がねぇってわかると絶望して帰ってくよ。未練たらたら引きずらされる男はたまったもんじゃねぇよな」
     少し、胸の奥に痛みが走る。
     それは……でもおかしくないか。 マオの方から離れてたのか?
     マオは泣きながら言ってたはずだ。 自分の性癖に付き合える男がいないから、いつもうまくいかない的なこと。
     嘘、なんだろうか。 なんでもかんでも本心をしゃべってくれるほど、信頼はされてないよなそりゃ。
     ほどなくして、裏のドアからマオが姿をあらわした。
    「おまたせソウスケー。……やばー、エプロンしたままだったわ」
     デニムのミニスカートを隠しているエプロンを外して、受け取りに立ち上がったスコーピオへそれを渡すマオ。
    「ありがと。肉丼ふたつ置いてあっからー」
    「イエス。サンキューマオ」
     するとスコーピオは蠍のスタジャンを脱ぎ、むきむきの肉体に不釣り合いなほど小さいエプロンをミチッと着用した。
    「ヤサイ、マシマシシトキマース」
    「おいやめろスコーピオッ!!」
     カニちゃん迫真の呼び止めもむなしく、スコーピオがカウンター裏へと消えていく。
     盛大に息を吐くカニちゃんへ、マオがぺこりと頭をさげた。
    「そんじゃー可児さん、埋め合わせのシフトいつでもいーんで」
    「へいへい。健全に遊べよガキども」
    「はーい。行こっかソウスケ」
    「ちょ、ちょっと待って!」
     大事なものを忘れちゃいけない。 中々コントローラーを手離そうしないカニちゃんからゲーム機を奪い取り、デイパックへしまった。
     フウタくんの命そのものだからな。
    「なーんでそんなもん持ってきてんの? ……あーそれもわたしのため、てやつかなー」
     もうなんて返事をすれば正解なのかわからない。 答えは保留したまま、マオに続いてアブソリュートを後にした。
     夕暮れの街。 どこへ向かうのかも知らされない道中。 マオも俺も、ずっと無言だった。
     こんなんじゃなかったはずなのに。 もっと打ち解けて、気楽にバカやれる関係だったはずだ。 それもぜんぶ、俺の勘違いだったんだろうか。

    ◇◇◇

    「まー遠慮せず入れよー」
     たどり着いたアパートの3階、その角部屋の鍵を回してマオがドアを開けた。
     ここって、もしかしなくてもそうだよな。
    「お、お邪魔します」
     緊張から声がかすれ、もつれる足で靴を脱ぐ。
     1DKな間取りの部屋だ。 玄関あがってすぐにキッチンがあって、奥に広めのもうひと部屋。 カーペットはふかふかで、全体的に女の子らしい良い匂いがする。
    「狭くてごめんねー? 生活感ありありでー」
     たしかに広めの部屋といっても、ベッドやテレビ、テーブルなど必要最低限の家具だけでも場所を取っている。 あとは窓の外にベランダがあるみたいだけど――
    「……あっ!」
     マオが窓際までダッシュして、吊られている下着掛けを腕で覆い隠した。 わずかに赤くなった顔で、じっとり振り向く。
    「……みた?」
    「そ、そんなみえてない。ま、マオでもそういうの気にするんだな」
     白、黒、水色。 赤なんてものもあった。
    「わたしをなんだと思ってんのー? いーから座っとけ」
    「う、うん。ごめん」
     豪快に下着類を外し、タンスに収めていくマオから目をそらしてクッションに座る。
    「……あー、飲みもの。ふつー出すよねー? ごめん慣れなくてさー。なんがいい?」
    「ああ、おかまいなく。なんでもいいよ、あるもので。……あんまり友だち呼ばないんだ?」
     キッチンに備えつけられた冷蔵庫の前で、マオが飲むヨーグルトとお茶のパックを掲げるのでお茶を指さした。
    「あんまりっつーか、はじめてじゃね。うちくんの、ソウスケが。勘繰られたくないってか……そんな感じー」
     勘繰られたくない。 気持ちはわかる。 だってこの部屋見たら、たぶん誰もが疑問を口にする。
    「ひとり暮らし、してんだな」
    「親がどっちも浮気しまくりで離婚してー、ひとり暮らしさせてくれる条件飲んだ父親が親権もってるー」
     いつも通りの軽い口調で説明するマオから、緑茶入りのコップを受け取った。 自身は飲むヨーグルトのコップを持って、マオがどっこいせと俺のとなりに腰かける。
     ふわりと鼻腔をくすぐる甘い香り。
    「な、なんで横――」
    「ソウスケも、ひとりでしょー?」
     ……ああ、そうだよな。 部屋見たら誰だってわかるんだ。
     だからマオは俺ん家きたとき、なにも聞かずにスルーしてくれたんだな。 そう考えるとヨリコちゃんも、家見てよく疑問を我慢してくれたなぁと思う。
    「……だからさー、天晶とはちがうんだよ、ソウスケは。|こっち側《・・・・》、だから」
     部活合宿のとき、ヨリコちゃんを|あっち側《・・・・》だと表現したマオ。
     肩へと触れる髪の感触に、顔を向けると、視線が絡まる。 マオの瞳は、暗い闇の色をたたえていた。




      [#ここから中見出し]『第53話 ほんもの』[#ここで中見出し終わり]

     それは、さながらメデューサの瞳のようで。 魅入られてしまった俺は動くことができない。
    「こ、こっち側とか、あっち側とか……関係、ないだろ」
    「んー? ほらー……無理にしゃべんなくていーからさぁ……」
     斜めに傾けた頭を俺の胸に、身をあずけるようにして、しなだれかかってくるマオ。
     見下ろす先では、金髪ストレートなかわいいギャルがうっとりと目を細める。 Tシャツを盛り上げる胸の谷間と、くの字に折りたたまれた足のふとももが視界のフレームへ同時におさまる。
     マオの手がなめらかに俺の頬を包み、つやつやと濡れた唇が迫った。 吐息と共に開いたマオの口が、覆いかぶさる寸前――。
    「……青柳に見せてやりたい」
     囁かれたひと言に、呪縛が解ける。
    「ちょまっ――!」
    「むぐっ!?」
     マオのほっぺたをむんずと掴んで突き離した。
     あぶねえ! 雰囲気に流されるとこだった!
     しかしマオは顔を変形させながらも、俺の頬をつまみ上げるようにして引き寄せようとする。
    「……っ、は!? この期に及んで、拒否とかっ、ありえんし……っ」
    「いっ痛ててっ……! いや、だってあきらかにおかしいだろ……っ、なんだよっ、ヨリコちゃんに見せたいって……っ!」
     お互いの顔を揉みくちゃにする醜い攻防は、双方の体力切れにて痛み分けに終わった。
     マオがテーブルにバンッ! と手を置いて立ち上がる。
    「ハァーッ! ハァーッ! こんのヘタレ童貞! わたしに恥かかせやがってっ!」
    「童貞だよなんとでも言えっ! でもおまええっちしちゃったらその男に興味なくなんだろ!? 俺はマオをそんなことで失いたくねえんだよッ!!」
    「っ!? ――…………〜〜〜〜ッ」
     真っ赤になって、ギリッと歯を食いしばったかと思えば、眉間にしわを寄せて泣きそうになり、うつむいて脱力する。
     どれもこれも、はじめて見る表情だった。
    「……可児さんかぁ……おしゃべりだなぁ……」
     やっぱり、カニちゃんの言ってたことは本当なのか。
     黙ってマオを見上げていると、ぽつぽつと心情が紡ぎ出る。
    「……べつに、楽しい時間も、キライじゃない。青柳とか、ソウスケとか、部活のみんなとか……いっしょに笑ってるわたしだって、ホントのわたし」
     でも。 と、マオは小さく呟いた。
    「たまにぜんぶ、ぶち壊したくなる」
     静かで、悲痛な叫びだった。 泣きそうな顔で、やっぱりマオは笑っていた。
    「どうしようもないんだよー? だってちっさい頃からさー、父親とか母親がさー、知らない奴らとえっちしててー。あいつら家でやるんだぜー? 嫌悪しかなかったよ最初はねー? でもさー、覗き見してるうちにさー、こんな姿をお互いが見たら……パパと、ママが見たら、どう思うんだろうって……興奮、してて……いつの間にかわたしは……こんなんなってて……さぁ……」
     尻すぼみにかすれていく告白は、きっとマオがずっと胸の内にしまっていたものなんだろう。 だから俺は心して、マオから絶対に目をそらさなかった。
     ぱっと跳ねるように、マオが天井をあおぐ。
    「だから、わたしにとっていい頃合いだったのー。みんな生ぬるく仲良くしてて、ここらでわたしがソウスケを取ったら、青柳はどんな顔すんだろーって。サークラってやつ? ははー最低でしょー?」
     俺とマオがどうこうなったからといって、ヨリコちゃんを曇らせることになるのか疑問だけど。 そんなことよりも。
    「ほんとにそんなことしようと思ってたのか?」
    「はー? そー言ってんじゃん。わたし頭おかしんだよ。ソウスケ寝取るくらい簡単にやるよー」
    「じゃあなんで、俺やヨリコちゃんから距離置いたんだ? 本当に寝取るつもりなら、ヨリコちゃんを曇らせたいんだったら、実行する直前まで仲良くしてる方が効果的なのに?」
    「っ……わたし、馬鹿だから、そんなことまでわかんなくて……」
    「自分が興奮するツボくらいわかってんだろ。それでも実行できなかったのは、この関係を崩したくなかったからじゃないのか?」
     でも壊したくなる衝動はたしかにある。 だから矛盾した悩みを抱えることになった。 結果、離れるという選択につながった。
     ……結局、やさしいんだよな。
    「だって、わたし変じゃん。ソウスケは違うって言ってくれたけど……ふつうじゃないよ」
    「だから、いっしょに楽しめる彼氏を求めて男を漁ってたのかと思ってたよ」
    「そんな都合のいいカレシ、いるわけなくない? 天晶とは違うけど、これに関してはソウスケだってそう。……けどさ、心は理解されなくたって、体でつながんのは簡単だし」
     自嘲したマオは、大きく息を吐いて背を向けた。
    「そーいやさー、もうすぐハロウィンだねー? 店でコスプレイベントやんだけどさー、そこで際どいの着て100人斬りでも目指すかなー。もうどーでもいいや」
     その言い回し、俺に助けを求めてんだろ。 わかってるよ。
     マオが本当に欲しいのは彼氏なんかじゃない。 真の理解者だ。
    「……黙ってるだけなら、もー帰ってくんない? えっちもしないし、すげー萎えた」
    「マオ、俺は――」
    「帰ってッ!!」
     肩を震わせながら放たれた拒絶。 どんななぐさめの言葉をかけようが届かないし、意味はない。
     玄関で靴を履いて、外に出る。 空はすっかり暗くなっていて――。 霞がかった今にも消えそうな月が、マオの姿と重なって見えた。
     言葉じゃ救えないなら俺は、行動で示すよ。




      [#ここから中見出し]『第54話 ナイトフィーバー』[#ここで中見出し終わり]

    「ハロウィンってのはさ、たんに収穫祭だと思われがちだけど、本来は悪霊よけの儀式も兼ねてるわけ。ケルト人にとって大切な1年を締めくくる行事と、収穫祭とをいっぺんにやっちゃおうって日なわけだ」
    「はいはい、がんばってしらべたんでちゅね〜? えらいえらい」
     まさにネットで得た知識をドヤっと披露する俺に、ヴァンパイアの格好したヨリコちゃんが頭を撫で回すという名の飴をくれた。
     吸血鬼要素なんて、黒いマントと口端から覗くキバの2点くらいしかない舐めた仮装だけど、これが黒髪のヨリコちゃんにマッチしてかわいい。 ぜひマントの中の仮装具合もたしかめてみたい。
     しかしこの頭を撫でられるという行為。 よく考えればこれって、からかわれてることになるんじゃないか。 つまりは飴でもあり、イタズラなのだ。
     トリック・オア・トリートどころかトリック・アンド・トリートをよこすヨリコちゃん。 太っ腹だぜ。
    「……よし。いい感じじゃね? ほどよく、キモくて」
     俺の顔に最後の筆を入れたヨリコちゃんは、少し遠目から確認すると満足気にうなずいた。
    「いいね! 弓削くんゾンビの素質あるよ!」
     ああ、そんな素質があるならきっと、ゾンビがあふれた世界でも俺だけは襲われないな。
     ちなみに今、横から茶々を入れてきたのは双葉さん。 化け猫と称して一応は顔にヒゲなど書いているが、ネコミミや尻尾などホラー要素そっちのけであざとさに振り切っている。
     そんなんでハロウィン本来の、悪霊を追い払う儀式がまっとうできると思うなよ。
     例によってケンジくんの厳命により、ヨリコちゃんとふたりきりで遊びにでかけるわけにはいかず、双葉さんを誘った次第だ。
    「でも弓削くんがアサネやユウナじゃなくて、ヒルアを誘ってくれるなんてね! 嬉しかったよ♡ ちゅ♡」
    「……アサネちゃんは、ヨリコちゃんが電話しても出なかったし。ユウナちゃんは文化祭の話し合いとか忙しいらしいし」
    「やっぱ3番目に声かけてたんだー!? それ聞きたくなかったなー! あと精いっぱいのサービスしたのに反応冷たすぎると思う!」
    「なんか、すみません」
    「だから敬語も謝罪もやめてよね!?」
     だいたいヨリコちゃんが見てる前で、投げキッスなんかに反応できるわけないだろ?
    「どうでもいいけどさぁ、そろそろ時間やばくない?」
    「どうでもいいって……ヨリコまで、そんな」
    「そうだな、そろそろ出ようか」
     バッチリと仮装を決め、ヨリコちゃん家のリビングから先んじて出ていく俺たち。 後ろで双葉さんがふてくされたように呟く。
    「なんか、つまんない……」
    「イエーイ!! ヒルアちゃんハッピーハロウィーン!!」
    「っ!? ――いえーい!! はっぴはっぴー!! アガッてきたーーっ!!」
     玄関で飛び跳ねながら、双葉さんとハイタッチを交わした。 底なしの陽キャで助かる。
    「マジうるさ!」
     心から嫌そうに耳を押さえるヨリコちゃんに、双葉さんとふたりでウザ絡みしつつ。 いざ熱狂の街へと繰り出した。

    ◇◇◇

     予想通り、繁華街はひとで溢れかえっていた。 みんな酔っぱらいみたいに騒いでいる。
     しかしこう、誰もが一様に奇怪な格好をして街を練り歩くサマはあれだな。 百鬼夜行みたい。
    「あはは! なにあれ!? 金ピカだよ金ピカ!」
    「すっげぇ見て見てヒルア!? ソウスケくん!? あれおっぱい見えてね!? アニメとかのキャラかなぁ!?」
     双葉さんはともかく、ヨリコちゃんも興奮気味に楽しんでるようでなによりだ。 てかヨリコちゃんて普段は覇気がないくせに、意外とイベントごと大好きだよな。
    「見物もいいけど、マオの店行かないと」
    「そだったね、ごめんごめん。ほら行くよヒルア!」
    「あ~んまたヒルアだけ置いてこうとする〜!」


     喧騒から少し外れて路地へと入り、例の地下に降りていく。
    「なんかマジのオバケ出そう……」
    「ヨリコ知ってる? オバケの話するとオバケが寄ってきちゃうんだよ!」
     やっぱ薄暗いよなここ。 かわいい先輩ふたりも連れてるから平静を装ってるけど、実は未だに慣れてない。
     もう何度も足を運んだアブソリュート。 重厚な扉の向こうからは、昼とは様相が違って、ズンズンと腹に響く低音の衝撃が伝わってくる。
     先導して扉を開けると、店内はまさに熱狂の渦だった。
     骸骨が、フランケンが、元ネタのよくわからん全身タイツが、旋律なんて一切聴こえない重低音のリズムに合わせて踊り狂っている。
     店にあったテーブルやイスは一時撤去されたのか、ダーツバーはダンスフロアと化していた。
     ここが地獄か。 坊さんは地獄はこういうところだと説けばいい。 きっとみんな悔い改めて善行に励むよ。
    「おうソースケじゃねぇかよく来たなぁ! わかってるとは思うがアルコールは飲むんじゃねぇぞ?」
     ビール瓶片手にあらわれたカニちゃんは、今日はナース服だった。
     胸もとがら空きでえっぐいミニスカ。 そしてなによりガーターベルトに白タイツ! ゴクリと生唾を飲み込むも、ヨリコちゃんの視線を感じてハッと我に返る。
     危ねえ。 また悪い癖が出るとこだった。 それもこれも、白衣の天使要素皆無なカニちゃんが悪い。
    「カニちゃん、ところでマオは?」
    「あー……また男漁りしてんじゃねぇかな。奥にビリヤードやるスペースあんだけど、さっきそっちに行くとこチラッと見たような」
     フロアの奥か。 でも、なんかこんなとこにヨリコちゃんを残していくのは不安だな。
     ヨリコちゃんに目を向けると、重低音に合わせて体を揺らしはじめている。 ほんと染まるの早え。 性格のチョロさが垣間みえる気がする。
     と、肩にぽんと触れる手の感触。
    「弓削くん、ヨリコのことはまかせて!」
    「双葉さん……」
     なんだかんだ、ひどい態度取っちゃったけど頼りになるな。 ここはお言葉に甘えて――。
    「なんか適当な男がいたらヨリコにあてがって、ケンジとの破局を狙うね!」
    「ぶっ殺すぞッ!!」
     やっぱとんでもねえ腹黒だわ! こいつだけは生かしちゃおけない。
    「ちょ、ちょっとした冗談でしょ!? そんな怒んなくてもいいじゃん!」
     本当だろうな? 少し涙目になった双葉さんを睨みつけた。
    「あ――それとさっきアサネから連絡あって、弓削くんに伝えてくれって」
    「アサネちゃんが? なにを?」
    「“忘れてはいないだろうな。正しくない者に世界は冷酷だぞ”……だって?」
    「……そっか。わかった」
     忠告はありがたいけど、クソ食らえだ。
     世間が認めてくれなくたっていい。 マオひとりに届けば、それで。
    「俺行くよ! ヨリコちゃんをよろしく!」
    「あっ!? ソースケっワンドリンク!」
     カニちゃんの制止を振り切り、ごった返す客をかきわけて、フロア奥のドアを抜けた。
     さらに細長い通路が続いて、そこに立ちふさがるようにスコーピオが佇んでいる。
     え、まさか通らせないつもりか?
     ずんずん近づいてきたスコーピオは、そのでかい図体で俺の視界を遮断する。
    「ワタシガ、キミノコウドウニクチヲハサムコト、アリマセン。――デモ」
     大きな拳に、ドムッと胸を叩かれた。
    「ナニカアッタラ、スグヨビナサイ」
    「あ……ありがとう! センキュー!」
     こ、怖えー! まじで殺されるかと思ってごめんなさい。 めっちゃいいひとだったわ。
     通路の突き当たりにまた小さなドアがあって、そこを開けるとビリヤード台が複数設置された遊戯場だった。 一部しか照明が灯ってなくて、全体的に暗い。
     そこにマオもいた。 男に壁ぎわまで追い込まれ、逃げ場もないように傍目からは見える。
     マオは、身体中に包帯をグルグル巻きにしたマミーの姿だ。 服――というか下着も着けてるかわからないほどボディラインがくっきり出ている。 これまで街や店で見た、どんな仮装よりも刺激的だった。
    「――じゃあそうだな、この辺の包帯から取っちゃおうかな」
    「えー……いいよー? でもいきなりそんな直接のとこー? もっと焦らしたりしないのー?」
    「焦らされんの性に合わねんだわ。今さらイヤだとか言うなよ?」
    「言わねーつの。じゃ、はやくしてー」
     いやこれあきらかにマオも合意の上だわ。
     はぁ……。 まあ、そんなの関係ねえんだけど。
     男の手が、マオの胸もとから垂れ下がる包帯の切れ端を掴んだ。
    「ヤベェな。まじ興奮するわこれ」
     なに殿様みたいな遊びしてんだよくそっ!
    「はいはいちょっと待ったああ!!」
     制止しながら、駆ける。 男を突き飛ばすように間へ割って入り、マオを挟む形に両手で壁ドンする。
    「あ? ちょ、なんだよおまえ!」
     背後から肩を掴んできた手を振り払った。
    「悪りいな。俺が先約なんだよ、えっちすんの。……そうだよな、マオ」
    「ソウスケ……なんで」
     片目は包帯でふさがって、もう片方の瞳は大きく見開いて。 腕の中でそんな風に見下ろすマオは、いつもよりずっと小さく見えた。
    「は!? 先約? まじ?」
    「あ……あー……うん……マジ」
     消え入りそうにマオが合わせてくれて、男は盛大に息を吐いた。
    「……じゃあ早く終わらせろよ? なんならおれも手伝ってやろうか? おまえのケツとか刺激――」
    「やめとけよ!? すぐ終わるから向こうで待っててくれ!」
    「ち……フロアの方行っとくから声かけてくれよ」
     本当に残念そうに去っていく男。
     なんて危ないやつなんだ。 俺のケツにナニする気だったんだあいつ。
     とりあえず無事ふたりきりになれたな。 俺は安堵してマオのとなりに並び、壁に背をあずけた。
     さて、マオに俺の決意を聞いてもらうとしよう。




      [#ここから中見出し]『第55話 ここに寝取られを宣誓する』[#ここで中見出し終わり]

    「……あーあ。100人斬り、ひとり目も達成できなかったなー」
     実に軽い口調で言い放って、マオは壁に押しつけた背中をずりずり下ろしていく。 同じように俺も、青いタイルカーペットに座り込んだ。
    「なあ……その包帯、下に何か着てんのか?」
    「んー? ソウスケも包帯、引っぱってたしかめてみるー?」
     立てた膝に頭を乗せて、俺の方を見ながらわざとらしく体を揺らすマオ。 あきらかに何も固定されてない胸がぶるんぶるん揺れる。
     薄手のジャッケットを脱いで、マオの肩に放り投げた。
    「見せるためにこんな格好してんだから、べつにいいのにー。絆創膏おっぱいに貼ってるしー」
     よけい生々しい。
    「俺が目線に困るんだよ、いいから着ててくれ」
    「気にしすぎじゃねー? そんなんだったらさー、もしわたしがヤッてたら、脳が壊れちゃってたかもしんないね」
     言葉では言いつつも、マオは素直にジャケットへ袖を通した。
    「脳か……壊れてたかもな」
     俺はマオのこと友だちだと思ってる。 それでも見知らぬ男とマオが、なんて想像すると気分のいいもんじゃない。 キモい独占欲なのか、この気持ちをなんて表現すればいいのかわからないけどさ。
     寝取りも、寝取られも、大嫌いだ。 たぶんこれから先も一生、マオの性癖を共有するなんてできない。
     コンクリートの天井では、切れかかった蛍光灯がチラチラ明滅を繰り返している。
    「ねぇソウスケー……わたしらさー……また、付き合ってみる?」
     共有できない性癖をもってして、魅力的な提案だった。 本当……十二分に魅力的な、マオの誘い。
    「マオって、俺のこと好きなの?」
    「……わかんねーなー正直。でもさ、はじめて……裏切らないひとかも、とは思ってるよー」
     光栄な話だ。 俺だってマオのこと大事だし、他にもそう思ってくれてるひとはたくさんいる。 今日だって、みんなマオを心配して俺に付き合ってくれたんだ。
     マオだってそれはわかってるはずだ。 でもそれだけじゃダメなんだろう。
     それじゃ本質には触れない。 マオの渇きが癒やされることはない。
    「わたしさー。ソウスケが嫌なら、我慢するよー? 寝取りだとか寝取られだとか、そーいうの、我慢してもいーよ? それなら文句なくない?」
    「俺が与えられるばっかじゃん。マオはどこでストレス発散するわけ?」
    「えとねー……隠れて浮気?」
    「それ我慢できてねえから!?」
    「あっはは! 冗談だってのー」
     性癖の共有はできなくても、理解はできたんだよ俺。 ずっとずっと、マオのこと考えてたんだ。
     そもそもマオは、寝取るのが好きなのか、寝取られることにより興奮してしまうのか。 馬鹿みたいな話かもしれないけど、マオにとっては大事な話なんだ。 だから嫌いな寝取られについて真剣に考えたよ。
     発端は両親の件だと言っていた。 両親が知らない他人と寝てることに嫌悪しつつも興奮を覚えてしまったと。 大事なひとが、他人に取られることに背徳的な感情を――。
     俺の部屋で、ヨリコちゃんから電話かかってきたときもそうだ。 あのときマオは、天啓がおりてきたとまでのたまって発情していた。
     おそらくは両親の件を除いて、ずっと同じことを繰り返してきたんだろう。 誰かと付き合って、他の男と寝てる最中に電話して絶望させる。 その彼氏の絶望に、自分が昔味わった絶望的な背徳感を重ね合わせて興奮する。
     俺もくらった手口だよな。 あれはなかなかきつかったんだぜ? 本音を言うと。
     つまりマオは、大事なひとを寝取られる方がより感情を揺さぶられるということだ。 それが本質。
     誰かが傷つく姿を見るより、自分が傷つく方がいいってのがまたさ、マオの本来のやさしい人格が垣間見えて悲しくなるけど。
    「俺、ヨリコちゃんに告白するよ」
     顔の包帯がパラリと落ちて、丸く見開かれたマオの両目をまっすぐに見据える。
     マオは大切な心の内をさらしてくれたんだ。 なら俺も、真摯に向き合わなきゃな。
     彼氏がいるから、とか。 ヨリコちゃんを傷つけたくないから、とか。 俺の気持ちには一切関係がない。
     逃げの理由に使うのは、もうやめよう。
    「マオが、俺のこと少しでも大事に、大切なひとだって思ってくれてるんなら……ずっと俺を見ててくれ」
     世間の常識も、倫理観なんて代物も。 いま目の前に存在するマオに比べれば、掃いて捨てるほど些細なものに思えた。
    「ヨリコちゃんに告白して、きっと彼女にしてみせるからさ――」
     俺の行動こそが唯一、マオを満足させられるんだ。 確信をもって言葉を紡ぐ。
    「マオの大好きな俺が、ヨリコちゃんに奪われる様をしっかり目に焼きつけろよな」
     瞳が揺らぎ――激しく揺らいで、マオは膝へと顔を埋めた。
     小刻みに、何度も何度も、しゃくりあげるように頭をうなずかせる。
    「……うん…………うん…………っ」
     しばらくそうして、暗い遊戯場でマオが鼻をすする音を聞いていた。
     やがて、パッと顔をあげるマオ。 ニィと白い歯を見せる満面の笑みは、見慣れていたはずのいつものマオで。
    「つか……大好きとまでは言ってねーだろ! 捏造すんな!」
     肩に思いきりパンチをくらった。
     あまりに待ち望んだ顔だったから――違う、肩があまりに痛すぎてちょっと泣けてしまう。
    「で? で? いつ告んのー?」
    「一応、文化祭のときにって考えてる」
    「マジー!? わくわくすんね! ねーふたり付き合ったらさーいっしょにお泊まりとかしていー?」
    「い、いいけど」
    「夜寝静まったころにさー? わたしに気づかれないようぜったいコッソリえっちすんでしょ!? あー……想像しただけでもう――」
     身を乗り出して興奮するマオと、未来の展望を語り合う。 きっと俺たち以外の誰が耳にしても、眉をひそめるような話を繰り広げた。
     あとは、俺が宣言通りに行動するだけだ。 恩を仇で返す真似になって、ケンジくんには悪いけど……。
     マオのためだなんて言い訳しない、俺自身の欲望のために。 本気でヨリコちゃんを奪いにいかせてもらう。




      [#ここから中見出し]『第56話 決戦に向けて』[#ここで中見出し終わり]

    「は? ハロウィンのときの、わたしの涙を返せよてめー」
     10月の最終日。 文化祭も間近にせまり、浮き足立つ学校の部室で、目のすわったマオからどこかで聞いたセリフとともに詰め寄られていた。
    「もーすぐ文化祭だよ? 青柳に告るんでしょ? なのに何も対策うってないとかナメてんのー?」
    「た、対策たって、試験勉強じゃないんだから」
     制服の短いスカートなくせに行儀悪く机に座り、椅子で小さくなる俺を腕組みしつつ見下ろすマオ。
     返事が気に入らなかったのか、足先をイライラと揺らしている。
    「はー? そんなんで天晶を倒せるわけねーだろ。それがナメてるつってんのー!」
     バン! とマオが激しく机を叩き、読書中の魚沼くんがビクッと肩を跳ねさせた。
    「わたしに一生オカズ提供してくれるんでしょー? つまり、一生わたしの面倒見てくれるって話だよねー? しょっぱなからこんなんじゃ、先が思いやられるっつーか」
    「い、一生とか、そんな話だったっけ」
    「そーでしょっ!」
     バンバン! 机が連打され、魚沼くんが本の上から目だけを覗かせる。
    「……よくわからないけど、元部長と弓削くんはそういう関係になったんですね。おめでとうございます」
    「よくわからないなら口挟まないでくれよ!」
     話がややこしくなる!
     しかしマオはにひっと笑うと、機嫌よさそうに足を組む。 むっちり潰れた太ももが、圧巻の迫力で目前に鎮座している。
     マオのほぼ正面に座る魚沼くんは目のやり場に困って俯いたようだが、マオのななめ後ろに陣取る俺に隙はないってわけだ。
    「ありがとウオっちー。そいやーウオっちの方は? 水無月だっけ、カノジョとうまくやってんのー?」
    「も、元部長! 彼女は彼女じゃありません! それにそんな話をしてると……――ハッ!?」
     なにか気配でも感じたのか、魚沼くんは辺りをキョロキョロしながら鞄をそっとたぐり寄せる。
    「きょ、今日のところはこれで、僕は失礼させていただきます」
     魚沼くんは忍び足で部室から出ていった。
     ふたりきりになると、マオは上履きを脱いで片足を机に乗せ、脚線美をみせつけるように膝を抱える。
     百名山に勝るとも劣らない、足で形作られた小高い山。 紺のソックス履いた脛から登頂を開始し、迷わず太もも方面へ滑落していきたい。
    「おい足ばっか見てんなよスケベやろー」
    「そりゃ見るだろ!? じゃなんだよそのポーズ!?」
    「文化祭、大成功って感じに締められたらさー、ヘッドロックしてやろっかー?」
    「は? 文化祭締めて、首絞められんのかよ。ただの罰ゲームじゃねえか」
    「……足で」
    「足で!? くっ――いや、そんな、ご褒美が欲しくて告白するわけじゃないから!」
     けらけら笑ってマオは、机からひょいと降りる。
    「告白もだけどさー、都市伝説の創作発表も忘れんなよー? ソウスケに休むヒマとかないんだから」
     それもわかってる。 シナリオもぼちぼち書いてはいるけど、クラスの出し物の準備も参加しなきゃいけないし、進捗は遅々として捗らない。
     部室に迎えに来たギャル友といっしょにマオが帰り、俺はひとり取り残された。
    「はぁ……」
     ヨリコちゃんへの告白。 玉砕覚悟の告白なんかじゃだめだ。 そんなんじゃマオも納得しないし、俺だって本気でヨリコちゃんの心を奪いにいきたい。
     そのために必要なもの。 俺と、ヨリコちゃんだけの……。
     やっぱり|原点回帰《・・・・》かな。 考えれば考えるほど、それしかないように思う。
    「そして、ケンジくんか」
     マオの言う通り、いや言うまでもなく最大の障壁となる相手。 もちろん舐めてるわけない。 でも対策たって、そもそも小細工が通用するような相手だとは思えない。
     なら……やることはひとつだよな。 結局、俺にはこうするしか出来ないんだよ。
     どこか清々しい気持ちで部室の窓をしめ、肌寒い風を遮断する。
     鞄を肩に背負って部室を出た俺は、まっすぐ某ファミレスチェーン店へと向かった。




      [#ここから中見出し]『第57話 積み重ねる』[#ここで中見出し終わり]

    「なんだ弓削、また来ているのか。都市伝説創作部の進捗は――……と、どうやらそんな雰囲気ではないみたいだな」
     異様に重い空気を察したのか、ユウナちゃんが俺の席から離れていった。
     テーブルには秋の味覚の新商品デザート3品が並んでいるものの、どれも手つかずなまま対面のケンジくんと視線をぶつけ合っている。
    「……話はわかった。別におまえの行動だ、好きにすりゃいい。ただな、やっぱり残念だよ、蒼介」
    「それだけ……ですか? もっとこう、ぶん殴られる覚悟くらいしてきたんですけど」
    「わざわざそんな不利になるような真似するかよ。しかし、そこまで堂々と決意表明されちゃこれまで通りってわけにもいかない」
    「はい。もうここには来ません。……すみません勝手で。今まで、その、色々。ありがとうございました」
     席を立ち、ケンジくんに深々と頭を下げる。
     不思議だった。 こんなにも心が痛むとは思わなかった。
     だれかを好きになることによって、傷つくひとがいる。 とくに横恋慕なんて、それだけで罪なんだとあらためて実感する。
     祭りの日にヨリコちゃんが抱いた罪悪の念は、決して大げさなものじゃなかったんだ。 なら、俺だって同じだけの覚悟を背負う。
    「ゆ、弓削くん! ここには来ないって、そんな――」
    「よせ陽留愛。放っといてやれ」
    「でもケンジだって、せっかく仲良くなれそうな男友達ができたのに」
    「すみません双葉さん。まじで俺が悪いんです、全部」
     レジで双葉さんにも頭を下げ、店を出る。
     双葉さんだって、ケンジくんがフリーになるのを望んでたはずなのに。 こんな形は希望と違ったんだろう。 ケンジくんを傷つけるようなやり方は。
     こんな正面きって敵対するような形……俺だけが望んだエゴだ。 せめて誠実に、なんて。 不実なことをやらかしてる自分に、少しでも救いが欲しかっただけかもしれない。
    「……む、ソウスケか。やつれて見えるぞ」
     と、店へ入ろうとするアサネちゃんと鉢合わせた。 口調から、今日はのじゃロリモードのようだ。
     ちょっと屈んで、目線を合わせる。
    「せっかく何回も助言してくれたのに、ひとつも守れないでごめんな?」
    「忠告は、礼だ。りんご飴のな。意味を理解しないまま行動し、その結果を背負うのは憐れに思った。しかし、常識から外れた行動だと、周囲の賛同は得られないとわかっているのなら、ソウスケ。思うように突っ走るがいい」
     ほんとに全部、見透かされてるような。
     とりあえず、こちらも礼を込めて頭を撫でてやった。 でもこのアホ毛、何度撫でつけてもぴょこんと直立してしまう。
     猫みたいに目を細めていたアサネちゃんは、俺が撫でるのをやめると不服そうに口をとがらせる。
    「なんだ、もう終わりか……。ついでにもうひとつ忠告だ。突っ走るのは勝手だが、それで青柳依子がおまえに傾くかは難しい話だぞ?」
    「それはわかってる。じゃ、ありがとな!」
     アサネちゃんに別れを告げて、バス停へ向かった。

    ◇◇◇

     街をぶらつきながら、ネタを探す。 ヨリコちゃんのこともそうだけど、部の創作シナリオもどうにかしないと本気でやばい。
     ふと見覚えのある女子生徒が、画材屋の前でガラス越しに店内を物色している。 というか、俺が見間違うはずもない。
    「――ヨリコちゃん!」
     全力ダッシュで駆け寄る。
    「あれ、ソウスケくんじゃん。なにしてんの? こんなとこで」
    「はあ、はあ、ちょっと、ぶらぶらしてたら、ヨリコちゃんいたから……!」
    「あはは。そんな息切らして走らんでも……。あたし逃げたりしないよ?」
     会いたくて、会いたくてたまらなかったヨリコちゃんに、会えたのが嬉しくて。
     制服姿で後ろ手に組み、少し腰を折るヨリコちゃん。 冬の装いとなったブレザーも、膝上のスカートも、クシュッとたるんだソックスもローファーも。
     風でみだれた髪をかきあげるしぐさも。 細めた瞳、いたずらっぽく笑う口もと。
     すべてかわいくて、今すぐに抱きしめられたら、どんなに幸せだろう。
    「うちのクラス喫茶店やんだけどさぁ、内装とかにつかう壁紙なんか探してんの」
    「俺、付き合うよ買い物」
     だって運命だろ。 めちゃくちゃ会いたいと思ってたときに、会えたんだから。 これが運命じゃなかったらなんなんだよ。
    「えー……でもまだなんも買うやつ決まってないし、遅くなるかもよ?」
    「なおさら付き合うって。女の子ひとりとか心配だし、あとほら、荷物持ちいた方が効率いいだろ?」
    「必死じゃん。なに? 最近までマオマオ言ってたのに」
    「ぐっ、それは……」
     理由はヨリコちゃんだって知ってるはずなのに、意地悪いからかい方だ。
     困った顔がよっぽどおもしろかったのか、ヨリコちゃんはお腹を押さえて笑い出す。
    「冗談だって! はあー……。……でもさ、マオも元気になったし、やっぱソウスケくんだね? 信じたあたしの目に狂いはなかった!」
     調子のいいこと言いやがって。 そんな風に微笑まれたら、なにも言い返せない。 ほんとズルい女だ。
    「……けどふたりきりで買い物とか。ほら、ケンジくんが」
    「いや遊びに誘ったわけじゃないし! 文化祭の買い出しだろ? 買い出しするヨリコちゃんと、俺は偶然出会っただけなんだからさ」
     苦しい説得を続ける中、自分で答えを言ってしまった。 運命じゃなかったら……ただの偶然、か。
     いや違う。
    「やっぱこの出会いは運命ってことにしよう」
    「ん? あーあれ? 交響曲第……第、何番だかの」
    「5番な。それ水無月さんのネタな」
     水無月さんがネタか本気で言ったのかはわからないけど。
     ヨリコちゃんはしばらく考え込んだのち、持ってた鞄を振り回して俺の背を打った。
    「よし、ではついてきたまえ。モーツァルトくん!」
    「ベートーヴェンな? まじ大学大丈夫?」
     従者としての許しをもらった俺は、ヨリコちゃんと画材屋へ入店する。
     形なんてなんだっていい。 今は少しの時間だってヨリコちゃんと過ごしたかった。




      [#ここから中見出し]『第58話 メイドインヨリコちゃん』[#ここで中見出し終わり]

    「わぁこれかわいいー! 自分の部屋の壁紙も変えたくなっちゃうなぁ」
     展示されてる織物クロスを物色しつつ、ヨリコちゃんが声を弾ませた。 文化祭の買い出しはどうした? なんて野暮な突っ込みは当然しない。
    「ヨリコちゃんの部屋って、壁紙はたしか薄い青だったっけ」
    「そうそう、よく覚えてんね」
    「大抵は覚えてるよ。部屋だけじゃなくて、たとえば会話の内容とか。へたすりゃ一言一句違わず」
    「……好きすぎじゃね? あたしのこと」
     自分で言っておきながら恥ずかしくなったのか、急に押し黙ってうつむくヨリコちゃん。 顔が真っ赤になってた。
     思わず“好きだよ”と返事しそうになった俺も、もしかしたら同様の顔色してたかもしれない。
    「ほ、他の店も見よっか? テーブルに置く小物とか、飾りとか、コースターなんかも見たいし」
     髪を何度も撫でつけながら言うヨリコちゃんに、ふたつ返事で同意した。 もちろんどこにだって付き合う所存だ。


     雑貨屋めぐりを終えて学校に戻ったのが19時前。 最近は日没も早く、辺りはすっかり暗くなっている。 まだ一部生徒は残っているものの、ヨリコちゃんの教室にはだれもいなかった。
    「ごめん、マジで遅くなったね。そこら辺、てきとうに置いてて」
    「あ、うん」
     とりあえず大量の買い物袋を教室の後ろへまとめて置く。
     なるほど、喫茶店だけあってあまり工作なんかはする必要ないんだな。 当日に間に合うように食材とか飲料を確保するだけか。
    「ん?」
     ふと、隅に置かれたダンボールに、折り畳まれたフリルな衣装を発見する。 何気なく手にとって広げた。
     こ、これは。
    「……ヨリコちゃん」
    「んー?」
    「喫茶店って、メイド喫茶なの?」
     膨らんだ袖口と、裾の広がった短いスカート。 どちらにもレースが施されて、文字通りフリフリな、いかにもなメイド衣装だ。 正式なタイプじゃなく、男を喜ばすために具現化されたデザインの方。
    「あ、あー……メイド喫茶てか、コスプレ? 同じ衣装が何着もあるわけじゃないから、他にもナースぽいのとか、警官ぽいのとか……サンタもあったかな」
    「なんだよ……それ」
     最高すぎるだろ。 メイド服を握りしめる手が、わなわなと震える。
    「男子ももちろんコスプレすんだよ? タキシード着て執事とか、迷彩服なんかも――」
     男子はどうだっていいんだよ!
     机へ寄りかかるヨリコちゃんに、メイド服を持ったまま向き直る。 なにかを察したのか、ヨリコちゃんの目がスッと細まった。
    「……え。なに? ろくなこと言いそうにない顔してるけど、一応聞いたげる」
    「これ、着てくれない?」
    「ほらっ! ソウスケくんちっとは欲望隠しな? 大人になって、働いてお金貯めて、お金払ってそういうのやってもらいなよ」
    「じゃあ出世払いで。今日の分はいつか払うから」
    「……あたしに着せるのは確定してんだ?」
     他のだれに着てもらったって満足するはずないだろ。
     机によっと腰かけ、少しかかとの潰れた上履きをぷらぷらさせるヨリコちゃん。 暗くなった窓の外なんか見て、でも帰ろうとは言い出さない。
     あれ……意外といけそう? もうひと押し何か言い訳はないのかね? って催促してるような態度だと、勝手に思った。
     俺はポケットからスマホを抜き取る。
    「シナリオ。あるんだ、こんなシチュにピッタリなやつが。頼むよヨリコちゃん! 文化祭シナリオの練習だと思って付き合ってくれ!」
    「出た。伝家の宝刀みたいな言い方すんね? 文化祭もうすぐだよ? 間に合うの? ……はぁ。しかたないなぁ」
     勢いをつけて机から降り、ヨリコちゃんはメイド服を奪い取ると、しっしっと手を振って俺を教室の外へと追い出す。
     うおおやったぜ……! 俺は歓喜の声を抑えながら廊下へ走った。


     蛍光灯の消えた廊下は暗い。 すぐとなりの教室からもれる照明と、シュルシュルといった衣擦れの音が、なんだかすごくイケないことをしてるみたいで胸が高鳴る。
     今、ヨリコちゃんどんな格好してんだろう。 さすがに突入なんかしたら嫌われるのは明白だけど、こうして妄想するだけで頭がどうにかなりそうだった。
    「……いいよ?」
     囁かれた許しの言葉。 生まれ変わったヨリコちゃんを見る権利が、俺だけに与えられた気分で教室へ入る。
    「…………」
     言葉が出てこなくて、代わりに喉がゴクッと鳴った。
     アニメみたいに、胸の谷間が見えるとかそんな激しい露出じゃない。
     でも外が暗い夜の教室で、黒髪に白いフリルのカチューシャが映えて。 黒いメイド服の腰に大きなリボン。 ふわりとしたスカートは、ヨリコちゃんが端をつまんでなんとか伸ばそうと試みている。
     けれどそれで足を隠せるわけもなく、膝上まであるニーハイソックスとスカートの間に、いわゆる絶対領域という太もも空間が出来てしまっていた。
     ふたつの足の隙間がぴっちり閉じて、恥ずかしげにもじもじと擦れ合う。
    「……うぅ……なんか言って」
    「すげぇ……めちゃくちゃかわいい」
    「……あ……はは……うっそだぁ……」
     スカートの前を片手で押さえつつ、空いた手で前髪をくりくりひねるヨリコちゃん。 揺らぐ瞳が、落ち着きなく教室中をめぐる。
    「いや、まじ神。美の女神。ヴィーナス。放課後の教室に神話を見た」
    「……そこまでいくとマジでうそくせぇ」
     乙女モードだったはずのヨリコちゃんが、低音で声を発してジト目になった。 掴んでいたスカートを投げるように放し、フリルの裾がひるがえって捲れる。
     みえ――……ないんだな、これが。
    「シナリオやるんでしょ? なら、はやく出して。ほらほら」
    「そんなせっつかれたら出るもんも出ないだろ!」
    「はい、セクハラしたね? 今のぜったいセクハラだった。メイドさんに性的な欲求ぶつけるのとか、うちの喫茶店なしだから」
     文化祭の模擬店でそんな高度なこと要求するわけないだろ。 エロ漫画じゃあるまいし。
     ヨリコちゃんはまた机に腰かけ、すまし顔を決め込む。 接客のなってないやさぐれメイドに、俺は“寝取られシナリオカフェ編”をスマホで送信した。




      [#ここから中見出し]『第59話 妄想メイド喫茶本気モード』[#ここで中見出し終わり]

     席につき、メニューに見立てた教科書を広げつつ、俺は片手をあげる。
    「注文、いい?」
    「はいはい、ただいま」
     格好だけは立派なメイドのヨリコちゃんが、すごくかったるそうに席までやってきた。
     俺は息を吐いて、首を振る。
    「もっと真剣にやってくれないと」
    「はぁ? やってるって。ソウスケくんの目がふし穴なんじゃないの?」
    「どうせ遊びだからこの程度の演技でいいだろう。ヨリコちゃんからは、そんな思惑が態度に透けて見える。何事にも真剣になれない、本当にそんな生き方でいいのかい?」
    「ぐぅっ……くっそムカつく言い方すんね? ――わぁかった、やる。まじめにやればいいんでしょ!」
     一旦ヨリコちゃんが教室を出て、仕切り直し。 ふたたび姿をあらわしたヨリコちゃんは、さっきまで手ぶらだったのに丸いトレイを抱えていた。
     まずは形からか。 いい心がけだ。
     スッと手をあげる。
    「ウェイトレスさん、注文」
    「はいはーい! ただいま――きゃっ!?」
     笑顔で駆け寄ってきたヨリコちゃんが、自分の足に蹴つまずく。 トレイに乗ってた水入りコップがひっくり返り、俺の下半身にバシャンと水をぶちまける。
    「うわあ!? ちょっ冷てえッ!?」
    「ご、ごめんなさいお客様! 大丈夫ですか!?」
     思わず椅子から立ち上がった俺に対して、ヨリコちゃんはひたすらに頭を下げた。
     まじかよ! 本当に水かけるとは思わなかったぞ! どうすんだよ制服これ……明日までに乾くかな。
     しかし真面目にやれと言った手前、怒るに怒れない。 まあいい、続行だ続行!
     濡れてしまった椅子に腰かける。 尻がぐっしょり冷たくて気持ち悪い。
    「どうしてくれるんだ君、これから大事な商談があるんだぞ」
    「すぐに、すぐに拭きますから!」
     かいがいしく片膝を床につけてしゃがみ、布巾で俺のズボンをちょんちょんとタッチするヨリコちゃん。 見下ろす視界に、透き通るほど白い鎖骨が映っている。
     その奥にはむにっと横に潰れた絶対領域な太もももあるのだが、足を見るのは自重した。
    「……ほんと綺麗な肌だな」
    「……そんなセリフありましたっけお客様」
    「あ、ああいや、そ、そんな拭き方じゃ埒があかないよ。これはブランドもののスーツなんだ。店長にクリーニング代を請求しよう」
    「そ、そんな、それは困ります。ごめんなさい! 謝りますから!」
     ただひたすらに、頭を下げる行為をヨリコちゃんは繰り返す。 ほんとに泣きそうなほど顔を歪めて、見てると背すじがゾクゾクする。
     ああ……何かにつけてリード取りたがるヨリコちゃんが、俺に向かってこんなにペコペコして。
    「謝られたってどうにもならんね。店長を呼びなさい」
    「お願いします! あたしにできることなら、なんでも! なんでもしますから!」
     我ながら素晴らしい脚本だ。 人生で一度は言ってもらいたい台詞5位には入ってくる。
     ヨリコちゃんの懇願タイムをもう少し聞いてみたいところではあるけど、先に進めよう。
    「ん……? なんでもと言ったね?」
    「は、はい……なんでも……します」
     俺は立ち上がると、うつむくヨリコちゃんの腕を掴んだ。 ビクッと肩を跳ねさせる姿に、はじめて嗜虐心というものを覚えた。
     なんか弱々しいヨリコちゃんって、すごく……こう、そそられる。


     ――場面が変わって。
     教室の前へと移動すると、俺はヨリコちゃんの肩を軽く突き押した。
    「きゃっ!?」
     派手につんのめったヨリコちゃんが、教壇に両手をつく。 俺は後ろ手に鍵をかける動作をしながら口で「ガチャっ」と言った。
    「この従業員トイレなら、だれもこないんだね?」
    「は、はい……でも、その、あ、あたし彼氏いるんです。だから――」
    「なんでもすると言ったのは君だろう。すぐに済むから、君はこっちを見ずにお尻だけ突き出してなさい」
    「そ、そんな……ぅ……ぅう……」
     すべてを諦めたかのように、言われた通りのポーズを取るヨリコちゃん。
     メイド服のスカートに包まれた、丸みを帯びた尻。 そしてニーハイソックスの太ももが眼下に、俺の下半身のすぐ前にある。 その事実だけで全身がカッと熱くなった。
     ヨリコちゃんは教壇に両手と頬をぴったりくっつけて、真っ赤な顔で小刻みに震えている。 目尻には、涙さえ浮かべて。
     え……? これ、演技だよな。 まさか、そんなわけないと思うけど、このまま本気で寝取りに発展する可能性が……?
     俺はヨリコちゃんに本気の演技を要求した。 じゃあ、俺は? 俺はどこまで本気になっていいんだ?
     カラカラに渇いた喉を潤すため、唾を飲み込んだ音がゴクッと鳴った。 もっとお尻を引き寄せようと、ヨリコちゃんの細い腰にそろり手を伸ばし――。
    「――ぷふっ」
     ……ぷふ?
    「あーはっはっは! むり! マジもうむり! 我慢できないってば!」
    「え!?」
     ヨリコちゃんが腹を抱えながら、教壇からずるずる床に滑り落ちていく。 横倒しに床へ寝そべって、それでもまだ身をよじらせ苦しそうに笑っていた。
    「シチュがありえないんだって! トイレでっとかさぁ! ぶふっ! だいたい商談どうなったんだよ遅れんぞ!? エリートサラリーマン!」
    「ぐっ……くぅっ……!」
     設定のあらを突かれ、顔が熱くなる。
     さっきまで別のところを熱くさせてくれてた女の発言とは思えない。 完全なセクハラだけど口に出して言ってやろうかなこのやろう!
     めくれるスカートも気にせず、だらしなく足をバタつかせてひーひー言ってたヨリコちゃんは、ようやく落ち着いたのかしきりに涙を拭っている。
    「総評……総評ほしい? ねぇ? ……全体的におっさんくさい! さすが童貞っていうか!」
    「もうやめてくれよ死体蹴りすんのっ!!」
     また教室にヨリコちゃんの笑い声が響いた。
     まあ……楽しそうだから、いいか。 バカみたいなやりとりだけど、これが俺とヨリコちゃんの出会いなんだし。 他にはない、俺たちだけの遊びなんだ。
     しかし、一度も完走しないな俺の寝取られシナリオ。 ほんとはヨリコちゃん喘がせるとこまでいきたいんだけど。
    「――コラーッ!! こんな時間まで教室でなにやっとるかー!!」
     突如の怒声に、俺もヨリコちゃんもふたりして直立する。 おそるおそる教室の後方を振り返ると、にやけた顔のマオが立っていた。
    「いやー……ホント、堪能させてもらったぜー」
     マオが手に掲げたスマホを見て、ヨリコちゃんがみるみる青ざめていく。
    「い……いつから、見てたの……?」
    「んーあたまから? ムービーの容量かなりでかくなってさー。ソウスケのシナリオはひでーけど、つーか青柳もけっこうノリノリだったじゃんねー?」
    「け、消して? すぐ消して!」
    「教壇に手ついてケツ振るとことかー、迫真って感じだったよー?」
    「マジでぶっころす!!」
     颯爽と走り去るマオを追って、ヨリコちゃんはメイド姿のまま駆け出していってしまった。
     しかたないので、棚の上に畳んであった制服を持って教室を出る。
     こういうときはあれだな。 せめて心の内くらい、なんかラブコメの主人公みたくモノローグをキメよう。
     ――やれやれ。しょうがねえやつらだ。




      [#ここから中見出し]『第60話 願いは遥か』[#ここで中見出し終わり]

     放課後、クラスにて文化祭の出し物の準備を手伝う。 でかいベニヤ板に仄暗い色を塗りながら、なんでお化け屋敷なんて手間のかかる出し物が選ばれたのか首をひねる。
     まあ、こういうのって一致団結感でるもんな。 うちのクラスは陽キャの集まりだし、みんなワイワイと楽しそうに作業していた。
     するとクラスメイトの男子が近づいてきて、俺のとなりで作業中の水無月さんに声をかける。
    「水無月さん。その、よかったら何か手伝おうか?」
     茶髪で遊んでそうな見た目のわりには、照れくさそうに鼻をかいて。 あきらかに、水無月さんに気のあるそぶりだった。
    「……あ、うん。大丈夫です、ありがとう」
     ハケを動かす手を止めて、茶髪男子を見上げながら微笑む水無月さん。 清楚に女の子座りしながら小首をかしげる。
    「えと……魚沼くん、見なかったですか?」
    「え? 魚沼? あー……見てないけど、部活とか行ったんじゃない?」
    「そうですか……。――……チ」
     舌打ちした! 今ぜったい舌打ちしたよな!?
     茶髪男子には聞こえなかったようで、“あ〜やっぱ噂は本当なのかな~”的な顔をして残念そうに去っていった。
     水無月さんは、また静かにハケをベニヤへ這わせはじめる。
    「……弓削くんは、お化けや呪いってあると思いますか」
    「え!? あ、あー。あるんじゃない? あるところには……」
    「そう。気が合いますね。……彼は信じようとしないのに、必死に反転させようとしている。これっておかしいですよね。本当に、おかしな人……」
     俺は曖昧にうなずくことしかできなかった。 お化け屋敷なんかより、水無月さんと話してる方がよっぽど怖い。


     クラスでの割り当て作業を終えたら、部室に向かう。
    「――ぅおい! クラスの出し物準備手伝えやおらあああ!」
    「開口一番叫ぶのはやめてくれよ弓削くん。作業ならここでやってる」
    「そうじゃなくて! クラスでやりゃいいじゃん、水無月さんかわいそうだろ?」
    「き、君にそんなこと言われる筋合いはないよ」
     というか魚沼くんが近くにいないと、何やらかすかわからない危うさを感じるのだ。 しかし魚沼くんはテコでも動かない様子。
    「……まあいいや。クラスの男子が部室にいるって水無月さんに教えてたし、ここに来るかもな」
    「なっ!? ぼ、僕はこれで失礼する!」
     いつも通り魚沼くんが逃げ出し、ひとりになった部室で窓を開ける。 11月の風は冷たく、身が引き締まる思いだ。
     窓からは本校舎が見える。 日は落ちかけているけど、ヨリコちゃんのクラスにはまだ明かりが灯っている。
     あとはこの部室で、あの教室の明かりが消えるまで作業するだけだ。 都市伝説創作部としての、文化祭の出し物。
     椅子に腰かけ、原稿用紙を広げた。 もう書く内容は決まっている。 想いを込めて、一心不乱にシャーペンを動かしていく。

    ◇◇◇

     没頭状態からふと我に返り、窓の外を見る。 本校舎の明かりはほとんどが消えていた。
     俺は鞄を掴み取ると、全力疾走で校門へと向かった。


     今日も校門前で無事、目的の人物を見つけて駆け寄る。
    「ヨリコちゃん!」
     寒そうに縮こまるヨリコちゃんが、秋風に流れる髪を押さえ、振り返る。
     夏に比べて少し伸びた黒髪が、本当に綺麗だと思った。
    「……ソウスケくんじゃん。なんか放課後、よく会うね?」
    「ほんと、奇遇奇遇。いっしょに帰らない?」
    「いいけどさ。まだ何人か残ってんだから、あんま馴れ馴れしくしちゃダメだよ?」
    「わかってるって」
     奇遇なものか。 文化祭の準備がどんなに忙しくても、ヨリコちゃんが帰宅するこの時間だけは外さない。
     俺は文化祭で告白する。 失敗したら……なんて、そんなこと考えたくはないけど。 もしそうなったら、これまで通りじゃ当然いられないだろう。
     ヨリコちゃんと過ごす時間を、少しでも長く、大事にしたかった。
    「はぁ〜……ホント寒くなったね。そろそろマフラーとか手袋、いるかも」
     手に息を吐きかけるヨリコちゃんと、並んで夜道を歩く。
     コート着て、マフラーや手袋でモコモコしたヨリコちゃんもぜったいかわいいに違いない。
    「あ、この先のコンビニで肉まん買わない? 俺、おごるからさ」
     ふたりの時間をなんとか引き伸ばしたくて、あさましく提案した。
     ヨリコちゃんはあごに指先をあて、ふむふむとうなずく。
    「いいねぇ。でもおごるとか無理すんなし、後輩のくせに。あたしだって夏のバイトの分まだあるからね」
     結局割り勘――というか自分の分は自分で買うことになり、肉まんと缶コーヒーを手に公園へ立ち寄ることに。
     こんな時間だから、公園内に人影はない。 暗い中に佇む遊具が、どこか物悲しくも見える。
    「ヨリコちゃん、あそこ座ろう」
     もちろんアレの携帯はすっかり習慣づいている。 ベンチにハンカチを広げ、ヨリコちゃんの座る場所をしっかり確保した。
    「えへへ、ありがと! ちょっと照れくさいけど、そういうとこホント紳士でカッコいいよ? 高ポイントです!」
    「やったぜ!」
     ヨリコちゃんのすぐとなりに腰かけ、浮ついた気分で缶コーヒーを飲んだ。 冷えた体に琥珀が染みる。
     片足ずつをぷらぷら振り子のように揺らして、ヨリコちゃんのかかとが公園の土をザクザクと掘っていく。
    「あ〜あ……来年の今ごろ、ちゃんと大学生やれてんのかな、あたし」
     目先の文化祭しか頭にない俺と違って、ヨリコちゃんの瞳は遠くを見つめていて。
     漠然と不安になった。
     来年、か。 来年の今ごろも、俺はヨリコちゃんとまだこうして過ごせているのかな。 ヨリコちゃんのとなりに、並んでいられるんだろうか。
    「……てかホント、寒いね!」
     手のひらにハァハァ息を吹きかけて、肉まんを頬張るヨリコちゃん。 もどかしくなった俺は、ただ「うん」とだけ返事をした。
     触れられないのが、もどかしかった。
     告白して、やっぱりヨリコちゃんと付き合いたい。 彼女にしたい。 その手を包んで、あたためるのが俺でありたい。
     欠けた月を見上げながら、そう強く願った。




      [#ここから中見出し]『第61話 ゾンビの心意気』[#ここで中見出し終わり]

     ついに文化祭当日を迎えた。
     早朝、いつもより早めに学校へ向かう。 まだ薄暗いけど天気は良好なようで、澄んだ冷たい空気の刺激が肺に心地よかった。
     2日にかけて行われる文化祭だけど、初日は校内開放のみとなる。 文化部の発表会なんかも、明日の一般開放に合わせて行われる。 だからまだ気楽だ。
     生徒同士で実際に模擬店で飲み食いしたり、遊戯の完成度を確認したり。 つまり文化祭初日は、準備期間の延長戦みたいなものと捉えてかまわないと思う。

    ◇◇◇

     教室に入ると、すでにけっこうな数のクラスメイトが登校していた。
     迷路のように仕切ったパーテーションに垂れ幕をかぶせ、俺も塗ったおどろおどろしいベニヤ板を貼りつけていく。
     作業はすぐに終わり、みんなが歓声をあげた。 大きなトラブルもなく、実に優秀なクラスだ。 とりあえず求められるままにハイタッチを交わしていく。
     陽キャって清々しいやつが多いんだよ。 あたりまえか、だから陽キャなんだし。
     そういえばヨリコちゃんとこのコスプレ喫茶も完成したかな? あとでぜひ行ってみたい。
     つづいてお化け役のメイクだ。 お化け役といっても、交代制なのでクラスメイトのほとんどに脅かし役が回ってくる。
     俺も女子ふたりにお呼ばれしたので椅子へ腰かけた。
    「うーん弓削くんはなんのメイクがいいかな」「ゾンビだって! ぜったいゾンビ映えする!」
     ……なんでハロウィンのときから、こんなゾンビメイクに定評があるんだ? ゾンビ映えする顔ってどんなだよ。
    「はーい、じゃあ目ぇつむってね」
     まあ文句はない。 言われた通りに大人しく、顔にサラサラ筆が走るこそばゆさを我慢する。
     しかし……女子から顔に、ある意味落書きされてるというのに興奮しないな。 ハロウィンのとき、ヨリコちゃんに顔いじられてるときはあんなにドキドキしたのに。
     自分にそんな性癖があったのかと勘違いしたくらいだ。
     落書き……落書きか。 なぜかとある映像が、鮮明に頭に浮かんでしまう。
    「ちょ、ちょっとぉ弓削くん顔赤くなんないでよ、もー」「照れんなって! 女子と距離近いからって緊張してんだろ!」
     顔を見合わせて笑う女子ふたり。
     別にイヤな笑い方じゃないけど……くっ。 ヨリコちゃんの足とかお腹に正の字を落書きするとこ妄想してたなんて言えるわけないだろ!
     知らぬ間に、寝取られに毒されてしまっていたんだろうか。 変なとこが反応する前に、さすがに自重した。


     無事にゾンビメイクも施され、教室の前で呼び込みを行う。
    「うん? ――むぉお弓削か!? すさまじいクオリティだなその仮装……!」
     立ち止まったのは、生徒会の腕章をつけたユウナちゃんだった。 各クラスを見て回ってるらしい。
     てか“むぉお”て。 そんなゾンビに適性あんの俺? さすがに複雑な気持ちなんだけど。
     ユウナちゃんは腕を組み、遠巻きに俺の顔を眺めてしきりにうなずいている。
    「あのさ、よかったらユウナちゃんも見ていかない?」
     クラスの連中も喜ぶだろ。 体育祭でのユウナちゃんの人気っぷりを思い返すと。
    「い、いや……うむ、外観だけでも立派なお化け屋敷であることはわかるぞ。そうだな、この看板からして十分過ぎるほどに怖さが伝わってくる」
     たじろぐユウナちゃんが見つめる看板には、全面をお経だかなんだかの文字がビッシリ埋めている。
     それ、水無月さん作の特級呪物です。
    「そんな外観とかじゃなくてさ、実際に体験してってよ」
    「だ、だからぁ……そのぉ……あっおいケンジ!」
     なに? ケンジくんだと?
     廊下の奥からひとり歩いてくる姿は、たしかにケンジくんだった。 まるで助けを求めるように、ケンジくんの袖を引っぱるユウナちゃん。
    「な、なんだよ、どうしたんだよ?」
    「ほ、ほら見てみろ、ここが弓削のクラスのお化け屋敷だそうだ! 怖そうだろう!?」
    「え? 蒼介の?」
     そこではじめて、ケンジくんと目が合う。
    「……どうも、お久しぶりです」
    「……へぇ。最初だれかわかんなかったぜ。気合入ってんな蒼介」
     ケンジくんも気づかないほどのメイクなのか。 あとで鏡見てみるか。
     ケンジくんは看板や、入り口の垂れ幕に目線を流して。
    「なるほどな。……けどな、こんな子供騙しでオレをビビらそうなんて、百年はええよ」
    「どうですかね。ビビったうえにチビらないでくださいよ? 掃除大変なんで」
    「へっ、上等ぉ……っ! そこまで言うなら見せてもらおうか、おまえの本気ってやつをよ!」
     拳と首をポキッと鳴らして、入り口に向かうケンジくん。 その腕を、ユウナちゃんがひっしと掴んだ。
    「よよよし、決まりだ! じゃ、じゃあ入るかケンジ!」
    「えっちょっ!? ゆ、友奈と入るのか!?」
     急に弱腰になったケンジくんを、ユウナちゃんがずるずる垂れ幕の中へ引きずり込んでいく。
    「お、おい蒼介っ! おてやわらかに! おてやわらかに頼むぞ!」
     そんな情けない命乞いを残して、ケンジくんは教室の中へ消えていった。
     今さらもう遅い。 あれだけ煽ってくれたんだ。 全力のゾンビを見せてやる!


     意気揚々と定位置についたのだが――。 スタート地点から聞こえてくる声でもう察した。
    「ちょっ友奈!? 腕っ、折れ――」
    「きゃああああああああああ!!」
    「|痛《い》ッぎゃああああああああ!?」
     なんか、枯れ枝の折れるような音も聞こえた気がする。
     満身創痍でふらふらと歩いてきたふたりを、俺は脅かさずにスルーした。 俺よりよっぽどゾンビに見えた。
     恋敵とはいえ、ケンジくんには悪いことしたなと心から思う。




      [#ここから中見出し]『第62話 カフェイン摂取はほどほどに』[#ここで中見出し終わり]

     2時間ほどが経って、お化け役の交代となった。
     3交代制だからあと1回脅かし役が回ってくる。 なので、ゾンビメイクはそのままで校内をうろつくことにする。
     さっきクラスメイトにもらったパンフレットによれば、校門近くでたこ焼きやクレープの屋台。 校庭ではストラックアウトをはじめとした各部活動考案の遊戯が体験できるみたいだ。
     ま、俺の行き先なんてひとつしかないんだけど。
    「おーいソウスケー。……ぶはー! やってんなその顔ー」
     焼きそば片手に登場したマオが、ひとの顔を見るなり吹き出した。 そのリアクションにも慣れてきたな。
    「青柳んとこ行くんでしょー? わたしもいっしょしていーい?」
    「いいけど……焼きそばもうまそうだな」
    「だろー150円だぞ150円。安すぎー」
     たしかに安い。 喫茶店ではコーヒーくらいにしといて、あとで屋台も覗いてみるか。


     3年の教室前にいくと、ちょうどヨリコちゃんが客引きのためか廊下に顔を出したところだった。
    「あ、マオに――ソウスケくん、だよね? 今ちょうど空いてきたから寄っていきなよ」
     さすがヨリコちゃんはゾンビメイクも見慣れてらっしゃる。
     しかしメイド服姿のヨリコちゃんを見てると、先日の四つん這いポーズを思い出して血の巡りが良くなるな。 写真撮っときゃよかったなぁ。
    「あ……でも、やっぱり今は……」
     教室の中を気にして、急に言いよどむヨリコちゃん。 不審に思って、マオと中を覗き込む。
     中央付近のテーブルに、ケンジくんが座っていた。 今度はアサネちゃんとふたりのようだ。
     またケンジくんか。 彼女がコスプレしてんだから、当然見にくるよなそりゃ。
    「関係ねーよ。入ろーぜ」
     マオの力強い言葉に後押しされて、堂々と教室に突入した。 すぐにケンジくんが反応し、こちらを見上げる。
    「よく会うじゃん、蒼介。うまいぞ、依子のコーヒー。おまえも飲んでけよ」
     すぐさま繰り出されるマウント。 コーヒーを飲むのに、まるでケンジくんが許可をくれたみたいな流れだ。
    「獅子原麻央に弓削蒼介。凶星がふたつ。ふむ、これはおもしろい」
    「だれが凶星だよだれが。いいかげんにしろよ、のじゃロリっ子」
    「ふえ?」
     きょとんとするアサネちゃんを尻目に、マオと席へつく。 ケンジくん達以外には、数名の女子グループが今の客層だ。
    「ぷっくく。のじゃロリっ子て。日辻のあんな顔はじめてみたわー」
    「え、そう?」
     アサネちゃんって割とポンコツっぽいけどな。
     てか、のじゃロリ枠はポンコツって相場が決まってんだよ。 じゃないと強大すぎるし、萌えられないからな。
     メニューを広げると、となりの席でケンジくんが片手をあげる。
    「依子、コーヒー」
    「あ、はーい」
     メイド姿のヨリコちゃんが、笑顔でケンジくんに手を振った。
     ……くっ。 新婚夫婦のひとコマか? 脳の損傷を感じるも、負けられない。
    「ヨリコちゃん俺も、コーヒー」
    「え? はいはい、ちょっと待ってね。つか青柳さんだろぉが」
     人目なんか気にしてられないんだよ。
     やがてヨリコちゃんが、トレイにふたつのコーヒーを乗せて運んできてくれる。
     先にコーヒーを受け取ってドヤ顔するケンジくんだが、それは単に注文する順番通り運ばれたに過ぎない。
    「はいお待たせ。……マオは注文しないの?」
     一心不乱に焼きそばをすするマオを、ヨリコちゃんがじっとりと見ている。 口いっぱいに焼きそばを頬張りながらマオは。
    「水」
     とだけ言った。 すさまじい胆力だ。
    「依子、コーヒー頼む」
    「えっもう飲んだの!?」
     かなり熱いコーヒーなのに、口もとをグイと拭うケンジくんに、ヨリコちゃんも驚愕していた。
     くそっ負けてたまるか。 灼熱の液体をひと息に流し込んだ。
    「ヨリコちゃんっ俺もおかわり!」
    「対抗しないでいいからね!?」
     バタバタと厨房――というか、仕切りの向こうへ駆けていくヨリコちゃん。
     こっちを見て、フンと鼻を鳴らすケンジくんを睨みつける。 対面ではズズズと焼きそばをすする音だけが聞こえてる。
    「はぁ、はぁ、コーヒーお待たせぇ」
     トレイのカップを受け取ったそばから、ケンジくんがコーヒーをあおり飲んだ。 負けじと俺もつづく。
     ケンジくんと同時にカップをテーブルへたん! と置いて。
    「依子、コーヒーだ!」
    「ヨリコちゃん!」
     見れば、ヨリコちゃんは肩をぷるぷると震わせていた。
    「……あんたらさぁ……他にもウェイトレスさん、いるのにさぁ」
    「青柳ー。水」
    「ふぅむ。のじゃロリ……とは……?」
    「も全員帰って! 邪魔! 二度とこないで!」
     激怒したヨリコちゃんに、4人とも追い出されてしまった。
     廊下で所在なげに立ち尽くす俺達。
     すると、たぶん同じ教室にいたであろう女子生徒のひそひそとした囁きが耳に届く。
    「ね、あの男子1年?」「青柳さん、彼氏いるって知っててコナかけてんのかな」「だとしたらありえないでしょ、天晶くんすぐ近くにいるのに」「引くわー」
     まあ、予想できた言葉だ。 ヨリコちゃんにヘイトが向かなくてよかった。
     耳をそばだてていたアサネちゃんが、俺に流し目をよこす。
    「わかっているとは思うが、この程度は序の口だぞ? おまえの行動しだいでは――」
    「うるせー」
     マオの暴言は、アサネちゃんにというより、女子生徒達へ向けられていた。
    「うるせーんだよ。ソウスケをそこいらの常識で語んじゃねー。こいつがまともだったら、わたしはここにいねーんだよバーカ」
     他人をここまで罵るマオを、はじめて見たような気がする。 それはきっと、俺のためで。
     去っていく女子生徒達を見送り、アサネちゃんが息を吐く。
    「ふふん。やっぱり凶星ではないか、おまえらは」
    「さっきからさー、日辻の言うことはマジ意味わかんねーんだけど」
     ケンジくんが同意するようにうなずくも、そのあとマオに笑いかける。
    「なんとなくはわかるだろ? 朝寧とも仲良くしてやってくれ。――じゃあな蒼介、獅子原も」
     ケンジくんとアサネちゃんもいずこかへ消えて、マオとふたりになった。
    「……なぁマオ、焼きそばもうひとつおごってやろうか?」
    「えーそれならたこ焼きがいい」
    「いいよじゃあ、たこ焼きで」
    「なに急にー? お礼にえっちなことしてほしいのー?」
    「ちげえよ!」
     かばってくれたこと、実はめちゃくちゃ感動したんだが。 本人に言うのが照れくさかっただけだ。




      [#ここから中見出し]『第63話 出会いの季節とは』[#ここで中見出し終わり]

    “都市伝説創作部の出し物、午後に体育館でやるから絶対見にきてほしい”
     本当は模擬喫茶で言うつもりだったことを、ヨリコちゃんにメッセージで送っておいた。
     あのときの周りにいた女子達の反応はずっと頭に残っている。 俺がやろうとしてることは、そういうことだ。
     夏、花火を見たあの場所でも思った。 きっとヨリコちゃんは喜ばない。 困らせて、傷つけてしまうだけの身勝手な行動。
     胸に秘めておこうと決めたはずなのに、俺はその誓いを破ろうとしている。
    「……こんなに好きになるなんて、予想外だったんだよ」
     ひとり言い訳をつぶやいて、|だれもいない《・・・・・・》、|冷蔵庫以外の物もない《・・・・・・・・・・》リビングを見渡す。 |聞こえるのは無《・・・・・・・》|機質な空調の音だけ《・・・・・・・・・》。
    「行ってきます」
     そして文化祭2日目が開催される学校へ向かった。

    ◇◇◇

     一般開放された文化祭は、前日とは比べものにならない盛り上がりをみせている。
     俺も朝からお化け役として、てんてこ舞いの大忙し。 仲良さげなカップルを必要以上に怖がらせたり、泣かしてしまった小さい子供をあやしたり。
    「ほーらほら飴だよー甘いぞー」
    「ぶああああああ!? おがあさあああん!!」
     超速で俺から離れ、母親らしき女性にしがみつく男の子。
     そりゃそうだ。 ゾンビだしな。
     子供は嫌いじゃないんだけど、扱いがわからないから苦手だったりする。
    「うわーん! 怖かったよケンくーん!」
    「くっそあのゾンビ野郎、出口まで追いかけてきやがって……!」
     憔悴しきった様子で去っていくケンくんカップルの背中を、物陰に隠れながら見送った。
     あのカップルとは遭遇率高めだけど、べつに好きでも得意でもない。 とはいえ嫌いでもないけれど。 変な縁を感じてちょっとこっちが怖いんだよな。


     そんなこんなで午前中はあっという間に過ぎ、俺は洗面所でメイクを落とした。 今日の午後は部活の発表があるんで、お化け役は免除されているのだ。
     ひとまず腹ごしらえするか。
     出禁を食らったヨリコちゃんのコスプレ喫茶には行けない。 しかたなく、校門付近の屋台へ向かう。
     屋台も盛況だった。 かなり並ばないといけない覚悟を固めたとき、どこかで聞いたような声がよく知った名前を呼ぶ。
    「マオさ〜ん! はぁ、はぁ、なんとか全部買えました!」
     あの子はたしか、部活の合宿でお世話になった――そう、スミカちゃんだ。
     スミカちゃんは大量の食料を抱え、植え込みのブロックに座るマオへまるで献上品のごとくそれを差し出している。
    「うむうむ。これからもよきにはからえー」
     いったん列を離れて、積み上がった献上品に舌舐めずりするマオのもとへ。
    「おまえなぁ、後輩をパシリにすんなよ」
    「お、ソウスケじゃーん。今日はゾンビやんねーの?」
    「わあ弓削せんぱい! お久しぶりです!」
     だらけたマオと違って、ぴょんぴょん飛び跳ねるスミカちゃんはなんともフレッシュだ。 サイドアップテールの髪も元気いっぱいに荒ぶっている。
     それにしても、弓削せんぱい……か。 悪くない響き。 というかめっちゃいい。
    「スミカちゃんは、マオに呼ばれてきたの?」
    「はい! あ、いえ呼ばれてはないんですけど……父に送ってもらって遊びにきちゃいました!」
    「そーだよわざわざパシリに呼ぶわけないでしょー? わたしをなんだと思ってんのかなー」
     見てるかぎりスミカちゃんは尽くすタイプで、マオも遠慮なくそれを受け入れてるからな。 パシらせてることに違和感がない。
    「ソウスケは昼メシー?」
    「そのつもりだったんだけど……」
     列はまだ長いままだ。 またあそこに並ぶ気力はもうなかった。
     するとスミカちゃんが、妙案とでも言いたげに手をポンと打つ。
    「弓削せんぱいもよかったらご一緒にどうですか!? たくさんあるので!」
    「あーでも俺……邪魔じゃない?」
    「なーに遠慮してんだよー、らしくもねー」
    「そうですよ! みんなで食べましょう!」
    「じゃ、じゃあお言葉に甘えて」
     焼きそばとペットボトルのお茶の代金をスミカちゃんに手渡し、コンクリートブロックでの昼食会にお邪魔させてもらった。
     とくべつ話題なんて振らなくても、スミカちゃんは友達や中学校での出来事を話してくれるんで、一緒にいて非常に|楽《らく》であり楽しかった。
     なるほど。 あまり詮索されたがらないマオが、この子をお気に入りな理由がよくわかった。
     来年ほんとにスミカちゃんが部活に入ってくれるなら、俺と魚沼くんふたりの淀んだ空間が浄化されるかもしれない。
     小1時間ほどで昼食を終え、スミカちゃんを案内するため立ち上がったマオに手を振る。 腕なんか組まれて抵抗してたマオも、やがてあきらめたらしい。
     ほっこり微笑ましい気分で周囲を見渡していると、校門から校舎を見上げてたたずむひとりの女子がいた。
     知ってる顔だ。 でもなんで私服なのかわからない。
    「双葉さん、何してんですかそんなとこで?」
     声をかけつつ歩み寄っていくも、双葉さんはおどおどと距離を取る。
    「……え? あ、あの、その、ど、どちらさま、ですか」
    「え? いやいや、双葉さん? ……ですよね?」
     双葉さんは不審者を見るように、でも決して目を合わすことなく俺の下から上までせわしなく視線をめぐらせる。
     どう見てもいつもと態度が違い過ぎる。 そもそも文化祭なのに参加してないのか? つか今日はポニテじゃなく髪をおろしてるんだな。
    「あ……も、もしかして、姉のお知り合い……の、方ですか?」
    「あ、姉!? え、てことは双葉さん――ヒルアさんの妹さん?」
     双葉さんと瓜二つな顔が、こくこくと頷いた。
     いや似すぎだろ。 双子? でも双子だったら同じ学年のはずだよな。 学校が違うのかな。
     双葉さんの妹さんは3年の校舎に行きたいらしく、ルートを丁寧に教えてやった。 妹さんは何度も俺を振り返り、ぺこぺこ頭を下げている。
     なんだか不思議な出会いをしてしまった。
    「――と、いけね。そろそろ舞台の下見をしておかなきゃな」
     独りごち、体育館へ向かう。




      [#ここから中見出し]『第64話 俺の怪談を聞け』[#ここで中見出し終わり]

     体育館は、現在生バンドの真っ最中だ。 女子生徒4人組が制服姿でパンクロックを歌唱し、異様な熱気に包まれている。
     まずビジュアルが圧倒的に強くてうらやましい。 このあとに都市伝説創作語りなんてスケジュール組んだ運営は鬼なんだろうか。
     裏を返せばそれだけ期待されてるということか。 プレッシャー半端ねえな。
     心臓をバクバクさせながらステージを見上げていると、舞台袖から魚沼くんが顔を出し、俺のもとへと小走りでやってくる。
    「よ、ようやくきたのか弓削くん。僕はもう吐きそうだ。帰っていいかい」
    「ふざけんじゃねえよ。もし帰ったら泣くからな。だいたい魚沼くんの台詞部分はぜんぶ俺が考えてやっただろ」
    「だから不安なんだよ!!」
    「創作者によくそんな言葉吐けるなぁ!?」
     最初から俺にシナリオなんて書かせるのが間違いなんだ。 あああ緊張がおさまらない。
    「……ちょっと、トイレいってくる」
    「い、1分以内に戻ってきて!」
    「夜不安な彼女かよ!」
     一度体育館を出て、付近のトイレに入る。
     落ちつけ。 落ちつけ。 そう念じながら用をたすと、いくぶんか気が楽になった気がする。
     そうだ、ここまできてジタバタしたってしょうがない。 自分を信じろ。 準備したものを粛々と読みあげるだけじゃないか。
     手を洗い、ついでに顔も洗う。 鏡を見て、頬を両手でパシンと張って、体育館へ戻った。
     あいかわらず生徒や一般客で埋まる館内にはビビるものの、頭が真っ白になったりだとかそういう状態とは無縁だ。 たぶん、もうすぐバンド演奏も終わる。
     魚沼くんを探して舞台袖へ向かう。 照明の絞られた薄暗さの中、魚沼くんはユウナちゃんとなにやら打ち合わせをしている様子。
    「おお、来たな弓削副部長。調子はどうだ? 緊張していないか?」
    「いや、そりゃ緊張してるよ」
     ヤバいくらいに。 どれだけ気合入れたり落ちつこうと試みても、完全に消えることはない。
     ユウナちゃんは長い髪を耳にかけ、笑う。
    「そうだろうな。だがその緊張は、舞台に立つものの特権だ。存分に楽しめ、ふたりとも」
     豪胆な先輩だ。 とてもお化け屋敷で醜態さらしてたとは思えない。
     だけどこんな風に元気づけてもらって、いつまでもビビってちゃ情けないよな。 ヨリコちゃんだって、見にきてくれるはずなんだから。
     バンド演奏が終わったようで、女子生徒4人組がやりきった顔で舞台袖へおりてくる。
    「心配すんなよ魚沼くん、俺たちだって10数分後にはああやって笑ってるはずさ」
    「いや、僕はもうとっくに肚を決めてるけど」
     こいつも豪胆だったわ! ここ一番で水無月さんが不意をついて現れないことを願うぜ!
    「よし、では行ってこい。部と演目の紹介はしてやるから、そのあと始めるんだぞ?」
    「わかったよユウナちゃん! 俺達の出会いを赤裸々に語ってくるよ!」
    「え!? 俺“達”ってなんだ? 赤裸々な出会いって!? おい弓削、おまえなにを発表するつもりだ!?」
     それはもちろん、俺とヨリコちゃんの話だ。 でも都市伝説創作部の――マオの面子だって潰すわけにはいかない。 俺なりに頑張って落とし込んだつもりだ。
     魚沼くんと舞台に立ち、少しの静寂が訪れる。 やがて重々しい緞帳がゆっくり開くと、まばゆい白光に目が眩んだ。
     視界にはたくさんの人があふれてる。 想いを届かせたいのは、その中のたったひとり。
    『え、えー続きまして、都市伝説創作部による、創作怪談です。どうかご静聴のほどよろしくお願いします』
     さあヨリコちゃん、話を聞いてくれ。




      [#ここから中見出し]『第65話 寝取られ報告集大成』[#ここで中見出し終わり]

     体育館の照明が完全に落とされ、すべての窓にカーテンが引かれる。 おとずれた闇にざわめきが起こる。
     けれどやがて、それも静かになった。
     俺は軽く咳払いして、マイクを口もとに運ぶ。 内容は完璧に暗記している。
    『“――それは、暑い夏の夕暮れ。 彼は早めに入浴を済ませ、自室でくつろいでいるところだった。 昼の熱気がこもっているのか、エアコンはつけているはずなのに部屋は蒸し暑い。
     彼――……仮にSくんと呼ぼうか。 Sくんは暑さにうんざりしながらも、翌日から始まる夏休みを心待ちにしていた。 なにせ高校生になってから初めての夏休みだ。 どこに遊びに行こうか、女の子との出会いもあるかもしれないと心を昂ぶらせていた。
     と、ふいにSくんのスマホが鳴る。 着信のようだが、未登録の電話番号だ。 少し不審に思いつつもSくんは電話に出る”』
     ここで、舞台上で椅子に座っている魚沼くんを、スポットライトがカッと照らす。 魚沼くんはスマホを耳へあて。
    「……もしもし? ……あれ? もしもし」
    『“――Sくんがいくら呼びかけても、電話の相手は反応しない。 いやしかし、何か微かな音がするような……。 Sくんは耳を澄ました。
     するとそれは吐息混じりの、女性のすすり泣く声にも聞こえる。 怖いな、気味が悪いなぁ、そう思いながらも聞き入っていると、どうもボソボソと何かしらを呟いている。
     ――くん。――……くん。
     誰かの名前だろうか? さらに耳をそばだてる。
     ――……Kくん。ねぇ……Kくん。
     女性は確かにそう名前を呼んでいた。 聞き覚えのない名前。 そんな名前の知り合いもいない。 だから、Sくんは思いきって電話口にこう返す”』
    「あ、あの……電話、間違えてますよ」
     魚沼くんの震え声に、息を呑む客席の気配が伝わってくる。 いい調子だ。
    『“――Sくんが告げると、電話口の女性は黙り込んでしまった。 不思議に思って、そのままスマホを耳にあてていると、また何かをぶつぶつ呟き始めたようだ。
     今度は何を……? Sくんは女性の言葉に集中する。
     ――しねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしね――”』
    「ひッ……!?」
     迫真の演技で魚沼くんがスマホを取り落とし、会場から小さく悲鳴があがった。
     すげえな魚沼くん。 と感心しつつ客席を見渡すと、最前列にいつの間にか水無月さんの姿がある。
     あ、もしかして水無月さんに反応したのか? そうだというならベストタイミングだ。
    『“――通話を切って、布団に潜り込むSくん。 蒸し暑い部屋にも関わらず、体の芯から冷えるような、おぞましい感情を叩きつけられた。 理解はできなかったが、結局は間違い電話かいたずら電話の類いだろうと結論づけて、Sくんは眠った。
     翌朝……枕もとのスマホに手を伸ばしたSくんは恐怖で凍りつく。
     履歴には、昨夜の着信が残っていなかった。
     夢でも見ていたのか? 汗でぐっしょりのシャツを着替えると、Sくんは気持ちを切り替えるために外へ出かけた。 無意識に人の多い場所へ足が向く”』
     場面が変わることを示唆して、魚沼くんからスポットライトが外れた。 客席もホッとしたような、安堵の空気に包まれる。
     ここまでがヨリコちゃんとの出会い、序章。 こんな感じでだいたい合ってる。
     ヨリコちゃん、客席のどこかで聞いてるかな? 俺たちの出会いの軌跡を。
    『“――ショッピングモールの賑やかさに昨夜の出来事も忘れ、Sくんは本屋に立ち寄った。 そこのレジにいた、ひとりの女性にSくんの目が奪われる。
     単に容姿が優れているだけでなく、どこか人間味の薄い表情をした女性もまた、Sくんをじっと見ている。
     なぜだろう。 知り合いじゃない。 だけど無表情な冷たい視線から、Sくんは逃れられない。
     そしてその日の夜、再びSくんのスマホが鳴った。 また身に覚えのない番号だった”』
     魚沼くんの頭上から、スポットライトの明かりが落ちてくる。
    「……もしもし?」
    『“――意を決して着信に出たSくんの耳に、また女性の呻くような吐息。 けれどぶつぶつと呟く言葉は、昨夜とは違って聞こえた。 Sくんは耳を傾ける。 すると……。
     ――……ねぇ。――ねぇ、Sくん。――ねSくん”』
    「うわあ!?」
     Sくんこと魚沼くんが、派手にスマホを放り投げた。
     転がったスマホを最前列の水無月さんが拾い上げ、舞台の魚沼くんに差し出している。 ガタガタと震えながらそれを受け取る魚沼くんは、臨場感たっぷりだった。
     客席には耳をふさいでる女の子もいる。
    『“――昨夜は違ったはず。 どうして自分の名前を知っているのか、Sくんは恐怖に駆られてすぐ通話を切って電源も落とした。
     ふと、昼間ショッピングモールの本屋で出会った女性を思い出す。 どこか生気の感じられない、無表情な顔を。 もしかすると何か関係があるのかもしれない。
     翌日もSくんはショッピングモールに向かう”』


     ――それからも、俺は怪談に仕立てたヨリコちゃんとの歩みを淡々と語った。
     最初はどうなることかと思ったけど、みんな黙って聞いてくれた。 ヨリコちゃんひとりに届けばいいと思ってた話を、興味深そうに聞いてくれたんだ。
     寝取られ報告の電話。 夏祭りのこと。 体育祭や、台風や、合宿や、様々なこと。 すべて定められた呪いとして語り、Sくんは怪異と離れられない運命であると悟っていく。
     そして、最後に締める。
    『“――Sくんは、この呪いと一生付き合っていく覚悟を固める。 なぜならば……離れた方が、よほど恐ろしいことになってしまう気がしていた。
     この話を聞いたあなたも、知らない番号の着信にはお気をつけください”』
     シン……と静まり返る体育館に照明がつき、魚沼くんとふたりで客席に頭を下げた。 鳴り響く拍手の音も、なんだか恥ずかしくなってそそくさと舞台袖におりる。
     舞台袖でも、ユウナちゃんが拍手で迎えてくれた。
    「よかったぞふたりとも! 獅子原の語りとはまた趣が違ったが、より親しみやすい話だった!」
     マオの文集のようなのは、俺には無理だと早々にあきらめたので。 百物語系の怪談は動画で見まくった。 功を奏したようでよかったな。
     魚沼くんもホッと胸を撫で下ろしている。 影の立役者は水無月さんかもしれない。
     でも今はなにより、ヨリコちゃんの感想が聞きたいのだ。 何かメッセージでもきてないかとサイレントモードにしていたスマホを手に取った。
     いいタイミングで、まさにヨリコちゃんからポコンとメッセージが届く。
    “ごめんこっち忙しくて!”“も、もう終わった?”“いま体育館に走ってる”
    「って見てなかったんかああああい!!」
    「どっどうした急に叫んで!? 大丈夫だ見てたぞ!? 途中なんて、腰が抜けそうなほど怖くて――」
     フォローしてくれるユウナちゃんに頭をちょこんと下げ、足早に体育館をあとにする。
     なんということだ。 俺の一世一代の決意だったというのに。 念押ししたのに見てないとか、ありえないだろ。
     でも不思議と怒る気なんか全然なくて。 なんかヨリコちゃんらしいとすら思えて、笑みがこぼれた。


     体育館に向かう連絡通路で、膝に手をついてゼエゼエ言ってるヨリコちゃんと遭遇した。
     息を詰まらせ、額に汗を光らせて、一生懸命駆けつけてくれたんだとわかる。
    「あ、ソウスケ……はぁ、はぁ、くん。やっぱ、もう終わっちゃったんだね? マジ、ごめん」
     そうだよな。 一世一代にしちゃ、回りくどかった。 |察しのいい《・・・・・》ヨリコちゃんに甘えてばっかじゃ駄目だよな。
    「ヨリコちゃんさぁ……」
    「うん?」
    「俺、めちゃくちゃあなたのことが好きです。だから彼氏にしてくれませんか?」
     やっぱり、何度も再生したどの怪談よりよっぽど怖えや。 膝が震える。
     返事を待つ時間は永遠だった。




      [#ここから中見出し]『第66話 ジェノサイダー(青柳依子)』[#ここで中見出し終わり]

     あたしはこうなることを覚悟していた。 でも、どこかでそれはまだ先の話だと思っていたかもしれない。
     それはけっきょく覚悟できていないのと同じことで、あまりにもまっすぐな気持ちにあたしは答えることができなかった。
     浴槽に体を沈めて、熱いお湯に足を伸ばす。
    「はぁ……」
     きもちいい。 文化祭の疲れも癒えてくし、何もかも忘れちゃいそうなくらい頭がぼーっとする。
     いや、忘れちゃだめでしょ。 顔にお湯をパシャパシャかけた。
    「……蒼介くん」
     ふと名前をつぶやいてみると、昼間あたしを好きだと言ってくれた顔が鮮明に浮かんで、茹だるように全身が熱くなる。
     目は泳いでた。 足も震えてた。 それでも好きだと言葉にして、どれだけの勇気を振り絞ってくれたんだろう。
     蒼介くんが、あたしに好意を向けてくれてたことはわかってる。 けっこう前から……夏祭りよりも、もっと前から知ってる。 隠そうとしてたのかもしれないけど、視線とか、言葉遣いとか、態度にもぜんぶ出てる。
     なのに――。 あたしはズルくて、蒼介くんはやさしいから。 弟みたいで、友達みたいで、いっしょにいて楽しくて、失いたくなかったから。
     決定的な言葉を言われたくなくて、ずっと曖昧な距離を保とうとしてた。 踏み越えそうになったら茶化して、誤魔化して。 それが暗黙のルールみたいに、共通の認識だとあたしは一方的に決めつけてたんだ。
    「あぁ……さいていだなぁ」
     のぼせそうな気がして、立ち上がって浴槽をまたぐ。 脱衣所で体を拭いたり、乾かした髪をとかしながら、鏡に映る死んだような目を見つめる。
     われながら、いつにもまして覇気がねぇなぁって感じがする。
    「……どこがいいんだよ、こんな女の。マジで」
     キャミ着て短パンを履いて、首にタオルを巻いたままリビングに入った。 ソファで寝転ぶ風太をチラ見して、冷蔵庫のパック牛乳をゴクゴク飲む。
    「姉ちゃんコップ使えよ」
    「あたししか飲まないじゃん」
    「そういう問題じゃねぇだろ。彼氏に嫌われても知らねぇぞ」
    「む……」
     弟がかわいくない。 ソファにうつ伏せて、スマホいじってる風太は顔も向けやしない。
    「ねぇ、お姉ちゃんかわいいかなぁ?」
    「ああ!? な、なんだよそれ知らねぇよ!?」
     焦ったようにソファをおりて、風太はそそくさとリビングから出ていこうとする。
    「そ、そんなことよりアイツは? 蒼介はどうしたんだよ最近。ゲーム誘ってもあんま乗ってきやがらねぇし、姉ちゃんからも言っといてくれよ」
     曖昧にうなずいた。 風太の口からこういうような話題が出るのは、一度や二度じゃない。
     階段をのぼっていく弟の足音を聞きながら。 いつの間にか、こんなにもあたしの日常に溶け込んでいるんだって。 あらためて……。


     自分の部屋に入って、ベッドに座る。
     やっぱり蒼介くんは、弟とはちがうよね。 かわいいし、かっこつけるとこあるし、ふざけすぎたりするとこもあるけど。
     あたしを楽しませようと一生懸命になってくれたり、あたしのために必死に台風の中駆けつけてくれたり、紳士だったり。
     胸がキュウっとなっちゃうのは、あたりまえだけど弟なんかじゃないから。
     思えば夏休みに出会ってから、ずっとあたしのそばにいようとしてくれてた……のかな。 彼氏がいると知ってて、あたしのことが好きで、もし立場が逆だったらあたしは耐えられない。
     つらかったね。 ごめんね。ごめんなさい。
    「……あたしが泣いてどすんだ、ばぁか」
     蒼介くんの気持ちはわかった。 気づいてたけど、言葉でも聞いた。
     考えなきゃいけないのは、あたしの気持ち。 机の上にある写真立てを見る。
     あたしには賢司くんがいる。 とっても大事で、大好きなあたしの彼氏。 あたしにはもったいないって、いつも思う。
     でもこんな言い方しちゃだめなんだ。 賢司くんにも蒼介くんにも失礼だから。
     賢司くんの周りには、かわいい子も綺麗な子もいて、だけどあたしを選んでくれた。 うれしかった。 その気持ちに報いなきゃいけないのに、夏祭りの夜に罪を犯した。
    「…………っ」
     枕に顔を埋める。 どう考えてもやっぱ最低で、泣けてくる。
     あたしにだれかを選ぶ資格なんてない。 けど選ばなきゃならない。 何様だ? 泣けてくる。
     つらい。 つらい。 どうしてそっとしといてくれなかったの?
     賽は投げられたってやつだから? じゃあ投げたのは蒼介くん? ちがうでしょ、あたしがサイコロを握らせたんだ。 蒼介くんはもう投げるしかなかった。
     最初から、もっと距離を置くべきだった。 わかってたはずなのに、今さら。 今さらつらいって、苦しいって言ったって、どうにもならない。
     何を選んだとしても、今が壊れる。 罪に対する罰だから。 このままってわけにいかない。 今からでも精算しなきゃならない。
     スマホを握りしめる手が、みっともなく震える。
     イヤだ。 こわい。 つらい。 悲しい。
     履歴から着信をタップした。 往生際も悪く“出ないで”なんて願うけど、数回のコールで繋がってしまう。
    「……ごめんね。今まで……ありがと」
     鼻水でぐずぐずなあたしを心配してくれる声が、胸に突き刺さる。 ホント、あたしには価値がない。
     そうしてあたしは“もう会えない”と別れを告げた。




      [#ここから中見出し]『第67話 寝取られ報告はこない』[#ここで中見出し終わり]

     真っ白いリビングに、ひとり座り込んでいる。 フローリングの床が尻に冷たい。
     空調の音が、ブーンと虫の羽音みたいに耳にまとわりつく。 何か、大事なことを忘れてる気がする。
     ひと……? にぎやかな……。
     羽音が頭に入り込んでくる。 すべてが白く塗り潰されていく。
     そう、俺はひとりだ。 ずっとひとりだった。
     だよな? 蒼介。

    ◇◇◇

     もう冬といっても過言ではない寒さとなり、登校時に吐く息が白く空気に溶けていく。
     しみじみと、学校なんて行きたくない。 ここ最近は3年の教室にも近づかないし、ヨリコちゃんらしき後ろ姿を見かけるたびに距離を取るようになってしまった。
     だってそうだろ。 合わせる顔なんてない。
     文化祭の日、走り去ってしまったヨリコちゃんから|メッセージが届いた《・・・・・・・・・》のは、その日の夜だった。 ひと言“ごめん”と添えられて。
     要するに振られてしまったわけだ。
     策は用意しなかったけど、勝算が無いとは思ってなかった。 ケンジくん相手に、小細工なんて無駄だと悟ってはいた。 だから俺は時間を積み重ねたんだ。
     それこそが受験勉強で忙しいケンジくんに唯一優れると確信して、ヨリコちゃんといっしょに過ごす時間を増やしていった。 重ねた思い出は、きっと心に響くと信じて。
     でもまあ、終わりだよなにもかも。 できることなんて、もうなんにもない。
     あとは灰色の高校生活を送るしか。
    「はあ……」
     どでかいため息が作り出す白もやを突っ切って、重い足を進めた。


     授業をてきとうに流し、放課後。
    「弓削くん、今日も部活には出ないつもりかい? 昨日は獅子原元部長も来て、君のことを心配してたようだけど」
    「……悪いけどパス。文化祭も終わったし、しばらく大きな活動もないだろ? 俺なんかいたって別にすることもないし」
    「い、いやそんなことはないよ。僕もひとりで暇だしさ、話相手でも……」
     話相手たって、魚沼くんは本ばかり読んでいて基本会話なんかしないだろ。 急になんでそんなこと言い出したんだ。
     もしかすると、俺に気を使ってくれてるのかもしれないけど……。
    「悪いな」
     今はあまりだれかと話したい気分じゃない。
     鞄を取って教室の扉に向かうと、中へ入ろうとする水無月さんと鉢合わせた。 水無月さんが、何か言いかけようと口を開く。
    「ああ、魚沼くんならそこに――」
     伝えながら振り返るも、魚沼くんの姿はない。
     どんな身のこなししてんだ? 忍者かよ。
    「……弓削くん、あなた最近、頭が重くなったりしないですか?」
    「え? 俺?」
    「記憶が曖昧になったりだとか」
    「いやいや、なにそれ? 漫画じゃないんだから」
     怖いこと言うなよ。 水無月さんはじっと、俺の顔を見つめてくる。
     ほんとパーツが整ってるな。 性格はアレでも、こんな美人に言い寄られたら魚沼くんも悪い気しないだろう。
     ヨリコちゃんも性格はアレなとこあるし……言い寄られたかったなぁ。
    「とても……何か悪いものが……」
    「はいはい。予言とか占いなら魚沼くんにやってくれ。ええと、たぶん部室にいると思うから。じゃあ」
     まだ言い足りなさそうな水無月さんを置いて、教室を出た。 もし占いができるなら、ヨリコちゃんに告る前にみてもらいたかったぜ。


     風呂も簡単な夕食も済ませて、自室のベッドに寝転んだ。 スマホでヨリコちゃんとのメッセージなんか眺める。
     女々しいな。 もう連絡がくることはないって、わかってるのに。 寝取られ報告の電話、なんだかんだ楽しかったよなぁ。
     枕の横にスマホを置いて、天井をあおいだ。
     ヨリコちゃんに会いたい。 こんな日常はつまらない。
     つまらないなりに、天井のシミを数えはじめたとき――。 けたたましくスマホが鳴って、身がビクンと震えた。
     着信だ。 え、まじ?
     寝返りうってスマホに飛びつく。 番号は知らないものだ。
     けど、以前もスマホ失くしたことあったし、ヨリコちゃんだし。 どんなドジ踏んでもおかしくないっていうか。
     ともかく焦る気持ちを押し殺して通話をタップ、スピーカーに切り替える。 いつもなら相手の出方をうかがうとこだけど、知らず口が開いてしまう。
    「も、もしもし!?」
    『――……よう』
     男の声だった。
     だれだよ、知らねえし。 少なくともヨリコちゃんの可能性が消えて、思いきり落胆する。
    『――誰だかわかんねぇか? ……賢司だよ』
    「は……?」
     ケンジ? ケンジくんなのか?
     いやいや、なんの用だよ。 まじで一番話したくない相手かもしれない。
    『――いきなり悪いな、番号は獅子原に頼み込んで聞いたんだ。無理言って聞き出したのはオレだから、獅子原を責めるのは勘弁してやってくれ』
     俺がマオを責めるはずないだろ。 あんたに俺たちのなにがわかるってんだ。
    「……で、なんの用ですか?」
     勝者宣言……とか? ヨリコちゃんなら隣で寝てるよ、つって俺の脳を壊しにきてるのか? クズだな!
    『――情けない行動なのはわかってるよ。でも急過ぎて、やっぱ納得できなくてな。スマホにかけても出ねぇし、家に行ったら弟が“いない”って言ってたから』
    「……? いやぜんぜん……話がみえないんですけど」
    『――依子、おまえと一緒にいるんじゃないのか?』
    「は!? なんで俺と。んなわけないだろ」
     なに言ってんだこいつまじで。 そもそも俺のセリフだよ。 嫌がらせか?
    『――……なあ蒼介、おまえ依子と付き合ってないのか?』
    「だからっ! さっきからわけわかんねえこと言わないでくれよ! ケンカ売ってんすか!?」
     今の俺なら買ってしまいそうだ。 ボロ雑巾になりてぇ。
     長い沈黙のあと。
    『――……そうか、そういうことか。あいつ……。悪かったな蒼介、じゃあ』
     唐突に通話は切れてしまった。
     どういうことだよ!? 説明しろ! むかむかする勢いのままにスマホを投げ、大の字になる。
     天井を見つめていれば、だんだんと頭が冷静さを取り戻していく。
     どういう、ことだ? さっきのケンジくんの言葉。
     ひとつひとつ噛み砕いていくと、自ずと答えに導かれる。
    「そんな……まさか」
     飛び起きて、スマホを手に取るとすぐにヨリコちゃんへコールした。 呼び出し音だけがむなしく響き、一向にヨリコちゃんとは繋がらない。
     振られたのは悲しかった。 だけど俺は、時間が経てば気持ちの整理もつくって。 割り切ろうと思ってたんだ。
     だって最初から変わらない。 一番大事なのは、ヨリコちゃんが幸せであることだから。
     なのに。 なのに、まさか――。
     俺を振ったあと、ケンジくんとも別れたのか?
    「なんでそんなこと……っ」
     脱力した手から、スマホがこぼれ落ちた。
     ほんとにヨリコちゃんってさぁ……。 ヨリコちゃんって。
     バカだよ。




      [#ここから中見出し]『第68話 盟友』[#ここで中見出し終わり]

     また羽音がする。 ブー……ンと頭の中で音がする。
     畳敷きの、広い居間にテーブルを囲んで座っていた。 白いご飯に、温かい味噌汁。 漬物も3種類があって、焼き魚の香ばしい匂いがする。 そうめんがたっぷり入ったザルに箸を伸ばし、ガラスの器のつゆに沈める。 豪華な食卓だ。
    『――ところでどうだ? 彼女のひとりでもできたか?』
     さして興味もないくせに、豪快に笑いながら親父が聞いてくる。 日焼けした肌に、白い歯とシャツがまぶしく映える。
     母さんはデリカシーのない親父の暴走をいつも咎めてくれて、それ以外のときはやさしく微笑んでみんなの話を聞いてくれる。
    『――兄ちゃんに彼女なんかできるわけないじゃん。あたしの宿題も手伝わない冷酷な兄なんで』
     陸上部の妹は、親父ほどじゃないけど焼けた肌を気にしてて。 生意気盛りで、口も悪いけどなんだかんだ頼られてる気がして、憎めなくて。
     開け放しの縁側から吹き込んでくる風の温度に夏を感じながら。 風鈴が、チリンと鳴った。


     ふと気がつけば、リビングで俺はひとり突っ立っていた。 備えつけのエアコンを見上げている。 空調の音が――……。
     俺はなにをやってるんだ? いまの光景は……?
     頭を振って、制服に着替えた。

    ◇◇◇

     休み時間、これまで避けていた3年の階へ上がってみる。 廊下の角から、おっかなびっくりヨリコちゃんの教室の前を覗く。
    「あっ」
     偶然にも教室の前にはヨリコちゃんと、なにやら必死に訴えかけている様子のケンジくんがいた。
     ヨリコちゃんは終始うつむいたままで、やがてケンジくんから離れるように廊下の奥へ歩きはじめる。 ケンジくんが即、ヨリコちゃんの後を追う。
     ふたりを見るに、まじでケンジくんと別れたのか? それは意味がわかんねえよ。 別れる必要なんかないだろ。
    「――青柳の様子がおかしい」
    「うわ!?」
     背後の声に驚いて振り向くと、マオが口を尖らせて立っていた。 腰を曲げて、マオは俺の顔を下からうかがうような姿勢をとる。
    「訳を聞いても青柳は口を割らねー。ちょうどそこへ事情を知ってそうな覗き魔がきた」
     にひっと破顔して、親指を上へ突き出すマオ。
    「昼休み、屋上なー?」
     カツアゲするときのセリフだった。


     昼休みになり、屋上へ続くドアを開ける。 我が校は昼休みにかぎり屋上が開放されていて、過ごしやすい春や秋なら昼食に利用する生徒も多いらしい。
    「お、おっせーよソウスケー!」
     ドアのすぐそばで膝を抱えて座るマオに、頼まれてた惣菜パンと菓子パン、缶コーヒーを渡す。
     やっぱカツアゲじゃないか。
    「……てか、やっぱ場所変えない? 寒いし」
    「えー? 密会つったらやっぱ屋上でしょー。いーからはよ座れ!」
     強引に腕を引かれ、マオのとなりに腰をおろした。 時期が時期なだけに、人っ子ひとりいない屋上を見渡す。
     寂れた雰囲気によけい寒さが増すな、と思いつつお湯を入れてきたカップ麺の蓋を開ける。
    「……いいなーそれ。汁飲ませてー?」
    「いいけど、ぜんぶ飲むなよ」
     はふはふしてずるるーっと本当にうまそうに汁をすするマオを横目に、大きく息を吐いた。
    「ぷは。ふぃー……まーほら話聞いてやっからー。青柳となにがあったん?」
    「ああ……」
     話をした。 告白したこと。振られたこと。ヨリコちゃんがケンジくんと別れたらしいこと。
     俺がカップ麺を放置して話している間に、マオはパンを食べきってしまったようだ。
     話を終えると、カシュッと開けた缶コーヒーにマオが口をつける。
    「ふぅ……なるほどなー」
    「話聞いてた? すげえ勢いでパン食ってたけど」
    「聞いてたよ失礼なー!」
     ほんとかな。 まあいいや。
    「俺、わかんなくてさ。振られたのは仕方ないにしても、ケンジくんと別れるなんて」
     そんなこと、望んだことじゃない。 ヨリコちゃんがひとりになる理由なんてなかったはずなのに。
    「青柳はさー自罰的すぎんだよ。おおかた、ソウスケにも天晶にも悪いと思ったんじゃねーの」
    「な、なんで? 振った俺にちょっとくらい罪悪感あるってんならわかるけど、ヨリコちゃんがケンジくんに対して悪いと思うことなんてなにも……」
    「そこ! そこだよソウスケくんー!」
    「どこだよマオさん!?」
     身を乗り出す俺の鼻が、マオに人差し指でぐいと押される。 立てられた1本指が、振り子みたいにチッチッチと横に揺れる。
    「たしかに、告られたからっていちいち彼氏に罪悪感抱いてちゃ世話ねー。そんな女はいねー。相手がソウスケだったからこそ、青柳は天晶に顔向けできなくなっちまった」
    「それって、つまり」
    「ようするにだねー? 青柳はソウスケにかなり心が傾いていたっつー証明なわけー。へたすりゃー、天晶以上に」
     ヨリコちゃんが、俺に……?
     考えもしなかった。 本気で付き合いたくて告白はしたけど、ケンジくん以上に惚れられてる自信なんかない。
    「潔癖なやつだよなーマジで。どっちにも好意があって、そんな自分は最低だとでも思ってんだろーどうせ。ありふれた話だっつーのにな。人間らしく弱くて卑怯で、それでいーじゃん? わたしはずっと付き合いやすいよ、そーいうやつの方が」
     ……そうか、そうだな。 マオの言うとおりかもしれない。
     でも、俺はそんなヨリコちゃんのことが好きになったんだ。
    「でー? だからソウスケにはまだチャンスがかなりあると思うんだがー。どすんのー? わたしに“青柳と付き合ってイチャラブ見せつける!”て宣言したのだれだっけかなー」
    「なんか……いつもマオには背中を押してもらってるな」
    「今回わたしのためでもあるからね! キミらには早急にカップル成立してもらってー、わたしの欲望のはけ口になってもらわにゃ」
    「……約束、したもんな」
     やっと食指が動いて、すっかり伸びきった麺をすすった。 吹きすさぶ風も、冷たさを感じないほど体が熱を持っていく。
     まさか同じ相手に2回も告白する決意を固めるなんて、つくづく変わってるよな俺たちは。
     頭の中でそう語りかけたヨリコちゃんは、俺の大好きな顔で微笑んでいた。




      [#ここから中見出し]『第69話 夕闇せまる公園で』[#ここで中見出し終わり]

     |蛇が《・・》、|俺を見ていた《・・・・・・》。
     家族団欒を過ごす居間のすぐ外、縁側の向こうに巨大な蛇がとぐろを巻いていた。
     先の割れた舌をチョロチョロ伸ばし、真っ直ぐな眼光を向けられた俺は蛙のごとく動けない。
     親父も、母さんも、妹も、だれも見えていないのか、ひとり戦慄して固まる俺のもとへ、巨大な蛇が身をくゆらせてゆっくりと迫る。
     開かれた大口は、人間なんて簡単に飲め込めるほど大きくて。
     視界が闇に閉ざされる――。


    「――うわあッ!?」
     悲鳴と同時に覚醒し、机の端からガクンと肘が落ちる。 傾いた体を立て直せば、クラスメイトと英語教師の視線がすべて俺へ向けられていた。
     どうやら学校の教室みたいだ。 教師が呆れたようなため息を吐き、クラスメイトからクスクスと含み笑いがもれる。
    「……弓削くん、顔が真っ青だよ。大丈夫かい?」
    「あ、ああ……大丈夫。ちょっと居眠りしてただけ」
     魚沼くんにそう答えた。 斜め前の席から振り返って、じっと俺を見ている水無月さんにも頷きを返す。 クラスで笑っていないのは、このふたりだけ。
     大丈夫――……。 俺は、大丈夫だ。


     放課後、すぐに3年の教室へ向かおうとするも水無月さんが立ちふさがる。
    「待ちなさい。あなた鏡は見ましたか? 死人のような顔してます」
    「ぼ、僕もそう思うよ。弓削くん、一度保健室に行こう」
     後方には魚沼くんが控え、挟まれた形になる。
    「……めずらしいな。ふたりが行動を共にするなんてさ」
    「悪いことは言いません。保健室なり病院なりに行って、日辻先輩にも見てもらいましょう」
     なぜにアサネちゃん? しかし俺はヨリコちゃんのもとへ行かなければならない。
     左へ踏み込んだ直後に体を逆へ切り返し、水無月さんの脇を抜ける。
    「しまった!? 魚沼くん、追って!」
    「わ、わかった!」
     まじかよ! 具合悪そうに見えてる人間を走らすんじゃねえ!


     校舎を上へ下へと駆け回り、なんとか魚沼くんを撒いて3年の教室前まできた。
    「はあっ、はあっ、はあ〜!」
     息を荒げながら顔をあげると、廊下の奥にケンジくんの姿がある。 双葉さんもいっしょみたいだけど……なにか深刻そうな話をしてるみたいだ。
     ケンジくんがまだ残ってるということは、ヨリコちゃんも教室にいるかもしれない。 そう考えそっと教室を覗くが、ヨリコちゃんの姿は見当たらない。 見知らぬ先輩にたずねてみる。
    「青柳さん? 今さっきだったかな、帰ったみたいだけど」
     ま、まじかよ。
     先輩にお礼を言って、来た順路を逆走する。 最後に振り向くと、ケンジくんと双葉さんは互いに俯いていた。
     なにを話してるんだろう。 ケンジくんはもう、ヨリコちゃんのことをあきらめてしまったんだろうか。


     靴箱から取った靴を片足跳びしながら履いて、全力ダッシュを敢行した。
     幸いなことに、校門を出た直後にヨリコちゃんらしき後ろ姿を見つける。
    「よ、ヨリコちゃん!」
     こっちを振り返って驚く顔は間違いなくヨリコちゃんで、なのに俺の想い人はいきなり駆け出してしまう。
    「ちょっ!? 待っ――ヨリコちゃんっ!!」
     ガン逃げだった。 てかめちゃくちゃ足が速い。 体育祭の二人三脚でドジやらかしてたのは、水無月さんが原因だったのかもしれない。
     ビルが建ち並ぶオフィス街は、道も広くて走りやすい代わりにぐんぐん引き離されていく。
    「はあ! はあ! くっ、しかたない!」
     繁華街に入ったところで一度路地へ入り、アブソリュートがある地下へ鞄を放り投げた。
     これで身軽になった。 鞄はたぶんカニちゃんかスコーピオが拾っといてくれるだろ。
     再びヨリコちゃんを追いかける。
     商店街に入り、道も狭く入り組んでくる。 やっぱり鞄の有無の差がでかい。 ようやくヨリコちゃんとの距離が縮まってきた。
    「ハァっ! ハァっ! つ、ついてこないでっ!」
    「はあっ! はあっ! ざれごとを……っ!」
    「今日びっ、ハァっ、ハァっ、ざれごととかっ!」
     ああ俺もはじめて言った。 くそっ、突っ込み入れてくるとかまだ余裕ありそうだな。
     とうとう駅前まで走り続けたヨリコちゃんは、歩道橋の階段を飛ぶように駆け上がっていく。 スカートなんか微塵も気にしちゃいないから。
    「パンツ丸見えだぞバカっ! はあっ、はあっ、ピンク! このひとピンクですッ!!」
    「なっ――!? 声でっか! ヘンタイしねッ!!」
     歩道橋の上で立ち止まり、鞄をぶん投げてくるヨリコちゃん。 まじで危ねえ行為だが鞄はキャッチした。 おかげで追いつけそうだったのに、あと少しのところで逃げられる。
    「はあーっ! はあーっ! ほんと……待てってのに……っ!」
     体力無尽蔵か? 絶望に心が折れそうになったころ、スタミナお化けのヨリコちゃんがふらふらと公園に入った。
     やや遅れて俺も公園にたどり着くと、芝生の上で仰向けに倒れてるヨリコちゃんがいる。 夕焼けに染まって、呼吸に合わせて全身を大きく脈動させて、片腕で目を覆っていた。
     俺はそのすぐそばに両膝をついて、肩で息しながらヨリコちゃんを見下ろす。
    「はあ、はあ……俺と……付き合ってください」
    「うぅ……っ……ううううう……っ」
     腕で顔を隠していても、ヨリコちゃんが泣いていることはわかる。 芝生から肩を抱き起こして、子供みたいにぐずるヨリコちゃんを抱きしめた。
    「うううむりっ……そんなのむりだからっ!」
    「無理じゃないよ。ヨリコちゃんの重荷になってるもの、俺も背負うから」
     抵抗して、俺の腕を引き剥がそうとするヨリコちゃん。 でもぜったいに腕はほどかない。
     もし見当違いで、ほんとに嫌がってたら通報されて終わりだな。 そのときは甘んじて受け入れよう。
    「だってこんなのっ……許されないじゃん! だれも……ゆるしてくれないから……っ」
    「俺が許すからさ。みんなだって話せば、ちゃんといずれわかってくれるよ。……それじゃだめ?」
    「だめッ!」
     今度は痛いくらい、ヨリコちゃんの爪が腕に食い込む。 思わず強く抱きしめると、ヨリコちゃんのふうふうと荒い鼻息が胸の中でこそばゆい。
    「まいったな……。じゃあ、もしみんなが許してくれなかったら、こんなとこ逃げちまおう」
     ヨリコちゃんの強張った体から、だんだんと力が抜けていく。
    「ふたりで、どっか遠くにさ。ぜったいにヨリコちゃんをひとりにはしないから。俺はずっと、そばにいるから」
     こういうとき、どんな言葉がヨリコちゃんに響くのかなんてまったくわからなかった。 だから嘘偽りなく、必ずやり遂げられる本心だけを告げた。 ヨリコちゃんといっしょにいられるなら、なに捨てたって後悔はない。
     ヨリコちゃんはひと言も喋ることなく、俺の胸にただ濡れた顔を押しつけて呼吸してた。 そんなヨリコちゃんを抱きしめて、暗くなるまでずっとそうしてた。
     問題はいろいろあるだろう。 関係性が変わってしまうひとも出てくるだろう。 悪意を向けられることだってあるかもしれない。
     けど俺は望んで、ヨリコちゃんは応じてくれた。
     結論を言えば。 この日、俺とヨリコちゃんは恋人になった。




      [#ここから中見出し]『第70話 せめて今くらいは』[#ここで中見出し終わり]

     12月も間近に控えた土曜、俺は自室で椅子に座り背もたれをキィキィ鳴らしていた。
     俺が……ヨリコちゃんと。
     ぼんやりした頭で過去を振り返る。 そもそも出会いがアレなのだから、いまだに信じられない。 ヨリコちゃんが、俺の彼女になっただなんて。
     現実感のないまま天井を見上げていると、机の上に置いてるスマホが着信音と共にバイブした。 電光石火でスマホを取り、相手もたしかめずに通話状態にする。
    「もしもし!?」
    『――……もしもし。つか出るのはや』
    「ヨリコちゃん!」
    『――あーはいはい。……ヨリコちゃんですよ?』
     テンションひっく! でもうちの彼女かわいい! ダウナーかわいい!
     なんかヨリコちゃんが俺に電話してきて寝取られ報告しないなんて新鮮だな。
    「…………」
    『――……』
     ところでなんの用事なんだろうか?
     いや、こんな考え方はよくないよな。 なにせ彼氏彼女の関係なんだ。 用がなくたって電話くらいするんだよ、よく知らないけど。
    「俺の声が聞きたかったとか、そういうことなんだよね?」
    『――え? ぜんぜんちがうけど』
    「ちがうのかよ!」
    『――なんでそんなキモい解釈したの?』
    「言いたい放題だな!?」
     付き合ったのって幻かなんかだったのか? 最近変な夢みるし……夢か。
    『――……その、さ。あたしら、そ、そういう風になったじゃん。でも、問題とか、いろいろあるでしょ? どうしていくのかちゃんと話したいなって……思って』
     どうやら夢ではなかった。 話し合い……つまり、これから付き合っていくことを前向きに捉えてくれてるというわけだ。 それだけで嬉しい。
    「ケンジくんから連絡は?」
    『――ううん……ない。学校でちょっと話したのが、最後』
     俺が見かけたときかな。 ヨリコちゃんから別れを切り出したのは事実らしいんだけど、それで諦めれられるんだろうか。
     個人的にも、ケンジくんには助けられたことがある。 いくらちゃんと別れ話したからって、はい終わりってわけにはいかない。
    「俺が……あらためてケンジくんとは、話するよ」
    『――ケンジくんにはあたしから――……ううん、ちがうよね。ふたりで話そ? それがきっと、いちばんいい』
    「わかった。じゃあ、ふたりで」
    『――うん』
     ヨリコちゃんがそうしたいなら、そうしよう。 あとはマオや、ヨリコちゃんの友人でもある双葉さん達にも関係はオープンにしようという話になった。
     クラスメイトだとか、周囲の目は厳しいかもしれない。 陰口なんかもあるかもしれない、けど。 コソコソと付き合うのを望まないのは、俺もヨリコちゃんも意見が一致した。
    「もちろんこういう話も大事だけどさ、えっと……せっかく付き合うことになったんだから」
    『――うん、なに?』
    「たのしい話もしたいっていうか。恋人らしいことしたいっていうか」
    『――た、たとえば? なにがしたいの?』
    「そりゃまあ……デート、的なやつ」
     やったことないし。 ぜひはじめてをヨリコちゃんで経験したい。
    『――う、うん。い、いいよ? いいんだけどね。でも外で遊んだりとかは、さっき言ったみたいにちゃんと公言してからじゃないと』
    「あ、ああそう、そうだよな! もちろんわかってる!」
     もやもやしたままじゃ、楽しめないよなそれは。 あんまり浮かれ過ぎるのはよくないか。 残念……ではあるけど、しょうがない。
    『――……ソウスケくんさぁ、あしたヒマ?』
    「終日ひま!! そこらのニート並にひま!!」
    『――声うるさ! 外で遊ぶと目立っちゃうから……じゃあ、あした家行っていい?』
    「え……!?」
    『――前から思ってたんだけど、ふだんなに食べてる? もしコンビニとかスーパーのお弁当とかばっかりなら……体に悪いし、なんか作ろうかな、なんて……』
    「毎日添加物しか食ってない!!」
    『――声うるさ! てかしぬよ!?』
     まじかよヨリコちゃん来てくれるの!? しかもご飯作ってくれるなんて!
     実はけっこう自炊してるなんて口が裂けても言わない。
     掃除しとかなきゃ、キッチンもトイレも。 風呂場とかも……一応しとこう。
    『――じゃあ、あした……また連絡するね?』
    「う、うん待ってる!」
     通話が終わっても、しばらく夢心地でスマホの画面を眺めていた。 浮かれてばかりじゃだめだとはわかってる。 わかってるけど。
     やっぱ幸せだわ……。




      [#ここから中見出し]『第71話 生存に必要な成分が含まれてます』[#ここで中見出し終わり]

    「……よし、こんなもんかな」
     日曜日の午前、カットしたのちヤスリで丸っこく仕上げた手指の爪に満足する。
     部屋やキッチン、トイレに風呂場と掃除はひと通り終わっている。 風呂場を掃除するついでに汗も流した。 歯も磨いた。
     ヨリコちゃんを迎える準備は万端だ。
     そろそろ来るかな。 前にもヨリコちゃんが家に来たことはあったけど、あの頃は恋人という間柄じゃなかったし。 やっぱぜんぜん違う。 緊張する。
     もしかするとついに俺は一皮むけるのかもしれない、なんて椅子にも座らず部屋の中をそわそわ歩き回っていたところ。
     ピンポーンとインターホンが鳴り、慌てて玄関へ走る。 返事をしつつドアを開ければ、両手でエコバッグを持ったヨリコちゃんがすまし顔で立っていた。
     やっぱりキャップをかぶっている。 大きめのスウェットはショートパンツのほとんどを隠していて、一見すると下になんにも履いてないのかとドキッとする。 黒タイツの足もとはいつものスニーカーじゃなく、今日はブーツだった。
     秋のヨリコスタイルもかわいい。 いっしょに紅葉狩りに出かけても9対1の割合でヨリコちゃんを見続ける自信がある。
    「……よっ。何かたまってんの?」
    「あ、ああ、ごめん、どうぞあがって! それ俺が持つよ」
    「ん、ありがと。おじゃまします」
     エコバッグはけっこうな重さだった。 ひとまずリビングに案内し、食材の入ったエコバッグをキッチンに置く。 ヨリコちゃんはキャップを外し、腕まくりをしてさっそく調理する構えだ。
    「な、なにか飲む? 少しゆっくりしない?」
    「んーあとでもらおうかな。お昼もうすぐだし、先にパッと作っちゃうよ」
    「あ、じゃあ俺も何か手伝うよ」
    「いいからいいから、ソウスケくんは座ってなって。だって、ほら、その――」
     赤くなった耳を覆い隠すように、ヨリコちゃんは何度も横髪を撫でつけて。
    「……か、彼氏……なんだしさ」
     なんか、ヨリコちゃんの口からあらためて聞けたことに感激した。 まじ、なんだな。 俺は本当にヨリコちゃんと付き合ってるんだ。
     はぁ……俺の彼女がかわいすぎる件。 付き合いたての彼女がただ昼ご飯作ってくれるだけの話。 どっちもベストセラーだな。
     この彼女がスゴい! ランキングを校内に貼り出してドヤ顔でみんなに自慢したい。


     うちに唯一あるエプロンを身につけたヨリコちゃんは、さっそく野菜を洗いはじめる。 手際よくまな板に移し、トントンと包丁のリズムが心地いい。
    「……ね。なんで真後ろに立ってるわけ?」
    「座して待つのも悪いと思って」
    「座してって、今日び聞かない」
     なんなら“今日び”だって聞かないけどな。
     ともかくここから眺める後頭部は最高だ。 距離も近いし、なんとなくこう、後ろからギュッてしたくなる。 彼氏なんだし……もしや、してもいいのか?
    「さわんないでね? 危ないから」
     エスパーか? 腰に伸ばしかけていた手を引っ込めた。 ひとり悶々としていたことが恥ずかしくなり、うわずった声でごまかす。
    「れ、冷蔵庫のものとか好きに使っていいから」
    「いいの? ちょっと見てみよかな」
     くるりと振り返るヨリコちゃん。
    「おわっ!? 切っ先!!」
    「だからうしろに立つなつってんでしょ!? も、あっちいってて!」
     どこぞの殺し屋みたいなこと言うヨリコちゃんの逆鱗にふれてしまい、俺は容赦なくキッチンを追い出された。
     しかたないのでリビングから見守ることにする。 ヨリコちゃんは終始やりにくそうにしていた。

    ◇◇◇

    「はい完成〜」
    「すげえ! まじですげえ!」
     ハンバーグの横には人参グラッセも添えてある。 ブロッコリーと根菜の和え物、豚汁まで完備された和洋折衷が超うまそう。
    「大げさじゃね?」
    「いやいや! ヨリコちゃん家で食べた肉じゃがもうまかったけど、これもめっちゃおいしそう!」
    「だれかさんがガン見してこなかったら、もっと上手にできたかも」
    「い、いや、それは……ごめん」
     リビングではなく、料理は俺の部屋に運んだ。 座布団に座り、小さめの丸テーブルをヨリコちゃんと囲んでいただきますをする。
     口にした一切れのハンバーグは、誇張なくこれまで人生で食べた中で1番おいしかった。
    「うん、うん、うまい! ヨリコちゃんの料理ってめちゃくちゃおいしい! ぜんぶ好みの味してる!」
    「ほんと? ……うれしい」
     心の底から嬉しそうに笑うヨリコちゃんがまじでかわいくて。 お腹と同時に胸も満たされていく。
     人生で1番、幸せを感じる時間だった。 ヨリコちゃんといっしょなら、俺の人生はどんどん更新されていく。
     どんどん好きになっていく。


     食後のリラックスタイム。
     ここらで真面目な話になるかと思ってたけど、ヨリコちゃんはとくに昨夜電話で語ったようなことを言ってこない。 のんびりと俺オススメの漫画を読んでいらっしゃる。
     ――ので、自分から切り出すことにする。
    「その、これからのことなんだけど。ケンジくんとか……」
    「はいストップ」
     言葉と手のひらで続きを制止された。
    「もちろん大事な話だけどさ、ソウスケくんの前であんまりケンジくんを話に出すのは、やっぱちがう気がして。……やさしさに甘えてるみたいで、なんかズルいじゃん?」
    「ずるいなんてこと、ないと思うけど」
    「あるよ。だっていい気しないもん、あたしだって。他の女の子の話とか、さ? ソウスケくんは、あ、あたしの彼氏なんだから、ちゃんと、優先したいから」
    「ヨリコちゃん……」
     漫画から目を離さずに言うヨリコちゃんだけど、顔は赤くなっている。
     こういうとこ生真面目で、本当にヨリコちゃんを好きになってよかったと思う。 てか抱きしめたくてたまらない。
    「今日はソウスケくんのこと、聞きたい」
    「え? 俺のこと?」
     読みかけの漫画をテーブルに伏せて、ヨリコちゃんは両手の指先をぐにぐに押し合わせる。 少しためらいを見せながら。
    「……言いにくいことなら、言わなくていいから。その……ソウスケくん、なんでひとり暮らししてるの? 親……ご両親は……?」
     なぜだろう。 ヨリコちゃんの言葉が、スッと頭には入らない。
     虫の……羽音みたいなものが、阻んで……。
    「なんで……って、ふつう……でしょ。俺がひとりでいるとか、あたりまえで……そんな、変なこと?」
    「そ、ソウスケくん? ヘン、ていうか、ソウスケくんの反応がヘンだよ!? 大丈夫!?」
     変……? 俺は、なんで、ひとりで。 俺の……家族……家族は――。
     頭に浮かびかけた映像が、ふいに砂嵐で乱される。 ヨリコちゃんが遠くなって、自分からどんどん遠ざかっていく気がして――。
     意識はそこで遮断された。

    ◇◇◇

     目を開けると、見慣れた自室の天井だった。 いつもの枕よりずいぶんふかふかしてて、あたたかい。
     寝返りをうって顔を横に向ければ、頬に引っかかるような伸縮素材の感触。
    「……気がついた? ……ごめん。ごめんね、ソウスケくん」
     頬にふれる感触はタイツだった。 ヨリコちゃんのやわらかい太ももを枕に、俺はベッドに横たわっていた。
     目前のお腹に、引き込まれるように顔を埋める。
    「ちょっ!? ――……あはは! く、くすぐったいから!」
     DNAレベルで欲する匂いを吸い込んで、頭がくらくらする。 恍惚となる。
    「い……息を吸うな吸うな。……マジで恥ずい」
     でも引き離そうとはしないでくれて。 頭を何度も撫でてくれて。
     ヨリコちゃんを胸いっぱいに取り込んで、俺は不安な感情を押し流していった。




      [#ここから中見出し]『第72話 ディテクティブ(青柳依子)』[#ここで中見出し終わり]

     うちの彼氏の様子がおかしい。
     前に家へお邪魔したときも思うところはあったけど、昨日のは決定的だった。 あんな風になっちゃうなんて……蒼介くん。
     家族はどうしたんだろう? いつからひとりでいるんだろう? あたしにできることは、何か。
    「はぁ……」
    「くっらい顔してんな青柳ー? 無事に男も乗り換えられたってーのに」
    「そんな言い方やめて! ……って、まわりから見ればそうだよね。なんにもちがわない」
    「あららー、ますます暗くなっちった」
     キツい言い方も、麻央なりに気づかってくれてるんだと思う。 あたしが周囲にどういう目で見られるのか正確に教えてくれてる。
     でも今は、あたしのことはどうでもいい。
     肉うどんを平らげた麻央は、賑わう学食で人目なんか気にせず大胆に足を組む。
    「蒼介のことだろー? あいつやべーよな。たぶんわたしより……なんつーの? うしろぐれー過去ある気すんだよねー」
    「後ろ暗い、ね。麻央はなにも知らないの?」
    「聞かないからなー。でも最近の蒼介は顔色も悪いしー、なんかあんだろーね」
     あまり他人に干渉しない麻央だから。 あたしもどちらかというとそのスタンスではあるけど、彼氏となると話は別。 やっぱり気になるし、もし困ってるなら助けになりたい。
    「今日ガッコ休んでんだっけ蒼介?」
    「うん……メッセージ送ってんだけど、返事ない」
    「電話で寝取られ報告してみたらー?」
    「し、しないから!」
     そんな怪我人に追い打ちするような真似――しちゃってたな、今まで。 なんであたし、あんなバカなことしてたんだろ。 あの頃はまさか蒼介くんと付き合うことになるなんて考えもしなかった。
     もしかして寝取られ報告したときの録音、まだ消去してなかったりすんのかな? うぅ……めちゃくちゃ恥ずい。
    「そいやーさ、ウオっちも蒼介のこと心配してたよー」
    「ウオっちって……蒼介くんのクラスメイトの? 魚沼くん、だっけ」
    「そーそ。アレはー……呪いの一種だって」
    「の、呪いって。やめてよ。そんなのあるわけないじゃん」
     どうせ麻央のいつもの悪ふざけだ。 そう思ったんだけど、麻央の目はぜんぜん笑ってなかった。
     魚沼くんってたしか、水無月ちゃんと仲良かったよね……?


     放課後、蒼介くんのクラスへ足を運んだ。 覗き込むとまだ大半の生徒が残ってて、にわかにざわめきが大きくなる。
    「あれ、青柳センパイじゃね」「かわいいよな、同じ3年の先輩と付き合ってんだろ?」「最近別れたって聞いたけど……」「マジか!?」「なんだよその反応。狙ってもお前が付き合えるわけねーだろ」
     そんなかわいいか? あたし。 まぁ悪い気はしないけど、居心地もよくないので目的の女子を呼ぶ。
    「水無月ちゃん、ちょっといい?」
    「青柳先輩……どうされたのですか」
     廊下まで出てきてくれた水無月ちゃんは、同性のあたしから見てもうっとりするほどの美人さんだ。
     長い黒髪に落ち着いた佇まい。 顔は言うまでもなく、きっと男の子ならだれもが目を奪われる存在じゃないかな。
     こんな子がクラスメイトで、蒼介くんはなんであたしなんか。 ……と、いけない。その蒼介くんの話だ。
    「あの、もしかして弓削くんのお話ですか?」
    「へ!? う、うん。そうなんだけど……」
     話が早くて助かるよ。 でも水無月ちゃんから切り出してくるくらいに、やっぱ蒼介くんの身には何か起きてるのだ。
    「すみません、詳しいことはわかりかねます。ですが、あれはとても良くないものです。もし急ぐのであれば日辻先輩を頼るのがよろしいかと思います。……癪ですが」
     ぼそっと付け加えた水無月ちゃんは、ほんとに忌々しそうに眉をひそめた。
    「そっか……わかった、ありがとね!」
     水無月ちゃんと別れて、3年の教室へと引き返す。
     朝寧か……。 朝寧を頼れってことは、マジで|そういう案件《・・・・・・》なのかもしれない。 知らない人が聞いたら鼻で笑い飛ばされるだろうけど、あたしは朝寧のことをそれなりによく知ってるから。
     心臓がドキドキする。 たぶん、走りっぱなしだからって理由だけじゃなかった。
     朝寧はクラスメイトのほとんどが下校した教室で、机に突っ伏してぐーぐー寝てた。 とりあえず肩を揺する。
    「朝寧起きて、朝寧ってば!」
    「んぁ~~……あと……3分……3時間」
     3時間とか冗談じゃない。 こっちのモードの朝寧が頼れるかわかんないけど、腕を引いて肩に回し、持ち上げるようになんとか立たせた。
     ……ここは賢司くんの教室でもある。 そういえば最近、賢司くんを見かけないな。
     賢司くんの机を振り返って、でも頭を振って朝寧と教室を出た。

    ◇◇◇

    「はぁーっ! はぁーっ! はぁーっ!」
     いくら小柄でも、体にまったく力の入ってない朝寧を連れてくるのはヤバいくらいしんどかった。
     マンションのドアの前まで朝寧を引きずって、インターホンを押す。 ピンポーンと室内に反響する音が微かに聞こえたものの、蒼介くんは出てこない。
     2度、3度と押す。 やっぱり反応がない。
     出かけてんのかな。 学校休むほど具合悪いのに?
    「…………」
     人目を気にしつつ、ドアノブをひねってみた。 ガチャリとドアが開く。
    「……蒼介くん……?」
     不法侵入は承知の上で、玄関で靴を脱いだ。 リビングに入ると、蒼介くんがいた。
     お見舞いに買ってきたケーキの箱が、手からすべり落ちる。
     蒼介くんは、リビングのエアコンを見上げて佇んでいた。 うわ言みたいにぶつぶつ呟いて。 目から涙を流して。 嘔吐したのか、フローリングのそこら中に吐瀉物が散乱してて。
    「……蛇……? く、喰われている……? まさかこんな……大陸の術か……?」
     朝寧の言葉も頭に入らなくて、あたしは駆け出していた。
     どうしよう。
     後ろから蒼介くんを抱きしめて、ギュッと腕に力を込める。
     どうしよう。 蒼介くんが壊れていく。 どうすればいい?
    「……行か、なきゃ……帰らなきゃ……母さん……親父……|海未《うみ》……」
    「うん。うん……大丈夫。大丈夫だよ。あたしがいっしょだから。ずっとそばにいるから。いっしょに帰ろう。……ね? 蒼介くん」
     苦しそうに顔を歪めて泣き続ける蒼介くんを、あたしは慰めることしかできなかった。
     無力感でいっぱいになりながら。 せめてそばにいると誓って、抱きしめ続けた。




      [#ここから中見出し]『第73話 ヨリコちゃんの朝は早い』[#ここで中見出し終わり]

     学期末試験も終わり、いよいよ冬休みも目前と迫る。 なんか俺、長期休みばっか気にしてる感じだけど今年はしょうがないよな。
     なにせ彼女がいるうえ、クリスマスがくるんだぜ? 正月の晴れ着デートなんか憧れだし、多少浮かれるのも当然というもの。
     そんなわけで鼻歌を奏でながら学食へ向かっていたところ、ばったりケンジくんと遭遇した。 券売機の前で互いに硬直し、浮かれ気分も一気に萎えていく。
     にぎやかな学食の雑談も急速に遠くなって、居心地の悪さだけが残る。
    「……よう」
     久しぶりに会うケンジくんは目の隈も濃く、ひどくやつれて見えた。
    「……お久しぶりです。……あの、大丈夫ですか?」
    「はっ。おまえに心配される謂れはねぇよ」
     それはそうだ。 おそらく俺とヨリコちゃんのことはもう耳に入ってるはずだ。 でもけじめとして直接、やっぱりこの人には報告しなければならないと思う。
    「近いうちに時間もらえませんか? 話したいことがあるんです」
    「……時間なんかねぇ。聞きたくもない話だってのは想像できるが、それとは別件でオレも忙しい」
    「あ……受験、もうすぐですもんね。すみません」
    「チ。受験なんか……どうでもよくなっちまった。双葉の妹の……幼馴染のことでちょっとな」
     舌打ちなんてする、やさぐれたケンジくんを見るのは初めてだった。 あたりまえだよな。 逆の立場になったら、口も聞きたくないと思う。
     てか受験とかヨリコちゃんの悩みじゃないのか? 双葉さんの妹さん……て、たしか文化祭のとき会ったあの人だよな。
    「文化祭のとき校門で会いましたよ、双葉さんの妹さん。双子かってくらいそっくりですよね」
    「あ? |ぜんぜん似《・・・・・》|てねぇだろ《・・・・・》。それにおまえには関係ない話だ、忘れろ」
    「す、すみません」
     眼力の圧がすごい。 さっさと食券買ってしまいたいけど、ケンジくんは券売機の前からまだ動かない。 もうカレーにしろよカレーに。
     しかも双葉さん姉妹の顔が似てないってどういうことだ。 俺に同意したくなかっただけか? 瓜ふたつって言葉がぴったりなくらい似てたはず。
     校門前でたたずむ妹さんの顔を思い出そうとしたら、脳内映像がノイズみたいに乱れてしまう。
    「…………っ」
     頭を押さえて立ち尽くす俺に、ケンジくんの低い声が届く。
    「……人の心配なんかしてるけどよ、蒼介。おまえの方こそ死にそうな顔してるぜ」
     ……大丈夫。 俺は、ぜんぜん大丈夫。 たまに記憶が飛んだりするし、この前もいつの間にかヨリコちゃんが家にいて、また膝枕されてたりしたけど……ふつうふつう。
     俺はヨリコちゃんと楽しくクリスマス過ごして、初詣で永遠の愛を誓って、夏休み以上に距離縮めて親しくなるんだ。

    ◇◇◇

     街にはイルミネーションが輝き、今やすっかり薄暗くなった下校時のテンションをあげてくれる。
     明日、12月24日からついに冬休みへ突入する。 ヨリコちゃんも空けてくれてるみたいだし、プレゼントも用意した。
     こんなに楽しみなクリスマスは生まれてはじめてだ。 キリストの爆誕を神道の徒として心から祝いたい。
     首に巻いたストールを持ち上げ、口もとを隠す。 どうにもニヤけてしまって、通行人に不審がられないための対策だった。


     そして12月24日、クリスマスイブ。 インターホンに叩き起こされた俺は、スマホで時間を確認して目を疑う。
     AM4時15分。
     いやいやいや……だれだよまじで。 寒さに身震いしてる間にも、継続してピンポンピンポンとインターホンは鳴り続ける。
     無視しても一向に帰る気配がないので、とりあえずバット片手に玄関へ向かう。 そっとドアスコープを覗き――慌ててドアを開ける。
    「よ、ヨリコちゃん!?」
    「お、おお、お、おはよ、そ、ソウ、スケ、くん」
     マフラーで顔の半分を覆ったヨリコちゃんが、歯をガチガチ噛み鳴らして赤くなった鼻をすする。
    「な、なんでこんな時間に!? とにかくあがって! お茶淹れるから!」
    「おおお、おー、じゃま、します」


     俺の部屋で、熱々の緑茶を飲んでホぅっと息を吐くヨリコちゃん。 少しは暖まったようだけど、かわいそうに耳なんかはまだ赤い。
    「それにしても……えらい大荷物だね」
    「だって着替えとか、いろいろいるでしょ? 遠出になるんだし」
    「え? ヨリコちゃん旅行でも行くの?」
    「行くよ? ソウスケくんの実家。約束したじゃん」
     …………え?
     ケロッとした顔でヨリコちゃんは言った。 ようやく意味は理解するものの、まったく覚えがない。
    「え、いや、ちょ……俺の実家って、めちゃくちゃ遠いけど……」
    「このまえ聞いたから知ってるよ? だから早起きしたんじゃん。あ、新幹線のチケットはソウスケくんの分も用意してるからね」
    「…………あの……俺、準備とか……」
    「うん。ふたりでパッパと準備しちゃおっか?」
     俺の困惑すらも折り込み済みだと言わんばかりに、ヨリコちゃんはにひっと白い歯を見せて笑った。




      [#ここから中見出し]『第74話 近づくほどに』[#ここで中見出し終わり]

     事前にネットで購入したという切符を受け取り、ヨリコちゃんに代金を渡す。
    「さすがにグリーン車は高かったからあれだけどさ、となり同士の指定席だから。――あ、ソウスケくん駅弁だって! 買お買お!」
     目を輝かせて駅弁売り場に直行するヨリコちゃん。 まだ早朝といっていい時間なのに、テンションが非常に高い。
    「あたし、じつは新幹線ってはじめて乗んだよね!」
     なるほど、だからはしゃいでるのか。 ヨリコちゃんが楽しそうにしてるとこ見るのは、俺も好きだけど。
     それぞれ違う種類の駅弁とお茶を手に、余裕をもって座席についた。
    「けっこう空いてるね。つか、あたし窓際でよかった?」
    「俺は通路側で大丈夫だよ。もう少し年末が近づくと混むんだろうけど、ほんと空いてるな」
     まばらに座る乗客を見渡して、そのあとヨリコちゃん越しに窓から駅構内を眺める。
     ほんとにこれから向かうんだな……実家へ。 記憶が曖昧なのは認める。 たしかにあそこへ行けばその原因もなにかわかるかもしれない。
     でも……。
    「不安……?」
     気づかうようなヨリコちゃんの問いかけに、顔をあげて首を振った。 俺がこんなんじゃ、ヨリコちゃんまで不安にさせちゃうだろ。
    「ヨリコちゃんと旅行とか最高に決まってる。……てか、親にはなんて言ったの?」
    「ん……えっとね、マオん家にしばらく泊めてもらうからって。だからマオも旅行のことは知ってる」
    「それ、大丈夫?」
    「悪い子だよ、あたし。勉強もしないで彼氏と旅行しちゃうんだからさぁ」
     俺のため、なんだよな。 嬉しく思うと同時に、やっぱり申し訳なさも込み上がってくる。 大事な時期のはずなのに、どことも知らない田舎までついてきてくれるなんてな。
    「……ふぅ~てかけっこう車内あったかいね。お弁当食べちゃわない? 朝ごはんまだだったし」
     ヨリコちゃんにならってコートを脱ぎ、まとめて荷物棚に置く。
     俺に返せることなんか多くない。 当初の予定通り、冬休みを満喫するために――。 ヨリコちゃんにめいっぱい楽しんでもらえるよう努めるだけだ。
    「俺も腹ペコでさ、せっかく違う弁当買ったんだし食べ比べでもしようか」
    「いいね! 梅干しあげるから照り焼きちょーだい?」
    「レートが釣り合わねえよ!」
     車窓の景色が動きはじめる。 未知への不安と、ふたりきりの旅への期待がないまぜになった俺とヨリコちゃんは、どちらからともなく手をつないだ。

    ◇◇◇

     車内は快適だった。 うしろに乗客がいないおかげでリクライニングを少し倒し、ゆったりした時間を過ごせる。
    「山がめっちゃ近い。落ちつくわぁ……」
    「そういうもん? 俺は横にヨリコちゃんいる方が落ちつくけど」
    「ご機嫌取りおーつ」
     そう言いつつヨリコちゃんは、繋ぎっぱなしの手に指を絡めてくる。
     多幸感ってこういうこと言うんだろうな。 あこがれの恋人繋ぎってやつを堪能しながら、かつて叶わなかったヨリコちゃんの手を温める。
    「ヨリコちゃんって、手冷たいね」
    「あれじゃん。心があったかいってやつ?」
     窓から視線を外して、こっちを振り向いてクスクス笑うヨリコちゃん。 俺をうかがうような上目遣いで。 それがたまらなくかわいかったから。
     思わず身を乗り出して、繋いだ手を引き寄せる。
    「え……?」
     わずかに開いたヨリコちゃんの唇に、俺は吸い寄せられるように口づけをした。 無意識だった。 全身が熱を持ちはじめたときには、ヨリコちゃんの顔も真っ赤になっていた。
    「っ……!? ちょ――マジ――なにやって――!?」
     小声で囁やくような非難を浴びながら、肩をポカポカと殴られる。
    「ご、ごめん! つい」
    「ついじゃないでしょ!? 告白だって唐突だし、ソウスケくんはいっつもそう! もっといろいろ考えて!」
     もはやなんの言い逃れもできない。 しかもほんとに無意識だったから、せっかくのファーストキスだというのに感触すらもあまり覚えてない。
    「も……もっかいしていい?」
    「ばっかじゃないの!?」
     ヨリコちゃんはぷいと車窓へ顔をそむけた。 どうしていいかわからず、座席にあずけた背をずるずる滑らせてうなだれる。
    「…………ん」
     顔は窓に向けたままだけど、ヨリコちゃんはまた手を差し出してくれて。 俺はホッと胸を撫で下ろして、なによりも愛しいその手を握りしめる。
     2、3回皮膚に爪を立てられたけど、それくらいの痛みは甘んじて受け入れた。


     新幹線での数時間の移動を終え、今度はバス停に待機する。
    「ソウスケくんの実家って、どんなとこ?」
    「田舎……ってことくらいしか。ごめん」
     よく覚えていないのだ。 頭の中は霞がかったみたいに白くて、具体的な映像が浮かんでこない。 実家が近づくほどに、兆候も顕著にあらわれるようになってきてる気がする。
     だけど足は自然と動いている。 体はあの場所を正確に覚えていて、着実に近づいてる実感があった。
     やがてバスが到着し、乗降口の扉が開く。 車内の床一面に、びっしりと蛇がうごめいていた。
     幻覚だ――。 そう思っていても、足がすくんで動かない。 冷たい汗が吹き出てくる。
    「……大丈夫だよ。あたしがぜったい、そばにいるからね」
     俺の手を力強く握る、ヨリコちゃんの横顔だけを見つめてバスに乗り込んだ。 大量の蛇は、いつの間にか消えていた。
     車内はガラガラで、最後尾の座席にヨリコちゃんと並んで座る。
    「少し眠ろ? ソウスケくん」
    「うん……」
     プシューと乗降口の扉をが閉まり、バスが発車した。
     山道を蛇行して進むバスに揺られながら、俺とヨリコちゃんはお互いに寄り添って目をつむった。




      [#ここから中見出し]『第75話 寒村のクリスマス』[#ここで中見出し終わり]

     バスは1時間ちょっと走って、わりと賑わいをみせる商店街のバス停に停車する。 荷物を持って、ヨリコちゃんをうながした。
    「ここで降りるんだ? へぇ……想像よりずっと町っていうか、住みやすそうなところだね」
     キャリーバッグを立てかけて、うーんとヨリコちゃんが伸びをする。 山間の町は寒く、呼吸に合わせて白い息が吐き出される。
    「……家はバスでもうちょっと登らなきゃいけないんだけど、ここで買い物しとかないと周りになんもないから」
    「あ……そ、そなんだ」
     自分で説明しながら疑問が浮かぶ。 向かってるのは実家なのに。 買い物なんてしなくても、息子が連れてきた恋人くらいもてなしてくれるはずだ。
     でも、なぜか確信めいた思いがあった。 家には、きっと……。
    「じゃさ、お昼食べてかない? そろそろいい時間だし!」
     あくまで明るく振る舞ってくれるヨリコちゃんに救われた気持ちで、俺はうなずく。


     こぢんまりとした定食屋で昼食をとったあとは、商店街をぶらついた。
    「やっぱこれは外せないでしょ」
     買ったばかりの、小さめのホールケーキを掲げて笑うヨリコちゃん。 |ふたりで《・・・・》食べるにはちょうどいいサイズだ。
     もう、察してくれてるんだな。
    「ソウスケくん?」
    「いや……ありがとう、ヨリコちゃん」
    「……なんでお礼なんか」
    「こんなとこまで付き合ってくれて、あと彼女になってくれてありがとうってこと。俺、ヨリコちゃんに会えてほんとによかった」
     本当に心からそう思った。
     俺の手を、ヨリコちゃんがそっと握る。
    「そんなの、あたしだって同じだよ。……おし、最後に夕飯の材料買おっか! 今日はごちそう作っちゃおうかな!」
    「いいね! 俺も手伝うよ」
     たぶん何度も足を運んでるはずなのに、なんの思い入れもない商店街をふたりで歩く。 手をつないで、笑い合って。
     更地になった記憶に、新しい思い出を敷きつめて。 今度は決して崩れないように、大切に、大切に、積み重ねた。


     再びバスに揺られて“山中のりば”なんていかにもな名前のバス停に到着する。 田舎特有のプレハブ小屋まで設置されたバス停。
     俺は遠景の山をぼんやり眺めたあと、アスファルトで舗装された地面に視線を落として、自らの頬をペシペシ叩いた。
     ヨリコちゃんも、ものめずらしそうに辺りを見渡している。
    「うわぁ……マジで山ん中って感じだね」
     葉の落ちた木々に囲まれた坂道を、ガードレールに沿って登っていく。 やっぱりふもとの町よりも一段と冷えるし、けっこうな荷物を抱えての移動はしんどかった。
     まあヨリコちゃんは弱音なんか一切吐くことなくニコニコしてるんで、俺が甘っちょろいこと言うわけにいかないんだけど。
    「ソウスケくん、道わかる?」
    「……一応わかる……と思う」
     足は止まらず動いてる。 だからここも、何度も通ってるにちがいない。
     やがて道は2つにわかれ、俺は迷わず左に折れた。
    「……まっすぐ進んでたら、たしか……小さな社? みたいなものがあったような……」
     定かじゃない。 でもそんな気がする。
     狭い川に架かる橋を渡ると、また左右の分岐。
    「右は、もう使われてない水車小屋があって……奥まで行くとさっき言った社と繋がってる。はず」
    「へぇ……左は?」
    「発電所とダム、があったっけ。ちょっと歩くけどそこ越えたら家がぽつぽつ出てきて……」
     そこに俺の実家もある。 ……たぶん、だけど。
    「すごいじゃん! ソウスケくん!」
    「いやそんな、小学生並の記憶力を褒められても」
     だけど本当にヨリコちゃんは嬉しそうで、よっぽど俺は心配をかけていたんだなと実感した。
     実は――バスを降りたときからずっと、アスファルトの道を蛇が埋め尽くしている。 進めば進むほど……おそらく実家に近づくほどに蛇の数は増している。
     そんな幻覚、けど見えてるなんて言えない。 握った手を子供みたいにぶんぶん振って、楽しげなヨリコちゃんを俺も見てたいし。 ヨリコちゃんが笑ってくれてるからこんな苦行も耐えられる。


     自分が言った通りに民家が点在しはじめて、ちょっとした集落に出た。 田んぼや畑にも人は見当たらない。 そのうちの古い一軒家の前で足を止める。
    「……ここ?」
    「そのはず、なんだけど」
     最近、何度か夢で見た家に間違いないように思える。 表札らしきものに名前はなく、玄関へ続く飛び石の途中には巨大な蛇がいた。
     でかい口だ。 俺なんて丸呑みにできるサイズだ。
    「どうしたの?」
     俺だって自分と向き合いたい。 ヨリコちゃんの想いに報いたい。 自分になにか重大な欠陥があるのなら、解決してヨリコちゃんとの恋愛に専念したい。
    「行こう」
     ヨリコちゃんの手を力強く握り返して、一歩前に踏み出した。 奈落のごとく真っ黒い蛇の口へ、飛び込むように体ごと突っ込む。 次の瞬間、パンッと渇いた音が響く。
    「きゃっ!?」
     音の発生源はヨリコちゃんだったようで、破れたお守りみたいなものをコートのポケットから取り出していた。
    「……あはは。アサネから持たされたんだけど、なんか壊れちゃったみたい」
    「…………」
     ……どんな業を背負ってんだ、俺は。
     ともかく蛇も消失したので、玄関の引き戸に手をかける。 田舎ではふつうなのか、鍵はかかっていない。
    「お、お邪魔します!」
     一応はそう告げて引き戸を開けた。 夕暮れなのも相まって、家の中は薄暗い。 予想していたように、だれもいないみたいだ。
     けれど……。
    「ヨリコちゃん、入ろう。……いや、こういう場合“あがって”って言うべきなのかな」
    「そ、そだね。ソウスケくんの家でしょ? お、お邪魔します」
     玄関の切り替えスイッチをパチンとやってみたら明かりがついた。
     ほんとに俺の家なのか自信はない。 でも確認せずにはいられなくなって、キシキシと床板を踏んで居間へ向かう。
     やっぱり夢で見たあの家と同じ間取り。 居間にはテーブルに掘りごたつ、石油ストーブまで置いてある。 今は冬なんだから、設備に問題は一見するとない。
     でも……いつからだ? この家から人がいなくなったのは、いつなんだ?
     荷物を置いて台所へ向かった。 蛇口をひねってみると、やや間があって冷たい水が流れ落ちてくる。
    「……水も出るんだ?」
     後ろから覗き込んでくるヨリコちゃんも、気づいたらしい。
     電気も通ってるし、水も止まってない。 そもそも埃なんかも少ないし、どう見ても長らく放置されていた感じじゃなかった。
     だれか、いるのか? 親戚とかが管理してくれてるんだろうか。
     それとも、俺の家族はまだ――。
     出しっぱなしの水道を止めると、ヨリコちゃんが俺の肩をやさしくぽんぽんと叩く。
    「ね、ソウスケくん、今は深く考えないで。軽く掃除したらご飯作るから。……イブだよ? 付き合ってはじめての。だから――」
    「……そうだな。ふたりで楽しもう」
     無理に笑みを作った俺に、ヨリコちゃんが顔を寄せてきて。 唇が触れ合わさった。
     今度こそちゃんと、しっかり、忘れないように。   やわらかい温もりを脳へ刻みつけた。




      [#ここから中見出し]『第76話 寝取り報告は欲しくない』[#ここで中見出し終わり]

     エアコンも備えつけてあったんだけど、ヨリコちゃんが体験したいと言うので石油ストーブを点火した。 燃料の灯油は、ご丁寧に満タンのポリタンクが収納ボックスに入れられていた。
     やはりだれかが最近でも出入りしてるんじゃないだろうか。 あまりにも準備がよすぎる。
     しかしそれはそれとして――。
    「わはぁあったけぇぇ……ね、ね、これストーブの上で餅とか焼けるんでしょ!? あ〜買っとけばよかった失敗したなぁ〜〜」
     ヨリコちゃんのテンションが爆アガりである。
     辛気臭くなるよりずっといい。 こうして無事、家にはたどり着けたわけだし、ひとまずクリスマスを楽しみたいと思う。
    「また町におりたとき買おう。スルメなんかも焼けちゃうからな」
    「いいね! 七味マヨつけて噛み噛みしたい!」
     酒飲みかよ。
     ともかく、ヨリコちゃんが腕によりをかけたという本当に豪勢な惣菜やサラダが、ところ狭しとテーブルに並んだ。 パーティー感も一気に増して楽しくなる。
     ジュースで乾杯し、さっそくからあげに箸を伸ばした。
    「サクジュワうっま! ヨリコちゃんはまじでいいお嫁さんになるって!」
    「ほほぅ……それはどういう意味かね?」
    「え、どういう意味って、そのままっていうか」
     紙コップに口をつけたまま、ヨリコちゃんは窓の外なんかに目を向けている。 耳が少し赤いような……。
    「さ、サラダもうまいし、ミートローフ? これも凝ってておいしいよ」
    「ふん、ふん。もっと言って?」
    「え!? っと、け、ケーキも甘くておいしい」
    「それ買ったやつじゃん」
    「そうだけど……ヨリコちゃんといっしょだから、なんでもうまいんだよ」
    「……ふぅん」
     ヨリコちゃんはそっぽを向いて目を合わせてくれない。 思えば、俺たちもようやく緊張がほぐれてきたんだろうと考える。
     俺の記憶が曖昧なせいで、ほとんど見知らぬ場所まではるばる来て。 見覚えのない極寒の家でふたりきり。 こんな状況そうそうない。 さぞ心細かったろう。
     電気も水も使えることがわかって、ストーブで温まった部屋に腰を落ち着けて、やっとホッとしたところなのだ。
     そうだ、ふたりきりなんだよ。 おそらく俺もヨリコちゃんも緊張から解き放たれたことによって、その事実を強く意識してしまった。
     いちど意識してしまえば、心臓がバクバクと脈打ちはじめる。 付き合いたての彼女が――手が届くはずのなかったヨリコちゃんがそこにいて、すぐ触れられる距離で恥ずかしそうにそっぽを向いている。
     萌え袖チックなセーターと、ストッキング履いたフレアなショートパンツ姿で足を折り曲げ、女の子座りするヨリコちゃん。 眺めていると無性に喉が渇いて、ジュースをあおり飲むと箸を置いた。
    「ん、もう食べないの?」
    「ちょっと休憩。時間はいくらでもあるし」
     俺は畳に両手をついて、四つん這いでヨリコちゃんに寄っていく。 ちょっと警戒してか、ヨリコちゃんが流し目をよこす。
    「ね、なんでこっち来んの?」
    「いや、その……ひざまくら」
    「は?」
    「ひ、ひざまくら、してくんないかな〜って」
     恥ずかしい要望を口にしながら、すでに体は倒してヨリコちゃんの太ももへ頭を乗せようと位置を調整する。
    「ど、どうしちゃったんでしゅかソウスケくん? 急に子供に戻っちゃったんでしゅかぁ? ん〜?」
     ひさびさの幼児言葉煽り、この状況で聞くと思いのほかダメージを受けて顔が熱くなる。 ヨリコちゃんの必殺技のひとつなのだから、それも当然だ。
     だけど今回は自傷ダメージが入ってるみたいで、ヨリコちゃんは後ろ手をつくとあからさまに顔をそむけた。 頭を乗せやすいよう、太ももを差し出してくれたようにも見えて、遠慮なく後頭部を沈める。
     ああ……最高だ。 最高にやわらかいし、なんていうかその、ヨリコちゃんの匂いがする。
     頭をすりすり動かして至福の弾力を満喫していると、冷めた半目でヨリコちゃんが俺を見下ろしていた。 でも頬がちょっと赤いのを見逃さない。 完全に呆れられていないのなら、とさらなる望みを訴える。
    「ヨリコちゃんさぁ……」
    「なに?」
    「ちゅう、してくれ」
    「きっしょ。甘えすぎじゃね?」
     たしかにキモいけど!! 付き合うってそういうもんじゃねえの!? ちがったらすみません嫌いにはならないでくれ!
     ひとの心をえぐっておきながら、ヨリコちゃんは顔を落としてきて、吐息と共に唇をひらく。 3度目のキスは、俺の唇をはむっとくわえるように、ヨリコちゃんのソレがかぶさった。
     情感たっぷりの長いキスは、呼吸できなかったこともあって意識を奪われそうになる。 軽くリップ音が鳴ったあと、だけど真上に離れていく温もりが惜しくて、必死に追いかけた。 頭を持ち上げながらついばむ。
    「ちょ、む、こらこら――ん、終わりだって」
     気づけば膝立ちになっていて、とっくにヨリコちゃんの座高を追い越し、俺は有利な体勢で逃げる唇を追っかけつつ細い腰を引き倒した。
    「ちょお!? ソウスケくん!?」
    「ヨリコちゃん! はあはあ!」
    「電話ッ! 電話鳴ってる!」
     たしかにさっきから棚の上の黒電話がジリリリ鳴っている。
    「いいよそんなもん! どうせ俺の家じゃない!」
    「めっちゃくつろいどいてそれはダメでしょ!? ああも暴走すんなって! ほらどいて!!」
     全力で覆いかぶさろうと試みるも、最後は足の裏でほっぺたを突き離された。
     じんじん痛む頬を押さえる俺をよそに、立ち上がったヨリコちゃんは乱れた髪や衣服を伸ばし直している。 そんな姿がこう、やけに扇情的だった。
    「も、もしもし? こちら、えと、弓削……ですけど」
     電話に出たヨリコちゃんは、しばらく無言でいたのだが。
    「……は? 大事なひと……?」
     受話器を耳に、ヨリコちゃんが俺の方をじっと見る。 やがて、首を振って受話器を差し出してきた。
     棚の前に移動し、ヨリコちゃんと代わる。 ここはあえて無言で、相手の出方をうかがうことにする。
    『――だから聞いてます? あなたの大事なひと、いまワタシのとなりで寝てるんです。さっきまでそれはもう激しく求められて――』
     電話口は女の子の声だった。 そして戦慄した。
     まさかヨリコちゃんやマオ以外に、こんな馬鹿な電話する輩がいるなんて。 これはまごうことなき寝取られ――いや寝取り電話か?
     まあそんなことはどうでもいい。
    「あの……だれ?」
    『――――っ』
     息を呑むような空気のあと、唐突に電話は切られた。 受話器を置いて、ヨリコちゃんに首を振る。
    「……なんか、あたしの大事なひとと寝てる、とか言ってなかった?」
    「ああ、うん。言ってた」
    「……ソウスケくん浮気してる?」
    「なんでだよ!? てかどうやって!? 物理的に不可能だろ!」
     まじで今のはだれなんだ。 ここが俺の実家だと仮定して……実家じゃなかったら不法侵入なんだけど。
     だれ宛に電話してきたんだ? 本当にヨリコちゃん宛てに電話してきたのなら、今日ここにいることを知ってる人物になる。
     しかし、何よりいちばん許せないのが――。
    「はぁ……ほらせっかくの料理冷めちゃうよ? 食べよ食べよ!」
     タイミングだよタイミング!
     もうぜったいそんな雰囲気には戻りそうにないヨリコちゃんを見て、俺は深く息を吐いた。




      [#ここから中見出し]『第77話 ヤマカガシ』[#ここで中見出し終わり]

     やたらと重量のある掛け布団を剥いで、体を起こす。 綿の布団って重いんだけどすっげえ暖まるし、羽毛よりなんというか安心感あるんだよな。 良質な睡眠がとれた気がする。
     寒さに肩をこすりつつ隣を見ると、30センチほど離して敷いてある布団はもぬけの殻だった。 ヨリコちゃんの姿を探そうと立ち上がると、自分の枕もとに綺麗に包装された紙袋が置かれてることに気づく。
     紙袋を手に取って廊下へ出れば、居間の方から吹き込む冷気を感じた。
    「……ヨリコちゃん?」
     居間の引き戸を開ける。 縁側につながるガラス戸と障子が開け放たれていて、昇ったばかりの朝日をヨリコちゃんが眺めていた。
     上下ともに寝間着のスウェット姿で、大きめのブランケットに肩から包まって、こっちを振り返って微笑むと白い息を吐き出す。
    「おはよ。これ、めっちゃあったかいよ? ありがとう!」
     ヨリコちゃんが纏うブランケットは、クリスマスプレゼントにと俺が枕もとに置いといたやつだ。 受験勉強するときに使ってもらおうと選んだ。
    「なにも窓開けてわざわざ寒い思いしなくても」
    「えへへぇ。ソウスケくんもそれ開けてみて?」
     うながされ、ラッピングを丁寧に解いて紙袋を開ける。 中身はふかふかのマフラー。 よく知られたブランドのものだ。
     ヨリコちゃんと並んで縁側に座り、マフラーを首に巻いた。
    「似合うじゃん」
    「ありがとう。すげえあったかいよ、ヨリコちゃんの愛情」
    「ふぅん? 感じますか、愛情を」
    「うん、でっかいやつ」
     長めなマフラーの端を伸ばして誘うと、体を寄せてくるヨリコちゃんは小動物みたいだ。 迎え入れるように、ヨリコちゃんの首にもマフラーを巻いてやった。
     さりげなく格好つけてみたものの、サラサラの黒髪に触れるだけで胸がドキドキした。
     ヨリコちゃんもブランケットを広げてくれて、ふたりしてウールの温もりを共有する。 呼吸するだけで肺まで冷たくなる空気が心地よく感じる。 幸せ過ぎてまじで寒さなんか気にならなかった。


     朝食として昨夜の残りのサラダや惣菜をおいしく片づけた。
     その後、家の中を歩き回ってみるも記憶に触れるようなこともない。 風呂も調理機器もオール電化だし、古いのは外観だけで中身は立派に現代的な家だ。
     当面の問題は、ここが本当に俺の実家なのだろうかということ。 これだけは早急に解決しておかないと、法に抵触してヨリコちゃんの将来が潰れたりしたら目も当てられない。
    「ちょっと俺、その辺でひと探して話を聞いてみるよ」
    「あ、だったらあたしも行く」
     裏が取れないことにはどうにも落ち着かない。 思いはヨリコちゃんも同様らしく、着替えたのちに家を出た。
     晴天に恵まれてはいるが、周囲の山やアスファルトに人影はない。 ぽつぽつと点在する民家の前や田畑も閑散としている。
    「……だれもいないね?」
    「農閑期だからかな。ビニールハウスとかあれば作業してるひとがいるかもしれないけど」
     思いきって、どこか適当な家を訪ねてみようか。 そんなことを考えて30分ほどぶらついていたところ、庭でスキー用具の手入れをするガタイのいいおじさんを見かけた。
    「あの、すみません! ちょっと聞きたいんですけど!」
     塀越しに声をかけると、おじさんはわざわざ表まで出てきてくれる。
    「なんだい? あー……見ない顔だな、どこか探してるの?」
    「いえ、あ、はい。えっと……この先にある家なんですけど」
     今しがた歩いてきた道を指差し、あの家までの道程を詳細に説明する。
    「……ああ、あんた|楝蛇《かがし》さんの知り合い?」
    「カガシ? そこ、弓削ってひとの家じゃ……」
    「弓削? たしかに弓削さんの家っちゃあそうなんだけど」
     おじさんが怪訝に眉をひそめる。 日焼け跡の残る彫りの深い顔が、ぐぐぐと寄ってきて思わず身を引いた。
    「あんた……もしかして蒼介くん?」
    「え? 俺のこと知ってんですか?」
    「じゃあ、本当に蒼介くんか!? 知ってるもなにも! ははは! そうかそうか、楝蛇さんとは和解したんだな。いつ帰ってきたんだい?」
     屈強な体躯から繰り出される平手を背中にバシバシもらい、咳き込む。 どうやら俺の家で間違いはないらしいけど、新たな謎も増えてしまった。
     楝蛇という名前に聞き覚えはない。 たずねてみようか、でも聞けば俺の記憶がおかしいことを勘づかれるかもしれない。
    「ええ――ってことは、そっちのべっぴんさんが|海未《うみ》ちゃんかい!? はー大きくなったなぁ! |四半的《しはんまと》はまだやってんの?」
    「や、その、あたしは違くて」
     次々に新しいワードを投げつけてくるおじさん。
     ヨリコちゃんも困ってるようだし、ちゃんと説明したって受け入れてもらえるかはわからない。 それにひとまず頭の中を整理したかった。
     まだ語り足りない様子のおじさんに礼を言って、その場をあとにする。
    「大丈夫? ヨリコちゃん」
    「う、うん。あたしはぜんぜん。それよりよかったね、あそこソウスケくんの家であってるみたい。……楝蛇、てひとには心当たりないの?」
    「まったくないな」
     さっきのおじさんは“和解”だとか言ってたっけ。 でもそれよりも引っかかることがあって、|四半的《しはんまと》……この単語は聞き覚えがある。
     どこだ? どこで聞いた言葉だったろうか。
     実家に戻ってきて、居間に寝転んで考えてみるもやっぱりわからない。 気分転換に持ってきた旅行バッグの中身を整理していたら、1冊の小冊子を見つけた。
     文集? こんなの入れた覚えないけどな、とページをパラパラめくる。
    「いや……これって、マオの……?」
     中身の序盤は読んだことがある。 都市伝説創作部の部室に置いてある、マオの文集に間違いなかった。
    「四半的……」
     そうだ、俺はこの文集で四半的という単語を見たのだ。 四肢断ちとかいう呪いについて書かれた文集で、その中に弓技を競う遊戯としての記載がある。
     ただ、なぜこの文集が俺の元に? そもそもマオはなんで四半的なんか知ってるんだ?
     何か手がかりがあるかもしれない。 そう思って文集を読み進めようとしたら、台所からヨリコちゃんの悲鳴が届いた。
    「ヨリコちゃん!?」
     走って駆けつけると、ヨリコちゃんは俺の袖を引きながら台所の小窓を指差す。 少し開かれた窓から、赤黒い斑紋の蛇がこちらをじっと覗き込んでいる。
     ヨリコちゃんに見えてるってことは、これは幻覚じゃないんだろう。
    「|山楝蛇《やまかがし》だ。猛毒だから気をつけて」
    「シャーッて、飛んでこない?」
     基本的にこっちから何かしなければ、襲ってきたりはしない。 小窓の蛇もしばらくすると、興味が失せたようにどこかへ行ってしまった。
     でも……こんな真冬に蛇がうろついてるのはめずらしいな。 ヨリコちゃんが怖がるので、昼食の準備が終わるまで台所で手伝いをした。
     楝蛇。四半的。四肢断ち。 作業をしつつも、それらの単語が頭を離れることはなかった。




      [#ここから中見出し]『第78話 矢文と決断』[#ここで中見出し終わり]

     風呂も夕食も終えたあと、掘りごたつに足を投げ出して文集を読み進める。
    「それ、マオの……だっけ? あたしマオのやつ苦手だからなぁ、去年の文化祭も聞いてないし」
    「前にマオの怖い話嫌いだって言ってたもんねヨリコちゃん。てか今年の文化祭だって俺の怖い話聞かなかったじゃん」
    「ぅぐ。そ、それはあやまったでしょ? 動画撮ってた子にあとで見せてもらったよ? ……チラッとだけど」
     掘りごたつの中、ヨリコちゃんがつま先でコツコツ俺の膝を蹴っている。 |脚気《かっけ》検査みたいに足がときおりピクンと反応して、なんか気持ちいい。
     しかし今は文集に集中しなければ。
    「…………」
     ヨリコちゃんの蹴りがおさまったかと思えば、今度は足裏でスネの辺りをすりすり擦ってくる。
     ――……なるほど。 なるほど。
     かいつまんで文集の中身を説明するならば、むかし四半的という弓技が得意な少女がいた。 少女は藩主の屋敷の酒宴に呼ばれ、四半的を披露することになる。 弓の腕前だけでなく、外見も美しい少女に宴は異様な熱気を帯び始め――。
     藩主が席を外した頃合に、泥酔した藩士の男が、刀を持ち出してこんな提案をした。
    “一射的を外すたび、その身体の一部をよこせ”と。
     たちの悪い冗談のつもりだったのかもしれない。 けれど緊張から的を外してしまい、震える少女に妙な興奮を覚えた男は、少女の足を斬り落とした。
     四半的は、正座して身体を横向きに弓を射る弓技である。 痛みと出血により意識もままならず、当然ながら少女は次々と矢を外す。 四肢のすべてを失った少女はさらに慰みものとなり、命を落とした。
     藩主は怒り、男を処刑したが、少女の死の事実は隠した。 陰惨な真実は闇に葬られ、事の経緯を知る者も決して口を割ることはなかった。 かわいそうだが仕方ない、と。 誰もが終わった事だと認識していた。
     やがて、藩では奇妙な事件や事故が絶えなくなる。
     誤って刃物で腕や足を切り落としてしまう者。 ふいに倒れてきた資材の下敷きとなり足を潰してしまう者。 または被害者の四肢を切断して殺害するなどという猟奇的な事件も急増した。
     少女の件を知る者が“呪い”だと訴えるも、藩主は聞き入れなかった。 その後も藩では四肢を喪失する者が続出し、ようやく少女を慰霊するための社が建てられる。
     けれど事件事故共に消えることなく、いつしか藩は“四肢断ち”の呪いが蔓延る地と呼ばれるに至った。
     長い時を経て呪いは薄まってきてはいるものの、現在でも四肢断ちは確実にこの地へ根付いているのだ――。
    「……ねぇ? ……ねぇーってば」
     胸糞悪い話だ。 そして怖い。 四肢断ちって字面がもう気味悪い。
     なんでマオはこんな話書いたんだ。 本当に創作なのか?
    「ソウスケくんってば! ひとりで納得してないで、読んで聞かせてよ」
     こたつの中で足をカニ挟みされ、上下にぶんぶんと揺さ振られる。 おっと、ヨリコちゃんを放置するのは厳禁だ。
    「でも……苦手なんだろ? かなり後味悪い話だけど」
    「そういうのは共有しとかなきゃ。あたしも知っときたいし、ちゃんと聞かせて?」
     ヨリコちゃんがそう言うなら、教えないわけにはいかない。 さっき頭でまとめた話を余すことなく語った。


    「――ふぅん。……それって、その四肢断ちに呪われてるのがこの辺ってこと?」
    「いや、そもそもが作り話の可能性が高いんじゃない? だってマオだし。都市伝説創作部だし」
    「それにしちゃやけにリアルっていうか……昼間におじさんも言ってたじゃん、四半的がどうこうって」
     そうなんだよな。 それは俺も引っかかってる。
     四半的は実在する弓術だ。 でもだからといって惨死した少女や、四肢断ちの呪いまで実際にあったとは限らない。 たとえあったとして、それが俺自身の記憶にどう関わるのかもピンとこないし。
    「まあ確認……してみるか」
     文集の通り現在にも四肢断ちの呪いが残っているのなら、それこそ昼間のおじさんにでも聞いてみればなんらかの反応してくれるだろ。
    「なんかさ、あたしら探偵みたいじゃね?」
    「被害者が出てから解決するタイプの探偵じゃなきゃいいけど」
    「こ、怖いこと言わないでよ……」
     ヨリコちゃんの素足が、こたつの中で俺の足を挟んだままキュッと締めつける。
     俺の彼女、さっきからエロくね?
     おもむろに掘りごたつへ腕を潜らせ、ヨリコちゃんのふくらはぎを掴んだ。 もう片方の手で、足の裏に指を這わせて思いきりくすぐってやる。
    「あ!? あはっあははっ!? ちょっマジやめてっ! やっ!? あはははっ!」
     転がりながら暴れるヨリコちゃんの足を押さえつけて、合法的なセクハラを楽しんでいると――。
     どんっ! と玄関から物々しい音が響いて、俺達はぴたりと動きを止めた。
    「え……だれか来たのかな?」
     ノックにしては音が重く感じた。
     掘りごたつから出て、忍び足で玄関へ向かう。 うしろから静かにヨリコちゃんもついてくる。
     内鍵を解除してそっと外をうかがうも、夜闇の中にはだれも見当たらなかった。
    「ソウスケくん……あ、あれ……」
     シャツを引っぱられ、ヨリコちゃんが指し示す方へ目を向ける。
     引き戸のすぐ横――木製の壁に1本の矢が突き立っていた。 矢尻に、紙のようなものが括りつけられている。
     矢……四半的。
     俺は生唾を飲み込んで、深く食い込んでいた矢をなんとか引き抜いた。 括ってあった紙にはただひと言“深入りすれば後悔するぞ”と、それだけが記されている。
    「なにこれ、マジでヤバくない?」
     やばいし、こんな脅しは犯罪行為だろ。
    「……警察に電話しよう」
     すぐにスマホを取り出すと、でもヨリコちゃんが不安そうに呟く。
    「待って、この家にいること追求されたらなんて答えるの?」
    「おじさんも弓削の家で間違いないみたいなこと言ってたし、大丈夫だよ」
    「楝蛇ってひとの名前も出してたよ? もしかすると今、この家の権利持ってるのそのひとかもしれない。連絡されたら言い訳できなくない?」
    「だからって、ヨリコちゃんを危険な目に合わすわけには――」
    「た、たぶん警告だよ。踏み込まなければ危害くわえるつもりないんだと思う。だからもうちょっと考えよ? それにあたし、親バレしちゃったら、ソウスケくんと会わせてもらえなくなるかもしれない。そんなのやだよ。だから……ね? ね?」
     そういえばヨリコちゃんは、マオの家に泊まってることになってるんだったか。 昼にも考えたことだけど、受験を控えた身でもある。 もし不法侵入で学校に連絡なんて事態になったら最悪だ。
     文面はたしかに警告。 でも……。
    「じゃあもう、明日にはここを離れよう。俺の不確かな記憶なんかより、身の安全が第一優先だ。それでいい?」
    「……旅行も終わりってこと? ソウスケくんは、それでいいの? また変な幻覚見ちゃったりとか、あたし心配で……」
    「ここにいたって治る保証なんかないし、必要なら今度はちゃんと計画立ててまた来ればいいよ」
    「うん……わかった」
     なんとか納得してくれたヨリコちゃんの手を引いて居間に戻る。 暖房器具の電源を落として、早めに寝ることにした。
     寝室に敷いた二組の布団はぴったりくっつけて、手をつないだまま俺とヨリコちゃんは眠りにつく。
     ――玄関の引き戸を激しく叩く音で目が覚めたのは、深夜0時を回った頃のことだった。




      [#ここから中見出し]『第79話 unknown』[#ここで中見出し終わり]

     またもイヤな緊張を味わいながら玄関へ向かう。
     いや、矢文と違って明確に訪問者だとわかる分、さっきよりも手汗がすごい。 こんな深夜に訪ねてくる客なんて、ぜったいにまともじゃないだろ。
     玄関にたどり着いても、まだ引き戸は叩かれてる。
    「あ、開けるよ? ヨリコちゃん」
    「う、うん。気をつけてね……」
     背中にはヨリコちゃんが張りつくようにべったり寄りそっていた。 深呼吸をひとつして、思いきって引き戸をガラガラ開けると。
    「――ぶああああざむいざむい死ぬゔゔゔゔ!!」
     倒れ込むように突入してきた人物が、玄関と床板の段差に足を引っかけ盛大にすっ転んだ。 呆気にとられてその人物――マオを見下ろす俺とヨリコちゃん。
    「お、おい……大丈夫か?」
     歯をガチガチ噛み鳴らして震えるマオは、起き上がる気配もなく、頬に触れてみると氷みたいに冷たい。 鼻水も垂れ流していた。
     疑問はたくさんあるけど今はそれどころじゃなさそうだ。
    「ヨリコちゃん、とりあえず居間に運ぼう! 手を貸して!」
    「わ、わかった!」
     ふたりで両脇からマオを抱え起こして、居間までずるずると引きずったのちに暖房器具をフル稼働させる。 プレゼント交換したばかりのブランケットとマフラーを活用してもこもこに温めてやった。
     数分が経過して、青白い顔にも血色が戻ってきたように見える。
     マオの瞳がゆっくりと開いた。
    「……ふぅ……助かった。礼を言う、ええと蒼介、青柳依子」
    「なんであたしフルネーム?」
    「それよりこんな時間にどうしたんだよ? 連絡くれれば迎えにくらい行ったのに」
     むくりと上半身を起こして、体に巻きつけていたマフラーとブランケットを剥ぎ取るマオ。 無表情から一転、神妙な面持ちになって言う。
    「なに、ちと嫌な予兆があってな。……人の身など久しく体感しておらんので、醜態をさらしてしまった。やはり冬は寒いなぁ」
    「…………」
     ツッコむところなんだろうか。 ヨリコちゃんも、眉間にしわを寄せてマオを見つめている。
    「ところでどうだ、故郷は。なにか記憶の糸口でも見つけたか?」
    「俺の記憶について話したっけ? ……まあ、ぜんぜんだよ。未だに故郷だなんて実感もない」
    「ふむ……」
     冬の山を訪れるにしては軽装というか、かろうじて防寒してるのは大きめのパーカーだけという寝間着スタイルで、マオは片膝を立てると顎に手をあてた。
     オシャレを好むマオにしてはめずらしい格好だ。 いつもファッションチェックする俺への当てつけだろうか。
    「しかし記憶なんてものは、忘れているのなら取り戻さない方がいいこともある。特におまえに施されているものは強力だ」
    「えと……よくわかんないんだけど。でも、俺の記憶についてはもういいんだ。明日にはこの家を出るつもりだし」
     一応、矢文が飛んできたことなんかも説明した。 心配してここまで来てくれたんだろうし、現状を伝えないのは不義理だと思ったから。
     黙って聞いていたヨリコちゃんが、悔しそうに顔を伏せる。
    「でも、やっぱりあたしはソウスケくんにちゃんと思い出してほしい。だって家族で過ごした時間、大事じゃん。お父さんとかお母さんとか、姉弟とか。顔もわからないなんて、そんなの……」
    「そうだ! よく言った青柳依子!」
    「だからなんでフルネーム!?」
     おもむろに立ち上がったマオが、俺の周囲を旋回するように居間を歩きまわる。
    「おまえはどうだ蒼介、本当にこのまま逃げ帰ってもいいのか?」
    「いやさっきと言ってること真逆じゃねえか! リスク冒してまでやることじゃないだろ」
    「何かを得ようとするならば危険はつきまとう。そんなこと太古の昔から決まりきっているというのに、現代はずいぶん平和ボケが進んでいると見える」
     どの目線からしゃべってるんだこいつは。
    「四半的に四肢断ち。掴んだ情報をせめて確認だけしてみろ。わざわざこうして出向いてやったのだ、大船に乗ったつもりでいるといい」
     まじですげえ上から目線をかましたのち、どっかと座ると掘りごたつに足を放り投げ、マオは俺に向けて顎をしゃくる。
    「ところで腹が減ったな。甘味はないか? 氷菓でもいいぞ」
    「氷菓って、アイス? 凍え死にそうになったんだからやめとけよ。……緑茶とか、冷蔵庫になにかしら食べ物はあるから、適当につまんでいいよ」
    「はーやれやれ! 客をもてなすこともできんとは! 神罰が下るぞ、はーまったく!」
     たしかに悪いとは思ったけど、もてなす気にはとてもなれなかった。 ぶつくさ文句を言いながら、教えてやった台所へとマオが消えていく。
     居間に残った俺とヨリコちゃんは、顔を見合わせた。
    「……なぁ……ヨリコちゃん」
    「……うん、言ってみて」
    「あいつ、マオじゃなくね?」
     どう考えても人格が変わり過ぎだろ。 どことなく覚醒したアサネちゃんを彷彿とさせる言動だ。
    「あたしもめっちゃビビったけど……悪いひとじゃないんじゃない? たぶん」
    「そうかなぁ……」
     マオの人格みたいなものは、どうなってるんだろうか。 消えてなくなったりしないよな? 色々ありすぎて、疲れてうまく脳が働かない。
     高級アイスを手に戻ってきたマオらしきものが、ご機嫌で食レポするのをぼんやり眺めて。 掘りごたつの暖かさにウトウトと舟を漕いでいたら、少しずつ意識が遠くなって眠りに落ちた。




      [#ここから中見出し]『第80話 矢道の雪』[#ここで中見出し終わり]

     昨夜はヨリコちゃんもマオも居間で寝てしまったらしい。 寝癖でぼさぼさ頭のヨリコちゃんとアイコンタクトを交わし、腹を出してかーかー眠っているマオに視線を向ける。
    「んが……?」
     ふと目を開けたマオが、固唾を飲んで動向を見守る俺たちふたりを、眠たげな瞳で見上げる。
    「…………わたしが寝てる横でセックスした?」
    「してねえよ!!」
     どうやらこの感じ、いつものマオに戻ったんだろうか? 身をくねらせて両手を突き上げ、大あくびをかますマオに、ヨリコちゃんが詰め寄る。
    「マオ、昨日のこと覚えてる? なんでここに来たか、とか。話した内容とか!」
    「ええ〜……? なんでって、えーとソウスケが、青柳とエッチするとこ見せてくれるって約束をー」
    「は!?」
    「し、してないしてない!」
     鬼の形相で振り向くヨリコちゃんに、首と両手を激しく振って無実を訴えた。
     広く捉えりゃそういう約束かもしれないけど、今話すことでもないだろ!
    「……あれー? でもわたし、なんでソウスケの実家の場所……日辻から聞いたんだっけ?」
    「アサネちゃんに?」
     実家がどこにあるかなんて、俺でさえ曖昧だったものがマオやアサネちゃんにわかるわけがない。
     顔を見合わせたヨリコちゃんは、戸惑いの表情を浮かべている。 きっと俺も似たような顔をしてたと思う。
     記憶の齟齬でも起きやすい村なのか? どんな村なんだよ怖すぎるだろ。
    「ねー……それよかお腹すいたなー」
     時刻は朝10時を回ろうとしてるところだ。 みんな疲れてたんだろう、少し寝すぎた感はある。
     ほんとは今日、帰るつもりでいたけど。 昨日のマオの……得体の知れないナニカの言葉が気になっていた。
    「ヨリコちゃん、俺……いろいろ考えたくて。悪いんだけど、もうちょっとだけここに――」
    「――! うん、うん、それがいいよ! マオも来たんだし、せっかくの冬休みなんだし楽しくやろうよ! そんなさ、悪いことばっかり起きないって」
     何かを得るにはリスクがつきもの。 言われた言葉通りなら、今後も危険がある可能性は高いってことだ。 残ると決めたのなら、ぜったいにヨリコちゃんやマオに危害が及ぶようなことがあってはならない。
     肝に銘じた。
    「じゃあ、いったん町に下りようか? 人数も増えたし食材買い足さないと」
    「賛成! じゃ着替えてくんね! ほら、マオも準備しな?」
    「ちょ、わたし荷物とかなくねー? 寒みーしパジャマじゃんこんなん……自分が恐ろしいわー。青柳、服とかもろもろ貸してー?」
     洗顔に着替えにどたばたと身支度を済ませたのち、俺たちは歩いてバス停へ向かった。

    ◇◇◇

     年末が近いということもあり、ふもとの町の商店街はそれなりの人で賑わっている。
     新年を迎えるにあたっての買い出しが主だろうか。 地元の人がこぞって買い物してるとすれば、開けてるのも今日か明日くらいまでの店が多そうだ。
     学生らしき姿もちらほら見かけて、とくに男連中なんかはヨリコちゃんやマオに視線を向ける時間が長い気がする。
     彼女がいない間は、人前でイチャイチャするカップルに爆発系最上位の魔術撃ってくれる魔法使いとかいねえかな、なんて思ったりもしてたけど。 いざこうして超かわいい彼女ができると、見せびらかしたくなる気持ちもわかる。
     誇らしいような気持ちと……あと嫉妬と不安。 付き合ってるからって、それにあぐらかいて安心してちゃだめなことは、俺はよくわかってる。
    「ああそっか、おせちかぁ……どうしよっかなぁ、一応材料買っとく? ……ソウスケくん?」
     正直、未だに俺がケンジくんに勝ってる部分なんて想像もできない。 でもヨリコちゃんだけは……。 俺はずっと、ヨリコちゃんにとっての1番であり続けたい。
    「顔がイッちゃってんなー。こいつぜってーいま頭ん中で恥ずいこと考えてんよ。つーか青柳おせち作れるってヤバくね?」
    「ヨリコちゃんのおせち食いたい!!」
    「ぁえ!? び、びっくりするから急におっきな声出さないでよ……。作るっていっても、ほとんど買うだけだし」
     軒先に並べられたいりこの佃煮や黒豆を物色していると、店のおじさんが商売っ気満載の笑顔で寄ってくる。
    「お、この辺じゃ見ないべっぴんさんだねぇ。どこから来たの? サービスするよ!」
    「あ、えっと……」
    「父の実家に帰省してるんです。家は山をあがってったとこにあります」
     答えにくそうにしてたヨリコちゃんに代わり、横から口を挟んだ。
    「へぇそう! 仲良さそうな姉弟でいいね!」
    「恋人ですよ!」
    「お、おおそうかい、ごめんな?」
     お詫びにさらにサービスするというので、けっこうな種類の食材を購入した。 袋に詰めてもらってる最中もおじさんのしゃべりは止まらない。
    「いやーでもこうして外からもお客さんが来てくれるようになって、感慨深いねぇ。この町も、それこそ上の村でも色々あったからな」
    「いろいろって、なにがあったんですか?」
    「数年前になるけど、雨が止まなくなったときがあってねぇ。土砂災害にさらに竜巻? なんてものがいっぺんに起きちまって。噂したもんだよ、ありゃあぜったいに呪――」
    「――おい」
     それまで口をつぐんでいたマオが、ゾッとするほど冷たい目で店のおじさんを静止した。
    「こやつらには関係ない話だ。せっかく戻った客をまた失いたいのか?」
    「あ……はは。そっちのお嬢ちゃんは、もしかしてここの出だったかい? す、すまないね、よーし、かまぼこもう一本つけとく!」
     パンパンに膨れた袋を手に、店を離れた。 先をずんずん歩いていくマオの背を、ヨリコちゃんと少し遠巻きから見つめる。
     これは、また昨夜のマオに違いない。 何かに取り憑かれてんのかな。 神社とかでお祓いしてもらったほうがいいかもしれない。
     ふと、足を止めて振り返るマオ。
    「蒼介よ、せっかく町まできたのだ。ついでに聞き込みでもしたらどうだ」
    「聞き込み……あ、ああ! そうだな、聞いてみよう」
    「まったく。浮かれるのもいいが、本来の目的を見失うなよ?」
     中身はともかく、ガワがマオなので呆れられるとなんとも言えない気持ちになる。 とりあえず年配の人を中心に、商店街を声をかけながら回る。


     四肢断ちという言葉については、誰にたずねてもピンときてない様子だった。
     マオの文集に書かれていたことが事実なら、藩が存在したのなんて江戸や明治の話だ。 やっぱり現代には、四肢断ちの呪いなんて残ってないんじゃないだろうか。
     一方で、四半的は今でも愛好してる人がけっこういるらしく。 よく競技が行われてるという、公民館のような場所をすぐに教えてもらえた。
    「――で、来たのはいいけどさ。鍵かかってんじゃない?」
     ヨリコちゃんの指摘通り、公民館らしき建物の引き戸は施錠されていた。 あたりは人気の少ない住宅地だけど、よそ者が公民館の引き戸をガチャガチャやってるのは見栄えがよくない。
    「まあ、また今度出直して――」
     帰ろう。と言い終える前に、引き戸の前にマオが立つ。 戸に向けてマオが手をかざすと、信じられないことにガチャンと音が鳴った。
    「え……マジ?」
     驚愕する俺とヨリコちゃんをよそに、マオはカラカラと引き戸を開けて公民館の中へ入る。
    「ちょ、ちょっと待てって!」
     周囲に目をやりつつマオを追うと、中は広い板張りになっていた。 射場……というんだろうか、板張りの奥の中庭は芝生が敷かれ、弓道で見たことあるような的も設置されている。
     板張りの一部が畳になっている点を除けば、素人目には弓道場と遜色ない。 中庭へと大きく開放された板張りの射場は、とても冷え冷えと寒かった。
     マオは射場を見回し、端に保管してある袋のひとつから弓と矢を取り出す。 ヨリコちゃんに借りているダウンジャケットを脱ぎ、弓に張られた弦を指で撫でた。 マオは静かに、畳敷きの射座へ歩みを進める。
     その顔も所作もあまりに真剣で、俺もヨリコちゃんも声をかけられなかった。
    「あ……雪……」
     ヨリコちゃんの呟きに、中庭へ目を向ける。 どうりで寒いはずだ。
     軽く細かな雪が落ちてくる中庭を見つめながら、マオは的とは横向きに正座した。 半身に腰をひねり、指先でつまんだ矢を弓につがえる。
     ゆっくりと弦を軋ませ、引き絞り――放つ。 冷たい空気を切り裂く飛翔音は一瞬。 直後には、矢が的の中心に突き立っていた。
     拍手……するような雰囲気でもなく。 ただ完璧な動作に見惚れて突っ立っている俺たちを、マオは振り返らずに。
    「見ろ……なんの感情もない。もうこれを射ても、憎しみも恨みもないのだ。なのに」
     言ってる意味はよくわからない。 でも表情の少ないその横顔はすごく辛そうで、悲しそうにも思えて。 白くて綺麗な雪が、まるで慰めのようにいつまでも舞っていた。




      [#ここから中見出し]『第81話 取って取られて(天晶賢司)』[#ここで中見出し終わり]

     ガキの頃。 幼馴染だった|陽留愛《ひるあ》の家族と一緒に、この田舎の村へは何度か遊びにきたことがある。 陽留愛の母方の実家だったはずだ。
     夏休みらしく川で遊んだり、陽留愛は怖がってたが虫取りしたり。 オレと陽留愛と……もうひとり。 いつも暇そうにしてた、地元の女の子とよく3人で遊んでた。
     その子はオレ達より3つ歳下で、元気でよく笑って明るくて。 オレと陽留愛にとっては妹分みたいな存在で。 帰る日が近づくにつれ、寂しそうな顔するのが子供心に痛かった。
     中学にあがると、オレも部活や男友達と予定を入れることが多くなり、夏休みに陽留愛ん家の田舎へ同伴することもなくなっていった。 陽留愛とは相変わらずの付き合いだったんで、たまにその子の話をすることもあったっけな。
     そして高校に通い出したとき、陽留愛に妹ができた。 中学生になったばかりの、子供の頃田舎で遊んでいたその女の子だった。
     陽留愛の母方は女の子の遠縁にあたるらしく、それ以上の理由は聞いていない。 聞けなかった、といった方が正しいか。
     女の子には記憶障害があると陽留愛は言っていた。 自分の過去も両親も兄妹のことも覚えていないと言った女の子は、子供のとき聞いた名前とは違い|陽毬《ひまり》と名乗った。

    ◇◇◇

     民宿の一室。 友奈が作ってくれた昼食を、オレと陽留愛でテーブルへ運ぶ。 食事が出ない代わりに格安な民宿だが、オレ達には却って都合がいい。
     エプロンを外しながら、友奈が陽留愛へ思いついたように詫びをいれる。
    「あ、すまん。ネギを刻んでいたんだが冷蔵庫に忘れた」
    「はーい! 取ってくるよ。陽毬はもう起きて大丈夫なの?」
    「うん、ありがとうお姉ちゃん。病気ってわけじゃないから大丈夫だよ」
     陽毬がめんつゆを注いでくれた器を受け取り、順に回していく。
     陽毬の症状はたしかに病気じゃない。 明確な病名なんか無いからこそ治す方法も簡単にはわからないんだ。
    「でも無理はするなよ。また倒れるようなことがあったら……」
    「賢司さんも、ありがとう。……いつもあたしのために、ごめんなさい」
     途端に俯いた陽毬は、垂れ下がる前髪で伏せた目を隠した。 昔みたいなハキハキとした明るい印象は、今じゃすっかり見る影もなくなった。 それもしょうがないと思う。
     文化祭が終わった頃から陽毬の症状は悪化している。 時が止まったかのように何かを見上げて、ぶつぶつとうわ言を繰り返したり。 そんなことが起きたあとには、決まって記憶が混濁する。
     名前がわからなくなったり。 今いる場所がわからなくなったり。 不安から泣き崩れる陽毬を、陽留愛はいつも見守っている。
    「そうそう、賢司は勉強頑張んなきゃだめだよー? 陽毬のそばには、お姉ちゃんである陽留愛がしっかりついてるからね!」
     陽留愛だってどうしていいか不安なはずなのに、気丈に明るく振る舞ってる。 陽留愛や陽毬が苦しんでるのに、ガキの頃から一緒にいたオレが放っておけるはずがないんだよ。
    「賢司、勉強もだが少し休んだらどうだ? ここには陽留愛だけじゃない、私と朝寧もいる。あまり寝ていないのは顔を見ればすぐにわかる」
     そうめんをすすりつつ、友奈の声のトーンは至極真面目だ。
     友奈と出会ったのは中学に入学してからで、こいつはそのときからあまり変わらない。 真面目で努力家で、勉強も運動もお手のもの。 昔はよく――今もだっけか、陽留愛と馬鹿やって怒られたもんだ。
     仏頂面が基本だから一見するとわからないけどさ、誰よりも情が深いことをオレは知ってる。 じゃなきゃ、自分だって受験控えてんのにこんな田舎まで付き合ったりしねぇよな。
    「おい、何を笑っている。こっちは真剣な話をしてるんだぞ」
    「ああ、わかってる」
     本当に感謝してるよ、ありがとうな。
    「で、友奈……その肝心の朝寧はいつ起きるんだ?」
     陽毬のために敷いてる布団には、朝寧が横になってぐーぐー寝ていた。 昨日の昼過ぎくらいからだったか? 何度か頬を叩いたり、つねったりしたものの一向に目覚める気配がない。
     朝寧とは高校に入ってからの付き合いだが、こいつは不思議なやつだ。 普段は見ての通りよく眠り、たまに起きたかと思えばスッと話題の核心を突いてきたりする。
     人間離れしてんな、なんて感じることもよくあるが……やっぱり悪いやつには思えないんだよな。 高校3年間、楽しそうに過ごしてる所もたくさん見てきた。 不思議のひとつやふたつあったって、別に構わねぇさ。
    「平常運転……にしては、今回はちょっと長い?」
    「さすがにこれだけ眠り続けてると不安になるな。近くに病院なかったか?」
     陽留愛に同意して、友奈へたずねた。 箸を置き、友奈が少し考えるそぶりをみせる。
    「町医者のような小さな医院はみかけたが……それなら昼食後に私が連れていこう」
    「いや、脱力した人間は意外と重いぜ? オレがいくよ、帰ったらちゃんと休むから」
    「あ、じゃあ、あたしも賢司さんと一緒に」
    「陽毬は休んでなって! 賢司と朝寧が心配だったら陽留愛がいってくるから! ね?」
    「でも……」
     陽毬も病人扱いは嫌なんだろう。 気持ちはわかるが、もしまた倒れられるようなことになれば、朝寧とふたりを抱えるのは現実的じゃない。 それに、陽留愛とは話しておきたいこともある。
    「陽毬、ここで友奈と待っててくれるか? 朝寧が起きたら、みんなで町を見て回ろう」
    「……うん、わかった。わがまま言ってごめんなさい」
    「いいさ。オレ達に遠慮なんかしなくて。そりゃ毎回聞けるわけじゃないが、わがまま言われるのも嬉しいもんだからな」
     黒髪をくしゃくしゃに頭を撫でると、陽毬はくすぐったそうに首をすくめる。 かきあげた髪を、額が見える位置に手で止めた。
    「……昔はこんなふうに、おでこ出してたよな」
    「……ごめんなさい。あたし、その頃のこと覚えてなくって」
    「あ、いや、オレの方こそごめん。本当、悪かった」
    「もー! 陽留愛の妹にセクハラしないでくれる!?」
     無意識の行動を、陽留愛に救われた。 過去の話なんか、陽毬を傷つけるだけだってわかってるはずなのに。
     もし。 もし……陽毬が記憶を取り戻したら。 またあの頃のような笑顔で笑ってくれるんだろうか。

    ◇◇◇

     背中に朝寧をおぶって、馴染みのない商店街を陽留愛と歩く。 前に通ったときより人が多いのは、年末だからか。
    「その……ごめんね? 賢司」
    「おまえまで謝るなよ。陽毬のことなら、オレだって」
    「そうじゃなくて……依子のこと。陽毬が倒れたって、陽留愛が賢司に伝えなかったら――」
    「伝えなかったら、おまえを恨むぞ。……依子のことは、オレが甘えすぎてたんだよ」
     決して良い彼氏なんかじゃなかった。 認めたくなかっただけで、そんなことわかってんだ。 依子ならきっとわかってもらえるって、他を優先させることが多かった。 ろくに……構いもしなかった。
     でも本当は、オレだってさ。 オレだって、ふたりの時間をたくさん過ごしたかったよ。 もっと依子と一緒にいたかった。
     つまんねぇ性分してるよな。 結局は自分を変えられなかったんだ。
    「甘えてた? そうかなぁ……」
    「え?」
     横顔に目を向けると、陽留愛はなぜかムスッと頬を膨らませて、いかにも言いたくなさそうに続ける。
    「……賢司こそきっと、もう少し頼ればよかったんだよ。なんでもひとりで背負い込まないでさ。陽留愛が依子だったら……たぶんそう思う」
    「……そうか」
     オレのことよく知ってる陽留愛が言うなら、そうなのかもしれない。
     情けないが、今でもたまに考える。
     あいつがいなかったら――。 もし蒼介がいなかったら、オレにもやり直すチャンスくらい、あったんじゃねぇかって。
    「それで? 陽留愛とわざわざふたりきりになって、賢司はなんの話したいのかな? 愛の告白!? 彼女に振られて寂しい心を陽留愛はいつでも埋めたげるよ!」
    「いや全然ちげぇ。……|楝蛇《かがし》って人のことは信用できるんだろうな?」
    「ノリ悪っる! ……まあ、信用していいと思うよ。だって陽毬がうちに来るまで保護してくれてた人だし」
     陽毬に何かあったら連絡を、とその楝蛇さんは前々から双葉家に言伝てしていたそうだ。 こうして陽毬の故郷に近い町に宿を取ったのも、楝蛇さんの進言に従っている。
     故郷の空気に触れていれば、きっとよくなるからと。
     でもどうにもな、顔も知らない相手を頭から信用するってのは大丈夫だろうか。 陽毬のことを本当に心配してるのなら、顔くらい見せてもいいはずだ。
     そして陽毬のことで、もうひとつ懸念がある。
    「……陽毬が夜、たぶん宿を抜け出してる」
    「え……!? マジ?」
    「まじだよ。陽毬の靴、朝見たとき泥だらけになってた。散歩にしちゃ……どこ歩いたんだか」
     やっぱり陽留愛も気づいてなかったか。 出歩くなとは言わないが、夜中に誰にも言わず外出してるとなると話は別だ。 これは昼間のうちに睡眠とって、夜に備えていた方がよさそうだな。
     徐々にずり落ちてきた、朝寧を背負い直す。
    「……陽毬、遊びたかったのかな?」
    「夜更けにか? なんの遊びすんだよ」
    「でもさ、昔の陽毬なら――たぶん夜中でも遊びに出ちゃうよね!」
     子供の頃、田舎の山や川を駆け回っていたときの陽毬。 たしかにあの頃のあいつなら、たとえば今だってオレ達が止めてもついてきたに違いない。
    「元気だったよな」
    「賢司より泳ぎうまかったし、いたずらもよくしたよね!」
     人通りの多い商店街をバックに、憧憬が浮かぶ。 恋や進学に悩むこともなく、ただ毎日がひたすら楽しかった。
     語れば語るほど新たな思い出がよみがえり、いつまでも話題が尽きることはない。
    「――そういや一度さ、遊んでたときに、陽毬の兄貴が来たことなかったか?」
    「ああ――あった気がする! なんかめっちゃ陽留愛たちに怒ってた! 妹を取られたって思ったのかな」
     陽毬はどうして忘れてしまったのだろう。 親のことも……妹思いの兄がいたなんてことも、覚えてないのはなぜなんだろうか。
     あのとき分け入ってた藪の中みたいに、人混みが背の高い草木とだぶって見える。 そうそう、こんな感じの草を掻き分けて、陽毬の兄貴が――。
    「え……なんで、賢司くん……?」
     ハッと意識が引き戻されると、すぐ正面。 人の列の途切れた間から、こっちを見て突っ立っている依子と……蒼介がいた。




      [#ここから中見出し]『第82話 ざわつく心』[#ここで中見出し終わり]

     双葉さんと並んで目を見開き、ケンジくんは言葉も出てこない様子だった。 でも驚いたのは俺も同じだ。
    「なんで……ケンジくんが……?」
     ヨリコちゃんが呆然と呟いて、空気を変えようとしてか双葉さんがあわあわと身振りを交えて説明する。
    「ひ、ヒルアの妹がね? 近くに知り合いがいるからみんなで遊びに来てて! したらアサネがいつものお眠りモードだから散歩がてら? 外に出たら起きないかな〜って!」
     見るとケンジくんは、たしかにアサネちゃんを背負っているようだ。 顔は険しく、視線は俺とヨリコちゃんを行ったり来たりしている。
    「おっと。ずいぶん心配をかけてしまったらしいな。……悪いことをした」
     いきなりそんなことを口走ったかと思えば、マオの膝が一瞬、カクンと折れた。 前のめりに2、3歩進んで、辺りをキョロキョロ見渡すマオ。
    「あれー……わたし……。そっかー、買い物……」
     発言が曖昧だけど、少なくとも何をしていたかはわかるらしい。
     直後にケンジくんの背中から、アサネちゃんが勢いよく飛び降りる。 体操選手のように着地でYの字を決めたアサネちゃんは、目もとをごしごしこする。
    「あ、朝寧!? 起きたのかよおまえ、心配したんだぞ」
    「うむ。いつも気にかけてくれてありがたく思う。賢司に陽留愛よ」
    「謎の上から目線だよねまったく! まあ、アサネも起きたんなら……ヒルアたちはこれで――」
     アサネちゃんの手を引いて、気まずそうに反転する双葉さんを、だけどケンジくんは止めた。
    「待てよ陽留愛。オレはこいつらに話がある。依子が聞く耳もってくれないってんなら……蒼介、おまえだ」
     隈が色濃く浮き出た瞳は、憔悴しきった印象を受ける。 俺だって、ケンジくんとはいずれ話をしなきゃいけないと思ってた。
     見る者を不安にさせるようなケンジくんの姿に、ヨリコちゃんは何か言いかけて、口をつぐんだ。 たぶん……“大丈夫?”だとかそんな言葉でさえ、自分には言う資格が無いとでも思ってるんだろう。
     だから俺が話をして、納得してもらう。
    「ヨリコちゃんは、筋は通したはずです。ちゃんと別れ話を切り出した」
    「おまえにオレの気持ちなんてわかんねぇだろ」
    「わかりますよ」
     まじで痛いほどわかる。 だからケンジくんの行動を、みっともないなんて微塵も思わない。 弁明や反省くらいさせてくれって、俺なら泣きつくかもしれない。
    「俺だって最初はヨリコちゃんに振られたから。あのときは、ぜんぶどうでもよくなって……だから」
     歯を噛みしめて、ケンジくんが俯いた。
    「……オレと別れた理由が、おまえと付き合うためってんなら、まだ納得できるよ。でも実際は違った。オレもおまえも振られたんだよ、そうだったよな。だったらそれがなんで、今になって……!」
    「それは……」
     ヨリコちゃんに直接聞いたわけじゃない。 ないけど……。
     差なんて、ほとんどなかったんだと思う。 俺にはヨリコちゃんを追いかける時間があって、ケンジくんはそうじゃなかった。
     運だとか間だとか。 そういった要素で片付けてしまえるほどの違い。 だってやっぱり一緒に過ごす時間が長いほど、気持ちはその人に傾いていくものだと思うから。
     俺がそうだったように。
    「ケンジくん、俺は――」
    「なんかめっちゃ体冷えてきたー……はよ帰ろーぜソウスケ」
    「いま俺しゃべろうとしてただろ!? 空気読んでくれよ!!」
     信じられない思いでマオを睨みつける。 絶対にインターセプトする場面じゃなかった。
     ケンジくんが頭を振って、あらためて俺へ向き直る。
    「とにかくオレはな、蒼介――」
    「腹が減ったな。賢司よ、昼はコロッケがいい」
    「そうめんだよ朝寧ぇ!! 今まで寝といてちょいと神経図太すぎやしないか!?」
     アサネちゃんは半目でケンジくんを見上げて、アホ毛をぴょこぴょこ揺らしている。 あっちはあっちで大変そうだった。
    「け、ケンジ、あのね」
    「今度はなんだよ陽留愛!」
    「ユウナから連絡きて、ヒマリがちょっと調子悪いみたい」
    「なに!? ……そうか、わかった。急いで帰ろう」
     ヒマリ……? 双葉さんの妹の名前だろうか。 そういえば、妹さんの知り合いに会いに来たとか言ってたな。
     でもちょっと様子が不穏だ。
    「あの、大丈夫なんですか? 双葉さんの妹、調子が悪いって……」
    「おまえには――……いや、蒼介。おまえは、なんでここにいるんだ?」
    「俺は……その、家庭の事情っていうか。この先にある集落は、俺の生まれ故郷みたいなんで」
    「みたい? ……まあいいや、邪魔したな」
     それまで俯いていたヨリコちゃんが、意を決したように顔をあげる。 去っていくケンジくんの背中へ、声を張りあげる。
    「あたし……っ! あたしね、ソウスケくんのことが好き! 好きなの! だから……ごめんなさい……っ」
     一時のあいだ立ち止まって。 少し肩が震えてるようにも見えて。 そのあとケンジくんは背を向けたまま、片手を軽くあげて立ち去っていった。
     まるで自分のことみたいに胸が苦しくなる。 俺にとって恋敵だったケンジくんは、同時に尊敬する相手でもあった。 ただその後ろ姿を目に焼きつけて、ヨリコちゃんを一生大事にするって心で何度も誓った。


     お通夜のごとく静まり返ったバスの車内で、マオだけがひとり話し続けている。 もしかしてさっきの間の抜けた割り込みも、マオなりに気を使ってくれたのかもしれない。
     相づちを打ちながら、ふと気になっていたことをたずねる。
    「そういやマオさ。あの文集、四半的とか四肢断ちとか、どっから情報仕入れたんだ?」
    「はー? 情報? わたしら都市伝説創作部よー? あれ書いたときはねー、なんかめっちゃくちゃ眠くなってー。でもウトウトしてたら急にビビビー! ってなんか乗り移ったみたいになって……つまり天啓よー天啓!」
     バスの天井を見上げてマオは顔を輝かせている。
     乗り移ったって、アレ……定期的にマオの人が変わるのも、やっぱアサネちゃんが原因か? さっきケンジくんたちに会ったときのマオやアサネちゃんを見る限り、そうとしか思えない。
     アサネちゃんの中に何かいるのか、もしくはアサネちゃん自身の仕業なのか。 どんな存在かよくわからないんだよな。
     と、そのとき。 車内にいる俺たち3人のスマホが一斉に鳴った。
    「ショートメッセ……アサネから?」
    「んー? わたしのも。日辻に番号教えたっけなー」
     俺に届いたショートメッセージも送り主はアサネちゃんだった。 メッセージはひと言だけ。
    “蛇が来るぞ。心していろ”
     そう書かれていた。




      [#ここから中見出し]『第83話 どっちもどっち』[#ここで中見出し終わり]

     蛇が来る――。
     アサネちゃんから送りつけられたメッセージが頭から離れない。
     俺が夢や幻覚で見る蛇。 そしてアサネちゃんの忠告。
     ふたつの不吉な要素が合わされば、いやが上にも不安な感情は高まる。 こっちにはヨリコちゃんやマオもいるんだ。 確実に危険は回避しなければならない。
     バスを降りて実家へ向かう道すがらでも、緊張しながら辺りを注視していた。 十二分に警戒していた。
     ――なのに。
     その男性は、ごく自然にやわらかい物腰で、俺の意識の外からするりと入り込んできた。
    「こんにちは。もしや弓削……蒼介さん、ですか?」
     目を細めて微笑む、柔和な人相。 シワの深さから考察して40〜50代だろうか。 白髪混じりの髪をオールバックに撫でつけて、細身のグレーのスーツを清潔に着こなしている。
    「え……あ、はい」
     実家の玄関先で声をかけられ、思わず素直に返答すると男性は「やっぱり」と笑みを深くした。
    「家を使用した形跡があったもので、もしかしたらと思ったのです。それにしても……大きくなられましたね、見違えました」
     言葉通りに解釈すれば、普段からこの家に頻繁に出入りしてる人物ということになる。 そして俺のことも知っているらしい。
    「ソウスケくん、このひと……ほら、前に近所のおじさんが言ってた」
     ヨリコちゃんが俺の耳もとで囁いた。 ちょうど同じことを考えてた。
    「あなたが、楝蛇さんですか? この家……あの、勝手に入っちゃって、その」
    「たしかに現在の所有権は私にありますが、なに些細なことです。外は寒い。さ、お友達もご一緒に中へ入ってください」
     促されるままに、自分のものだと思っていた家へ「……お邪魔します」とあがる。
     楝蛇さんはテキパキとストーブを点火し、掘りごたつのスイッチを入れた。
    「エアコンの方がよかったです? どうにも私はこっちの方が好みでして。慣れですかね」
    「いや、俺も暖かくて好きです。ストーブも、こたつも」
    「ならよかった」
     にこにこと、楝蛇さんは笑みを絶やすことがない。 ストーブの上でやかんの湯を沸かし、それでみんなの緑茶を淹れてくれた。
     何を話せばいいんだろう。 聞きたいことは山ほどあるはずなのに、うまく言葉が出てこない。
     そんな折、楝蛇さんの方から口を開く。
    「蒼介さん……お気を悪くされたら申し訳ないのですが、私のこともしかして覚えておりませんか?」
     まあ、普通に会話してたら気づかれてもしょうがない。 とくに俺のことを知っている相手なら、返答にも違和感しかないだろうからな。
    「……こっちこそ悪いです。あなたのことだけじゃなくて、俺はこの家のことも、家族のことも忘れてて」
     楝蛇さんはしばらく俺をじっと見つめたあと、目を伏せて緑茶をすすった。
    「それも仕方ありませんよ。幼い蒼介さんが受け止めるには、あまりにも残酷な事故でした」
     事故……? 残酷って。
    「あの、教えてください! 俺の家族は、今どこに? どうなったんですか!?」
    「あなたのご家族は……あなたがまだ幼い頃に交通事故で亡くなりました。ご両親も、妹さんも」
    「そんな……っ」
     ヨリコちゃんが口もとを手で覆い、顔を歪ませた。
     交通……事故。 親も、妹も。
    「ぅぐ……」
     ズキリと頭に痛みが走った。 荒くなる呼吸を抑えながら、楝蛇さんにたずねる。
    「……幼い頃って、俺がいくつくらいのときですか?」
    「たしか、小学校にあがってすぐくらいでしたかと。妹さんは、よく蒼介さんに懐いておられましたね。……残念なことです」
     真っ白いもやが脳にへばりつき、もやの途切れを覗こうとすれば頭痛に見舞われる。 それでも必死に頭の中をクリアにしようと集中して、震える手がテーブルの湯呑をガチャンと突き倒してしまう。
    「ソウスケくん! 大丈夫!?」
     そうだ、いつか見た映像。 家族の団欒。 親父が、母さんが笑って、妹が悪態をついて。
     じゃあ、あれはなんだ? 妹はそんなに幼くなかったはずだ。 あの記憶も、俺が作り出した嘘っぱちなのか?
    「蒼介さん、少し横になった方がいい。私はもう帰りますが、みなさんはどうぞここでくつろいでいってください」
    「え? いいんですか? でもあの、宿泊費はお支払いします」
     俺の背中をやさしく撫でつつ、ヨリコちゃんが楝蛇さんに申し出た。 楝蛇さんは立ち上がり、スーツのしわを伸ばすと。
    「いいんですよ。私は蒼介さんのご両親と親友でした。勝手ながら蒼介さんのことも息子のように思っております。そのご友人であればなんの遠慮もいりません」
     目を細めて笑い、居間を出ていこうと背中を向ける。 俺は慌ててその背を呼び止める。
    「ま、待ってください! 本当に、事故なんですか!? 親も、妹もみんな死んだんですか!?」
     楝蛇さんは振り返らず、少し斜め上へ首を傾けた。
    「……蒼介さん。本当のところを言うと私はね、あれは事故だなんて思ってない」
    「ど、どういうことですか?」
    「あれは呪いですよ。“四肢断ち”のね。……みなさんも決してアレには関わらぬよう、お気をつけください」
     期待した答えとはまったく別の忠告を残して、楝蛇さんは家を出ていった。


     せっかく布団を敷いてくれたヨリコちゃんには申し訳ないけど、大丈夫だからと横になることを拒否する。
     居間に3人座り込み、新しく淹れ直したコーヒーを無言ですすっていた。 ちなみにストーブの上では、昼に町で買ってきた丸餅を焼いている。
     ちょっと頭を整理したい。
     四肢断ち――それはアサネちゃんやマオに度々乗り移っているアレのことだろうと思うんだけど。 色々と助言らしきものをくれたり、どこか憎めなかったりして盲目的に信じていた。
     けどもし危険な存在だとしたら。 楝蛇さんの言う通り、関わり続けていいんだろうか。
    「……あいつの言うこと、信じんのー?」
    「そういやマオ。楝蛇さんがいるあいだ、ぜんぜんしゃべんなかったな」
    「なんかねー。わたしはあんま、好きじゃない」
    「そうかな? あたしはわりと良いひとじゃんって思ったけど」
     俺も……印象は悪くない。 マオが楝蛇さんを嫌う理由がもう少し明確なら、うなずける部分もあるかもしれないけれど。
    「まーわたしのは、ただなんとなくって感じだから。あんま気にせんでいーよ」
     ……でも。 なんとなく嫌いだって言ってるのが、マオだから。
     楝蛇さんでも、四肢断ちなんてものでもなく、マオだからこそ俺はその直感を信じたい。
    「明日、村を回って楝蛇さんのこといろいろ聞いてみようと思う。ヨリコちゃんは、アサネちゃんに会う時間作ってくれないか聞いてもらえるかな」
    「おし、わかった! 探偵ヨリコの実力を見せるときがきたね!」
    「たんてー餅が焦げそうだから取ってー?」
    「あッッッづ!?」
    「ヨリコちゃん箸使わないと!」
     家族は死んだ。 どことなく現実感がないのは、心から信じきれてないからだと思う。 いないならいないで、ちゃんと納得のいくまで調べようと決めた。
     それがここまで付き合ってくれたヨリコちゃんやマオへの恩返しにもなると信じて――。
    「はーい、お餅にあんこ乗せたよー」
    「はー!? 餅つったらきなこでしょーが!」
    「ふつう砂糖醤油だろ……?」
     見ろよこのチームワーク。 無敵だろ。




      [#ここから中見出し]『第84話 これ死人が出るやつ』[#ここで中見出し終わり]

     朝から出かけた俺たちは、まずは役場を訪れた。 明日から年末年始の休みに入るという時期で、田舎ながらもけっこうなひとの多さだった。
     学生証を提出し、身分証が足りないためにあれこれと家族についての質問を受ける。 記憶にないものは答えようがないので、はぐらかしてなんとか戸籍謄本を入手する。
    「……それー、筆頭者がソウスケになってんね」
    「つまり、やっぱ親は死んでるってこと?」
    「いやー筆頭者が死亡しても、その欄は変わらんはずなんだけどなーたしか」
     じゃあ……どういうことなんだ? 本籍はこの村で間違いない。 マオによると、俺が結婚とかしない限りは戸籍の筆頭者には親の名が書かれてるはずだと。
     そうか、マオも家庭でいろいろあったから、そういう事情には詳しいのかもしれない。
    「ソウスケくん、そこ……楝蛇さんの名前があるよ」
    「……ほんとだ」
     ヨリコちゃんが指さした枠には、未成年の後見人として|楝蛇《かがし》|鏡也《きょうや》と記載があった。
     後見人ということは、マンションの家賃や学費の面でもお世話になってたんだろうか。 俺はなぜ、これまで疑問に思わなかったんだ?
     考えようとすれば、また虫の羽音みたいな耳鳴りが始まったので、ひとまずは置いておく。
    「いずれにしても、やっぱり俺には楝蛇さんしか接点がない」
     楝蛇さんが言っていた親や妹についても記されてない以上、もう一度本人に聞いてみるしかなかった。
    「あとね、さっきアサネから連絡あったけど……いまなんか忙しいらしくて“くれぐれも先走るなよ”って」
    「そっか、わかった。ありがとうヨリコちゃん」
     先走るなと言われても、俺はまだアサネちゃんを心から信用できるのか確証を持たない。 それに――。
     これは他の誰でもない、俺自身のことだから。
    「楝蛇さんについて、村で話を聞いてみたいんだ。……付き合ってくれると嬉しい」
     せっかくの冬休みをこんなことに費やしてしまって、申し訳なさから声も小さくなった。
     ヨリコちゃんの平手に背中をパシンと叩かれたあと、すぐに頭へやさしく乗せられる。
    「あたりまえじゃん。か、彼氏の大事なことなんだから。……大丈夫、あたしがついてるからね?」
     囁やきはじわりと胸に浸透し、不思議と不安な気持ちが薄らいでいく。 うなずく俺に、ヨリコちゃんはにひっと白い歯を見せて笑った。
     それまで考え込むように顎へ手をあてていたマオが、ふと顔をあげる。 めちゃくちゃ眉間にしわを寄せて。
    「いつエッチすんの? 昨日もしなかったじゃん」
    「見世物じゃねんだよ! あとそういうこと言うのやめて?」
     ヨリコちゃんが警戒しちゃうだろ。 初体験がどんどん遠のいてる気がする。


     次にやってきたのは、先日四半的や楝蛇さんについて教えてくれて、俺のこともある程度知ってそうだったおじさんの家だ。
     でかい四駆にスキー板を積み込んでるところだったおじさんは、俺たちに気づくと声をかけてくれる。
    「おお、蒼介くんか。こんにちは」
    「こんにちは。あれ、どっか出かけるとこでしたか?」
     おじさんは四駆に積んだスキー板に目を向けて、楽しそうに笑った。
    「毎年この時期は家族でね。それより、どうしたんだい? 海未ちゃんに――そっちの女の子は彼女? たーやるね蒼介くんも!」
     そういえばこのおじさんは、ヨリコちゃんのことをどうも妹と勘違いしてるようだった。
     彼女と思われたマオは、にやにやと勝ち誇った顔でヨリコちゃんを煽っている。 ヨリコちゃんは、マオに肘打ちをかましながらも苦笑いだ。
    「あの、俺の妹が……その、死んだ、とかいう話は聞いたことないですか?」
    「え!? 死んだってどういうことだい!? じゃ、じゃあそこにいる海未ちゃんはゆゆゆ、幽霊!?」
    「あーやっぱいいです! いまのナシで!!」
     これは非常に説明が難しい。 そもそもこのおじさんが、どれだけ深く俺の家族について知ってるかは未知数だ。
     俺は戸籍謄本に載っていた、楝蛇さんの本籍地の住所を伝えつつ居場所を探ってみた。
    「……楝蛇さんなら、こっちに帰ってきてるときはあそこだよ。ほら、山の上に見えるだろ?」
     おじさんが指さす上方には、木々の合間から大きな屋敷が顔を覗かせている。
    「あそこも不便な立地だろうに、神聖な場所だからね。定期的に住んで、きっと家を守ってるんだね楝蛇さんも」
    「神聖な場所?」
    「忘れちゃったかい?“四肢断ち”の呪いを鎮めるために、楝蛇さんが建てたお屋敷だよ。……蒼介くんのご両親も災難だったね。そうだ、うん……忘れた方がいい」
     ふいに飛び出た四肢断ちの文言に、背すじがビクンと跳ねた。
     さらにたずねようとするも、家族に呼ばれたらしくおじさんは「ごめん」と両手を合わせて家へ入ってしまった。 これから出かけるみたいだし、これまでかな。
    「……で? どうすんの、ソウスケくん。行くの?」
    「……行ってみよう」
    「マジかー。めっちゃ高くねあそこー?」
     たしかに。 タクシーでも通ればいいけど、こんな田舎で望むべくもない。
     やる気十分のヨリコちゃんを先頭に、俺たちは山へ臨んだ。


     山といっても、道は舗装されてるので危険なんかはない。 ただひたすらに道のりが遠く、傾斜もそれなりにきついだけだ。
    「はあ、はあ、ヨリコちゃん、大丈夫?」
    「はぁ、はぁ……まだまだぜーんぜん。てか下からは建物見えたけど、まわり木ばっかでどこまで登ったかよくわかんないね」
    「はひ……ひぅ……わたしの心配してよー……」
     そろそろ夕暮れが近い。 まだ先が長いようなら、いったん引き返そうかと考えたとき――木々が開けた。
     大きな鉄製の門は開け放たれていて、奥に2階建ての立派な建物がある。
    「わぁ……でか」
    「はえー……。こーゆー屋敷から脱出するゲーム、まえ可児さんがやってたなー」
     石造りの外壁からとてつもない圧迫感を受ける。 思わず西洋の吸血鬼だの連想してしまうそれは、古びた巨大な洋館だった。




      [#ここから中見出し]『第85話 夜が来る』[#ここで中見出し終わり]

     段差のある両開きの玄関扉では、ライオンを模したドアノッカーが威圧的な眼光を放っている。
     よく見たら、ライオンが咥えてる金属の輪っかはとぐろを巻いた蛇だった。
    「……趣味悪くね?」
     ヨリコちゃんに同意する。 柔和なイメージだった楝蛇さんとはかけ離れてるというか、名前的には合ってるけど趣味が悪いという感想は変わらない。
     てか喰われてるしな、蛇。
    「なーなーソウスケー。これ助っ人的なー? 呼んだ方がいいんじゃねーの?」
    「助っ人ってなんだよ。話をしにきただけだぞ」
     化物がいるわけじゃあるまいし。
     とはいえこんな田舎の隔絶された山奥は、日本の法が果たして届くのかなんて気にもさせられる。 殺されて、その辺に埋められて、口裏でも合わせられたら発見されないんじゃないだろうか。
     ……そんなわけないけどな!
     嫌なイメージを払拭して、ドアノッカーに手をかける。 けれどノックしようとした直後、扉は重たくガコンと開いた。
     扉の隙間から暗い影が差し、疑問に思って見上げる。
    「――ひ!?」
     男が立っていた。 黒く淀んだ切れ長の瞳でこっちを見下ろし、ただならない雰囲気を纏わせている。
     真っ黒な髪は炎のように逆立っていて、昔観たカンフー映画みたいなチャイナ服には、竹林に潜む白銀の虎が刺繍で施されてる。
     どう見たって普通じゃない。 無意識に、足が2歩3歩とうしろに下がった。
    「ウェイガン。私のお客様です、通してください」
     館の中から声がかかり、男が半身に少しだけ振り向く。 奥では、スーツ姿の楝蛇さんがにっこりと微笑んでいた。
    「ウェイガン……?」
    「……威と、鋼で|威鋼《ウェイガン》だ。どうぞ、中へ」
    「は、はあ」
     ウェイガンと呼ばれた男に間の抜けた返事をして、ヨリコちゃんとマオを振り返った。 ヨリコちゃんがへっぴり腰なのはともかく、普段は豪胆なマオでさえ困惑した様子で固まっている。
    「マオ……さっきの助っ人の話だけど」
    「もー! だから言ったでしょー!」
     声をひそめて怒鳴ったマオが、スマホをポチポチと操作する。 冗談のつもりだったんだけど、まじで助っ人のあてなんてあるのかよ。
    「だ、大丈夫だよふたりとも。ほら、見た目怖いひとほど良いひと率高めって聞くし」
     初耳だ。
     ウェイガンの風体は、俺から言わせてもらえばチャイニーズマフィアにしか見えない。 まあ本物のチャイニーズマフィアなんか見たことないけども。
    「どうぞ蒼介さん、ご遠慮なさらず」
     ふたたび楝蛇さんにうながされ、俺は覚悟を決めて館に足を踏み入れた。


     まず、エントランスホールの広さに圧倒される。
     正面には2階へつづく大きな階段。 左右に扉がいくつもあり、相当な部屋数であることが予測できる。
     壺や絵画など高価そうな美術品や骨董品もそれとなく配置されていて、俺のような庶民の興味を引きつける役割を存分に果たしていた。
    「すごいですね……」
     なにがすごいとも言えないけど、すごいとしか言いようがない。 あほみたいな俺の感想に、楝蛇さんはゆっくりとエントランスホールを見渡す。
    「ほとんどが戴き物ですよ。そんなつもりはないのですが、呪いを抑えてくれたお礼だと村のみなさんが」
     呪いっていうのは、つまり――。
    「四肢断ち。蒼介さんもその話が聞きたいのでしょう? お話しますよ、さあこちらへ」
     案内してくれたのは広い洋室だった。 応接室だとか客室ってやつだろう。 やわらかいカーペットを踏みしめ、ふかふかのソファへ腰かけると、すぐに女性がコーヒーカップを3つテーブルへ並べてくれる。
    「彼女はサユリさんです。私はたまにしかここへ滞在しないので、普段から住み込みで館を管理していただいてます」
     歳は20後半から30代くらいに見える。 しっとり濡れたような艶髪は、顔を覆い隠すかのごとくウェーブして垂れ下がっている。 痩せた体の背中は丸まり、せっかくのメイド服も猫背だと見栄えがあまりよくないのだと知った。
    「あ、ありがとうございます」
     ヨリコちゃんを筆頭に全員でお礼を言ったものの、サユリさんは無言で応接間を出ていってしまう。
    「申し訳ない、彼女は極度の人見知りなのです」
     やっぱりメイドはヨリコちゃんが至高だな。 今度また着てもらおう。
     コーヒーカップに口をつけ、人心地ついたところで楝蛇さんが話を切り出す。
    「では……どこから話をしましょうか」
    「あの、ある程度は。――大昔に女の子が、四半的でミスをして手足を斬り落とされた。それ以来、この地域で四肢断ちと呼ばれる呪いが蔓延した。……で、合ってますか?」
     楝蛇さんの細い目がうっすらと開かれた。 口もとは微笑をたたえたままだ。
    「よくお調べになったんですね。おおむね、その通りです」
    「てことは、本当にあった話なんですか?」
    「ええ……呪いは今もこの地に残っています。村へ住む人々に、大きなものから小さな不幸までばら撒き続けている。農作物の収穫に影響を及ぼしたり、仕事で怪我をしたり……ひどいものですと人が亡くなるような事故もあります。それこそ蒼介さんのご家族の事故は、四肢断ちの呪いであると断言します」
    「……それを、楝蛇さんは鎮めることができると」
    「微力ですがね。完全に呪いを消し去ることは、まだかないません」
     なんと言えばいいんだろうか。 正直、胡散臭さが半端ない。
    「なんかそれー、霊感商法みたいですねー」
     マオの言葉にギョッとして顔を見た。 ヨリコちゃんもなんか小声で戒めてるけど、マオは気にする風もなくへらへらとしている。
     怒るんじゃないかと様子をうかがうが、意外にも楝蛇さんはおどけたように両手を軽くあげた。
    「ま、村にいればいずれわかります。それより蒼介さん、もう外も暗くなる。今夜はここへ泊まっていかれては? 歓迎しますよ」
    「いや、でも……」
     ヨリコちゃんやマオと顔を見合わせる。 ふたりからとくに意見はなく、俺に任せてくれたのだと判断する。
     実際問題、外灯もない夜にあの長い坂をくだって帰るのはさすがに遠慮したいところだ。
    「じゃあ、その、お言葉に甘えさせてください」
    「もちろんです。話の続きは夕食のときにでも。――サユリさん、ゲストルームへご案内してもらえますか」
     直後、まるで部屋の前で待機してたんじゃないのかという早さでサユリさんが姿をあらわした。
    「…………」
     やはり無言で頭だけ軽く下げるサユリさんに続き、部屋を出る。
     廊下の窓から見える外は、空にぶ厚い雲が広がり、赤黒く陰っていた。




      [#ここから中見出し]『第86話 咎人』[#ここで中見出し終わり]

    「こんなところにいられるか! わたしは帰らせていただく!」
    「え!? なに急に、ソウスケくん帰んの!?」
    「いや帰らないよ。死ぬまでに一度は言ってみたいセリフがつい口に出ただけ」
     俺の説明に、ヨリコちゃんは難しい顔をして首をかしげる。 発作のようなものだと思って、どうか受け流してほしい。
     すると前を歩いていたマオがくるりと振り返り。
    「わたしが地下のボイラー室を見てくる。あんた達はぜったいここを動かないで!」
    「え!? なんでボイラー室? お湯出ないの!?」
    「さぁ……出るんじゃねー?」
     ヨリコちゃんは眉間にしわを寄せて、マオを怪訝な目で見つめる。 発言の意味を考えてるようだ。
     それにしてもひとりでボイラー室は危険だ。 しかも地下。
    「百パー死ぬぞ」
    「間違いないねー。凶器は斧でうしろからザックリだねー」
     洋館での様式美をマオと語っていると、ヨリコちゃんがこっちをうかがうような上目遣いで、そっと片手をあげる。
    「こ、この戦いが終わったら、お、おれ結婚するんだ……?」
    「おーがんばったじゃん青柳ー」
    「惜しいな。フラグとしては正しいけど洋館に絡んでないから65点」
     しかしほのかに顔を赤くしてまでノリに付き合ってくれるところが1億点。 なんてかわいいんだ。
    「結婚しようね! ヨリコちゃん!」
    「しないッ! なんかバカにされてる気がするし、ぜったいしないッ!」
     秒でプロポーズを断られ、もっと甘めの採点すればよかったと後悔した。
     こんな会話してる中でもサユリさんは黙々と歩を進め、やがて2階の奥の部屋へとたどり着く。
    「……こちらです」
     かしこまってドアを開けてくれるサユリさん。 初めて声を聞いた気がする。
     案内されたゲストルームも洋室で、大きめのベッドがふたつに化粧台やクローゼットなど、宿泊になんら不自由なさそうな設備はひと通り揃っていた。
    「ん? ベッドが……ふたつ」
     これは恋人同士である俺とヨリコちゃんが同衾する流れじゃないのか。 ドキドキしつつ部屋へ入ろうとしたところ。
    「弓削様はこちらへ。別のお部屋を用意してあります」
    「あ、ですよね!」
     そりゃそうだ。 未成年の男女を同じ部屋になんか泊まらせるはずがないだろ、常識的に考えて。
     2階は正面階段を中心にU字型となっていて、俺はヨリコちゃん達の部屋のちょうど向かい側へ案内された。
     端と端か。 まあ大声を出せば届く距離だと思うけど……。 あれだよな、ミステリだとあきらかにひとり部屋の俺が死ぬパターンだよな。
     いや、もうやめとこう。 楝蛇さんも善意で泊めてくれたんだろうし、こんなことばっか考えるのは冗談とはいえ失礼だ。
    「……弓削様。くれぐれも地下のボイラー室には近づかぬようお願いします。危険ですので」
    「も、もしかしてさっきの話ですか? 冗談ですよ冗談! もちろん近づかないです!」
     ていうか、ほんとに地下にボイラー室があるんだな。
     サユリさんはぺこりと会釈し、1階へとおりていったようだ。 ひとまず部屋のドアを閉め、ちょっと悩んだけど内鍵はかけないでおく。
     部屋の作りはさっき見たのと同様。 でもこっちにはクイーンサイズくらいのベッドがひとつ、でーんと鎮座している。
     室内で靴を履いているという違和感を解放し、俺はベッドに飛び乗った。 スプリングが弾み、やわらかいベッドマットに体が沈む。
    「おお……すっげぇ気持ちいいなこれ」
     あまりの心地よさに眠ってしまいそうだったんで、なかば無理矢理身を起こした。 話の続きは夕食のときって楝蛇さんも言ってたし寝るわけにはいかない。
     カーテンを閉めようかと窓に歩み寄ってみると、洋館と隣り合わせの建物が見える。
     なんの建物だろうか。 館よりも高くて、ここからだと横向きだし見上げてもよくわからない。
     暗い空に向かって伸びる塔のようでもあり、眺めていたら微かに耳鳴りがした。
    「なんだ……? なんで、俺は……」
     建物を見てると不安になる。 なのに目を離せない。
     止まない耳鳴りに頭痛も加わり、体がぶると震えた。 寒いせいかもしれないと、部屋のリモコンを操作してエアコンをつける。
     いっそう、耳鳴りが激しくなる。
     ふいに込み上がる感情があった。 だれに対してかもわからない怒りや、嗚咽がもれそうなほどの悲しみ。 それらがだんだん大きくなる羽音と共に、全身へ溢れかえってくる。
     わけがわからない。 頭がおかしくなりそうだった。 最近はこんなことなかったのに。
     俺はなんだ? なんなんだ? いったい俺はだれなんだよ……!
    「はぁ……はぁ……くそっ、ぶんぶんぶんぶんと――っ」
     クローゼットにもたれかかった次の瞬間、あっけなく膝が崩れ落ちた。
     視界を覆う白いもやの中に、いつかの夢と同じ、あの家族団欒の光景を見た――。

    ◇◇◇

     ――……体が、動かない。
     目を開ける。 辺りは真っ暗だ。 ただ、どこか室内にいるということはわかる。
     ひどく窮屈に感じて体をよじる。 俺は椅子に座っていて、両手を背もたれの後ろで縛られているらしい。
     ……なぜ? そしてここはどこだ?
     まるで理由がわからない恐怖に、じわじわ精神を蝕まれる。
     ヨリコちゃんは? マオは?
     コンクリートの床を踏み鳴らして、椅子をガタガタ揺らした。
    「――そう慌てないでください、蒼介さん」
     声が聞こえた方にハッと顔を向ける。 暗いからシルエットくらいしか視認できないけど、たしかに楝蛇さんの声だった。
    「どこから話しましょうか。長い話なのです。……戦時以前、ここら一帯に影響力を持った大地主がいました。楢木野剛志という粗暴な男が当主だったのですが、彼に逆らえるものは誰もいませんでした」
    「……話は、夕食のときじゃなかったんですか?」
    「なんでも気に入らない人間は崖から突き落として殺していたそうですよ? 怖いですねぇ。水車小屋を蒼介さんはご存知で? 遺体はすべてその水車小屋まで流れ着いて、それを村人が内々で処理していたそうです」
     俺の質問は完全に無視している。 だいたい俺が聞きたいのは家族と四肢断ちになんの関係があるのかって話で、楢木野なんたらとかいう人物はどうでもいい。
    「戦争が始まりました。さて、そんな厄介な男もガダルカナルに駆り出され、帰ってきたときには腕を1本失って傷痍軍人として扱われたようです」
     楝蛇さんはコツコツと靴音を響かせて、まるで子供へ読み聞かせるように語りを続ける。
    「当然、恨みもたくさん買っていた。以前のような勢いを失った男は、やがて村人に殺されたと聞きます。最後はさんざん自分が殺めてきた、崖から突き落とされて……」
     目前の黒い人型のシルエット。 その口もとが裂けて、笑みを形作ったかのように錯覚した。
    「趣味の悪い、話ですね」
    「面白いのはここからですよ? 平和が訪れたかのような村ですが、とある呪いが蔓延して混乱の極みに陥りました。いわく、楢木野剛志に殺された人間の祟りだと。実際にこの時期は、原因不明の病気や失踪、殺人など多くの被害が出ています」
     でもそれは、戦後の話なのだとしたら四肢断ちとは無関係だ。 本当に俺と関係ある話をしてるのか? 趣味の悪い話をするのが好きな、ただの変態なおっさんなんじゃ……。
    「その呪いも山頂に御社が建てられ、のちに終息しました。今度こそ村に平穏がもたらされたわけです。ハッピーエンドですね」
    「……まじで、なんの話だったんだ。ていうかこれほどいてくださいよ! なんでこんな――」
    「ところが、話はこれで終わりません」
     なんなんだこいつ、まじで。 俺の反応を楽しんでるような……どっちにしろ、まともな人間じゃないことはよくわかった。
    「殺された大地主、楢木野にはですねぇ、子飼いの愚連隊みたいな連中がいたんですよ。戦時中も各地でさんざん悪さをした筋金入りだ。その内のひとりが、ふと思い立ったんです」
    「……なにを?」
    「楢木野の死後に起きた呪いの件です。あれら一連の騒動を作為的に引き起こすことができれば、金になると考えた」
    「なるほど、クズですね。ていうかそれ、あんただろ」
     霊感商法だと見抜いたマオの言う通りだ。
     楝蛇さん――いや楝蛇はコツ……と足を止めると、今度こそはっきりくくくと笑った。
    「ええ……たしかに。お教えしましょう、そのクズの名は――|弓削《ゆげ》|壮吉《そうきち》……と言います」
    「……え……?」
     弓削……? 言葉の意味をうまく噛み砕けない俺に、楝蛇の追撃が冷酷に突き刺さる。
    「あなたの曽祖父にあたる人物ですよ、蒼介さん」




      [#ここから中見出し]『第87話 シックスセンス(青柳依子)』[#ここで中見出し終わり]

     メイドのサユリさんから夕食にお呼ばれして、マオと1階のダイニングルームへ向かった。
     中へ入ると広いテーブルがあって、正面には楝蛇さんが座ってる。 パンやサラダ、ローストビーフ等々が卓上に並ぶ姿は豪華……なんだけど。
     あたしは室内を見渡して、楝蛇さんにたずねる。
    「あの、蒼介くんは……?」
    「買いものがあるとおっしゃったので、ふもとの町まで車を出しました。ウェイガンが一緒ですし、すぐに戻りますよ」
     買いもの? そんなこと、蒼介くんからはひと言も――。
     あたしは取り出したスマホを操作する。 新着のメッセージがひとつ、蒼介くんのものだ。
    “町まで行ってくる。すぐ帰るから心配しないで”
     そこには楝蛇さんの言った通りの内容がつづられていたけど、やっぱりおかしくない? だってあたし達は昨日、町まで出かけて買い物してるのに。
     蒼介くんにメッセージを送ってみても、既読はつかない。 おかしい……おかしい。 あたしが送ったメッセージには、いつも大抵すぐに既読がつくはずだ。
     寝ているか、スマホを見られない状況なのか。 それか、もしかして。
     楝蛇さんが嘘をついてる?
    「どうしました? 料理が冷めてしまいますよ」
    「えっと、あたし……」
     蒼介くんもいないのに、素直に食事なんかする気になれない。 どうしようか迷ってたら、マオが進み出て椅子に座った。
    「なんしてんの青柳ー? はよトイレ行ってきな。わたしぜんぶ食べちゃうよー?」
    「は!? トイ――……そ、そうだね、ちょっと行ってくるね」
     トイレてッ!
     や、わかるよ? マオもたぶんおかしいと思ってて、探るためにあたしを行かせようとしてくれてるって。
     でもトイレてッ!! もっと他にマシな理由あったでしょ!?
    「……そうですか、では案内させましょう」
    「い、いえいえ大丈夫ですから! 場所わかりますから!」
     熱くなった顔は気にしないことにして、ダイニングルームを飛び出した。 後ろ手に閉めた扉へ背中をあずけて、ふぅと息を吐く。
     どうして? 楝蛇さんが嘘をついてるとしても、その理由まではわかんない。 でもきっと、蒼介くんは町には行ってない。
     ……なんだかすごくイヤな予感がする。
    「探さなきゃ……」
     町に行ってないならどこに――ううん、この館から出てない可能性だってあるよね。 蒼介くんがもし自主的に行動したなら、あたしが心配しないように行き先をハッキリ告げるはずだもん。
     ひとりうなずいて、まず2階の蒼介くんの部屋へ向かった。


    「蒼介くん? 蒼介くん!」
     部屋のドアをノックしながら名前を呼ぶけど、応答はなし。 ノブをひねったら、簡単にドアが開いた。
    「蒼介く――……いない」
     内装は、あたしやマオが借りた部屋とほぼ同じ。
     ベッドに近づいて、少し乱れたシーツに手のひらを置く。 ほんのりあったかい気がする。 それに室内には、ちょっぴり蒼介くんの匂いも残ってる。
     あれでも蒼介くんは服なんかの外見にはけっこう気を遣っていて、あたしは微かに爽やかなこの香水の香りが好きだった。
    「……どこ行ったんだよ……ばぁか」
     ふいに消えていなくなりそうな、そんな雰囲気の蒼介くんが思い出されて胸が苦しくなる。
     いつもあたしのこと考えてくれて。 笑わせてくれて。 好きとか、かわいいとか、まっすぐに言ってくれるから嬉しくて。
     あたしはたぶん、ずっと救われてた。 蒼介くんがいなかったら、もっともっと毎日が辛かったと思う。
    「あー……だめだ、こんなんじゃ」
     泣きそうになってる場合じゃない。 蒼介くんが大変なときなら、今度はあたしが助けにならなきゃ。
     顔をあげる。 窓の隙間から冷たい風が吹き込んできて、カーテンが揺れている。
     窓際まで進むと、視界をさえぎるような高さの建物が館に隣接してることがわかった。
    「おっきい……なんだろ、あれ」
     見上げていたら耳の奥でほんのわずか、ジジジと羽音? みたいに不快な音が聴こえる気がする。
    「なにをしているのですか?」
    「ひゃあ!?」
     背後の声に、腰が抜けそうなくらいびっくりして振り返る。 メイド姿のサユリさんが、ゾッとするくらい冷たい目でじっとあたしを見ていた。
    「あ、と。蒼介くんに貸してた充電器、置いてないかな〜って。なかったんですぐ出ますね」
    「……大事なお客様なのだと、楝蛇様よりうかがっております。ですが屋敷内であまり勝手な行動をされては困ります。今宵はとくに、腕によりをかけてお食事を準備させていただきましたので、よろしければ冷めない内に」
    「ご、ごめんなさい! いただきます!」
     頭をさげつつ部屋の外へ。 なんかめっちゃ怖かった。


     いつまでも2階にいるわけにいかないから、1階へおりたけど……やっぱりあの建物が気になる。 館の外観を思い返しても、正面からはこの屋敷の玄関にしか道は繋がってなかったはず。
     どうやってあの建物に行くんだろう? たとえば裏庭を経由して、とか。 あとは、もしかするとこの洋館の中にとなりの建物へ繋がる道があるのかも。
     まだ2階にいるはずのサユリさんの気配をうかがいながら、てきとうな扉を開けて中に入った。
    「ここは……書斎、かな?」
     大きな机に、革張りの椅子。 ガラス戸の本棚に目を引かれる。
     脳波……脳科学……難しそうな本が並んでいた。 あたしにはとても理解できそうにない。
     他にはこれといって変わったところもなく、ドアノブに手をかける。
    「……ん?」
     開かない。 ガチャガチャと何度もひねるんだけど、鍵でもかかったかのようにびくともしなかった。
    「え、なんで」
     次第にあせってきて、めいっぱい押したり引いたり悪戦苦闘していると。
     ――チリン。
     扉のすぐ外から、鈴の音が鳴った。 反射的にノブから手を離して、後ずさる。
    「……本当に困ったお客様ですね」
     サユリさんの声だ。 なんで、どうして。 まだ2階にいたはずでしょ?
     あたしが部屋に入ってまだぜんぜん時間はたってないし、足音も聞こえなかった。
    「おとぎ話や、怖い話を聞きませんでしたか? ええ、子供の頃にです。夜寝ない子や、いたずらばかりする子に親は聞かせるはずですよ。……ね、こんな怖い話を」
     チリチリチリチリチリチリチリ――。
     かき鳴らされる鈴の音に追い立てられて、あたしの背中が書斎の壁にぶつかる。 首すじの皮膚が、ぞわぞわと逆立つような感覚。
     なに? 怖い……なんか、ヤバい。 だれか助けを――。
     マオ――は楝蛇さんといっしょにいる。 あたしがメッセージを飛ばして不審な行動をとったら、マオもどんな目に遭うかわからない。
     他にだれか……だれか。
     必死にスマホを操作する手に、ひんやり冷たい何かが触れる。
    「ひ――」
     それは青白い腕だった。 後ろは間違いなく壁なのに、気づくと無数の腕があたしの両脇から伸びていて。
     髪や、首や、手足に巻きつくように食い込んで、壁へ磔にされる。
     恐怖でパニックになりながら、喉を振りしぼって絶叫しようと大きく開けた口までも腕に塞がれ。 最後は視界も奪われ、あたしの手からスマホが滑り落ちた。




      [#ここから中見出し]『第88話 その精神こそ(天晶賢司)』[#ここで中見出し終わり]

     日が落ちて、しばらくしてからの出来事だった。
     昨日から体調を崩して寝込んでた陽毬が、頭を押さえて呻くように苦しみはじめた。
    「賢司! 陽毬がまた……!」
     なんだよこれ、見てらんねぇ。 CTでも異常はなくって、痛み止めは気休めにもならない。 だから藁にもすがる思いでここまで来たっていうのに、症状はひどくなるばかりじゃねぇかよ。
     何が、じきに良くなるだ。 楝蛇とかいう奴のこと本当に信じていいのか? 陽毬を保護してたかどうか知らないが、未だに顔のひとつも見せない人間のことなんか。
     たまらず救急車を呼ぼうとスマホを取り出したところ、ふと陽毬が這いずるように布団を引き剥がす。
    「おい陽毬!? 動くなじっとしてろ!」
    「ぅ……賢司さん、あたし、行かなきゃ……」
     ふらつく陽毬の体を支えてやると、すぐに陽留愛が反対側の肩を抱えた。
    「行くってどこへだよ? どっちにしろ体調が良くなってからにしとけ」
     依然として顔色は悪いし、足もともおぼつかない陽毬。 こんな状態で外に出すわけにいかねぇだろ。 いかねぇ……んだけど。
     陽毬は汗でひたいに張りついた髪も気にせず、すがりつくように必死な目で訴えてくる。
    「お願い……行かなきゃ、だめなの。行かなきゃ、待ってるから……!」
     ともすりゃオレを押しのける勢いで陽毬は前に進もうとする。
     なんでそんな……。 どこに、何があるってんだ。
    「行かせてやれ」
     発言したのは朝寧だった。 こいつもさっきまで寝てたはずなんだが、いつの間にか立ち上がって腕組みなんかしてる。
    「無責任なこと言うなよ朝寧。もし途中で陽毬が倒れたりなんかしたら――」
    「だが、体調が不良な原因は医者でもわからんのだろ? ならば病気ではなく、根底は他にあるということだ」
     それは……前にオレも考えたことだ。 陽毬は変わった。 昔一緒に遊んだ記憶も失ってる。
     何かがあったんだ。 これだけ精神をすり減らして、人格まで変わってしまうような、何かが。
    「賢司、陽毬がそれだけ執着するんだ。本当に何か……解決の糸口があるのかもしれない。判断はおまえに任せるが、私はどこまででも付き合うぞ」
     力強い友奈の言葉に、陽留愛もぶんぶんと頷いて激しく同意を繰り返す。 望みを叶えることで、それで陽毬の状態が少しでも改善される可能性があるなら。
    「……陽留愛、手を貸してくれ。陽毬をオレの背に」
    「わ、わかった!」
     オレに迷いはない。

    ◇◇◇

     陽毬の指差しに従って、駅近くのロータリーまでやってきた。 停車してるタクシーが2台あって、どうやらそれに乗りたいらしい。
    「あれ? そういや朝寧はどこいった?」
    「さっき土産物屋に入るとこを見かけたが……」
     なにやってんだあいつは。 マイペースにも程があるだろ。
     背負った陽毬には毛布をかぶせてるとはいえ、夜の外気は相当な冷たさだ。 もう置いていっちまおうかと考えながら、苛々と朝寧を待ち続ける。
     やがて、こっちに向かって歩いてくるちっこい影を認めた。 朝寧は妙に長い、紙袋に包まれた棒状のものを肩に抱えている。
    「おう、待たせたな」
    「のんびり土産なんか買ってる場合じゃねぇんだよ! ちっとは状況考えて行動してくれ!」
    「そうカッカするな、必要なものだ。ほら友奈」
     朝寧から棒状のものを受け取った友奈が、ビリビリと紙袋を破いた。
    「む。これは……木刀じゃないか」
    「棒っきれを持てば強いだろ? おまえ」
     たしかに友奈は剣道の有段者だ。 だが……。
     友奈もオレと同じ疑問をいだいたのか、掲げた木刀を見上げながら朝寧にたずねる。
    「……必要になるのか? これが」
    「おそらくな」
     ハッキリと是正した朝寧の表情は、真剣そのものだった。
     朝寧は勘っつうか、未来予知というか、異常に感覚が鋭いときがある。 ここにいるオレ達には周知の事実だ。
     互いに顔を見合わせれば、全員に緊張が走ってることがわかる。
    「……前のタクシーにはオレと陽毬、陽留愛が乗る。友奈と朝寧はうしろからついてきてくれ」
     陽毬を後部座席に座らせ、隣には陽留愛が乗る。 オレが助手席に乗ったところで、タクシーの運転手がルームミラーを覗き込む。
    「あれ、いつもの女の子ですね? じゃあ行き先もいつもの場所で?」
     いつも? こっちきてタクシー乗るのなんか初めてのはずだ。
     いや……そうか、陽毬は夜に民宿を抜け出して、タクシーで移動をしていたのか。
    「その場所で構いません。お願いします」
     発車したタクシーの車内で、ぐったりと目を閉じて荒い呼吸を繰り返す陽毬。 オレと陽留愛は、そんな陽毬の様子を見守り続けた。


     ずいぶんと山道をのぼり、一軒の家屋の前でタクシーは停車する。 周りには田畑以外、本当に何もない。
    「……ここですか?」
    「ええ。いつもはもうちょっと離れた場所に停めるんですけどね。お嬢さん、調子悪そうだから」
     陽留愛がそっと陽毬を揺すり起こして、窓の外を確認させている。 すると陽毬がゆっくりと指をさした。
     広がるあぜ道の向こう、でもそこには暗がりにそびえる山しか見えない。
    「あっちは……ああ、もしかして楝蛇さんの館ですかね?」
    「楝蛇……!? あそこ、楝蛇さんって人が住んでるんですか!?」
    「そうですよ。でっかい洋館が建ってんですけど……そこに行けばいいんで?」
    「お願いします!」
     あんなとこに住んでいたのか。 陽毬が行けと言ってるんだ。 陽毬の現状と、無関係だとは思えない。
     上がり続けるメーターは極力見ないことにして、タクシーの運転手から色々な話を聞いた。
     楝蛇は村の名士であること。 毎年に一度、村の人を館に集めて説法のようなことを行っていること。 そしてその日以外は、館に人が訪れることを異様に嫌っている、と。
    「前にもお客さんを乗せていったことがあったんですが……めっぽう怒られまして。だから館よりけっこう離れたとこで停めちゃいますけど、構いませんかね?」
    「大丈夫です、行けるとこまでで」
     応じると、運転手はその時点でメーターを止めてくれた。 それから10分ほど走って、山道の途中でタクシーを降りる。
     2台分のヘッドライトが遠ざかると、辺りは墨を落としたような暗さになった。 時間帯は深夜に差し掛かろうとしている。 寒さも、タクシーに乗ったふもとの比じゃない。
    「陽毬、もうすぐ着くからな」
     再び陽毬を背負って、白い息を吐き出しつつ坂を登っていく。
     みんな無言だった。 冷たい風が辺りの木々をざわつかせるたび、例えようのない圧迫感に襲われる。
     いったいなんだろうな。 これ以上先に進みたくなくて、足がすげぇ重く感じる。 たぶん、ここにいる全員が同じ気持ちを味わっていると直感が告げていた。
     逃避の意味もあったんだろうと思う。 ふと振り返ってみると、遥か下の方で微かな明かりが見えた気がする。
     車……? こっちに向かってるのか?
    「賢司……!」
     陽留愛に呼ばれてハッと前を向けば、いつの間にかでっけぇ建物が目前に佇んでいた。
    「……立派なものだな」
     友奈の家も相当なでかさだが、そもそも日本家屋のお屋敷だからこことは様相が違う。
     これが、運転手が言ってた洋館か。 ここに楝蛇がいるんだよな。
     ただ、さっきから耳の奥がじんじんと疼くのが気になる。 なんだこれ、不快としか言いようがない。
    「なるほど、アレか。見えるか賢司?」
     朝寧が指し示す方を凝視すると、洋館の右斜め後方にうっすらと高い建物が浮かび上がった。 まるで蜃気楼のようで、言われなければ認識できなかったかもしれない。
    「あの建物が……なんだよ?」
    「ぶっ壊せ」
    「おまえ無茶ばっか言うんじゃねぇぞまじで!!」
    「っ!? 待て賢司、下がれ」
     切迫した友奈に制され、足を止める。 よく見ると館の正面扉の前に、誰か立っている。
    「……やれやれ。またガキか。楝蛇は何をやっている」
     男は黒髪を逆立てて、虎が施されたチャイナ服を着ていた。 少なくとも歓迎はされてないらしい。
     男は両手を後ろ手に組んでいるものの、いまにも飛びかかってきそうな危うい雰囲気を纏っている。 すくむ足を内心で怒鳴りつけ、手短に用件を伝える。
    「楝蛇さんに会いたいんです。陽毬も体調が良くなくて、中へ入れてもらえませんか?」
    「消えろ小僧。今すぐ背を向ければ見逃してやる」
     とりつく島もなかった。 男の切れ長の目を真正面から睨み返す。
    「陽毬が……会いたいつってんだよ。だから、このまま帰るわけにいかねぇ」
     男の体が左右にゆらりと、傾いた刹那――。 次の瞬間には、男の姿がほんの目前へと迫っていた。
    「え――?」
    「賢司ッ!!」
     何も見えなかった。 凄まじい衝突音が響いたのち、ようやく理解した。 男がオレに向けて放った拳を、横から飛び込んできた友奈が木刀で叩き落としたのだと。
     目線をすでに友奈へと移し、男が人間離れした跳躍を見せる。
    「くうッ!?」
     丸太みたいな飛び蹴りをかろうじてガードするも、友奈の腕が木刀ごと大きく弾かれた。 蹴りを放った男は、そのまま空中で身をひねって回転し。
    「――“|二針《アーヂェン》”」
     二撃目のつま先が、友奈のみぞおち付近にめり込んだ。
    「かは――……ッ!?」
    「友奈っ!!」
     陽毬を陽留愛に預け、吹き飛んで地面を転がる友奈のもとへ駆ける。 倒れ伏せる友奈。 そこへ向けて疾走する男の前に、滑るようになんとか割り込むことができた。
     でもその直後、男の拳が腹に丸々と突き刺さる。
    「ぅごえッ!?」
     ハンマーでぶっ叩かれたみたいな衝撃に、胃液を吐き散らしながら両膝を落とした。
    「賢司っ!? 賢司っ!」
     陽留愛の叫び声が聞こえる。
     なんだ……こいつは。 ホントに、マジで、なんなんだ……? なんでこんな化物みたいな奴を相手してんだ、オレは。
    「よせ! どいてろ賢司! おまえにどうこうできる相手じゃない!」
    「おまえにだって……どうこうできるようには、見えねぇよ……」
     ぜえぜえ死にそうな呼吸してる友奈を振り返り、そんな状態でもオレの心配をしてるのかと感心する。
     霞む視界で見上げると、チャイナ服の男がメキメキと巨大な拳を形作っていた。
     初めて受けるが、わかる。 これが殺気ってやつなんだろう。 この男はまじで、オレを殺す気だ。
     恐怖よりも先に、自嘲してしまう。 相変わらず学ばない、みんなにはバカだと笑われるだろうな。 自己満足に周りを優先して、彼女にゃ振られて、あげくこんな山奥で死にかけてる。
     オレは……間違ってたのかなぁ。 なぁ、蒼介……誰か……教えてくれよ。
    「何を恥じることがある」
     やけに力の込められた声は……朝寧のものだ。
    「おまえのような生き方は、もし、たとえ望んだところで、多くの者が成し得ない生き様だ」
     どこにいるか姿は見えない。 あいつ、ちっこいからな。
    「胸を張れ。誇っていい。その精神こそ唯一無二のおまえだ、賢司」
     視界が歪んだ。 嬉しいけど、もう今際の際だ。 体が動かねぇ。
     悔しいな。 オレにもっと力があれば、みんなを守れたかも、陽毬を救ってやれたかもしれないのに。
     男の拳が、瞬時に眼前まで迫って――。
     ――……目と鼻の先で、拳は止まっていた。 男の拳は、さらに大きな手でガッチリと受け止められていた。
    「……貴様……っ」
     憎々しげに吐き捨てた男と同様に、オレも目線を高く上げる。
    「NICE GUY。マニアッテ、ヨカッタ」
     外国人……?
     巨漢の男が、オレを庇うように立ち塞がる。 スタジャンに背負っているサソリの刺繍が、黄金色に輝いて見えた。




      [#ここから中見出し]『第89話 尾撃(可児紫乃)』[#ここで中見出し終わり]

     アタシもなぁ、別に多くを知ってるわけじゃねェ。
     でかい図体して、店の前で座り込んでたアイツに声をかけたあの日。 あれからまだ1年たらずだ。
     無口なヤツで、名前も名乗らねェし。 そのくせ帰る家なんかも無さそうで、動かねぇ。 しゃあねぇから適当に、愛車のエンブレムにちなんだアダ名をつけてやったんだ。
    「なァ……そうだったよな、スコーピオ」
     アバルト595、コンペティツィオーネのパワーウィンドウを全開にする。 クソ冷てぇ風と一緒に粉雪が吹き込んで、目を細めながらガキどもへ顎をしゃくった。
     ガキどもは困惑してんのか、スコーピオとチャイナ男を交互に見ながら館に駆け込んでいく。
     アイツらマオのダチかな? つーか肝心のマオがいねェじゃんかよ。 ったくメッセージでこんなとこまで呼び出す方も呼び出す方だけどさぁ、愛車かっ飛ばして来ちまうアタシもどうかしてんぜ。
     でもまぁ、ただでさえ誰かに助け求めるなんかしねぇマオがさ。 アタシを頼ったってんならさぁ……。
     ま、悪かねェよな。
    「――ぶえっくしょい!」
     鼻をすする。 クソ寒ぃ中、睨み合いを続けてやがる男ふたりを眺める。 風邪引く前に決着つけてくれっかな。
    「……馬鹿力だな」
     低く呟いたチャイナ男が手首を返して、スコーピオの腕を振りほどいた。 2本指を立てた片手を前に、もう片方は拳を握って背中へ。
     カンフーマンに対して、スコーピオのヤロウは構えもせず突っ立ってやがる。 仁王立ちってやつ。
    「ハッ、かっけェじゃんか」
     でもさぁ、やれんのか? スコーピオ。 用心棒的に雇っちゃいるが、ホントのところ役に立つのかアタシは知らねぇ。
    「筋肉などではどうにもならない力の差を教えてやろう」
     踏み込む速度は目で追えなかった。 一瞬で懐に飛び込んだカンフー男が、スコーピオの顔面を左拳で殴打してた。
    「――……ッ」
     顎に入ったか? スコーピオはたたらを踏みながらも大振りの右を返す。 カンフー男の膝がスコーピオの右腕を跳ね上げ、勢いのまま高く伸ばした足が後頭部を撫で斬るように打つ。
    「ガ……――〜〜ッ」
     ガクンと膝を落としたスコーピオのみぞおちに、カンフー男の拳が縦にめり込んだ。
    「これを“震打”という。覚えておけウスノロ」
     何がそんなに効いたのか、派手に喀血して完全に膝をつくスコーピオ。
     あーあー、ダメだなこりゃ。 素人から見たって力の差はありありとわかる。 カンフー男の言う通り、スコーピオにゃ荷が重過ぎる相手ってこった。
     踵を返すカンフー男の足を、けどスコーピオはがっちり片手でホールドした。
    「……愚かだな」
     ホントだよ、何やってんだ。 カンフー男は後ろ手に組んだまま、余裕の表情でスコーピオの顔面を滅多蹴りにする。
     鼻がひん曲がって、鮮血が飛び散る。 ひでぇな。 そこらの女子なら顔をそむけるような惨劇だ。
     アタシは愛車のハンドルを指で打ちつつ、じっとその様を眺めていた。
     無口で、本名すらも知らねぇ男だ。 まぁけどさ、1年一緒にいりゃそれなりの話もしたことあったよな。
     フィリピンのスラムで、ガキの頃から炭焼きしてたつってたっけ。 廃材から出る毒を吸って、安い賃金もらって。 そんな生活を抜け出したくて、ヤバい組織に入り込んで色んなことに手染めたって前に聞いたな。
     自嘲気味に笑ってたっけ。 なァ? そんでわざわざ遠い日本まで流れ着いたんだろ?
    「く……いい加減手を離せ肉ダルマがッ!」
     カンフーシューズがスコーピオの顎を蹴り上げ、白い歯が血飛沫と共に弾け飛んだ。 顔中血だらけになっても、なおスコーピオはカンフー男の足を離さねぇ。
     なぁ、もういいじゃねぇか。 マオに対する義理は果たしたろ。 散々苦労してせっかく日本に来たんだ、もうやめとけよ。
     カンフー男は狂ったみてぇにスコーピオを踏みつけてやがる。 でもその手は離れねぇ。
     まさかアタシへの義理とか言うなよ? アタシとオマエの間にそんなもんねェよ。 毎日適当に飲んで食って、つるんでるだけだよ。
    「こんなもん、ただの遊びなんだよ……そうだろ」
    「ちぇいさああああッッ!!」
     カンフー男の踵がスコーピオの腕へ叩き落され、ゴキリと嫌な音を響かせる。 アタシは愛車のドアを蹴っ飛ばした。
     雪が積もりはじめた地面を踏みしめる。 クソ寒ぃ。 カンフー男が一瞥くれるが、無視してスコーピオの元まで歩いていく。
     スコーピオの五指がぎりぎりと足首に食い込んで、カンフー男のツラにも余裕はなかった。 それ以上にスコーピオは虫の息に見えたけどな。
    「ぐぅッ! 離せッ! 離さんか貴様ぁッ!!」
     白い地面にびちゃびちゃと血溜まりが広がって、スコーピオは顔を突っ伏して微動だにしねぇ。
     冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで――。
    「いつまでやってんだスコーピオッ!! とっとと帰るぞッ!!」
    「――……OK、シノ」
     ずるりとカンフー男の足を引き込むようにして、スコーピオが上体をゆっくり起こした。 遥か後方に引き絞られた腕には、上着越しにでももりもりと隆起した筋肉がわかる。
    「ひ――離っ――」
     逃げらんねェよ。 サソリの毒は、一撃だ。
     鉄でもぶっ叩いたような轟音が響き渡って、カンフー男の体は綿みてぇに吹き飛んだ。 ずっと向こうまで転げてったヤツは、ピクリとも動かねぇ。
     それにしてもスコーピオの巨体は、肩を貸すのもひと苦労だ。
    「……ったくよぉ。もっとスマートにやれねぇもんかね」
    「……スマナイ。ショウブ……? ショウブン、ナンダ」
    「あ? 性分? ただのドMじゃねぇの」
     ほんの少し、スコーピオが微笑む。 久しぶりに見たな、そんな顔。
    「ほら、車に戻んぞ」
     スコーピオは引きずっても動こうとしねぇ。 目は、じっと後ろの館を見てやがる。
    「まさか行く気かよ。オマエさすがにその体じゃ……」
     黙って首を振るスコーピオは、説得に応じる気はなさそうだった。 たしかにマオのやつ、いったい何に巻き込まれてやがんだ? カンフー男といい、状況は普通じゃねぇ。
     ねぇ、けど……。
    「……はぁ、わかったよ」
     これも乗りかかった船ってやつか。 仕方なくスコーピオに肩を貸しながら、館へ向けて歩き出したとき。
     館の方から何か嫌な――虫みてぇな不気味な羽音が聴こえた。
    「ッ……シノ……!」
     足元がおぼつかねぇ。 なんだ、こりゃ。 頭が――……。
     アタシはもつれるように、スコーピオと雪の中へ倒れ込んだ。




      [#ここから中見出し]『第90話 当代随一(魚沼蓮士郎)』[#ここで中見出し終わり]

     ずいぶんと遠くへ来てしまった。 遠景に連なる山々を眺めて、真っ白い息を吐き出す。
     どうして僕は、こんなところへ。
    「まだ、ため息なんかついてらっしゃるの?」
     しかも隣にはこの人、|水無月《みなづき》|聖良《せいら》がいる。
     僕は彼女が苦手だ。 そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、水無月さんは深刻な面持ちでスマホを手に取る。
    「ええ……ええ、わかりました。では位置情報をもう一度早乙女さんに送ってください」
     スマホをコートのポケットにしまうと、水無月さんはあらためて僕へ向き直る。
    「青柳先輩の弟さんからまた情報をいただきました。ここからだと少し距離があるわね」
     ふぅ。と淡く息をもらし、冷たい風になびく黒髪をおさえる水無月さん。 能面のような、あるいは人形のような整った顔立ちは、でも何を考えてるのか僕にはよくわからない。
     青柳先輩から助けを求めるメッセージが水無月さんに届いたのは、昨日の晩だという。 獅子原先輩に誘われた合宿で僕も会ったことはあるし、今は弓削くんと付き合ってるって話も聞いた。 でも……。
    「み、水無月さんは、青柳先輩とそんなに仲が良かったの?」
    「……いいえ、プライベートのお付き合いはありません。けれどだからこそ、私を頼るなどという状況は一刻を争うものだと判断しました」
     言い分は理にかなっている。 だけどそれで、人はこうしてすぐに動けるものなのか?
     無駄足だったら? いや、たとえ本当に危険な状況だったとして、そこに身をさらす意味は? 水無月さんの損得勘定はどうなっているんだ?
     僕にはわからない。 水無月さんといると、なんだかひどく自分が冷酷な人間に思えてしまう。
    「魚沼くん。私は位置情報の場所へ向かうわ。でも、気になるところがもうひとつ……」
     水無月さんはそう言って、白い指先をまっすぐ一点に伸ばした。
    「……あちら。すごく嫌なものを感じる。あなたもわかるでしょう?」
     嫌な気配というのなら、バスを降りる前からずっと肌が粟立っている。 それが余計に気分を鬱屈とさせる。
     尋常じゃない。 こんなドが付く田舎に、いったい何があるっていうんだ。
    「……僕にできることなんか、なんにもないよ」
    「あなたは私を助けてくれた」
    「違う! そんなんじゃない。あれは、そんなんじゃないんだ……」
     コツ。と、バックル付きの革製のブーツが一歩、僕へと近づく。 思わずたじろぎながら、顔をあげる。
    「でも、あなたは今日ここへ来た。私の呼びかけに応じてくれた」
     スラッと長身の水無月さんは、揺るぎのない瞳で僕を見ていた。 やっぱり直視できずに、目をそらす。
    「そ、それは……だって僕は、君には逆らえないから」
    「コレのせい?」
     バッグから取り出された一冊の本。 その表紙が視界に入るだけで、はじまった動悸に胸を押さえた。
    「こんなもの無くたって、きっとあなたはここに来た」
     そんなわけない。 買いかぶり過ぎだ。
     まるで受け取れと言わんばかりに差し出された本から、僕はあからさまに顔をそむける。
    「そう……じゃあまだコレは、私が預かっておくわね」
     再びバッグの中へおさまった本を確認して、ホッと息を吐いた。
    「魚沼くん、あなたはこの禍々しい気をたどってください。私は青柳先輩のもとへ。それに……私とは別行動の方が、あなたも気が楽でしょ」
     最後、少しだけ寂しそうに目を伏せて、水無月さんは背を向ける。 僕は水無月さんの姿が見えなくなるまで、ただ呆然と突っ立って見送った。


     ひとりになった僕は、しかたなく山あいの歩道を歩く。
     冬景色の山はとても静かで、寒い。 どこか自分の心情を映したような光景に、嫌気が差してまた逃げ出したくなった。
     いつもそうだ。 僕はずっと逃げてきた。
     家から。 自分自身から。 水無月さんから。
     僕が望んだわけじゃない。 勝手に人生決められて迷惑してんだ。 って、そんな言い訳を続けていた。
     道が二手にわかれていて、僕は瘴気の濃い右へ進路をとる。 いやだ、行きたくない。 意思に反して、足は重いながらも勝手に動いていく。
     右手は鬱蒼と茂る木々。 左手に面した川のせせらぎは、もはや悪鬼の呻きにしか聞こえなかった。
     小さい頃は、よくこういった怖い場所に連れてこられてた。 当たり前だ。 そういう家系なんだから。 それがいやでいやで、僕は逃げ出したんだ。
     水無月さんはどうして僕なんか信用できる? 友達……というほど親しくはない。 彼女の視点では、たしかに僕が救ったことになるんだろうけど、それだけだ。 もし逆の立場なら、それだけで僕は相手を信用に足る人間だなんてきっと思えない。
     こんなんだから、まともな友達すら僕にはできなかったんだろう。 弓削くんは……いや。 水無月さんの言葉を借りるなら、プライベートな付き合いもないのだから、友達だなんて呼ぶのはおこがましいかな。
     だけど楽しかった。 都市伝説創作部も、文化祭も。 はじめて、自分を普通の高校生だと感じられて楽しかったんだ。


     やがて僕は|そこ《・・》にたどり着いた。 川べりの水路上に建っている、苔むした木板の小屋。
    「水車……?」
     破損した大きな水車が、稼働することもなく置物と化している。 多少の距離からでも蜃気楼のように外観が歪んで見え、みっともなく足がすくんだ。
     ああ、いやだ。 どうして僕は、こんなところへ来てしまったんだろう。 水無月さんの言葉を思い出す。
    “それでもあなたは、ここへ来た”
     僕は――弓削くんの友達じゃないのかもしれない。 けれど……そうだな。 たぶん、だったら友達になりたいんだ。
     水無月さんみたいな崇高な精神じゃない。 友達が、友達の大事な人が困っているのなら、きっと助けるのが当然なんだろうから。 本当は違うのかもしれないけど、友達のいない僕にはわからないから。
     そういうものを、望んだんだ。
     建てつけの悪い水車小屋の扉をガタガタと開く。 埃っぽい室内には、放置された石臼くらいしか目につくものはない。
     ただ、吐き気を催すような悪寒が全身に広がった。 憎悪が渦巻く、まるで負の感情の集積所みたいな場所だ。
     床の一部が蝶番付きの跳ね扉になっているらしく、どうも発生源はそこらしい。 一歩近づけば、半透明の腕が何本も、何本も、跳ね扉を通り抜けてにゅるにゅると伸びてくる。
     まぎれもなく|幽体《・・》だった。
    「ああ……ああ……こんなに、たくさん」
     幾本もの腕が僕の足に、腕に、首に絡まり、ギリギリと締めつけられる。 酸素が欠乏し、意識が遠くなる。
     思い出す、幼少の頃を。 何度も何度も、こんな怖い思いをした。
     現世と幽世の狭間にあるのが幽体であり、強烈な負を宿した幽体は人を襲うのだ。
    「が……ぐ……っ……」
     幽体には、理不尽にも決して人間からは触れることができない。 唯一の例外が、人が死の間際に触れていたもの。
     たとえば着ていた服や、もしボールペンを握りしめたまま亡くなったのなら、そのボールペンが。 それらの物品のみが幽世に引っ張られて、幽体に触れ得る対抗手段となる。
     そんなことばかり、教え込まされたっけ。
     僕は首に巻きついた幽体の腕へ|素手《・・》で触れると、ぶちぶちと引き千切った。
     退魔を祖とする家系に生まれ、幾人もの死に触れてきた。
     祖父の手を握り、祖母の手を握り。 叔母や親戚だけでなく、懇意にしている病院や老後施設にも連れていかれ、死の間際にいる人の手を握らされて。 その手から体温が失われるまで、ずっと、ずっと……。
     子供の頃から、ずっと、人の体温が失われる瞬間をこの手に感じてきた。
    「はあ、はあ……ははは」
     足や腕の幽体も払いのけると、弾けたように幽体が消えていく。
     いつしか僕の体は、道具なんてなくとも幽体を滅せるほどに幽世へ染まっていた。 当代をしてもっとも優秀な退魔師だと持て囃され、父も母も大層に喜んでいた。
     冗談じゃない。 ふざけるな。 僕は、僕は、そんなの望んじゃいなかった。
    「はは、はははは!」
     水車小屋の中を駆け回り、手当たり次第に腕を振るう。 絶え間なく出現する幽体を、現れたそばから滅していく。
    「はははははははははは!!」
     僕は怖い。 幽体に触れることで、自分が人間じゃないような気になって。 自分が自分じゃなくなるのがたまらなく怖くて。
     だから逃げている。
     いつまでも、どこまでも、この宿命から逃れるために。


     ――気がつけば、水車小屋の中にはもう、幽体は存在していなかった。 いや、微かに鈴の音が聴こえて、何体かはそっちに向かっていったようにも思う。
     ひとまず外に出てみると、辺りには夕暮れが訪れていた。
     空虚な心境で、手のひらへ視線を落とす。
     この手がもし、少しでも弓削くんや青柳先輩の役に立てたのなら。 ほんのわずかだけ、自分を肯定してもいいと思えた。
    「……こんな僕でも、友達になってくれるかい? 弓削くん」
     空に消えていく白い息を見上げ、また前を向く。
     さっさとバス停に戻りたい気持ちをおさえて、自分の意思で僕は水無月さんのあとを追った。




      [#ここから中見出し]『第91話 電子の羽(早乙女純香)』[#ここで中見出し終わり]

     PCの排熱と暖房で汗が流れる。
    『じゃあ早乙女さん、お願いね』
    「はい! まかせてください!」
     うちは巫女装束の袖をまくりあげた。 3台のキーボードに指を走らせ、自分を取り囲むように設置したモニターも逐一チェックする。
     やることは複雑だけど、やりたいことは明白だ。 水無月せんぱいのスマホを遠隔操作して、さらにそのスマホで現地に持っていってもらったドローンを操作する。
     スマホだとドローンを操作できる有効範囲はだいたい150メートル。 家の手伝いがあって現地まで行くことができなかったうちでも、ドローンさえ現場にあれば。
    「飛ばします!」
     ぐんぐんと地上が遠ざかって、空撮された洋館がモニターに映し出される。
     はえ〜ほんとに立派な洋館だ。 あるんだ、こんなとこ。 巫女装束なんか着てる純和風なうちにとっては、まるで別世界の建物。
    『……どう? 何か見えるかしら?』
    「えっと、外観はバッチリ! なんですけど……」
     夜が近いっていうのに、この館はそもそも明かりが少ない。 窓から漏れる光なんかも無くて、ドローンを近づけてみても中の様子はあんまりわかんない。
     ほんとにこんなところに青柳せんぱいや、弓削せんぱいがいるんだろうか。
     状況を伝えると、水無月せんぱいの返答までにちょっと間があいた。
    『そう……直接中を確かめるしかないみたいね』
    「え? 勝手に入って大丈夫なんですか!?」
    『車がある。外国の車かしら。この館の車にしては、なんだか乗り捨てたような感じね』
     ひとりごとのように呟く水無月せんぱいは、あきらかにうちの話を聞いてない。
    「も、もっかい上から見てみます!」
     ドローンを上昇させる。 せっかく頼ってくれたんだから、何か役に立ちたい。
     それに……不謹慎なのかもしれないけど、うちの胸は高鳴ってた。 早い話、わくわくしてた。
     だってこんな山奥の、人里離れたとこに洋館があって、なんらかの秘密とかありそうで。 現場にいないうちだからこそ、お気楽に思えてるのかもしれないけど。
     わくわくしてるのも、役立ちたいのも、どっちだって嘘偽りないうちの本心だった。


     眼下と前方、ふたつを映したモニターのひとつに、洋館とは別の建物が映り込む。 塔のような建物は高く、てっぺんは吹きさらしの空間がある。
    「なんだろあれ……鐘……? せんぱい、そっちはどうですか!?」
    『暗いわね。それに人の気配を感じない。二階も見てみるわ』
     人の気配がないってことは、やっぱり青柳せんぱい達はいないんじゃ……。
     楽観的な思考をめぐらせていると、つづく水無月せんぱいの言葉にそんな思いは吹き飛んだ。
    『待って。だれか倒れて……獅子原先輩……?』
    「――っ!? マオさん!? マオさんがいるんですか!? 倒れてるってなんですかっ!」
    『落ち着きなさい。……大丈夫、眠ってるだけみたい』
     でもさっき倒れてるって。 つまりマオさんがいるそこは、ベッドなんかじゃないわけで。
     てゆうか、なんでマオさんが。 うちはそんなの聞いてない!
    「水無月せんぱい! 館の裏手に建物があるんです、そっち見れませんか!?」
     これは、ただ事じゃないと焦る。 水無月せんぱいに指示しながらドローン前方のモニターを注視する。
    「……やっぱり鐘だ。なんでこんなとこに」
     うちには見慣れた鐘。 除夜の鐘なんかでおなじみ、いわゆる|梵鐘《ぼんしょう》に似てる。
     梵鐘は寺にあると思われがちだけど、えっと神仏習合だとかたしかそうゆうので神社に鐘があるところも少なくないのだ。 子供の頃は、大晦日の寒い中、パパが鐘を打つ姿をずっと見てたっけ。
     ってそんなことはどうでもよくて!
     とにかく変だってこと。 釣り鐘は、この洋館にはあまりにも似合わない。 ウェディングベルみたいな西洋の洋鐘ならまだわかるんだけど……。
     それに――この、音……?
     ドローンを鐘の塔へ寄せれば寄せるほど、なんか虫が飛んでるような気持ち悪い音が――。
    「|純香《すみか》ちゃ〜ん! そろそろ休憩あがってもらっていいかい!?」
    「ちょっパパ!? 勝手に入ってこないでよ!」
    「えっと……ガンダムでも操縦してるの?」
    「いいから出てって!」
    「いや、あの、バイトの子達だけじゃ手が回らなくなって――」
    「いま忙しいの! すぐ行くから出てってってば!!」
     顔も向けないまま、不法侵入者を追い出した。
     てかなに? ガンダムって! たしかに全天周囲モニターみたいになってるけど!
    『早乙女さん? 大丈夫? 書斎の棚のうしろに、わざわざ隠すように裏庭への扉があったわ』
    「ほんとうですか!? こっちは大丈夫なんですけど、でもその、なんてゆうか、音が……」
    『音……? そうね、言われてみれば――っ!? これは……みんな、倒れて……』
    「え!? どうしたんですか!? 水無月せんぱい! みんなって!?」
    『くっ……うぅ……なるほど、音ね。不快だわ。早乙女さん、その音どこから出てるかわかる?』
     どこからって、ドローンで近づくと音が大きくなるわけだから……。
     うちは耳鳴りに耐えながら、釣り鐘をくまなく観察する。
    「あ……あった……!」
     鐘の上部に拡声器のようなものが取りつけられていた。 鐘の音を響かせる目的であんなことはしない。 だとしたら。
     試しにドローンを寄せると、羽音が大きくなる。
    「うぐ……! やっぱ、これだ……っ!」
     まるで耳奥に虫が侵入したかと勘違いするほど羽音がゾワゾワとまとわりつく。 うまくドローンの高度が保てない。 なんで!? 有効範囲には余裕がまだあるはずなのに!
     気持ち悪くて、汗が流れて、はしたないけど|緋袴《ひばかま》を捲りあげて足を丸出しにする。 |足袋《たび》も脱いで、足の爪を立てるように畳へ食い込ませた。
    「あと……ちょっと……っ!」
     そのとき、羽音に混ざって微かに鈴の音がチリンと聴こえた。 モニターにいきなり白い|もや《・・》がかかって、目を凝らしてみると。
    「――ひッ!?」
     白いもやが苦しげな女性の顔を形作って、うちは後ろ手をついてモニターから離れる。 女性だけじゃなくて、おじさんも、子供の顔も。 何人も何人も、みんな一様に苦しそうに、悲しそうな表情をモニター越しに映す。
     まぼろし……なんかじゃない。 これは、ほんもののオカルトだ。
     信じてなかった。 だからこそ、マオさんや都市伝説創作部のせんぱい達の話が面白かった。 だってこんなの、非科学的で、説明つかなくて。
     でも――いずれは。 いつかはオカルトだって、科学的に解明できるはず。 うちは、自分のドローンを信じる!
    「邪魔しないで! あと少しなんだからっ!」
     太ももを強く張って、涙目でパソコンにのぞむ。 真っ白なもやをドローンで突っ切って、鐘めがけて一気に直進する。
    「いっけぇぇぇぇぇッ!!」
     ドローンの本体ごと拡声器にダイブした。 プロペラがガリガリと拡声器を削ると、強烈なハウリングが鼓膜を襲った。
    「ゔゔゔぅぅ――……ッ!!」
     しばらくして、静寂。 畳の部屋には、横になったうちの息遣いだけが響いてる。 モニターもすべて真っ黒で、もうなにも怖いものは映してない。
     やっ、た……? 拡声器壊せたの?
    「あ。……せんぱい! 水無月せんぱい! うち、やりました! そっちは大丈夫ですか!? 裏庭は――」
     水無月せんぱいの返事はない。 何回呼びかけても、あの透き通るような声は返ってこなかった。
    「せんぱい……? 水無月せんぱいっ!!」
    『……あらあら、どうして起き上がるのでしょう? もっと怖い思いをしますよ』
     え、だれ……? スマホが知らない女の人の声を拾っている。
    『ほう。怖い思いか。たとえば、どんなだ?』
     こっちも知らない女の子の――いや、ええと、覚えがある。 前うちにきて、よく眠ってた……たぶん、日辻せんぱい、だったっけ。
    『うふふ、ほうらご覧なさい。呼び寄せたのです、水車小屋から。かの厄災――四肢断ちを』
    『……これが四肢断ち? やれやれ、ずいぶんと安く見られたものだ。不本意だが、教えてやろう』
    『何を――……。なに……? なん……っ。――な、なん、だ……? おまえはっ!? なんだ!? 誰なんだ!?』
    『これがほんとうの――こわいもの。だよ』
     鼓膜をつんざく絶叫に、思わずスマホを手放して耳を塞いだ。 細かくカタカタと全身が震えてた。
     うちにはよく、わからない。 わからないけど、せんぱい達の役にちょっとは立てたんだろうか。
     もし、そうなら。
    「……ほめてくださいね……マオさん……」
     意識してなかった疲労がどっと押し寄せてきて、うちは子供みたいに丸まったまま眠りに落ちた。




      [#ここから中見出し]『第92話 罪深き恋人報告(双葉陽毬)』[#ここで中見出し終わり]

    “――起きろ。次はおまえの番だぞ”
     そんな声が聞こえた気がして、あたしは目を覚ました。
     すぐに閉じそうになるまぶたをこすって、辺りを見渡す。
    「ん……外……?」
     背後には知らない大きな家。 ふらふらと立ち上がって、目を前に向けると高い塔みたいな建物があった。
     ここ数日ずっと続いていた耳鳴りがいつの間にか治まってる。 不思議と……どこか懐かしさを覚えながら、あたしは引き寄せられるように目前の建物へ歩いていく。
     スチール製のドアに鍵はかかってなかった。 おそるおそる開いてみると、中はとても暗い。 そしてやっぱり、郷愁にも似た、過去を懐かしむ気持ちになる。
     どうしてこんな暗闇に、あたしは安堵なんてしてるのだろう。
     ごく自然に、思い出と連動した記憶がよみがえる。 脳のその部分にアクセスすることを、まるで壁のように阻んでいた耳鳴りが消えたから。 そうなのかもしれない。
     真っ暗闇でひとり、目を閉じた。 まぶたの奥に、かすかな光が差した。
     それは、あたしのとても大切な――。


    “さみしくないか? |海未《うみ》”
    “だいじょうぶ。兄ちゃんがいるから”
     幼いあたしは、そう言って兄の手を握った。
     月明かりが差し込む殺風景な部屋で、ベッドを背に並んで座って。 部屋も床も冷たかったけど、繋いだ手だけは温かかった。
     児童養護施設での消灯後は、いつもこうして兄妹ふたりで寄り添ってた。 とくに辛い思いはしてない。 言葉の通り、だって兄ちゃんがいたから。
     事務的にお仕事をこなす職員さんとも大きなトラブルはなくて。 ただ、あたしが泣きわめくから就寝のときは兄ちゃんと同じ部屋で眠ることを許されてた。
     物心がつく前の話だから、施設でどう過ごしてたかはあまり思い出せない。 お絵描きをして、食事の前にお祈りをして、兄ちゃんと手を繋いで眠る。 覚えているのはそれくらいだ。
     大きな転機は、施設をひとりの男の人が訪ねてきたとき。
    “はじめまして。蒼介くん、それに海未ちゃんだね”
     男の人は柔和に微笑んで、あたし達ふたりに“新しい生活を始めよう”と、そう言って手を差し伸べてきた。 施設の職員さんも“手続きは済んでるから”って。
     あたしと兄ちゃんは、何もわからないまま知らない田舎の家へ住むことになった。
     でも。
    “――その汚らしい身なりを整えろ。おまえ達には、弓削家の格式というものをまず叩き込んでやる”
     やさしい笑顔の男の人はすぐにいなくなって、あたし達をゾッとするような冷たい目で見下す男が、養父となった。
     それは……たとえば獲物を狙うときの蛇みたいな目で――。


    「何も、思い出すな」
     ハッとなって、俯けていた顔をあげる。 暗い部屋に、スーツ姿の男性が立っている。
    「……楝蛇、さん?」
     コンクリートの壁に寄りかかった楝蛇さんは、眉間にしわを寄せて脂汗を額に浮かべていた。 ゆっくりと体を前に、ふらつきながらもあたしへ手を伸ばしてくる。
    「いま……すべて忘れさせてやる」
     あたしは本能的にその手を避ける。 緩慢な動きの楝蛇さんから距離を取ることは容易かった。
    「忘れさせるって、どういうことですか」
     あの耳鳴りみたいな現象に、あたしの記憶は狂わされていた。 だけどもう遅い。
    「あの家は、本当に厳しかった。反抗も、弱音すらも許されなかった。叩かれて、髪を引っ張られて、外に投げ出されて。兄ちゃんとも別々に過ごさなきゃいけなくて、毎日が辛くて、辛くて」
     思い出した弓削の家での生活。 慰霊のための神事だとか言っていたのは覚えてる。 厳格な躾だなんて、そんなレベルはとうに超えてた。 その日の気分で、腹いせのように暴力を振るわれた。
     ……ううん、でもまだ。
     こめかみに指をそえる。 なぜか記憶には齟齬がある。
     弓削の家で過ごした時間は苦痛だった。 けれどあたしには確かに、暖かな家族団欒の光景が脳裏に残ってる。
     居間でみんなで……お父さんお母さん、兄ちゃんと一緒に笑って過ごした記憶が。 そんなに前の話じゃない。 あたしは中学生で、陸上部の話をみんなに聞かせたりして――。
    「思い出す必要などない!」
     いっそう険しい顔になった楝蛇さんから逃げるように、目についたドアを開けて中へ飛び込んだ。 後ろ手にドアを閉め、弾む息を整える。
     そういえば、この建物はなんなんだろう。 さっきまでいた部屋よりもここは暗くて、見上げると天井が吹き抜けになっているらしかった。
     おぼつかない足取りで前に進みながら、はるか高みに何があるのかと目を凝らす。
    「……よう」
     ふいに呼びかけられて、驚きのあまり肩が跳ねあがった。 真っ暗闇の部屋に、誰かいる。
     少し慣れてきた目で怖怖と確認すると、部屋の中央には椅子があった。 その人は椅子に縛りつけられてるようで、そんな状態なのにあたしを見て微笑んだ。
     ひどくやつれて、衰弱した顔で、なのにあたしを安心させるためだけに笑ったのだ。 あたしにはそれがわかる。 ぜったい、わかるんだ。
    「……さみしい思いしてないか? 海未」
     どうして……。
     もっと早く思い出さなきゃいけなかった。 忘れるなんて許されないことだった。
    「昔話したの、覚えてるか? ……兄ちゃんさ、彼女できたぞ。おまえはできるわけないって言ってたけど……どうよ、すげぇだろ」
     あたしはコクコクと何度も頷いて。 歪んだ視界の真ん中に、兄ちゃんを今度こそしっかり捉えた。




      [#ここから中見出し]『第93話 必然のボイラー室』[#ここで中見出し終わり]

     妹が――海未が、縄をほどいてくれた。
     黙々と作業する海未と何度か目が合ったものの、なんというか、こう……照れくさいような感じがして言葉は交わさなかった。
     いつかは双葉さんと瓜ふたつだなんて評してしまったけど、なんのことはない。 似ても似つかない妹の顔が、あのときの面影を残したなつかしい顔が、俯きがちに微笑んでいる。
    「はい……これで、よし。解けたよ……えと、兄ちゃん」
    「お、おう。その……ありがと」
     聞きたいことは、そりゃいっぱいある。 これまでどうしてたんだ、とか。 学校にはちゃんと通えてるのか、とか。 どういう経緯で双葉さんの妹に。
     だけど今じゃなくていい。 生きていてくれただけで、俺は……俺の家族が、こうしていてくれただけで……。
    「みんながね、ここまで連れてきてくれたんだよ。お姉ちゃん……陽留愛さんや賢司さん、友奈さんや朝寧さんみんながあたしを守ってくれた」
    「そうか……盛大にお礼しなきゃな」
     俺がいなくても、海未は寂しい思いをせずに済んだんだな。 感謝しかない。
    「兄ちゃん、立てる?」
    「大丈夫だ。今はとにかくここを出よう」
     俺もいろんな人に助けられてここまで来た。 いっしょに行動していたヨリコちゃんとマオがともかく気がかりだ。
     控えめに差し出された手を、俺は俺でためらいながら握る。 暗闇にも目が慣れていたから、視線を外しつつも笑みを浮かべる海未の顔がはっきりとわかった。
     照れてんだよな。 俺もだけど、でも嬉しかった。
     妹に肩を借りて、部屋のドアまでふたりで歩いていく。 ドアを開けた先には、楝蛇が立っていた。
    「どこへ行こうというんですか、蒼介さん」
     記憶は取り戻した。 せっかく唯一の家族と再会できたんだ。 水を差すなよ。
    「あなた方の帰る場所はここです。この村以外には、無い」
     コンクリートの壁に寄りかかった楝蛇は顔色も悪く、荒く呼吸しながらも不快な台詞を吐いた。
     怯えたように服の裾を掴んでくる海未に、大丈夫だと頷いてみせる。
    「……なんで嘘をついたんですか? 弓削――壮吉だったっけ? 俺の曽祖父だなんて、そもそも俺も海未も弓削の人間じゃなかった」
    「弓削の人間ですよ、血は流れてなくてもね。慰霊の供物として、弓削はあなた方を引き取った」
    「供物……?」
     不穏な響きに眉をひそめた。 楝蛇は、下から睨めあげるような目つきを俺へ向ける。
    「あなた方は弓削にとって金脈だった。いや、金のなる木に育て上げたのだ。だから報いるべきだ。迎え入れてくれた家に、村に」
    「ふ――」
     思わず叫びそうになった言葉が、意外な人物によって引き継がれる。
    「ふざけんなよッ!!」
     激しく壁を叩きつける拳と、怒気を孕んだ声に場が静まり返った。
    「そんなクソみたいな理由で陽毬を――こいつらを縛っていいはずがねえだろ!」
    「け、ケンジくん……」
     呆然と名を呟いた。 なんでここにケンジくんが。
     そうか、海未を助けてくれてたんだよな。 俺はおまけだとしても、そこまで妹のために怒ってくれるんだな。
    「だいたい肝心の弓削家はどこにいんだよ! もういねえんじゃねえのか!? だとしたらこいつらをまだ解放しねえ理由はなんだ!? あんた、自分のために利用しようとしてんじゃねえのか楝蛇っ!」
     ここまで来てくれたのはケンジくんだけじゃない。
    「陽毬! 聞いて! ううん、陽毬でも海未でもいい! どういうことか、お姉ちゃんまだよくわかんないけど……でも、でも!」
     つづけて部屋に飛び込んできた双葉さんは、少し声を詰まらせたあと、ポニーテールを揺らして思いの丈を叫ぶ。
    「どんな事情があっても、陽留愛の大事な妹に変わりはないんだからね!」
    「お姉、ちゃん……」
     こんなに一生懸命な双葉さんの姿だけで、どれだけ妹を大切に思ってくれてたのかわかる。
    「これほど大勢を招待した覚えはないんですがね。――|威鋼《ウェイガン》」
     楝蛇の呼びかけに応じたのか、ずっと機をうかがっていたのか。 暗闇からぬっと姿をあらわしたウェイガンが、楝蛇に詰め寄ろうとするケンジくんの胸ぐらを掴み上げた。
    「ハァ……ハァ……ガキが……! もう容赦はせん」
    「け、賢司!」
    「陽留愛、下がってろ!」
     すさまじい形相でケンジくんを絞め上げるウェイガンは、腫れた顔面のせいで迫力が増している。 口から血も垂れてるし、ひどく消耗して見える。
     俺が知らない間に、なにかあったんだ。
    「ぐっ……! くっ、そ……!」
    「賢司さん!!」
     もがいて足を振り回すケンジくんの元へ、駆けていこうとする海未を引き戻す。
     俺が行かなきゃ。 思いきり体当たりでもかましてみようと、全速力で走った。
     けど、進行を遮るように立ち塞がった人影が、長い得物を一閃する。 木刀は激しくウェイガンの腕を叩き、解放されたケンジくんが床に転がった。
    「げほっ! た、助かったぜ友奈」
     勇敢にもユウナちゃんは木刀を正眼に構え、ウェイガン相手に一歩も退かない様相だ。 痺れた腕から目線を外し、ウェイガンがユウナちゃんを睨みつける。
    「ぬぅ……貴様……! ガキの遊びじゃねぇんだこっちは……!」
    「……私は、大事な人を守るために武道に邁進した」
     怒り狂ったウェイガンがユウナちゃんに飛びかかった。 ふっ――と呼気を吐いたユウナちゃんが、ウェイガンの拳をヘッドスリップで避ける。 そしてすれ違い様に、木刀がウェイガンの首もとを撫で斬った。
    「断じて遊びなんかじゃない」
     ウェイガンは気を失ったらしく、膝からその場に崩れ落ちた。
     みんな静まり返っている。 憂いの表情で木刀を下げるユウナちゃんは、とにかく格好よくて。 男女問わず人気があるのも頷けるほど痺れた。
     そして、静寂は突如としてやぶられる。
    「青柳ー! ひとりで逃げんじゃねーてめー!!」
    「いやだってムリムリムリムリ!!」
    「お、落ちついてください先輩方!」
     バン! と激しくドアが開け放たれ、ヨリコちゃんとマオが我先にと転がり込んでくる。
    「よ、ヨリコちゃん!?」
    「あ! 蒼介いんじゃねーかコノヤロー!」
    「蒼介くん!? 助けて助けて助けて!!」
     這いずるようにして、ヨリコちゃんが足にしがみついてきた。
    「ちょっ、落ちついて!? ともかく無事で――」
    「おばけっ! おばけが来てんのッ!!」
    「は?」
     俺の彼女はおかしくなってしまったんだろうか。 マオ共々俺の背後に隠れて、破れるくらいに服を引っ張りながらドアの方を見つめている。
     呪いだとかお化けだとか、さすがにオカルトが過ぎるだろ。
     直後になぜか水無月さんが後ろ向きに部屋へ入ってくると、俺は言葉を失った。 水無月さんが警戒するように本を掲げた先、たしかに|それ《・・》はいた。
     ゆらりと姿をみせたメイドのサユリさん、その頭上に半透明の物体が浮かんでいる。 それは苦悶の表情を浮かべる人の顔であり、何本もの腕が蓮の花弁のごとくウゾウゾとうごめいていた。
    「は……? え……?」
     さっきとは違った意味で硬直した。 うろたえるみんなを尻目に、水無月さんが普段の物静かな印象からは考えられない大声をあげる。
    「皆さんは絶対に動かないでください! ここは、私がなんとかします!」
     凛として水無月さんは言うけれど、なんとかってあんなもの相手に――。 とはいえ対抗策もわからず動けずにいると、サユリさんが手にした鈴をチリチリ鳴らした。
     突如、一斉に半透明の腕が動きだす。 たくさんの腕が、まるで雨のように水無月さんに降り注ぐ。
    「……力を貸して……! 魚沼くん……!」
     広げられた本によって、結界でも張られたかのように腕は水無月さんまで届かない。 だけど傍目にも多勢に無勢だった。
     歯がゆそうに、苦しそうに水無月さんが徐々に後退する。 俺の肩に添えられたヨリコちゃんの手が、ギュッと力が入るのがわかった。
     やっぱり、行かなきゃ。 やぶれかぶれに突進しようと、数分前と同じ行動を選択するも。
     暗い部屋に突然はげしい光がまたたいて、何かが弾けるような音が鳴り響く。
    「……え……」
     サユリさんが立ち尽くしていた。 膨大な量の腕も、気味の悪い顔も消え失せていた。
     ただ一度、手を払っただけですべてをかき消した魚沼くんが、水無月さんの肩を支えていた。
    「……遅くなったね、ごめん」
    「……いいえ。魚沼くん、やっぱりあなたは……」
    「よしてくれ。そんなんじゃない」
     水無月さんから離れて、魚沼くんがサユリさんへと一歩詰め寄る。
    「……あ、ありえない。こんな……日に、二度も……」
    「恐怖を感じてるんですか? ではもう、幽体と関わるのはやめるべきだ。でないといずれ――」
     魚沼くんが伸ばした手が、震えるサユリさんの肩へ軽く触れた。 耳をつんざく絶叫を残して、サユリさんが前のめりに倒れる。
     気絶……しただけだよな? 死んじゃいないよな?
     魚沼くんはこっちを振り返り、バツが悪そうに鼻を掻くと。
    「……はは」
     いやなんで笑ってんの!? こえーよ!
     いやいや、でも、魚沼くんと水無月さんまでまさか来てくれるなんて。 きっと俺のためなんだよな。
     なんかちょっといい感じに見えたふたりの進展は、感謝を込めてあとで聞くとして。 いまは――。
    「や、やだ! 離してよ!」
     ハッと顔を向けると、楝蛇が海未を羽交い締めにしていた。 暴れる海未の手が顔に当たり、楝蛇の耳から何か小さいものが転げ落ちる。
    「やめろ! 今さらこんなことしても無意味だろ!」
    「いえ、そんなことはありません。最初からやり直せばいい。最初から、また1からあなた方全員に施せばいいだけ」
     強引に海未をたぐり寄せながら、楝蛇は背後の扉を開いた。 コンクリートと同化したような色で見落としていたけど、あんなとこにも扉があったのか。
    「に、兄ちゃん!」
    「海未、待ってろ! すぐいく!」
     扉の向こうは地下へつづく階段があるらしい。 言葉通りすぐに追いかけようとしたところ、ヨリコちゃんから引き止められる。
    「蒼介くん! これ……」
     今しがた楝蛇が落としたものだ。 それはコードレスのイヤホンで、ヨリコちゃんは自分の耳に当てると顔をしかめる。
     受け取ったイヤホンを、俺も耳へ近づけてみた。
    「これは……」
     俺や海未はある種の洗脳状態だった。 たぶん間違いない。 今はあの不快な音も消えたけど、楝蛇はあれを使って乗り切ろうとしてるんだと思う。
     でもなんで、こんなものを、楝蛇が……。
    「蒼介、ここでケリをつけろよ。オレはもうとっくにキャパシティオーバーだ」
     ケンジくんやみんなの顔を見て、頭を下げた。 思わず泣きそうになってしまい、顔が上げられなくなった。 ヨリコちゃんがポンポンと肩を叩いてくれる。
     ここまでみんな協力してくれたんだ。 最後は俺が、しっかりしなきゃ。
     ちゃんとしたお礼は、またのちほど。


     先頭に立って、さらに暗い地下へと降りていく。 一歩、一歩、反響する靴音を聞きながら、考える。
     過去のこと、弓削の家、俺の記憶。 楝蛇はなぜ、俺や海未に固執するのか。
     一歩、一歩記憶を辿っていけば、自ずと答えに導かれるような気がした。 そして行き止まりの扉を、確信をもって押し開く。
     薄暗いオレンジの照明。 大きな円柱形のタンクに、制御盤。 太い何本ものパイプがけたたましく稼働している。
     ボイラー室の奥に、楝蛇に羽交い締めにされたままの海未がいた。 うしろから首を絡め取られてる海未よりも、なぜか楝蛇の方が苦しそうな顔をしていた。
    「に、兄ちゃん……」
    「海未、覚えてるか? 昔のこと。つらい思い出ばっかりだと思ってたけど……楽しい思い出、あるよな? 家族みんな仲良くしてさ、親父も母さんも、おまえも笑ってて……」
    「妄想ですよ、蒼介さん。脳波の揺らぎがみせた、存在しない記憶です」
    「いいやちがう」
     妄想や夢物語じゃない。 あれはたしかに存在した、俺の記憶だ。
     俺は楝蛇の目を、まっすぐに見据えた。
    「あんたなんだろ? ……親父」




      [#ここから中見出し]『第94話 氷の音(楝蛇鏡也)』[#ここで中見出し終わり]

    「そうだよ。俺は全部、思い出したんだ。家族の団欒も。あの……虫の音も」
     異常なほど見開かれた目を覗き込む。 瞳は不安定に揺らぎ、その視線は私を通り抜けた先の、虚空を見ているようだった。

    ◇◇◇

     はじめ目にした印象は、のちの弓削と相違ない。
     襟のたるんだ、色褪せた服はみすぼらしく貧相だ。 警戒心の強く浮かんだ瞳は可愛げもなく、兄妹共に子供らしさの欠片もない暗い表情。
     好き好んで、関わりたくもないガキだった。
    「はじめまして。蒼介くん、それに海未ちゃんだね」
     だがこれは仕事だ。 私は口角を吊り上げて目を細める。
    「さあ、新しい生活を始めよう」
     差し伸べた手を握ることもなく、兄は守るように妹を背中に隠し続けていた。


     弓削の家まで送り届けると、当主の|忠正《ただまさ》はふたりを別々の部屋へと押し込める。 部屋のドアには、内からは解錠できない鍵がかけられた。
     妹は泣き叫び、兄は激しく抵抗したが、忠正は力づくで黙らせた。
     まあ、世間に蔓延るのがこんな大人ばかりなら、警戒するのは悪いことじゃない。 私も含めて、な。
    「ここまでする必要はあったんですかね?」
    「不安と孤独が一番人を弱らせる。供物としての従順さ以外、|奴ら《・・》に望むものはない」
    「……なるほど」
     養子に迎えた、まだ年端もいかない兄妹を|奴ら《・・》ね。 別に意見などはない。 クズはお互い様ということだ。
     日本酒の盃をあおり始めた忠正から視線を外し、弓削家を後にする。
     現当主である忠正に実子はいない。 結婚はせず、内縁にあたる女もいないが、たまに町へおりて遊び程度に欲望は発散しているようだ。
     先代の残したシステムを有効に活用しているとは言い難く、現状の忠正は遺産を食い潰す豚にしか映らなかった。
     やけに身が震え、見上げると、空には暗く厚い雲が広がっていた。 間もなく始まった降雪が、山間の村を白く染め上げていく。
     どことなく息苦しさを覚えながら、私は村を眼下に山道を登っていった。 自然と落ち合う場所となっていた山頂の小さな鳥居には、凍るような外気よりも冷たい目をした男が立っている。
    「楝蛇。首尾はどうだ」
    「ま……しばらくは様子見ですかね」
     |威鋼《ウェイガン》に首を振って答え、鳥居の奥に佇む|社《やしろ》を見つめる。 祠と呼んでも差し支えない、ごく小さな木製箱のようで、控えめな外観からはそれが災いの元だとは想像もつかない。
     かつてこの村で起きた呪い、その元凶。
     弓削家の先代は呪いを利用し、富を築いた。 追手から逃げるようにたどり着いたこの閉鎖的な村で、呪いと弓削家について知れたのは幸運だった。
    「ふん。……|アレ《・・》の出番はしばらくなさそうだな」
     つまらなそうに呟くと、ウェイガンは崖下を流れる川をじっと見下ろす。
     戦後の村を襲った呪い。 忠正の父である壮吉は、村人の記憶にも新しい、その呪いで巧みに恐怖心をあおり、さらに古い呪いまで引っ張り出した。 四肢断ちだとかいう、一握りの年寄りしか伝え聞いてないような時代錯誤なもの。
     しかし詳細のわからない未知なる呪いは、村人に確かな恐怖を植えつけ、実子を供物と捧げた壮吉を信奉していくことになる。 忠正のひとつ下の弟は、壮吉により慰霊の生贄として処理されたのだ。
     金のために我が子すら手にかける。 今の忠正など比較にもならない邪悪さだが、そんな狂気が存在することを村人の誰も予測できなかった。
     忠正は無能だ。 ゆえに取り入ることは容易かったが、養子を取るよう進言したものの上手く活かせるビジョンが見えていない。
    「一応、準備だけは進めておいてください」
     |アレ《・・》もいずれ必要になるだろう。 いざとなれば忠正自身に使用して、傀儡に変えてしまえばいい。 逃亡者である私達がやり直せる、唯一の好機なのだ。
    「絶対に手放しませんよ」
     山脈の先――遥か向こうにあるはずの大陸を、しばらくの間眺めていた。


     時は淀みなく流れる。 相も変わらず忠正は酒浸りの毎日で、同じ小学校に通う兄妹を暴力で支配し続けた。 だが、人はどんな環境にも慣れていく。
     私は忠正を焚きつける名目で、週に一度は弓削家を訪れていた。
    「やあ、こんにちは。海未ちゃん」
    「楝蛇さん! こんにちは!」
     右目にできた青い痣に視線を送ると、妹は困ったようにはにかみながら、片手で髪を撫でつけて痕を隠す。
     こんな目立つ場所に暴力の痕跡を残して、いったいどういうつもりだあの馬鹿は。 軟禁まがいの事案が明るみになれば、計画が破綻しかねない。
    「よかったらこれ、お兄ちゃんと食べてね」
    「わあ……いつもありがとうございます! あっ兄ちゃん、これ楝蛇さんがね――」
    「海未に近づくな!」
     傷だらけのランドセルを背負った兄が、つかつかと妹の前に歩み出て私を睨め上げる。 顔中に出来た青痣は、妹の比ではない。
     歯を剥いて、威嚇するように。 それでいて怯えの色が浮かぶ瞳で。 悟らせまいと、火のような感情をあらわにして。
    「……さ、もう行きなさい。学校に行く途中で、分け合って食べるといい」
    「あ、あの……ごめんなさい、ありがとう!」
     振り返って何度も頭を下げる妹の手を握りしめ、兄は足早に私から離れていった。
     妹の方は徐々に気を許してきた節もあるが、どうも兄には嫌われているらしい。 まあ正しい判断なのだが、本質を見抜かれているわけではあるまい。
     妹以外の人間が全部敵に見えているのだろう。 あそこまで敵意を剥き出しにされては、少々やっかいだ。 その点を忠正に言い含めなくては。
    「――ああ!? わしのやることに口を出すな! 木っ端組織を追い出された分際で! 貴様はその鈍い頭を捻って、次の資金繰りでも考えろ!」
    「ですから何度もお話している通り、それには弓削の当主であるあなたが節度を持たなければなりません。あの兄妹は象徴です。ただそこにいればいい。昔のように人身御供を強制する必要はない」
     かつて壮吉が実際に息子を供物として捧げたおかげで、慰霊の説得力は十分に備わっている。 不必要な暴力はかえって疑念を招くだけだ。
    「ふん、今日は気分が悪い! それを拾ってさっさと出ていけ!」
     畳に投げられた札束を懐にしまい、忠正に背を向けた。
     今回は家の外に待機していたウェイガンが、低い声で呟く。
    「……もうやってしまうか?」
    「いえ……もう少し、様子を見ましょう」
    「チ。何年経っても辛気臭いこの村は性に合わん」
    「同意します。では愚かな当主に、助け舟でも出してあげますか」
     耳障りな蝉の大合唱にもいつしか慣れてしまった。 汗がぬるりと絡まった髪を掻き上げ、農作業に精を出す村人を眺める。
    「どうした?」
    「いや。何も」
     ネクタイを緩めると、熱気を含んだ風がそれでも多少涼しく感じられた。


     何度目の冬だろうか。 めずらしく、忠正は律儀に仕事をこなしていた。
    「やあ、海未ちゃん」
    「あ、楝蛇さん! いらっしゃい!」
    「これ。来る途中に頂いたものだけど、よかったら」
     ビニール袋に詰められた大量の白菜や大根、葱などを手渡す。 暇つぶしに農作業を手伝うこともあり、村人の猜疑の眼差しもいつしか受けることはなくなった。
    「いつもありがとうございます! そうだ、楝蛇さんもお夕飯食べていきませんか?」
     妹はセーラー服の袖をまくって、朗らかな笑顔を見せてくる。 重ねられた年月は、兄を中学二年生に、妹をそのひとつ下の学年へと押し進めていた。
    「そうだね。……それよりも、忠正――お父さんはいるかな?」
    「えっと……はい。書斎か居間に、いると思います」
     顔に痣を作るようなことは無くなったが、忠正の名は未だに暗い影を落とすようだ。 私は妹に礼を言い、忠正の元へ向かった。
     忠正は上機嫌だった。 しかし機嫌が良くとも行動に大差はない。 日本酒を豪快にあおっている。
    「週末は50名を超えたそうですね。私がお貸しした人材も機能しているようで、何よりです」
    「おお、あの暗い女な。霊を呼ぶなどと馬鹿げた話を、信じる村の連中も連中よ! わはは!」
     無知をさらして悦に入る、馬鹿はお前だ。 現実に幽体は存在する。 その上で、あの女は掘り出し物だった。
     実際に降霊出来るとあれば、呪いの信憑性は確実なものとして村人の脳裏に刻まれるだろう。 さゆりと名乗った女の出自は知らないが、恐らく碌な人生を歩んではいまい。
     つまり、似た者同士というわけだ。
    「……あーそうそう。奴がな」
    「はい?」
    「奴だよ、蒼介だ。あいつがめずらしく連れてって欲しい場所があるとぬかしおった」
    「ほう……いったいどこへ?」
    「山の|御社《おやしろ》が見てみたいとな。わしも鬼じゃない、快く承諾してやった!」
     どの口で語っているのか。 だが今日の忠正は本当に機嫌が良く、酒を飲む手が止まらない。
    「しかし、なぜ御社を」
    「さあな、供物としての自覚が出てきたのだろう。これも全てわしの教育の賜物よ!」
     実に意外な話だった。 付き添いを引き受けた忠正よりも、そんな願いを口にした兄が。 いまさらあんな場所に行って何になる。
     どうにも釈然としない思いを抱えたまま、その日は夕食を断って弓削家を後にした。


     後日、忠正が兄と交わしたという約束の日。 顛末が気になった私は、弓削の家を訪ねた。
     妹が淹れてくれた茶を飲みながら、ふたりの帰りを待つ。
    「……遅いな、兄ちゃん」
     相手はあの忠正だ。 薄暗くなった外を、窓越しに眺める妹の顔には、不安の色がありありと浮かんでいた。
     やがて妹の心配をよそに、兄が帰宅する。 忠正の姿は無く、ひとりだった。
    「お、おかえり! 外、寒かったでしょ?」
     駆けつける妹に空返事をして、兄はそそくさと靴を脱ぐ。
    「……忠正はどうしました?」
     さっさと自室に戻ろうとする兄の足が、ぴたりと止まった。
    「……さあ。どっかに行った」
    「そうですか」
     部屋に消える兄を見送って、私は玄関に向かう。
    「もう帰っちゃうんですか……?」
    「お兄さんの無事を見届けたからね。お父さんは心配しなくても大丈夫だよ」
     忠正の身など案じてはないかもしれないが。 大方、町の女のところにでも行ったのだろう。 兄をひとりで山に残し、それで帰宅が遅くなったのかもしれない。
     単純な忠正の行動パターンを脳裏に描き、ため息が漏れる。
     そして私の考えは、間違っていた。


     翌日も、3日経っても、1週間が過ぎても忠正は戻らなかった。 さすがに不審に思い、村や町で聞き込むが目撃情報は無い。
     再び弓削の家を訪ねる。 ちょうど玄関先で兄とすれ違うが、私を認識しているのか疑わしいほどの焦燥っぷりで、ぶつぶつとうわ言を繰り返しながら何処かへ去っていった。
    「け、警察に言った方がいいでしょうか? 失踪届とか、えっと――」
    「落ちついて。それより最近、お兄さんの様子はどんな感じかな」
     そわそわと家中を歩き回る妹をなだめ、居間に腰を落ちつかせたのち、尋ねた。
    「に、兄ちゃんは、相談してもなんかうわの空で。毎日どっか行っちゃうし。なんか……むし、とか呟いてて」
    「……虫……?」
     ともかく忠正の行方を知るためには、現状では最後に行動を共にしていた兄を頼る他ない。 警察への連絡はまだ絶対にするなと妹に言い聞かせて、その日は帰った。
     翌日は早くから弓削家の近くで待機した。 気温は低く、氷点下に達した寒さは体を芯から凍てつかせた。
     昼が過ぎたあたり、ようやく玄関に姿を見せた兄。 私は気づかれない距離を保ち、後をつける。
     ほどなくして大量の粉雪が降り注ぎ、静まり返った舗装路を急速に埋め立てていく。 すれ違う人もなく、サクサクと雪を踏みしめる音だけが耳に届いていた。
     兄は町へ向かうバス停を尻目に直進し、水車小屋へと歩を進める。 横手ではチョロチョロと川のせせらぎが、かろうじて静寂に抵抗している。
     水車小屋には入らず、兄は川べりまで降りていった。
     水車小屋……御社。
     かつての伝承、戦後の呪いの発端。 誰かに聞いた話だ。 忠正本人からだったか?
     戦前から戦中にかけて楢木野という豪族が、善人悪人問わず気に入らない者を崖から突き落としたという。 遺体は水車小屋へと流れ着き、楢木野の報復を恐れた村人は殺人の事実を隠蔽し続けた。
     村には呪いが蔓延し、鎮めるために崖の手もとへ社を建てた。
     そんな噂程度の話だ。
     兄は川の中へ入っていくと、水車小屋の柱の陰にしゃがみ込む。 姿を隠すことを止め、私は兄の後ろから覗き込んだ。
    「む……虫……虫が……虫……」
     私の存在などまるで意識の外にあるようで、身を刺す寒さに、震える声で兄は繰り返していた。
     水車小屋の柱によって寒風から守られた死体は、発酵熱を出し、蝿を呼び寄せる。 蝿は卵を産みつけ、蛆が孵り、蛆は蝿となってまた卵を産む。 そんなループが繰り返される。
     殺した――と決まった訳じゃない。 足を滑らせて事故死した可能性も十分考えられる。
     だが、いずれにしても。
    「虫? 何を言ってるのですか、こんな寒い冬に虫などいるわけがない」
     固まったように動かない体を押しのけ、忠正の顔を踏みつけた。 水分を多量に含んで腐敗しかけた肉は簡単に裂け、骨がパキパキと砕けた。
    「こうして川の一部が凍ることもある。聞き違えたのでしょう。氷が擦れたり、割れる音と」
     全身をくまなく踏み砕き、どろりと濁った血が、川に滲んで消えていく。
    「幼少の頃を思い出す。道端に出来た水たまりが凍ると、踏み潰して遊んだものです」
     いいかげん、冷たさに足の感覚も無くなってきたところで、大きく息を吐いて振り返った。
    「……妹さんも待ってますよ。帰りましょうか、蒼介さん」
     差し伸べた手を数十秒に渡り見つめていた蒼介は、初めて私の手を取って頷いた。




      [#ここから中見出し]『第95話 夢うつつ(楝蛇鏡也)』[#ここで中見出し終わり]

    「殺しただと? ここまで念入りに事を運んでおきながら、どういうつもりだ楝蛇」
     ウェイガンは怒りをたぎらせた目で、私を真っ直ぐに射抜く。 突然に死体の処理を手伝わされた上での、裏切りとも取れる告白だ。 無理もない。
    「これ以上、あの男に期待するところはなかった。不利益の方が多いと判断しました。ですから、今後は忠正に代わって私達が弓削家を――ひいては村を操ればいい」
    「なに……? 貴様、何を言っている」
    「アレを使いましょう。|全てリセット《・・・・・・》するのです。兄妹の、ここに来てからの記憶を」
     ウェイガンは憮然とした表情のまま腕組みを解くと、唐突に振り返って巨大な冬木に掌底を打ち込んだ。 巨木はまるで金属を叩いたような、独特の反響音を辺りに響かせる。
     |震打《・・》という、ウェイガンが得意とする打撃だ。 状況を掴めていないサユリのみが、おろおろと目を泳がせている。
    「体得するための足がかりすら掴めなかった奥義――それが“忘却”だ」
    「外部からの接触で、人の脳波に影響を与える……でしたっけ? そんな技を扱えたのは、あなたの弟弟子だけだとか」
    「……そんなもの、人間技ではない。人には過ぎた代物よ」
    「そうですね、そんなことが可能ならば神にでもなれそうです。ですが、組織は“忘却”を実用化させた。微弱な音波を用いて、長期的に脳へ影響を及ぼし――まさしく神の信徒を作り上げる」
     私達は、試作段階の|ソレ《・・》を奪って逃げたのだ。 今さら後戻りはできない。
     技巧に対して複雑な思いがあるのだろう。 ウェイガンは鼻を鳴らすと、私達にひとり背を向けた。
    「いずれにしろ貴様の責任だ。やるならひとりでやれ。ただ……記憶を弄ったところで、現実との整合性を取るのは骨が折れるぞ」
     そんな忠告を残して去っていくウェイガン。 サユリがまた所在無げに、不安そうな目を私に向ける。
    「あの……わ、わたしはどうすれば?」
    「引き続き、水車小屋の管理をお願いします。忠正の唯一の功績で資金繰りしていきましょう。新しい集会場所を作って、もっと大規模に村人を集めたいですね。……じっくり、時間をかけて記憶を書き換えていきましょうか」
     あくまで試作段階の洗脳装置。 魔法のように、パッと思い出を操れるものではない。 潜在に触れる音波も、人によって効き目は様々だ。
     人は弱い。 心の奥底では、誰もが常に救いを求めている。 それが隙となる。
     忘れ去りたい過去。 触れられたくない思いを抱えている者ほど装置の効力は増し、つまりトラウマを刺激するスイッチの役割を担うのだ。


     そう……だからこそ、蒼介と海未を洗脳するのは簡単だった。

    ◇◇◇

    「兄ちゃーん! はやく起きてよ、朝ごはん冷めちゃうでしょ」
     台所から顔を出した海未が、制服の上から着けたエプロンを脱ぎつつ、廊下の奥へ声を張る。 やがて寝癖を撫でつけながら、いまだ寝ぼけ眼の蒼介が居間に姿をみせた。
     私は閉じた新聞を畳へ置くと、二人へ朝の挨拶を投げる。
    「おはよう。蒼介、海未」
    「おはよ。早いね、今日は仕事休みじゃなかったっけ?」
    「ああ。だが今日は寄り合いがある。朝食が終わったらすぐに出かける」
     疑問に答えれば、蒼介は「そっか」と呟いて腰を落ち着けた。
     村の住人の洗脳も、良好といえる。 装置をより大規模に施すため、古い洋館を買い取りそこを集会場所とした。 週に一度、今では100名に及ぶ人数が集まる事もある。
     住民達が、お布施と称した集金にも素直に応じるのは訳がある。
     かつて村には楢木野剛志という暴君がいた。 自身に都合が悪い人間を亡き者とし、村の人々もそれを隠蔽してきた過去がある。 現在では口にすることすら憚れる過去でも、村に住む人間なら話を聞いて育っているはずだ。
     その仄暗い後ろめたさが、心の隙となる。 サユリの霊的な脅しも高く機能し、御しやすい。 弓削家とはなんの縁もない私が、まるで当主のように振る舞っても疑問に思う人間はいなくなった。
     消し去りたい過去。 忘れたい現実。 すべて無かったことに出来るならば人は、何にでも縋りつくのだ。
     そしてそれは、この兄妹も同じだ。
    「もう兄ちゃん。昨日も言ってたでしょ、|お父さん《・・・・》」
    「そうだっけ? わり、覚えてないや」
     海未の顔を見ずに蒼介は、生卵を飯に乗せると茶碗を搔き込む。
     私を|お父さん《・・・・》などと呼んでいるが、当然海未も本当の父親などでは無いことは理解している。 あの装置にそこまでの力は無い。
     朝食を終えた私は、集会の準備をしてスーツに袖を通した。 玄関で革靴を履く様子を、妻役の女が殊勝にも見守っている。
     女は町で雇った家政婦だ。 私の妻として振る舞うよう、また蒼介や海未の母親役を務められるような人材を選んだ。
    「では、行ってくる」
     出かけようとした矢先、めずらしいことに蒼介が見送りに顔を出してくる。 何事か言いにくそうに鼻頭を掻き、蒼介は俯いていた。
    「……どうした?」
    「その……楝蛇さん。俺、感謝してるんだ。事故で親父もお袋も亡くして、でも楝蛇さん達が俺と海未を引き取ってくれて」
     蒼介達兄妹の頭には、|忘れたい現実《・・・・・・》である本当の養父――忠正の記憶など痕跡すら残ってはいない。
    「だからさ、その……二人のこと、俺も……親父、母さんって……呼んでもいいかな」
     実に――容易い。 照れくさそうにはにかむ蒼介へ、私も相応の顔で応じる。
    「もちろんだ、嬉しいよ蒼介」
     私は金のために兄妹を利用し。 兄妹は辛い現実から逃れるために私を利用する。
     互いに利益がある。 私達は、偽物の家族を継続する。


     月日が流れていく。 蒼介は高校生に、海未は中学生活最後の年を迎えていた。
     私は農作業で流れた汗を拭い、昼食を摂るために畑を離れる。 今日は中学も高校も午前授業だったか。 蒼介も海未もそろそろ家に帰ってくるはずだ。
    「あなた、蒼介と海未が待ってますよ」
     まさに考えていたことそのものを、妻役の家政婦があぜ道から呼びかけてきた。
    「先に食べていていいと伝えただろう」
    「ええ。でも二人とも昼食に手をつけなくて。口には出しませんが、あなたを待っているんですよ」
     微笑む家政婦に、首をすくめてみせる。 この女も、よもやまがい物の家族に愛着など持っているのではあるまい。
     いや……しかし、その方が都合はいいのか。
    「……ふぅ」
     考察など、どうでもよくなるほどの熱気に息を吐いた。 夏特有の高い空を見上げる。
     たまには家族ごっこに精を出すのも悪くないと、そんな風にも思わせる陽気だった。


    「はい、お父さん」
    「ああ。ありがとう」
     海未から白米が盛られた茶碗を受け取り、自家製の味噌と共に口へ運ぶ。 少ししょっぱい味噌が、塩分の抜けた体に染み渡った。
     吹き込むぬるい熱気が、風鈴の音を奏でる。 古めかしいテレビの音量は小さく、会話も多いわけではないが居心地の悪さはない。
     ふと、気がつけばすっかり身長も伸びた蒼介へと話題を振る。
    「――ところでどうだ? 彼女のひとりでもできたか?」
     飲んでいた味噌汁を吹き出しそうになる蒼介。
    「げほっ、げほっ。な、なんだよいきなり」
    「兄ちゃんに彼女なんかできるわけないじゃん。あたしの宿題も手伝わない冷酷な兄なんで」
     じっとりと横目を蒼介に向けながら、海未は日焼けした腕を伸ばして箸で漬物を掴む。 部活では陸上を続けているのだったか。 最近は私も畑仕事ばかりで、すっかり焼けた肌になってしまった。
    「か、彼女くらい俺だってなあ!」
    「なに? いるの?」
    「……今は、いないけど。……作ろうとしてないっていうか」
    「ふぅん?」
     遠慮のない兄妹のやり取りを、家政婦の女が微笑ましく見守っている。
     特筆するようなことでもない、いつもの食事風景。 いつしか普通となった、代わり映えのない日常。
     だがおそらくこれが、蒼介と海未が何より望んでいた夢なのだ。 真実からかけ離れた、まどろみ。 生ぬるく、甘ったるい日々。
     ……多くの人間が、簡単に手にしているはずの人生。
     人は弱い。 幸せな夢と、辛い現実と。 もし選べるのなら、どちらを選ぶかは明白なのだ。
     洗脳はこの上なく成功している。
    「……親父? なんだよ、ぼーっとして。熱中症か?」
     ……思えば、私も初めての経験か。 こんな生っちょろい生活など、これまで知る由もなかったな。
    「……ああ。そうかもしれん」
     冗談めかして答えたつもりだが、蒼介と海未に猛反発されて午後の農作業は休む羽目になった。


     日々が過ぎていく。
     毎年のように雪がちらつき始める。 けれど今年は、例年ほどは不思議と寒さを感じなかった。
     冬の備蓄を買い出しに町へ降り、帰ってきた足で山の社へおもむいた。
     待っているのはウェイガンとサユリ。 いつもの、定例報告会のようなものだ。
    「……と、まあ順調ですよ。何か新しい事業でも考えてみますか? 元手は潤沢だ。たとえば山でも購入して、ゴルフ場でも――」
    「楝蛇、貴様……寝ぼけているのか? いつまで村にこだわるつもりだ? 骨でも埋めたいと考えているのか?」
     ウェイガンは、決して冗談で言っているのではなかった。 仇でも見るような眼光に、ほんの少しだけ言葉に詰まる。
    「ハ――まさか。ただ、せっかくここまで育てたビジネスです。多少はこだわるのも許していただきたいものですが」
    「兄妹を殺せ」
     ふいに寒風が吹き、吸い込んだ空気が棘となって鼻の奥を刺す。
     長い付き合いだが、そうでなくともその暗い瞳を覗き込めば誰でも理解する。 ウェイガンは決して、冗談を言っているわけではない。
    「……意味がない。住民の洗脳は、ほぼほぼ完了しています。もうあの兄妹には、供物としての価値もありません」
    「では尚更だな。なんの利益にもならないからと、弓削忠正を切り捨てたのは楝蛇、貴様だろうが」
    「兄妹揃って消すなど、リスクの方が大きいでしょう。だいたいなぜ、今さら――」
    「組織に勘付かれた可能性がある」
    「な……」
     まさか、ありえない。 こんな辺境の村まで追ってきたと?
     いや……それだけの物を私達は強奪してきたのだ。 見逃されると考える方がおかしいのか。
    「記憶を弄れば、村の連中はどうにでもなろう。我らが身を隠してる間、村の資金繰りはサユリに任せればよい。だがあの兄妹はそうもいかん。貴様と長く過ごしている。再び記憶を操作したとて、どこからかボロが出る可能性は高い」
     ……理に適った話ではあった。 しかしなぜか同意の言は出ず、ただ雪に降られるまま立ち尽くしていた。
    「どうした? ……絆されたか、楝蛇」
     ウェイガンの放つ殺気が、寒気をともなって体に纏わりつく。 私はゆっくりと前を見据えた。
    「まさか、ありえませんね。いいでしょう、兄妹は私が殺します」
     現実を投げ捨て、手にした夢。 だが夢は、いつかは壊れるものだ。 兄弟にとっては残念な結末だった。
     それだけの話だ。


    「――は? いきなり転校って、なんだよそれ!」
    「い、家はどうするの? お父さんとお母さんは――」
     反発されるのも予想通り。 事情を説明すると言って連れ出した洋館で、強めの記憶操作を施した。
     過去に例のないほど強力な洗脳は、記憶障害を残しかねなかったが躊躇はしなかった。 時間がないのだ。 私と過ごした思い出など一切全部、兄妹には必要ない。
     妻役をつとめていた家政婦も、解雇の前に私や兄妹についての記憶を忘却させた。
     転入先の学校、賃貸のアパート。 信徒と化した村人や不当に揃えた書類を駆使してそれらを早々に決めると、書類はすべて裁断したのちに焼却した。 兄妹が大学を卒業するまでは不自由なく生活出来るであろう金額も用意した。
     だがこれではウェイガンの指摘通り、不十分なことも確かだ。 ふとしたきっかけで記憶が戻り、また村へ帰ってこないとも限らない。 正直それは、どうしようもない。
     願わくば――。 願わくば、私達のような障害を打破しうる、大きくなった姿で再会を果たしたいものだ。
    「さて……」
     最後の仕上げだ。
     イヤホンを耳の奥まではめ込み、椅子に深く腰かけた。
     四方をコンクリートで固められた部屋は、季節を度外視しても寒々しい。 見上げる天井は高く、意識を空へと連れていってくれそうな気配があった。
     ウェイガンは心を見抜く術に長けている。 私の嘘などすぐに見破り、それこそボロを出すまで容赦はしないだろう。
     ならば、|最初から知ら《・・・・・・》|なければいい《・・・・・・》。
     やがて鼓膜を通じて流れ込んできた不快な音が、脳を侵しはじめる。 視界が白く染まり、思わず目を閉じた。
     なるほど。 虫の羽音とは、よく言ったものだ。
     長かったのか、短かかったのか。 どちらにせよ私に初めての感情をもたらした光景が、薄れていく。
     農作業に勤しんだ畑に、食事を囲んだ居間。 記憶の中の蒼介も、海未も白く塗り潰されていく。
     私に向けられた、笑顔も――。
     共に過ごした記憶は保持したまま、思い出の温もりだけはすべて消え去った。
     残ったのは、金づるに逃げられてしまったという怒りと後悔。 殺意という使命感。
     だがこうなっては焦っても仕方がない。 どうせ必ずここへ戻ってくる。 呪われた兄妹には、呪われた村しか受け入れるところなどないのだ。
     そのときこそ、私は――。

    ◇◇◇

     ――そして、私の想像した通りに、いま目の前には馬鹿な兄がいる。
    「……海未を離してくれよ。俺達はもう、あんたの思い通りにはならない」
     ボイラーの音がゴンゴンとうるさくて、聞き取れないところだった。 ずいぶんと生意気な口を利くようになったものだ。
    「どうでしょうか。人は弱い。辛い現実と、幸せな夢。どちらか選べるのなら、夢を選択するものです」
     まるで、どこぞの誰かに言い含めているかのようだ、などと思った。
    「……あたしは、もう逃げない。辛い思い出ばかりだったけど、そうじゃない思い出も、あるから。これからもそうなんだって、信じてる」
     この馬鹿な妹にしたってそうだ。 拘束する腕に力など入っていないというのに、私から離れようとしない。
     実に馬鹿な兄妹だ。 おそらく、育てた人間も馬鹿なのだろう。
    「海未を離してくれないってんなら、覚悟しろよ」
    「に、兄ちゃん!?」
     海未が悲鳴をあげて。 蒼介が、不格好にも拳を握って突進してくる。
     避ける気力もなかった。 腕の中の海未を突き離し、棒立ちのまま甘んじて拳を受け入れる。
     だが、蒼介の拳は私の眼前で止まっていた。
    「……なんて、出来ねえよやっぱさ。あんた、自分にも催眠かけてたんだろ。なんでだよ? 思い出……俺達が過ごした記憶を、大切に思ってたからじゃないのかよ」
    「は……馬鹿なことを」
     反論する気も失せて、その場に尻から座り込んだ。 頭が痛くて、とっくに立っていることもままならなかった。
     私と同じ状況のはずなのだが、蒼介は海未と並んで立ち、真っ直ぐにこちらを見下ろす。
    「それにさ……悪いけど、現実だってもう辛くないんだ」
     はにかむように笑って、蒼介は後ろを振り向いた。
    「だってめちゃくちゃかわいい彼女ができた。先輩も、後輩も、友だちもさ。……みんな、こんな訳のわからない場所まできてくれてさ。贅沢だよ、俺は。報われ過ぎてんだ」
     ああ、わかっている。
     弱かったのは私だ。 夢は、どこまでいっても夢なのだと。 現実を信じられなかったのだ。
     本当は誰よりも望んでいた家族の姿を。 信じ続けることが、出来なかった。
    「でかくなったなぁ。……蒼介」
     私は……どのような顔をしていただろうか。 憎々しげに言い放ったつもりだが、震える声を抑えることで、どうにも精いっぱいだった。




      [#ここから中見出し]『第96話 宴もたけなわ』[#ここで中見出し終わり]

     日付変更も近い、深夜。 居間の畳に隣り合って正座をして、俺と海未は深々と頭を下げた。
    「ほんっとーに!! ありがとうございましたっ!」
     今回助けてくれたみんな……依子ちゃんに麻央、賢司くん、双葉さんに友奈ちゃん、魚沼くん、水無月さん、可児ちゃんやスコーピオまで。
     えっと、これで全員? 全員……いるよな? ちなみに朝寧ちゃんは“ちょっと出てくる”と席を外している。
     これだけの人数だと、さすがに居間だけじゃ狭い。 敷居のふすまを外して、家中の座布団やクッションをかき集めて、なんとかくつろいでもらってる。
     寒くないようエアコンもストーブもガンガンに効かせて。 熱々の風呂を焚いて。 大恩を少しでも返そうと、最大限のおもてなしをさせていただく所存だ。
    『あ〜うちもそっち行きたかったです〜!』
    「純香ちゃんも本当にありがとう。この恩は絶対に忘れないよ、俺」
    『や、そんなの別にいいですってば! 入学したら仲良くしてくださいね、せんぱい! へへー』
     スマホの向こうでVサインする純香ちゃんに、俺も笑顔でうなずいた。
    「かてぇ挨拶なんざいらねんだよソースケ! それよか腹減った! ――って、ずっとスコーピオが言ってっぞ」
    「NO。シノ、ウソハヨクナイ」
     座布団にあぐらをかいて、テーブルに顎をのせた可児ちゃんがギザ歯をがちがちさせる。 スコーピオの呆れ顔とかはじめて見たな。
    「はいはい、ご飯できましたよー」
     台所から大皿を抱えて登場した依子ちゃんと麻央を前に、俺は海未とあわてて立ち上がる。 当然ふたりにも休んでいてもらおうと思ったんだけど、とくに依子ちゃんは頑として聞き入れてくれなかった。
     だけど、なんか、俺の側に……招待側に回ってくれるのが嬉しくて。 ほんと、感謝してる。
    「あ、あたしも運ぶの手伝います!」
    「おー。気がきくじゃねーかソウスケの妹ー」
    「はい、あの……兄がいつもお世話になってます」
    「そーそー、下の世話とか毎日大変で――」
    「妹の前で下品な嘘言うんじゃねえ!」
     麻央はいつも通り。 今はそれがとてもありがたい。
    「そ、そっか。もう……陽留愛の妹じゃ、ないんだもんね」
    「……あたしは、お姉ちゃんのこと、ずっとお姉ちゃんだと思ってるよ? ……ダメ、かな」
     双葉さんがハッと立ち上がり、ふるふると震えはじめる。
    「だっ、ダメじゃないよぉ〜〜っ!!」
     抱き合うふたりに、美しい姉妹愛を見た。 良いことだ。 またあらためて海未とは話すつもりだけど、可能ならこれまで通り暮らすのが一番だと思う。
    「蒼介。あのよ、トイレ借りてもいいか?」
    「えっと、居間を出て右手に――」
    「ちっと案内してくれよ」
    「……あ、はい」
     賢司くんの言葉には、なにか圧のようなものを感じた。 居間を出る前に、みんなを振り返る。
     友奈ちゃんは依子ちゃん達の料理に感心しつつ、スコーピオとなにやら武道について語り合ってるようだ。 部屋の隅では、顔をそむける魚沼くんに、あのふだん冷静な水無月さんが人目もはばからず距離を詰めている。
     俺なんかと、これまで関わってくれた人たち。 ……大切な友人。 叶うならこれからも、関係を持ち続けていたい。
     間仕切りの引き戸を開けると、廊下に立ち込めた冷気が身を襲ってきた。 暗い廊下を進み、喧騒から離れたところで賢司くんが口を開く。
    「……色々あったな。マジで疲れたぜ」
    「はい。賢司くんもその、俺なんかのために――」
    「お前のためじゃねぇよ」
     礼を述べる前に機先を制され、しばらく無言で見つめ合う。
    「なぁ蒼介。お前や、陽毬――……海未が決めたことに口を挟むつもりはないけどな。あれで、よかったのか?」
     俺は……俺と海未は、立ち去る楝蛇を黙って見送った。 気を失ってるウェイガンを肩に抱え、フラフラの背中を追いかけはしなかった。 同じく気絶していたサユリさんは救急車で病院に運んでもらったけど、こちらに対してもこれ以上なにかをするつもりはない。
    “元気でな”と。 最後に楝蛇はそう言った。 今生の別れになると確信させる顔をしてた。
     正直、まだ感情はぐちゃぐちゃで、頭もうまく回ってない。 でも――。
    「……あれで、よかった。よかったんです」
     楝蛇と、俺や海未は道を違える。 二度と交わることはない。 でも。
     でも、もし……。
     頭を振って、考えを否定した。
    「そうか……。お前の境遇には同情もする。でもな、依子のことは別だ。まだ、話は終わっちゃいねぇからな」
    「俺だって、依子ちゃんを譲るつもりなんか絶対ない」
    「……そうかよ」
     どむ。 と胸に強めの拳をくれて、賢司くんは結局トイレに入ることなく居間へ戻っていった。


     遅くまで続いた宴もお開きとなった。 幸い、押し入れには大量の布団や毛布が入っていたので、みんなには好きな部屋で寝床をとってもらった。
     流れというか、なんというか。 俺は縁側の見える居間にふたつ布団を並べ、ようやく待望の、依子ちゃんとふたりきりの時間を過ごす。
    「あ……また降ってきた」
     縁側にチラチラ降り落ちる雪を見つめて、依子ちゃんが呟いた。 常夜灯の薄暗い灯りの室内から眺める雪景色は、どこか幻想的だった。
     しかし、どうりで寒いはずだ。
    「蒼介くん。もっとこっち、来な?」
    「あ、う、うん……」
     大小のストーブも各部屋に持っていってもらったわけだけど、今だけは寒い部屋に感謝したい。 風呂上がりの依子ちゃんは、かわいいパジャマ姿で膝をかかえ、靴下を履いた足指をぐにぐに曲げ伸ばししている。
     触れ合う肩から、体温が伝わる。 そのやさしい温もりが、自然と言葉を引き出してくれる。
    「……養父はさ」
    「うん……?」
    「俺の目の前で足を滑らせたんだ。慌てて手を伸ばしたけど、間に合わなくて。……いや、本当は、本気で助ける気なんかなかったのかもしれない。だから間に合わなくて――」
    「事故だよ。蒼介くんのせいじゃないよ。だって、事故なんだから」
    「……うん」
     依子ちゃんに繰り返し言われると、不思議とそんな気がしてくる。 いいんだろうか。 罪の意識なんてもの、消えないにしても、こんなに楽になって。
    「海未ちゃんのためにも、気にしちゃだめだよ」
    「うん……そうだね。海未は大事な妹だ。本当の兄妹じゃないにしても」
    「えっ!?」
     あまりに大きな声だったので、こっちが驚いてしまった。
    「そ、そうなの?」
    「い、いや、だってほら役場で……」
     俺も、保護施設に入る前の記憶までは持っていない。 海未とは、施設ではたしかに兄妹同然に育った。 だけど。
    「あ……そっか、戸籍……」
     依子ちゃんも気づいたらしい。 でも実際に血が繋がってるとか繋がってないとか、そんなの些末な事実だ。 本当に大事なことを見失ったりしない。
    「……いろんなことあったんだね、蒼介くんはさ」
    「いやほんと、自分でもびっくりだけど」
    「でもね、あたし。知れてよかった」
     依子ちゃんの頭が、肩に乗る。 しっとり濡れた髪から、強くシャンプーが香った。
    「……俺も。俺のことぜんぶ、依子ちゃんに知ってほしい」
    「よし、うけたまわった。でもさ、蒼介くん?」
    「なに?」
    「究極さ、あたしさえいれば、他になにもいらんでしょ」
    「え? いや、他にも友達とか、家族とか」
    「おい。“究極”だっつってんだろが」
     依子ちゃんのつむじに、あごをグリグリされる。 本音を言ってしまえば“究極”なんかじゃなくたって。
    「依子ちゃんがいてくれるなら、他になにもいらないよ」
     俺が見下ろすと同時、依子ちゃんもそっとうかがうようにこちらを見上げて。 頬から触れ合うように、唇を重ねた。
     寒さも忘れるほど体温が急上昇して、抱きしめ合って熱も倍増して。 静かに、キスをしたまま、依子ちゃんを布団に寝かしつけて覆いかぶさった。
     瞬間、枕もとに置いていたスマホが着信を鳴らす。
    「…………」
     呆然と硬直する俺の顔を、依子ちゃんがにひっと笑って下からぶにぶにほっぺたを押してくる。 くそかわいい。
     てかまじで……誰なんだよ。 タイミング許せなさ過ぎんだろ。 童貞に何回もこんな勇気が出せると思うなよ。
     麻央を警戒しながらスマホを覗き見ると、発信主は予想に反して朝寧ちゃんだった。
    「“寒い。賢司とふたりで迎えに来い。場所は――” つうか、なんで俺と賢司くんなんだ」
    「男の子、だからじゃん?」
    「そんなの、魚沼くんやスコーピオだっているのに」
     しかもふたりの方が、俺よりよっぽど頼りになりそうだ。
    「行ってあげな? あれでもきっと、蒼介くんのこと気に入ってるんだよ」
    「が、しかし……」
    「“が、しかし”じゃない」
     くっ……!
     観念して身を起こし、厚手のジャケットに袖を通した。 依子ちゃんからのクリスマスプレゼントであるマフラーを巻いて、やっぱり名残惜しくて振り返る。
    「依子ちゃん、あの……!」
     敷布団の上に女の子座りする依子ちゃんが、微笑んで首をかしげた。
    「俺、すぐ帰ってくるから、その」
    「ん。起きて待ってるね。……帰ったら、つづきしよっか」
    「いいい、行ってきます!!」
     寒さもどこかに忘れて、居間を飛び出した。 あまりに気色の悪い顔をしてたのか、玄関で鉢合わせた賢司くんに怪訝な目で見られたのは言うまでもない。




      [#ここから中見出し]『第97話 光明』[#ここで中見出し終わり]

     異様な光景だった。
     年端もいかない少女が降雪の中、憂いの表情で夜空を見上げている。 少女の周囲には十数名の男女が倒れており、いずれも“|九楼門《くろうもん》”という悪名高い犯罪組織の構成員だった。
    「……なぜ」
     アスファルトに膝をついて、呆然と、問いかけるように楝蛇鏡也が呟いた。
    「なぜ? ここは故郷だからな。たちの悪い部外者をのさばらせるのも心が痛む」
     少女――日辻朝寧はそう答え、空へ向かって白い息を吐き出した。 ひどくつまらなそうな日辻朝寧の横顔を見上げ、楝蛇鏡也は疑問を重ねる。
    「何者……なんです」
    「つれないな。散々ひとの|字《あざな》を利用してきたんだろう?」
    「……そう、か。やはり、実在していたか……」
     力なくうなだれ、楝蛇鏡也は自嘲の笑みを浮かべる。
    「……死に損なった。それとも、あなたが手を下してくれるんですか?」
    「ああ? ふざけるな。それこそなぜ、そんなもの背負わなきゃならん。死にたいなら勝手に死ね」
     日辻朝寧はうんざりと自身の頭に乗った雪を払い、つま先でゲシゲシ地面を蹴った。 なにも反応を返さない楝蛇鏡也を見下ろすと、鼻を鳴らす。
    「……おい、贖罪のつもりか? 言っておくが死んだところで罪の清算などできんぞ」
    「もう生きる理由がない」
    「知るか。……と言いたいところだが、まあなにかの縁だと思ってひとつ、話をしてやろう」
     あからさまに深く息を吐いて、日辻朝寧は虚空に視線を移す。
    「“呪い”とは強力なものでな。一度発動してしまえば誰にも止めることは叶わない」
     ガードレールの向こう――眼下に広がるはずの村は闇夜に覆われ、白い雪を奈落のように飲み込んでいく。
    「“もう誰も恨んでなどいない”“もう止めて”……たとえ呪いを生み出した張本人が、そう願ったとしてもだ」
     氷同様に冷たくなったガードレールへ触れると、声も感情すらも一緒くたに凍結してしまうような感覚があった。
     この身を侵す呪いまで凍りつかせてくれたらどれだけ良いか。 少女が願わなかった日など、一度たりとてない。
    「邪悪な自分自身がひとり歩きする様を、指を咥えて眺めるようなものだ。重荷はずっと重いまま。永劫な」
    「……救いのない話ですね。私なら気が触れるでしょう」
     瞳を閉じて、日辻朝寧はふっと笑う。 笑みの意味がわからず困惑する楝蛇鏡也。
    「それがな、あるんだよ意外と。救いだったり希望だったり。長い時間を過ごしているとな。光明――とでも呼べばいいのか、今は手が届かなくとも、いつかは。……そう思わせてくれるような出来事、出会いが胸に火を焚べてくれる」
     冷たくなった手を胸に押し当てれば、言葉を証明するかのごとく温もりが分け与えられる気がした。
    「これでもな、会いたい男だっているんだぞ」
     振り向いて白い歯を見せる日辻朝寧は、外見相応の少女の顔をしていた。 呆気に取られて口を半開きにする楝蛇鏡也へ、日辻朝寧が今度こそ背を向ける。
    「――と。そろそろ迎えが来る。ああ……そうそう。弓削蒼介や天晶賢司、こいつらだってそうだ。他のやつらもな、一生懸命だろう? 誰それを好いてる、好いてないと」
     遠ざかる日辻朝寧の軽快な足取りに釣られるように、楝蛇鏡也はゆっくりと立ち上がっていた。
    「なぁ? 色恋は良いものだ。おまえも、見届けたくはないか? ま、好きにすればいい」
     楝蛇鏡也の脳裏には、息子のように思う彼と、娘のように思う彼女の姿。 ふたりのまだ見ぬ将来の相手などを夢想する。
     冷えて感覚の無かった体の節々が、唐突に痛みだして楝蛇鏡也は顔をしかめた。 ただ不思議と不快感は覚えず、それがなぜだか可笑しくなって肩を震わせる。
     空の暗雲には切れ間が見えた。 降雪もまもなく止むだろう。
     楝蛇鏡也は歩きはじめる。 ひとまずは、夜道を照らす明かりを探して。




      [#ここから中見出し]『第98話 うららかな』[#ここで中見出し終わり]

     目覚ましの電子音がけたたましく鳴る。 叩きつけるように目覚ましを止め、寝返りを打った。
     春眠暁を覚えず。 今はまだ夜だ。 俺はそう信じてる。
     全身を脱力させ、さらなる眠りに落ちようとしていたところ、玄関の方からドタドタとやかましい足音が響く。 つづいて遠慮なく部屋のドアが開けられ、握りしめていた布団まであっけなく剥がされてしまう。
    「兄ちゃん! いつまで寝てんの!?」
    「……まだ余裕だろ。寒いから布団返してくれ」
    「そうだね。今から準備すれば余裕をもって歩いて登校できるよ。元陸上部のあたしと学校まで全力ダッシュする覚悟があるなら寝てていいけど」
    「…………」
     ふたつのシチュエーションを天秤にかけるまでもなく、選択肢はひとつしかなかった。 つまりは起床した。
     あくびをかみ殺し、洗面所へ向かう。 だらだらと着替えなんかしている間、海未がトーストを焼いてコーヒーを淹れてくれる。
     これがだいたい、いつものルーティンだ。 この生活にも、もうすっかり慣れてきた。
    「ほらほら、はやく食べちゃって」
    「せ、急かすなよ」
     トーストを頬張りながら、鏡の前で制服のリボンを結び直している海未をチラ見する。
     中学を卒業した海未は、俺と同じ高校に入学した。 住む家は前と変わらず、双葉さんの家でお世話になってる。 それでも毎朝こうして起こしに来てくれ、甲斐甲斐しく俺の面倒も見てくれている。
     少しくすぐったいけど、贅沢な話だよな。


     たわいない雑談をしつつ、妹と登校する毎日。 通学路にある公園がやたらと賑やかで、何事だろうかと覗き見る。
    「いい場所取れたろ? やっぱ早起きしてよかったな!」
    「ホントホント! さっすがケンくん! 盛大に就職祝いできるね!」
     なるほど……花見か。
     聞き覚えのある名前に苦笑がもれる。 見上げると、公園内の桜の木が一斉にザワザワと揺れた。
    「わぁ……綺麗だね」
    「……ああ。すっかり春だな」
     再会した頃よりも伸びた髪を押さえて、目を細める海未。 そういえば、もうすぐ海未の誕生日だ。 こうして眺めると、たしかに大人になったよな。
     ……俺は、どうなんだろうか?


    「じゃあね、兄ちゃん。しっかり勉強しなよ!」
    「俺のセリフだ、バカ」
     海未と別れて、教室へ向かう。
     俺も高校2年生になった。 クラスメイトも変わったし、担任も変わった。 環境の変化はいろいろあるけど、やっぱり1番は――。
     この学校にはもう、依子ちゃんがいないってこと。
     麻央も、賢司くんも、双葉さん、友奈ちゃん、朝寧ちゃん。 みんな卒業してしまった。
     それは、やっぱり寂しく思う。
     それぞれ希望の進路に進めたようだし、今頃は新しい生活を満喫してるのかもしれない。 依子ちゃんなんか、言っちゃ悪いがあの成績でよく合格できたよな。 大学の合否はたぶん本人以上に緊張してた。
     俺も、真剣に進路を考えなきゃな。


     眠気にあらがいつつ授業をこなし、放課後。 教室まで海未がやってきた。
     我が妹ながら海未はかわいいので、ちょっぴり男子どもがざわつく。 それが気にいらない俺は、必要以上に周囲を威嚇する。
    「ちょ、ちょっとやめてよ兄ちゃん! ……えと、今から部活?」
    「そうだけど……どうした?」
     悩むそぶりのあと、海未が取り出したのは小さな箱だった。 中には女の子らしい細身の腕時計が入っている。
    「あのね……朝、言い出せなかったんだけど。昨日これが家の郵便受けに入ってたの。あたし宛で」
    「それって……」
    「伝票とかも無くって。これ……あのひと……なのかな」
     他に思い当たる人物もいない。 海未の誕生日が近いことを考慮すれば、おそらく想像の人物で間違いない。
     けど、じゃあ本人が直接郵便受けに入れていったってことか? そこまでするなら、顔くらい出してやれってんだ。
    「やっぱり……もう会えないのかな? 会っちゃ、ダメなのかな……?」
    「だめなんてことねえよ。……いつか、きっと会えるって」
    「……うん」
    「もし街とかで見かけたら、俺がとっ捕まえて連れてくるよ。約束する」
    「……うん。兄ちゃんは嘘つかないもんね、ぜったい」
     |父親《・・》からの誕生日プレゼントを大事そうに胸に抱えて、海未は教室から出ていった。
     まったく。 どこでなにやってんだ。 てか兄より先に渡すなよ、立場がないだろ。
    「はぁ〜あ……」
     ムカつくことに、それでも嫌いにはなれないんだよな。


    「あっ。せんぱーい! 待ってましたよ!」
    「やあ弓削くん。……あれ、なにか良いことでもあったのかい?」
    「おっす純香ちゃん。魚沼くんも早いね。まあ、良いことっていうか、ちょっと」
     純香ちゃんは今年入学してくると、かねてからの宣言通りすぐに都市伝説創作部に入部してくれた。 去年に引き続いて部長は魚沼くんだ。
    「本当に遅いわね。気が抜けているのではありません? 春は特にそのような方が目立ちますが、高校生活もすでに2年目だという自覚をもって部活動にものぞんで欲しいものね」
     歓迎ムードのふたりとは真逆の、冷水のような言葉を容赦なく浴びせてくる女性。
    「魚沼部長もなにかおっしゃってください」
    「え!? ぼ、僕からは、なにも……。今日の活動内容もまだ決まってないし……」
    「部長がそんなことでは、部員に示しがつかないでしょう」
     矛先を向けられ、みるみる萎縮していく魚沼くん。 実にかわいそう。
     今年から急に入部するなり、新参のくせに古参の俺を差し置いて、書記というポストにちゃっかりおさまった水無月さんである。
    「才能のある小説家が自堕落な人間だったりするだろ? それと同じだよ。そもそもこの部で創作文書けるのなんて俺しかいないんだから、もっと敬って――」
    「でしたら、これを」
     スマホを取り出した水無月さんが、液晶画面を俺の鼻先に突きつけてくる。
    「早乙女さんが投稿している自作のネット小説とのことです。私もまだ少ししか拝読出来ていませんが、とても興味を引かれる内容だったわ」
    「えへへ〜。照れますねぇ!」
    「なん、だと……?」
    「今年度から、エース交代かしらね」
     まずい。 このままでは、もともと無いようなものだった俺の部での存在感がさらに薄くなる。
     机をバン! と打って立ち上がった。
    「なにやってんだ魚沼くん! はやく俺に400字詰め原稿用紙を!」
    「いまどきアナログなんですねーせんぱい」
     なんとでも言うがいい。 依子ちゃんは卒業しちゃったけど、今度は最高の寝取られシナリオ・女子大生編を完成させてやる。
     そうさ。 たとえ進む道がバラバラだって、繋がりが絶たれるわけじゃない。
     この日の部活はシナリオ作りに没頭した。 純香ちゃんとあれこれ展開を語り合うのは思いのほか楽しかった。 魚沼くんも以前よりは協力的に参加してくれるようになったし、なんだかんだ水無月さんも身の回りの世話をやいてくれる。
     ブレイクタイムにみんなで食べた、水無月さんのお手製クッキーと紅茶は最高だった。


     陽も傾いてきたころ、俺のスマホがメッセージを告げる。 音に釣られるように、水無月さんが壁掛けの丸い時計を見上げた。
    「……もうこんな時間なのね。そろそろ今日の活動はお開きにしましょうか」
    「あ。海未がさ、バイト先に食事に来ないか? って、言ってんだけど……」
     海未は双葉さんといっしょに、賢司くんのファミレスでバイトしてるのだ。 どうも、ふたりで激しい賢司くん争奪戦を繰り広げてるなんて噂も聞いてるし。
     ……そういえば、冬に田舎で過ごしたときかかってきた寝取り電話。 あの犯人、なんか考えれば考えるほど海未っぽいんだよな。 こわくて本人には聞けないけど。
     兄としては複雑な心境だ。 バイトの様子はちょくちょく見に行きたい。
    「うち行きます行きます! 水無月せんぱいも行きましょう!」
    「しかたないわね。昨日のお煮付けが残っているのだけど……」
    「へー手料理ですか? マメですね。魚沼せんぱい大勝利じゃないですか」
    「え!? なな、なぜ僕が……」
    「そ、そうよ。魚沼くんは関係ないでしょう」
     各々帰る支度をすませ、わいわいと席を立つ。 ほんと、去年とはまた違った賑やかさだ。
    「じゃあ今日は魚沼せんぱいのおごりですね!」
    「だからなぜだい!? そういうのは誘った弓削くんに言ってくれ!」
    「やだよ! ――と言いたいところだけど、ドリンクバーくらいなら、まあ」
     歓声をあげて、大げさに喜ぶ純香ちゃん。 無料チケットならたんまりあるし、こんなもんで株が上がるなら使わない手はない。
     新しい環境。 日々のめまぐるしい変化も、やがてはゆっくりと日常に溶け込んでいく。 体が慣れて、きっと心も慣れて、ゆるやかに時間が流れる。
     夕暮れ時に校庭で吹いた風は、もうずいぶんと暖かく感じた。




      [#ここから中見出し]『第99話 寝取られ報告は彼氏の特権』[#ここで中見出し終わり]

     蒸し暑い夕暮れだった。
     シャワーを浴びてスッキリした俺は、棒アイス片手に机の上のスマホを見下ろし、硬直していた。
     受話スピーカーから騒がしい雑音と共に、愛しの彼女の声が聞こえてくる。
    『――ね。聞いてる? あ――彼氏彼氏。や、まだお酒は飲めないんで。……だからさ、これから新歓コンパがあって――つかもう店にいるんだけどさ』
     待望の夏休み直前。 今年の夏を俺がどれほど楽しみにしていたか、それはもう去年の比じゃないのである。
     なにせ彼女持ち。 彼女持ちにとって夏は特別。 そう思っている時期がまさに今です、はい。
    『――おーい、返事くらいしろっての。もしかして電波悪い? あれ……? マジ聞こえてないのかな……。ヤバ、あたしのも充電切れそう』
     スマホを持ちあげた手の震えが、声にまで伝染らないかと不安を感じながら意を決す。
    「よ、依子ちゃんさ……」
    『――お、やっと声聞こえた。んで、なに?』
    「寝取られ報告するつもりだろっ!?」
    『――は!? ねと――……なに言ってんの!? んなわけないじゃん!』
    「だってそうだろ!? 大学生の新歓コンパとか寝取られのためにあるようなイベントじゃん!」
    『――バッカじゃねーの! バッカじゃねーの!? 毒されすぎでしょ! ふつうにはやく帰るし! ――ちが……ケンカじゃない!』
     スマホ越しに激しい応酬を繰り広げる。 鼻息も荒く白熱してきた俺は、アイスをひと息に口へ放り込んでしまい、猛烈な頭痛に襲われた。
     しかしそれが功を奏し、冷静さを取り戻す。 そうだよ落ち着け。 俺の彼女にかぎって、そんな。
    「……ときに聞くけどさ。依子ちゃんの入ってるサークルってなんだっけ……?」
    『――え? 前にも言ったじゃん。断りきれずにとりあえず入ったって。……テニサー』
    「もう終わりだよそんなのッ!!」
    『――はあ!? だからさっきからなんなわけ!?』
     テニサーの新歓コンパとか寝取り寝取られのための催事だろ! 乱れたいひと達の寄り合い! 最低! 古事記で読んだ!
     ボルテージのあがりきった俺を抑えるためか、依子ちゃんの声音がフッと和らぐ。
    『――はぁ。なにを心配してんだかしらないけどさ、そんなことあるわけないでしょ? だって……その……あ、あたしには大好きな彼氏、いるんだし』
    「え? なんだって?」
    『――だ、だからっ。蒼介くんのことす、好きなのに、んなことしないって……』
    「え? なんだって?」
    『――わざとだろてめーッ!!』
     調子に乗りすぎたせいでプッツンしてしまった依子ちゃん。 今度は俺がなだめる側に回る羽目となる。
     幸いにも、最近依子ちゃんがハマっているらしい海外ドラマの話題を何度も擦っていたら、徐々に態度も軟化した。
    『――そうそう! まさかあそこで犯人がさ〜――……って、だから充電ヤバいんだってば! じゃあ切るよ?』
    「そ、そんな!」
     通話が終われば依子ちゃんはきっと、やたら筋トレばっかしてるシックスパックの金髪男に寝取られてしまう。
     ……あとまあ、単純にもっと話してたい。
    『――あっ、ちょっ!? こ、こら勝手に――!』
    「依子ちゃんっ!?」
     座っていたベッドからガタンと立ち上がる。
     襲われたのか!? 通話口の向こうはドッタンバッタンとバタついてるようで、俺にも緊張が走った。
    『――……おい、いつまでも女々しいこと言ってんじゃねーぞ蒼介ー!』
    「え? その声……麻央?」
    『――おーよ。おひさー。まー飲み会にはわたしも参加してっからさー? キミも安心したまえよー』
    「不安が倍増したッ!!」
    『――あんだとー!? どういう意味だオラー!』
     だって寝取られを肴にメシ食うようなやつだし。 口調もヤカラだし。
    『――ああもう! とりあえず帰ったらまた連絡するから! じゃね蒼介くん!』
     そうして、通話は一方的に切られてしまった。
     なんか、ヘラったムーヴしちゃったな。 大丈夫だろうか、嫌われてないかな。
    「はあ……」
     やっちまったものは仕方ないので、ベッドに寝そべり、本日更新の電子漫画をスマホで読む。
     日暮れを飾りつけるヒグラシの声に、まるで夏の終わりを告げられるような寂しさを感じる。
     でもそれが、妙に心地よくって。


    「……んぁ……?」
     案の定、いつのまにか寝てたらしい。 窓の外もすっかり暗くなっていて、無意識にスマホを手に取った。
     30分ほど前に依子ちゃんからの着信と、メッセージが数件。 新歓コンパは1時間くらいで切り上げたらしい。
    “なぜ出ない”“浮気かー?”
     まさか。 俺が浮気なんてするわけないだろ。
    “それはそうとさ”“海、行きたいね”“日程決めよ”
    「海か。ビキニとか……ビキニとか」
     明日から夏休み。 定番のイベントには事欠かない。
    「“バーベキューもしたい”――っと、送信」
    “いいね”“肉くいてー”“あ、でも”“海でナンパされるかも”“どーする?”
    「“そういうのやめて!”」
     煽ってんじゃねえ。 そもそも俺が寝取られ報告なんて望んでないこと、理解してくれてるんだろうか。
     息を吐いた直後、依子ちゃんから電話がかかってきた。 声が聞きたくなったってやつか? かわいすぎるだろ。
     スマホを耳もとへ。
    「もしもし? どうしたの」
     ここからまた、俺たちの夏がはじまるんだな。
    『――あ。もしもし? 蒼介くん? あのね今あたし――』




      [#ここから中見出し]『第100話 なんでもないような日』[#ここで中見出し終わり]

     待望の夏休み初日を迎えた。 しかも依子ちゃんとお家デート。
     夕食は奮発してちょっとお高めのデリバリーを頼み、大学生となった依子ちゃんの近況なんかを聞きながら楽しく平らげた。
    “サークルでさ〜”とか。“コンパでさ~”とか。
     女子大生満喫してます感が若干鼻についたけど、かわいい彼女が必死に背伸びしてんだな、と思えばかわいいもの。
     腹も膨れて。 俺の部屋に移動して。 ふたりしてベッドに腰かければ、すでに自分ん家でシャワーを浴びてきたらしい依子ちゃんの、甘い髪の匂いに心音がどんどん速くなる。
     ここまできたら、あとはもうやることやるだけ。 たぶん、だれもがそう思うにちがいない。
     なのに俺と依子ちゃんは、ベッドに腰かけたまま微動だにせず、かれこれ30分は経とうとしていた。
    「――でさ、そのときのビーフから続いた長年のわだかまりが、じつは勘違いによるものだってわかってさ。そこへきてあの楽曲がもう最高で!」
    「え? ああ、おいしいよね。ビーフストロガノフ」
    「依子ちゃん! 俺の話聞いてる!?」
     食いもんの話なんかしてねえよ!
     憤慨する俺をよそに、しかし依子ちゃんはせまい部屋を隅から隅へと、落ち着きなく目線をさまよわせる。
     心ここにあらずという感じだった。
    「ね。ヒップホップだかT○kTokだかの話は置いといてさ、他の話しない蒼介くん?」
    「韻踏んでんじゃん……。まあ別にいいけど」
     たしかに、せっかく彼女とふたりきりって状況なんだ。 もっとこう、ムーディな話で気分を盛り上げるべきだった。
     そこは依子ちゃんも同じ思いらしく、ベッド上の俺の手に、やわらかい手のひらが重なった。
     ――瞬間、俺の鼓膜がかすかに物音を拾う。
    「こうしてると思い出すよね、去年の夏。……蒼介くんは、夏、好き?」
    「あーいや、あんま好きじゃないかなー」
    「……は? なんで!? 受け答え0点でしょそれ! あたしらが出会った夏だよ!?」
    「わ、わかってるけど! いまはそれどころじゃないっていうかさ……」
     気が散るというか。 集中力をすべて視覚と聴覚に割り当ててるものだから、夏に想いを馳せる余裕がない。
     と、依子ちゃんが唐突に自分の両足を、ベッドの上まで抱え上げる。
    「ひっ!? 下!!」
    「ぎゃああああ!?」
     みっともなく絶叫して、すばやく依子ちゃんと同じポーズを取った。
     ただただ心臓をバクバクさせて、無言のまま、壁掛け時計の秒針がチ、チ、と時を刻む音を聞く。
    「……てか、“ぎゃあ”って。サメのいる海から足を引き上げるときの動きしてたし」
    「現実にそんな状況ある? だって、依子ちゃんが“下”とか言うから」
    「やっぱ無理。あたし、帰ろうかな」
    「ちょっ!? お、俺をひとりにしないでくれよ! まだその、夜は長いんだし」
     なんとか帰らせまいと食い下がる。 思い返せば、なんでこんなことになってしまったのか。
     楽しみだった夏休みの初日だというのに、去年の寝取られ間違い電話のとき以上に暗鬱が渦巻いてしまっていた。 最悪の空気だ。
     抱えた膝にあごを乗っけた依子ちゃんが、こちらを見ないで口をとがらせる。
    「……だってさ。なにすんの? こんな状況で」
    「……えっちとか?」
    「いやムリッ! バカじゃないの!?」
    「じょ、冗談だって。その、空気を変えようかなと思って……」
     また無言。 互いに1歩も身動きができないまま、夜だけが更けていく。
     ……ほんとは半分くらい本気で言った。 あんな強烈に拒否されてちょっとへこんだ。
     年頃の男子なんです繊細でごめんなさい。 でも言い訳させてもらえるなら、人間は生存の危機に陥ると子孫を残したい本能からうんぬんかんぬん……。
    「……じゃあさ……|アレ《・・》取ってきてよ。そしたら……いいよ」
    「まじで!? あ……で、でもアレはリビングにあって――」
    「アレないとできないでしょ。ほら、はやく行って」
     アレを取ってくれば、依子ちゃんと――。 ごくりと喉が鳴る。
     しかし、怖い。 ベッドから降りるのが怖い。
     だがせっかくの夏休み。 その出だしを最高にラブラブでスタートするか、ダメ彼氏の烙印を押されたまま終わってしまうのか、俺の行動にかかってるんだ。
    「……俺、行ってくるよ。依子ちゃん、囮を頼める?」
    「ぜったいイヤ」
    「く……っ」
     耳をすませる。 物音はしない。 部屋の入り口まで数歩だ、ビビるな。
     意を決してそろりと足を下ろし、すぐさま全力ダッシュを敢行しようとしたところ――。
    「ちょっと待って!!」
     ガッチリ腕を掴まれた。
    「いやちょ!? 離――!」
    「よく考えたら置いてかれる方が最悪じゃん!? 蒼介くん帰ってこないつもりでしょ!?」
    「んなことしねえって! まじで離して!? いやほんとまじでまじで!!」
     ヘラった依子ちゃんの腕力は凄まじく、どんなに振り回しても手を離してくれない。
     そうこうしてるうち、後方でまた気味の悪い物音が聴こえる。
    「ひ――」
     声にならない声をあげ、依子ちゃんとふたり転がるように部屋を飛び出した。 すぐに自室のドアを閉め、封印完了する。
    「はあ、はあ……や、やった。依子ちゃん……!」
    「脱出、できたね……? はぁ、つかれた」
     ぐったりしつつも、俺たちは笑顔でリビングへ向かう。 さっきまでのギスギスした雰囲気はすっかり消えていた。
     冷蔵庫から取り出したペットボトルの緑茶を2つのコップに注ぐ。
    「ありがと」
     コットンのショートパンツ姿の依子ちゃんが、腰に手をあてひと息にコップをかたむける。
     今さら気づいたけど、寝巻き代わりのショートパンツはかなり丈がきわどい。 豪快に背中をそらせて飲むもんだから、大きめのTシャツも胸をしっかり強調してる。
    「ぷはっ。……はー冷たくておいし」
     にっこり笑う依子ちゃんは、やっぱかわいい。 俺は今から、この彼女と……。
    「よし。依子ちゃん、戻ろう。俺がんばるよ」
    「え? 戻る必要なくない?」
     ケロッとした顔で言われ、愕然となる。
    「い、いや、でも、するならアレが必要って」
     まさか約束を無かったことに? それはひどい。 健全な青少年を相手に、あまりにも残酷な仕打ち。
    「だからさぁ、そのぉ……ここですれば、よくない?」
     後ろ手に組んで、依子ちゃんは俺から視線を外し、恥ずかしそうに素足を擦り合わせる。
    「ここで、って……リビングで?」
    「だ、だからそう言ってんじゃん。そ、蒼介くんがいいならだけど」
    「依子ちゃんッ!!」
    「わっ!? ちょ――あぶないあぶない!」
     イノシシのごとくまっすぐ突進した俺は、依子ちゃんのやわらかい身体をがっちりホールドしながら、リビングのソファへと押し倒した。
     シャツのめくれたお腹に顔を埋めて、ぐりぐりしてやると、くすぐったいのか依子ちゃんがげらげら笑う。
    「――はぁ……めっちゃいい匂いする」
    「こら。匂いとか言うな。鼻息もフーフーしすぎ」
     余裕ぶった顔して歯を見せる依子ちゃん。 でも超至近距離だからちょっと潤んだ瞳がわかるし、密着してるからめちゃくちゃ体が熱いってことも感じて。
     俺と同じような気持ちになってくれてるんだな、って嬉しくなった。
    「依子ちゃん……」
    「ん」
     どちらからともなく顔が近づき、そして。
     ――“ピンポーン”。
     インターホンに阻止された。
     ぴたりと静止して、見つめ合う。
    「……あれだよ。なんかの勧誘だよたぶん」
    「家主でしょ。ちゃんとしな?」
     行為を再開しようとした俺の鼻が、指先でぐりっと押し返された。 しかたなく、依子ちゃんを跨いでソファから降りる。
    「はぁ……だれだよいったい」
     頭をがりがりしながら玄関へ向かい、ドアを開けた。
    「おーす! 蒼介ー遊ぼうぜー!」
    「ごめん無理。帰ってくんない?」
    「ノータイムだなてめー! むっ、この靴は青柳、来てんだろ」
     わかってるなら帰れよ、と思うがそんな善意を麻央に期待しても無駄だった。 さっそくサンダルを脱ぐ麻央をなんとか玄関で阻止していると、背後から声がかかる。
    「なんだ、麻央じゃん。……ね、蒼介くん耳貸して?」
    「わ、わたしの前で耳舐め!?」
    「違うっ! ちょっと黙ってて!」
     ひとり興奮する麻央を無視し、口を寄せてくる依子ちゃん。 吐息に首がぞわぞわする。
    「せっかくだし、ほら……例のアレ」
     なるほど。 依子ちゃんが言わんとしてることは、すぐに理解した。
    「なーあげてよー。おまえらのえっちとか邪魔しないからさー」
     それはただのご褒美だろ。 前にそんな約束してた気もするけど。
    「……よく来たな麻央。まあ入ってよ」
    「ホントー!? いいのー!?」
     打って変わって俺と依子ちゃんは、ニッコニコの笑顔で麻央を招き入れた。 リビングで冷房の風に当たって目を細める麻央へ、筒状のアレを手渡して持たせる。
    「なにこれー? ……殺虫剤?」
    「さ。俺の部屋で遊ぼうぜ」
    「行こうよ麻央」
     ぐいぐいと背中を押し、「え? え?」と困惑する麻央を自室へ押し込んだ。 そしてすぐにドアを閉める。
    『おーい、これなんの遊びー? ……ん、いまなんかガサガサって――ぅえっ!? ヤバっなんかでっかいのいるッ!?』
     ガチャガチャ捻られるドアノブを依子ちゃんと二人がかりで押さえつける。
    「悪いな麻央、その最前線に撤退の2文字はない!」
    「戦って麻央! 死にたくなければ!」
    『ふざけんじゃねーてめえら!! マジマジあんなのムリだって!? あれ……壁で止まって――ぎゃああああああ!? 飛んだああああああああ!?』
     どたんばたんと激しい攻防の音は、10分にも及んだ。


     やがて静かになり、ドアをおそるおそる開けると、ヤツの死骸を前に麻央がへたり込んで号泣してた。
     悲しみを伴わない勝利などないのだ、と。 大切な教訓を得た、夏休み初日となった。
     ちなみにその後は――。
     コンビニへ走って麻央の好きな菓子をしこたま買い込み、ゲームで散々接待プレイしてようやく怒りをおさめてもらった。
     依子ちゃんとのイチャイチャはお預けになったけど、なんだかんだ楽しくて。 こんな日常が続けばいいなぁってまじで思う。


    (後書き)

    本編は完結しましたが、こんな感じの日常話をたまに更新しようかと思います。
    そして現在は【寝取りのフリーランサー】というファンタジーものを書いてますので、よろしければご一読下されば嬉しく思います。剣の才能も魔術の才能も無い男が、“寝取り”で生計を立てていく異世界ものです。Vui lòng đăng nhập hoặc đăng ký để xem link
     

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